1
椚ヶ丘に不審者が出たらしい。リビングで、両親が口をそろえて言った。二学期開始からしばらく、大きな事件もない、平和に目覚めた朝のことだった。
下着ドロ再び出没‼――これが差し出された朝刊の小さな見出しだ。読み進めると、市内で八月末からブラジャーの盗難が多発していたとある。どれもFカップ以上のものであるため、巨乳専門でないかと警察は見ているようだ。
「黄色い頭や大男、変な笑い声、それから不審な液体には気をつけなさい。どれも学校の近くで起きているからね。怪しい人を見たら、すぐに逃げるんだよ」
二人は口々に注意を促したが、娘はその犯人像を具体的に思い描くことができた。黄色い頭の大男が、ヌルフフフと笑い、謎の粘液を出す。私の担任ではないか。――まさか国家機密に覚えがあるとも言えないから、ただ気をつけると告げるにとどめたけれど。
登校してみると、さすがに教室でも話題に上がっていた。
「まさか殺せんせーが、こんなことをするなんて」
奥田さんが不安げに目を伏せた。彼女だけではない。クラスメートの不信感は、いずれも同じ方向に傾いている。
なんと卑劣な
「本当に先生がしたと思う?」
「――へー、あんたは殺せんせーを信じるんだ」
「信じるよ」
隣の席に人が座っていようと、訂正する気も起きない。
「もし私がマッハ二十の泥棒なら、証拠なんて隠滅するし。残すにしたって、それなら別人のしわざに見せかけるもの」
「そこは同感」
「でも、それなら――」
言葉にしかけて、そうする前に奥田さんは飲み込んだ。
「――まずは殺せんせーに聞いてみないと、ですね」
とはいえ、一時的な翻意だろう。赤羽カルマはともかく。十中八九、この校舎には覆しようのない事実が用意されているからだ。
――そして先生は当然に疑われた。
「先生、全く身に覚えがありません‼」
彼も当然のように反論するが、
「この事件があった昨日深夜、先生どこで何してた」
「高度一万メートルから三万メートルの間を、上がったり下がったりしながら、シャカシャカポテトを振ってましたが」
いったい誰に証明できるだろう。マッハ二十のアリバイ確認ほど無意味なものもあるまい。たった一問答で、先生も生徒も同じ結論に達し、容疑者の方が潔白を証明することにした。
「準備室の先生の机に来なさい‼ 先生の理性の強さを証明するため――今から机の中のグラビア全部捨てます‼」
と、バサバサとせわしなく引き出しから雑誌をつかんでは投げ、つかんでは投げ、――していたはずが、いつの間にかブラジャーを触手にからめていた。かと思うと、クラスの名簿の女子の欄にだけ、カップ数らしきアルファベットの記載が発見される。おまけに、最後のページには市内のFカップ以上の女性の個人情報のメモときた。
「今からバーベキューしましょう、みなさん‼ 放課後やろうと準備しておいたんです‼ ほら見てこの串‼」
なんて取り出した串にも、もちろんブラジャーだ。
もはや信用などなかった。ことごとくが、先生が犯人であることを物語っている。そもそも彼は国家機密なのだ。それも地球の存亡が懸かっていて、この触手の男の容姿を知らされているのはごく一部にすぎない。いたずらな証言である可能性は、同じだけ低かった。報道された目撃情報こそが、何よりの証拠だったのだ。――多少、不自然だとしても。
覆面の下でほくそ笑む白装束が、目に浮かぶようだった。
一日中、冷たい視線が先生を刺していた。授業こそ行われたものの、挙手もなく、指名もない。ただつらつらと板書を写すだけの時間だ。休憩時間になると、彼は追われるように教室を去った。
放課後も、ホームルームのホの字もなく、先生は別れを告げる。返事はどこからもない。しかしそうして、ようやく教室はにぎわいを取り戻した。誰もがそそくさと帰ってしまったけれど。奥田さんも、その一人だ。
いかに杜撰な犯行でも、これだけ証拠が挙がってしまえば疑うしかないのだった。
現段階での問題は、先生がどこへ向かうか。生徒の信用を失った彼の行動など、手に取るようにわかる。潔白の証明、すなわち真犯人の特定だ。それには現行犯確保が早い、と彼は考えるだろうか。――もっとも現行犯などおとりにすぎないだろうが、先生はこういった事態にすこぶる弱いから、どれほど怪しくても次の現場へ向かってしまうのだ。例えば巨乳限定イベントだとか。
「今夜、暇?」
隣の席から呼ばれて、荷物をまとめる手を休めてみる。そこには、彼の他に、寺坂君と渚君と茅野さん、そして不破優月がいた。
「何があるの」
「偽殺せんせーがいるんじゃないかって話してたんだ」
渚君が答えて、隣人が続いた。
「まだ殺せんせーのこと信じてるんでしょ」
「うん」
「こんなことが続いたら、先生が逃げるかもしれないじゃん。そうなる前に俺たちで真犯人を見つけて、ついでに貸しも作っちゃわない?」
「律に協力してもらって、一連の事件について私が調べてみるからさ。殺せんせーの特徴をこんなに知ってる時点で、ただものじゃないし。メンバーは多い方がいいと思うの」
なるほど。不破さんが企画して、赤羽カルマが便乗したといったところか。この二人、やけに楽しげである。らしいといえば、らしい。決して同類ではないが、不破さんといえば少年漫画好きで、そのお陰で非日常適応能力が高いと自称しているのだ。そして実際、情報分析能力は高かった。
予定はない。断る理由もない。それどころか、先生に辞職されては困る。赤羽カルマの存在は気に入らないが、答えは一つしかなかった。
「私も協力するよ」
これもシロのわなだったとしても。
2
何もかもがシロのわなだったことを、ここに記しておく。私が日記をつけていたなら、今日はそう書いただろう。そして、「嫌な予感がある」としめくくったはずだ。
今晩、市内の合宿施設に侵入した。宣言どおり不破さん(と人工知能)が突き止めた場所だ。調べによると、ある芸能事務所の持ち物で、所属する巨乳アイドルが
「合宿は明日までだから、真犯人ならこの極上の洗濯物を逃すはずがないわ」
彼女は自身げに言い切る。そのとおりだと、私も、そして筆頭容疑者も思った。誰もがそう考えると、シロは計算していた。――ほとんどが彼のおもわくどおりに進んだのだ。
報道された事件は、もちろん彼の筋書きの一部だ。犯人は堀部イトナで、ただし今晩に限っては烏間先生の部下が使われた。とかく、先生はみすみす釣られ、わなにはまり、再び不利な条件での戦闘を強いられた。それでも先生は生き延びたわけだが。
今晩の結果は、つまり堀部イトナの三度の失敗を意味する。シロは力不足であるとして、子供に見切りをつけた。これが「嫌な予感」の種なのである。
「送ってくよ」
もう一つ。
改札の外で、私は驚いて振り返った。
「や、え、駅」
などと、そのまま声にしてしまったことは見逃してほしい。
「めっずらしー、驚いた? 別の扉から出てきたんだよね。気づかなかったんだ」
あざ笑って見逃してくれないクラスメートは、赤羽カルマだ。
あれから、生徒六人は先生と一緒に椚ヶ丘駅まで歩いた。自然な成り行きだ。全員が最後まで一緒だったわけではないから、電車に乗る頃に二人きりになってしまっただけで。忘れてしまいたいことだが、椚ヶ丘駅からは電車の方向が一緒なのである。どちらも一本で、赤羽カルマの方が定期券の距離が長い。
車内では会話はなかったが、この駅に着くときは月並みな言葉で別れた。そうして、ようやく平穏を取り戻したはずだった。
「何でわざわざ」
尋ねつつ、ある解は得ていた。この駅は利用者が少なくないから。夕方から終電にかけては、例に漏れず混雑が発生するのだ。私は、クラスメートが次の駅へ向かうのを、わざわざ見送ったことなど一度もなかった。――今日も今日とて振り返らないことを、彼は予測していたのだろう。
「家までしばらく歩くんでしょ。夜の一人歩きは危険だって、先生も言ってたじゃん」
それはそうだが、おまえにも言えることである。いや、この男の場合は、逆に不審者を気遣うべきだが。まともな判断がつくなら逃げの一手、そうでなければたやすく倒されることだろう。
そして私とて丸腰のようでミュータントパワーがあり、そうした反逆を起こさずともそこらの不審者を倒せる自信はある。逃げの一手なら更に可能性がある。どの力も発揮させられないほうが望ましいことだが。
「訓練の成績、俺より下じゃん。おとなしく聞いとけって」
しかしこちらのミュータント事情など、彼が知る由はなかった。
自宅の場所を特定されること自体は構わないが、そこへ至るまでの道のりが嫌だ。と、感情的に考えるが、そう言って断るわけにはいかない。そうとなると、大した理由がないではないか。
それでも、その程度のことを口にした。
「送ってくれても、そこから駅まで歩くことになるし、赤羽くんが帰るときには一人でしょ。時間かかるし、危ないのはどっちも同じだと思うよ」
ということは、彼の想定内だ。
「え、それマジで俺に言ってる?」
あちらも返す手を持っているわけで。どうも私は足元を見られている。だというのに、私はありきたりなクラスメートの装いをやめられない。
「――俺が誘ったんだし」
「うん、じゃあ、ありがとう」
とどめの一言がなかろうと、私は同じ返事をしたのだろう。
3
二人分の足音だけが鼓膜をたたいていた。静かな夜道だ。何だか奇妙で、時々所在なく空を見上げた。だが星はない。三日月はあれほど存在を主張しているのに。旧校舎からとは全く違う空だ。あの山は自然が豊かで、眺めも良い。大した明かりがないから、夜空が奇麗なのである。
しかし、この星の見えない空すら、アルファコンプレックスでは思い描けなかった。
「ここまでで、いいよ」
私は小路に入る前に足を止めた。
「今夜はありがとう。家はもう、すぐそこだから」
この狭い道を、あと何度か曲がると本当に自宅に着く。
「そっか」
そう答えを返して、けれど彼は引き返そうとはしない。沈黙の後、尋ねると、
「今日シロが来るってわかってたでしょ」
「ええっ、あそこに?」
「――最近、成績良いじゃん」
「ありがとう。でも赤羽君に言われると、ちょっと複雑」
「イトナ、どこ行ったんだと思う」
話がころころと変わった。
「家、とか」
それでも素直に返したのは、私にそうする以外の選択肢がなかったからだ。しかし、これについては正直でなかった。そうであってほしいと祈っているだけだ。
堀部イトナには帰る家がない。と思う。自営業だった父親とその妻は、おととしに消息を絶っている。親戚の家に預けられたようだが、改造人間が一々そちらへ帰っただろうか。なにせ触手は国家機密で、彼のメンテナンスは大がかりなのだ。
――嫌な予感がする。
シロの嘲笑が目に浮かんだ。
触手の改造人間を一箇月維持するのに、およそ火力発電所三基分のエネルギーが要る。などという情報が、つい一時間前に
先生は知っているようだった。もちろんシロも承知のうえで切り捨てたということだから、何らの処置も施すつもりはないのだろう。――その様を見せつけられて、一人残された不良品がいかにも不調なまま闇夜に紛れるのを、みすみす見逃す担任ではない。ごくあたりまえに、生徒も、おとりにされた部下も、彼を探して、そして見つけられなかった。
「心配だね」
一月に億単位のコストのメンテナンスを
「おまえって、ほんと、思ってもないことをよく言うよ」
「何のこと?――死んだら苦しいよ」