1
堀部イトナは死ななかった。生きている。復学した、という言葉はほとんど不適切か。とにかく、ついに教室へやってきたのだ。それも、もう大分前のことになる。
頭に触手はない。かわりにバンダナを巻くようになった。教室ではよく電子工作をしている。今は私の左隣の席で、その成果物を操作しているところだ。
「
これは右隣。そして呼ばれたのは、不本意ながら私である
「借り物競争かな。誘われたんだよね」
体育祭が間近に迫っている。六月の球技大会と異なり、E組も正式に出場を認められていた。個人競技のみという制約があるため、優勝は夢のまた夢、――なのではあるが、クラスメートは燃えに燃えている。こんな風に話題になることも増えていた。
「ああ、そんな話もしてたっけ」
うんうんと納得げにうなずくこの男は、徒競走と棒倒しに出場する。徒競走は全員参加で、棒倒しも男子は全員参加なのだ。他の種目はさてどうだろう。
それより、
「もうコードネームで呼ばないでよ」
「えー、何。恥ずかしい?」
「恥ずかしい。一日だけだと思ってたのに」
もう終わったことのはずが、時々
「なんだ、気に食わないか」
とは、左隣から意外な横やり。
「気に入らないとかじゃなくて、恥ずかしいよ。もう誰もコードネーム使ってないじゃん。それより
今一番気を張っているはずのクラスメートは、だが無表情にうなずいた。
「録音中だからな。しばらく人は通らないし、カメラは三人がかりで見てる」
なるほど、A組の教室まで無事にたどり着けたらしい。
「『コロコロあがり』だったっけ」
「そうだったな。そっちのは『中二半』か」
イトナ君は、私を挟んで赤羽カルマを見た。聞かれて、彼はにやりと笑う。
「実は結構気に入ってるんだよね」
「狭間に伝えておこう」
「なるほど狭間さんだったか」
「清潔ホワイトは俺が付けた」
「えっ」
「おっ」
ぎょっとして左を見ると、涼しい顔と目が合った。触手から解放されて変わったことと変わらなかったことがあって、後者の一つが表情だ。脳の働きが悪くなっていたことは確かだが、元々寡黙なたちであったらしい。
「――そうだったんだ」
「持ち物が白くて、あと清潔そうだった。『隣の席の人』とどっちか迷ったんだが」
まだ復学から日が浅かった。彼にはかなりむずかしかっただろう。
右側で、ガタ、と椅子が音を立てた。
「残念、『シロもどき』はイトナに負けたのか――」
「寺坂君の『鷹岡もどき』は赤坂君だったんだね」
あれはひどいあだ名だった。髪型に体格に行動に、なにかと納得のいくものでもあったのだが。あだ名された本人は当然のように憤慨した。
私も、それと比べれば、幾分も良かったのではなかろうか。いくら身の回りに白色が多いからといって、あのシロと一緒にされてはたまらない。――たったそれだけが判断材料ではなかったとしても。
「そっちは寺坂に伝えておく」
シロは堀部イトナを運用していた。その詳細を運用されていた子供は明かさなかったが、先生の弱点は教えてくれた。心臓だ。いわゆる心臓があることを、シロは
次にシロが来るまでに、三月を迎えるまでに、心臓を攻撃できれば、地球は壊されない。先生だけが死ぬ。
イトナ君が来て、選択肢が増えて、弱点が知れて、この教室の暗殺はますます盛り上がった。そうして殺せるのなら、それが最善なのだろう。もちろん幸福なことに、時間はたっぷりあるのだ。
シロは三月まで来ないだろう。イトナ君より優れた素体を探して、調整に時間をかけて、そしてより確実な作戦を立てるからだ。そのためには、彼は三月の制限時間の間際を待たねばならない。――今度こそ生徒を殺すために。
先生を殺すために。
もう生徒であることに、こだわりはすまい。誰を選ぶかなどわかりもしないが、今度彼に目をつけられた素体は、イトナ君よりはるかに過酷な調整を受けて、終わった後のことなど考慮もされないのだ。
「イトナ君」
「何だ」
イトナ君には守秘義務がある。
「借り物競争に出るかもしれないんだけど、そのときはよろしくね」
そもそも大したことを知らされてはいない。だから触手兵器の研究の実態など、当然、教えることもできないのだ。彼はただ先生の心臓を貫くためだけの武器だった。
――よろしくと口にした私に、武器だった子供は素っ気なく返事した。
2
体育祭、結局、私は借り物競走に出場した。イトナ君も一緒だ。男子から順に男女別だが、集合は同時だった。待機列は分かれていて、それぞれ三年生の列が一つはみ出す。一クラス多いのだから当然だが、露骨を通り越して異様なほど距離を空けられている。
A組から順にD組まで、あるいは横の下級生も、ひそひそと顔を合わせ、うかがうように時折こちらを見た。その中で決して振り返らないのが一人。先頭の三年A組。思い返せば、同じD組でとりわけ
そうした考えにふけるうち、競技が始まった。まずは一年生男子から、やがてイトナ君の番になる。A組の出だしが好調だ。一番にくじを引いて、彼は自分のクラスの席へ向かった。残りの三クラスもたどり着くと、最後のイトナ君がのろのろとくじを引いた。らしくないうごきだが、ある作戦の一環なので、クラスメートも気に留めない。何が書かれていたのか、クラスの席からイェラビッチを引っ張り出すと、予定どおり最後にゴールテープを切った。
私の番も来た。お題は「いちご煮オレ」なる謎の――多分、飲物だ。考えてもわからない。後ろの邪魔になるのは翻意でないので、私もまた席へ向かう。
クラスの席では、国家機密が興味津々に身を乗り出していた。
「お題は何でしたか」
ジャージに帽子にタオルに、何重にも巻いて姿を隠して、肌の色もヒトらしくして、先生は観客席にいる。大男と思うしかない程度にまでして、ようやく烏間先生から許可が下りたのだ。競技エリアに近いから目立たないはずだと強弁する先生に折れた、とも言う。
さておき、この謎の飲物について尋ねると、渚君が答えた。
「煮オレならカルマ君が飲んでるよね」
いきなり最適解だ。非常に望ましくないことだが、耳ざとい彼の言葉で、それも特に親しくしているのだから、まず正しいだろう。幾ら待ってもそこに他の名前がないということも、つまり、――いや、いっそ、ここになくてもいいのだ。借り物競争のお題にも一応のルールがあって、必ず校内にある(ことが予想される)物でなければならない。だから、これが飲物であると判明した以上、校内の自販機を探せばいい。味を想像しづらい名前だから、飲むことに慎重にはなるが、飲めないものでもないのだろう。
よし、誰かに買ってきてもらおう。
――私の決意を他所に、渚君は友人を呼んだ。名前の挙がっていた彼は、笑いながらこちらへ来る。
「何。煮オレだって?」
「うん。よく飲んでるって、渚君から聞いたんだけど」
私は見たことがない。
「へー、ちょうど良かったね。後で飲もうと思って、買ってたのがあるんだけど」
「いちご?」
「ちょっと待ってて」
彼は返さずに背を向けて、またくるりとこちらを見る。手に何かを持っている。ピンク色の缶ドリンク。いちごだ。
ロゴを認めてしまえば、こう切り出すほかない。
「もし良かったら――」
「いいよ、貸す貸す。どうせ、すぐでしょ」
と、赤羽カルマは腕を伸ばして、差し出した手を抜かした。
ほおに、
「冷たっ!」
ほおに、ぶつけてきやがった。まるで氷水に漬けていたみたいに冷たい。慌てて離れると、してやったりと笑っている。
「貸し一つね。後で返してよ」
そのまま飲んじゃってもいいけど。――などと続けられたとおりには、絶対にしない。
高々体育祭の種目だと、安易に引き受けるのではなかった。コースへ戻る道すがら、押し潰されそうなほどの後悔を感じたが、一方で競技は何もかも速やかだった。円滑にやりとりの済んだ最初の一人だったようで、特に競り合いもなく、そのままゴールテープを切ってしまう。だがスピーカーがゴールを伝えたのは、次、二着が決定したときだ。私には「おめでとう」も笑顔も向けなかった係の生徒は、元クラスメートの彼女には平等の勝算を浴びせた。三位にも四位にも、はたまた五位にも。戻るのだって早ければ早いほど良いはずなのに、その様子を離れた場所からとろとろと眺めている。
手には口の閉じた缶ドリンクがあった。まあ、席に戻るのを遅らせる理由など、それくらいしかなかった。
「一等賞おめでとう」
借りを作ってしまった相手が、ゴールを少し離れた所で
初めての賛辞に、私は素直に返した。
「ありがとう。飲物も。おかげで一位になれたよ」
「どーも。――飲んだことないんだっけ」
彼はプルタブを引く。
「うん」
名前も初めて知ったくらいだ。恐らく自販機にしか並ばない商品なのだろう。
「自販機、使わなそうだもんね」
「あまり確認しないかな」
確認したところで、進んで手に取ることもなかっただろう。こうした機会でもなければ。いちごオレならともかく、
いちごを煮て、牛乳と混ぜる。果物を煮るというとジャムを連想するが、そうするといちごジャムを牛乳と混ぜたような味なのだろうか。
駄目だ。想像がつかない。しかし尋ねたときのクラスメートの反応から察するに、メジャーではないものの、こんなものがシリーズ展開されているという。根強い人気というやつがあるのだろうか。それとも、
「じゃ、飲んでみる?」
思案を遮って、隣から口の開いたドリンクが差し出された。流れるような動作の奥に、桃色らしい液体が見える。まだ口はつけられていない。ただ開けられただけ。
などと確認はしてみるが、
「悪いよ、それ赤羽くんのでしょ」
飲むわけがない。当然の反応だ。ありきたりなクラスメートとしても。
「いや、その俺が飲んでいいよって言ってんだけど」
と、なぜか、彼は考えなかったらしい。
「飲みたくて買ったんじゃないの」
「え、全部飲むつもり? 精々半分くらい。せめて一口。どっちにしろ、俺は残った分を飲むからさあ」
「せめて、って」
「口はつけてないよ」
そんなわかりきったことを問題にしているわけではないのだ。というか、問題などない。ただ飲みたくない。強いて言えば、それだけが問題だ。あるいは、珍しく食い下がってくるのが気にかかった。口をつけていないどころか、小細工の一つもないことを、私は承知している。お得意のいたずらの可能性が、今回はゼロに等しいのだ。だからこそ怪しい。
相当に人を選ぶ味であることは考えられるが、それでも一定数が飲めない味なら、この学校の自販機に並ぶことはないだろう。ということで、一応は飲めるはずだった。全く想像もつかないけれど。
「ほら、なんにもしてないし。ただ開けちゃっただけ」
「うん、それはわかってるよ。あんまり飲みたい気分じゃないんだよね、そもそも」
「――さっきの貸し」
何でもないことのように、彼はその権利をかざした。
「こんなことで?」
返してしまった言葉は本心だ。
「こんなことで」
赤羽カルマは肯定する。
「ま、あわよくば煮オレ飲みを増やそうって魂胆があるとでも思って。
言われてみれば、そのとおりだ。ただ前提に彼という貸し主がいるから難しく考えてしまっただけで。
まるで自分を納得させるように、そんなことを考えた。こんなことで清算できるなら、それに越したことはないのである。あまり引き下がって複雑にしてしまうのもまずい。
ただ口の開いていたそれを、左手で受け取った。前方の視線を無視して、口に付ける。傾ける。ごくり。そんな風に喉を鳴らして、口を離した。
「これでいい?」
「どうだった」
私には一口で十分だった。好んで飲もうとは思わない部類の物だった。味は独特で、恐らく煮オレシリーズに共通のもの。と思えば、他の味を飲む気にもならない。
とりたててまずかったわけでもないので、
「好きじゃなかった、かな。おいしくなくはないんだけど」
もっとおいしい味のする食べ物を、今は山程知っているのだ。
「何その感想」
赤羽カルマが笑う。私はもう口を付けずに、返そうとして、
「そういえば、拭く物持ってなかった」
「ん、いいよ」
「持ってる?」
「持ってないけど、ぬるくなるじゃん」
受け取って、彼はそのまま口をつけた。
エ、と、私の開いた口など気にも留めずに、傾ける。ごくり。そんな風に喉を鳴らして、口を離した。
声が出せなかった。衝撃のあまり。このような形で、このように、こんな風に、危機感の欠如した姿を見ることになるとは、思いもしなかったのだ。それなら毒でも塗っておけばよかった。
こんな、正気の沙汰ではなしえない、こんな、致命的な。
あるいは、この私の反応が狙いだったのだろうか。いや、まさか。だって、私は自己暗示をかけている。私の表情は絶対に致命的には崩れない。私の声は絶対に致命的には揺らがない。私の喉は絶対に致命的な発声を許さない。私は絶対に、ありきたりな、誰かのクラスメートだ。
そうした表情をしているはずだ。そうした声を出したはずだ。そうした言葉を紡いだはずだ。
もし予定どおりA組に進級していれば、あの元クラスメートとは今なお良き友人だったことだろう。そして一緒に同じ表情を、ありきたりにE組に向けて、ありきたりに脅えて、ありきたりにあざ笑ったりしたのだ。そんなことを、ふと考えるような、ありきたりな三年E組。
だからこの場合は、この狂気に満ちた男を、いったい、けれど。私は幸福です。ゆえに、ありきたりでないことを私は選べない。
何も起こらなかった人間の顔で、奇麗な唇が満足げにゆがめられた。
「やっぱ、うまいね、これ」