1
中間テストがあった。毎度のごとく成績発表は翌日で、今日、クラスメートの表情は浮かない。理由は明白だ。数字が芳しくなかったのである。原因もわかりきっていた。
テスト直前のちょうど二週間、先生が授業をしなかったのだ。それとも彼なら別の授業をしたのだと言うだろうか。――かわりに、E組は市内の保育施設にかよった。クラスメートの一部が暗殺のための技術で
重い空気に押し潰されて、というわけではないけれど、私も気分が重い。二週間の課外活動にも良い側面はあったのだ。連帯責任のやるせなさも、子供の相手も、当分は御免だが。それでも、二週間も赤羽カルマから離れられたと思えば、全てを納得ずくで受け入れられる。中間テストの成績にも大した意味はないのだし。
昨日、隣の席で涼しくテストを終えたクラスメートは、ここでは顔色を見せていない。おもんぱかることでも覚えたのだろうか。おめでたいことだ。本当に。
荷物をまとめて立ち上がると、彼も椅子を引いた。山を下りる最短ルートは一つ、ということは、必然的に同じ道を歩くことになる。そこから校門までを無言で過ぎて、
「何考えてたか、当ててあげよっか」
「おめでとう、って思ってたんだよ」
「どーも」
教室では、なかなか口にできなかった言葉だ。できたからといって素直に言ったかといえば、また別だが。
こうして並んで帰るのも久しぶりだった。昨日も、あの二週間も、いや遡れば体育祭の前が最後だったのではないか。偶然にタイミングが重なるか、それとも誘われるか、というのがパターンだった。何も話さないわけにはいかなかった。彼と帰ることになるとき、たいてい渚君や奥田さんがいて、茅野さんや杉野くん、神崎さんもいた。今の状況は、だからパターンに照らせば珍しい部類に入る。
この珍しいパターンでの前例どおり、私たちは、ここでは他に話をしなかった。そのうち山道を抜けた。
間もなく本校舎の校門に差しかかるというところで、知った声を聞いた。ちょうど進行方向からだ。私たちは顔を見合わせた。不穏な気配があったのである。
先に動いたのは赤羽カルマだった。しかたなく続くと、そこではクラスメートの三人がA組の五人と向かい合っていた。クラスメートはもちろん、五人組にも見覚えがある。そもそもA組だとわかったのだって、彼らが五英傑と呼ばれているからなのだけれども。待ち伏せされていたのか、はたまた偶然か、浅野君の取り巻きの方が、口々にE組の成績をけなしていた。
「この学校では成績が全て。下の者には上に対して発言権がないからね」
顔面偏差値も評判の男が、きざったらしく言った。そういうことを口にしてしまうから、
「へー。じゃ、あんたらは、俺に何も言えないわけね」
隣人がA組の前に立ちはだかる。取り巻きは言葉を失った。浅野君が一位で、この男が二位で、その下は順当に取り巻き共が六位までを独占していたはずだ。まさか学年順位を確認しなかったわけでもあるまいに。
隣人は畳み掛けた。
「今回、本気でやったの俺だけだよ。他のみんなは、おまえらのために手加減してた。――おまえらも毎回負けてちゃ立ち場がないだろうから、って」
彼がするりと通り抜けても、浅野君は終始無言で、ただ二位の男をにらんだ。続いて、私たち全員が本校舎から離れると、クラスメートの一人、渚君がこちらを見た。
「一緒だったんだ」
「うん。けがはないみたいだね」
「ありがとう。大丈夫だよ」
「そうそう、ねちねち言われてただけだからさ」
と、こちらは渚君と一緒だった杉野君に、
「邪魔したな、カルマ!」
もう一人のクラスメート。彼に「とんでもない!」と叫んで返しそうになるのをこらえて、私は前を行く男を見た。渚君もいることだから、どうせこれから五人で帰ることになる。会話が増えることも、思春期の同級生の下世話なにやけ顔も、どちらも煩わしくはあるが、二人きりで帰ることに比べたらはるかに良い。たとえ駅までだとしても。
ところが、
「じゃ、またあしたね」
「えっ」
にこにこと、赤羽カルマは手を振った。三人のクラスメートに。私に対しては明確に手招きを見せる。
「またあしたね」
追い打ちをかけるように、渚君も手を振った。そんな自覚もないだろうけれど、彼に残りの二人も続いた。
見送られるようになって、横に並ぶ。
「まっすぐ帰らないの?」
「予定ないでしょ、どこ行きたい」
「いや、行きたいも何も、聞いてないし」
「――ならカラオケにするか」
その場限りの冗談ではなかった。本当にカラオケに来た。初めてではない。家族ともクラスメートとも、ごくあたりまえの付き合いの一環で来たことがある。だが、赤羽カルマとは初めてだった。何を歌うかも想像がつかない。いや、そもそも歌うのだろうか。
彼が手続をする間に考えた幾ばくかのことは、待ち時間もなく案内された部屋で霧散した。テーブルにジュースを置く前に、彼がコントローラーを取ったからだ。いつものように、もはや何を考えても無駄らしい。全て荷物を置いて、しばらく、彼は操作の一つもしなかった。
「歌わないの」
さすがに問うた。
「えっ、歌うつもりだったの」
「カラオケにするって言ったの、赤羽君じゃん」
「それもそうか」
しかし何もしない。本当に何をしに来たんだ。そう尋ねれば、今度はカラオケと返ってくる。らちが明かない。
「先に入れるよ」
「どうぞ」
――言われて、本当に曲を入れてやった。予約したイントロが流れたのでマイクを取る。歌う。そうして一曲を終えたが、次の曲は流れなかった。コントローラーの位置も変わっていない。かわりにジュースが半分になっていた。
「うわー、おもしろみないね」
「聞くだけ聞いてそれ?」
「次の曲入れなよ」
「赤羽君が入れなよ」
「そうきたか、しかたない」
彼は手早くコントローラーを操作した。すぐに曲が流れた。演歌だ。覚えがあるような、ないような。だが、前奏が終わっても、彼はマイクを取らなかった。
「歌わないの」
「歌えねえもん。履歴から適当に選んだだけ」
なぜ、そんな曲を入れたのか。いや、そもそも、歌わないのならなぜカラオケを選んだのか。私はまた無駄なことを考えそうになった。
「――さっきの覚えてる?」
くしくも張本人のお陰で思考は回避されたが、はて、さっきのとは何だろう。と、正直に聞き返してみる。
「この学校では成績が全て」
「――下の者は上に対して発言権がない」
「数学百点で、残り九十八点の、四九二点なんだけど」
なるほど、言わんとすることはわかった。
「それ言わなきゃだめ?」
「べつに恥ずかしいとかないでしょ」
私にも得点の内訳を明かせというのだ。全く、先ほどのクラスメートとはひどい扱いの差だった。
「いや恥ずかしいってば。――四七五点だから何も言えないんだけど」
その時、演歌の一番が終わった。彼は二番の歌詞が始まるまで黙っていた。
「そうだ、好きな食べ物がカレーってマジ?」
私はうなずいた。彼に話した覚えはないが。ジュースが半分になった。彼は笑う。良からぬことをたくらんでいるときの、例えば奥田さんから新しい作品を受け取ったときと同じ顔だ。だからといって何をしたかといえば、ジュースを飲み干しただけだったけれど。
「これで最後にするけど、歌わないの」
「歌わねえよ。元々歌うつもりなんてなかったし。そっちも気分じゃないでしょ」
そのとおりではある。
「――ああでも、曲は入れたいかも。殺せんせーにすっぱ抜かれるからさ」
「そういうことなら、ランキング順に入れる?」
先生のストーキングはよく知られている。のぞきも盗撮もお手の物。なかでも生徒の恋愛模様の妄想が好きで、長じて卒業アルバムにノンフィクション恋愛小説を載せようとしている。ゆえに、例えば生徒が男女二人きりでカラオケを利用する、などというできごとは格好のネタになるのだ。今だって、扉や壁に張り付かれているかもしれない。
マッハ二十のホラーシーンはさておき、ふたりでそれぞれコントローラーを操作して、適当に選曲した。入れたばかりの曲が流れ始める。さすがはランキング一位。はやりというより定番の、聞き覚えのあるサビが、小さな部屋に響いた。
「わかばパーク、楽しそうだったね」
「初めてのことばかりだったからね。あんな機会、もう二度となさそう。――そっちの劇も評判だったよ」
「あれね。やっぱMVPは茅野ちゃんと奥田さんかな」
テスト前にもかかわらずかよった保育施設・わかばパークには、うんざりするほど子供がいた。そのくせ、従業員は例の園長と女性職員のたった二人だ。普段から人でが足りていないことはもちろん、他にも不備は幾つも目についた。
一方、E組には三十人もの生徒がいた。彼らは、うち一段とひどかった建物の老朽化を中心に、問題に対処しようと考えた。ちょうど、烏間先生の部下に建築士の資格者がいた。当然リフォームにかかりきりになるわけにはいかないから、と瞬く間に班が形成されて、赤羽カルマはレクリエーション班だったのだ。
「魔女のクロロホルム、本物だったんでしょ」
読み聞かせに紙芝居にワークショップに、色々と手を出していたが、劇は特に好評だった。魔王テラサカに囚われたカエデ姫を騎士カルマが助けにいく王道、最後、魔王は魔女オクダのクロロホルムで眠らされる。台本がどうなっていたかはともかく、最後、彼は寝たふりどころか、本当に眠っていたように見えた。
騎士役はあっさりと肯定した。ついでに、
「殺陣やったじゃん。あれも台本じゃ寸止めってことになってたんだよね」
とにかく寺坂君がひどい目に遭った。まあ、茅野さんは手慣れた様子で非常にうまく場を盛り上げたし、魔王は倒されたし、大きな問題も起きなかったので、めでたしめでたし、なのである。
「そっちもカレーうまかったよ」
「ありがとう。原さんたちにも言ってあげてね。きっと喜ぶから」
「考えとく」
赤羽カルマは無表情にうなずいた。
それから、たわいない話をして一時間を過ごした。二度と歌わず、何事もなく。
「カレーのどこが好きなの」
「どこって、そんなの言い切れないよ」
「つまんねえの」
「――嫌な人」
「ずっと、そう思ってたでしょ」
カラオケをあとにして、無言で道路を歩き、電車に乗る。いつかのように、改札で再び会うことはなかった。
しかし再会は想像よりずっと早く訪れた。
「おはよう」
翌朝、最寄り駅のホームに、彼は参考書を片手に立っていた。
2
トイレに寄ったのだと告げたクラスメートは、翌々日まで最寄り駅にいた。昨日と同じく偶然だと笑ってみせるが、どうだか疑わしいものだ。いつだって、赤羽カルマは私の後に教室に来るものだった。理由はわからないが、信じろと言われても無理な相談だ。とはいえ、ここから学校までの道筋は同じであるため、一緒に登校するしかないのが現実だった。
「プレゼント考えてきた?」
意に介さず、彼は言った。
「無難なものでよければ」
昨夜、クラス内で「ビッチ&烏間 くっつけ計画第二弾」が共有された。第二とあるからには第一もあって、それはちょうど、イェラビッチが烏間先生へ向ける恋情が明らかになった頃、沖縄旅行の最後の夜に実行された。二人きりのディナーを、生徒でそれらしく演出してやったのだ。
そして今回の目標は、彼女の誕生日を祝うこと。クラスメートたちは、烏間先生にプレゼントされたら喜ぶだろうと考えたらしい。単純な行為と、下世話と、そして謎の責任から生じた計画である。
誕生日自体はとうに過ぎていた。ちょうど例の二週間の、ある一日だった。そもそもテスト前だったこともあり、生徒がそちらへ関心を向ける余裕はなかったのだ。日頃多忙な烏間先生は言わずもがな、だろうか。ともかく、そういうことだった。
早くも決行は翌日、つまり今日。放課後の買い出しと、烏間先生の説得が肝だ。
「お菓子か花かな」
「かなり絞ったね」
「予算が予算だから」
などと答えながら、難問以外の何ものでもないように思う。昨日の今日といえ、予算五千円は大問題だ。前提といて、プレゼントを贈ることになっている烏間先生は大人で、贈られることになっているイェラビッチも大人。一般的な感覚として、大人の交際コストはそれを上回るはずだ。そのうえどちらも、特にイリーナ・イェラビッチというプロの殺し屋はかなり稼いでいて、彼女の金銭感覚はセレブのそれに等しい。
いや、幾つかのラブストーリーを真に受けてみるなら、大切な相手からもらえるものは、真心さえ籠もっていれば何だっていいという。――だが、そこが、何よりの問題なのだけれど。
「これでも無理あるかな、って思うんだよね」
「花は駄目なの」
「烏間先生が用意すると思う? 偏見だけど」
「言えてる」
「例外的に
「――よく考えてるじゃん」
「買い出し班になっちゃったからね」
昨日のうちに、粗方のことは決められた。だが肝心のプレゼントについては、決定打が見つからず。よって、美的センスに一定の信頼がおけるとして神崎さんに白羽の矢が立ち、巻き込まれる形で
「正直、無理があるけど。どうしても買うなら花かな」
「いつになく正直」
「本当のことだよ。沖縄のディナーとは違う。趣旨がわからなくなるけど、どうせならきちんと私たちから贈った方が、勝算があるよね」
「でも、やるんだ」
「もう決まったことだから」
2
放課後、買い出し班は、悩み抜いて結局は花を選んだ。私の提案ではない。最後までプレゼントに関しては何も決まらなかったところ、花屋が現れたのである。
とにかく、花屋に話しかけられた。
「やっぱり、そうだ。ねえ、君たち‼」
彼は住宅街から通りへ出る道で移動販売をしていた。愛嬌を感じさせる男だが、誰にも知った風に呼び止められる覚えはない。と、疑問を抱くより先に続けられた言葉で、渚君と杉野君が反応を示した。いわく、二週間前に救急車を呼んでくれた人である。
男は二週間も前のできごとを覚えていて、この近辺にはありきたりな制服の一団に、当時居合わせたたった二人を見いだしたらしい。事の顛末を聞いて、表情を和らげた。
「そっか、大事にならなくて良かったね」
――ここまでが花屋にしてみたらサービスのようなもので、
「それと今、プレゼントが欲しいとか言ってたね。――大人にあげるにふさわしい」
うなずいた神崎さんに、商売人は一輪の花を差し出す。突然のことに顔を赤らめる少女を前に、もっともらしい言説も付いてきた。――これが中々の説得力で、満場一致でプレゼントが決定した次第だ。教室に残してきたクラスメートからは全てを任されているため、一々確認を取るまでもない。あっという間に五千円と引き換えられて、神崎さんの腕の中で花束が輝いた。
「きっと喜んでもらえるよ」
花屋はほほ笑んだ。穏やかな声だ。どこか落ち着かされて、それどころか安心すら覚えてしまう。まるで花のようで、それ以上に先生に近しいと思った。
しかし花屋の言葉に反して、あるいは予想どおり、イェラビッチが喜ぶことはなかった。計画は失敗したのだ。勝算など端からなかったのだから、驚くことでもない。とはいえ、考えうる限り最悪の道筋をたどったと言える。
烏間先生はただ渡すのみならず、「堅物」といういつかのコードネームにぴったりの言葉をも投げかけた。
「色恋で鈍るような刃なら、ここでしごとする資格はない」
とは彼女が去った後のことだが。――彼女は、彼と言葉を交わすやいなや、我に返った。冷静になってみれば、烏間惟臣が誕生日に花を贈ろうなど考えつくはずもない。そうと気づけば、もはや誰がしくんだかは、考えるまでもなかった。
あっけなくたくらみが露見し、当然の結果としてイェラビッチは機嫌を損ね、教室から出ていった。
「ほんとに失敗したね」
赤羽カルマが表情もなく言った。
「心配だね」
「すぐ、うそつく」
「いや、ほんとだってば。もう三日だよ」
あれから今日まで三日間、彼女は姿を消したままだ。あの時は、日をまたげば、などと楽観していた。だから烏間先生はもちろん、生徒も担任も、追いかけることをしなかったのだ。
しかし三日。連絡すら取れずにいる。
授業の進行に困るわけではない。彼女の担当は英語の授業の半分だけで、それも元は担任の管轄だった。だがクラスメートが心配しているのは、授業のことなどではないのだ。
「まあ、大人の気分転換には時間がかかる、ってことらしいけど」
「あー、殺せんせー、そんなこと言ってたっけ」
なまじ生徒より自由度が高い分、特にあのセレブなら思い立って二泊三日の旅行に出るくらい、全く自然である。マッハ二十の改造人間は論外にしても。彼はこの放課後、サッカー観戦にブラジルへ飛び立ったばかりだ。
何にせよ、軽率な判断が最悪の事態を引き起こすのでなければ、それで構わないのだが。もう三日。まだ三日。気分転換で済んで、何事もなくサッカーの試合が終わって、そして烏間先生も無事にしごとを終えて、明日が来るのなら。
――あの花は、まだ教室にある。飾られることはないだろうが、捨てられることもない。花屋から買ったときの、そのままの状態で、何となしに放置されている。
危機感は確かにあるのに、しかし燃やそうと提案することはできなかった。もう手遅れだと考えたからか、それとも、
「帰り、花屋寄る?」
前提を飛ばして、赤羽カルマが尋ねた。視線をたどったのだろう。でも、私はうなずかない。それが当然のように、一緒に帰ることの否定でなくなってから、どれほどたつのか。
「最近よく見てるから」
「あの花屋さんのこと、思い出してただけだよ」
その時、誰かが廊下で足音を立てた。
3
横で幾度もほうきの柄が振り下ろされた。物の壊れゆく音がうるさい。足元に、三日前の花束が転がっている。私は小刻みに手を動かして、花弁を片付けた。向かって最後列、人工知能がイェラビッチの姿を映している。
最悪の計画が最悪の結果を導き、最悪の事態すら引き起こした。この教室で教師をやっているイリーナ・イェラビッチという殺し屋が人質に取られたのだ。それが真であるかはさておき、そうとクラスメートが認識してしまったことが、まず最悪だ。
画面の奥の人質は、手足を縛られ、箱に眠らされている。先程受け取ったばかりの、ごく最近の写真だ。大きなけがは見られない。
犯人は「死神」とありきたりに呼ばれる殺し屋だ。しかし業界で死神と聞けば、名前も声も姿も形も誰も何も知りもしない、特定の殺し屋を指すという。それが、この教室に来た。――花屋の装いで。
イェラビッチを人質に取って、十中八九、E組全生徒をもそこに加えるつもりでいる。私たちという人質は、間違いなく先生に有効だ。
磯貝君が私を呼んだ。
「B班いいか」
「ビッチ先生を助けるグループだよね」
自称・死神の要求はこうだ。今夜十八時までに生徒全員で指定の場所に来ること。他言しないこと。指示に背けば、人質を殺し、今度は生徒の中から人質を選ぶ。そうして指定された地点には、ある建物があるらしい。
指示に背くべきだ。行くべきでない。せめて先生に知らせるべきだ。密室に閉じ込められる以上の最悪を想定すべきだ。死神は確実に先生をしとめるつもりで、そのためなら手段を選ばないだろうから。だから、イェラビッチを見殺しにしよう。
そうしたことを言うべきだった。決してこの私は言わないけれど。自称とはいえ、さすがは死神。たとえどれほどの悪条件を突きつけられても、生徒たちにこうした選択が存在しないことを知っているのだ。
「床片付けたら、片岡さんのとこに行くよ」
こちらも、さすがに作戦くらいは立てる。状況によっては三手に分かれよう、とか。戦闘に秀でたA班、人質を助けるB班、偵察等情報収集担当のC班。
「よろしく。それと床、ありがとうな」
「ううん。戻ってきた烏間先生が、誰もいないのを不思議がってくれればいいんだけど」
磯貝君は苦笑いを返した。
顔を上げると、既に大半のクラスメートが体育着で、三箇所に分かれている。私も着替えなければ。足元は、もう奇麗なものだった。外も汚されていない。せめてもの抵抗として、窓は早々に閉めておいたけれど。いくら先生の嗅覚が優れているといったって、サッカーの試合が終わるのは数時間後だ。
4
「多分この先が、ビッチ先生が捕まってる部屋」
何時間も待つことはできなかった。私たちは、のこのこ敵地へ飛び込むしかなかったのだ。今はその地下。乗り込んだ途端、地上の建物全体が昇降式エレベータだった。そのしかけに無様にやられて、見かけ以上の空間に閉じ込められている。
その一画で、B班は扉に爆弾をしかけていた。脱出には死神専用虹彩認証をクリアする必要があっても、作戦開始一分足らずでA班が全滅しても、諦めるわけにはいかないのだ。三分の一で無理なら三分の二で。
二十九人が束になっても、もしイェラビッチと合わせて三十人だったとしても、死神一人倒せないことはわかりきっているのに。
はるか前方で爆発音がした。班員が突入する。見張る廊下には他に足音も気配もない。
「ビッチ先生!」
クラスメートは口々に安否を心配した。まだ死神の影はない。
「ビッチ先生は解放できたよ」
「こっちは異常なし」
見張り役同士、確認の後、部屋の中では方針が固まっていった。まだ無事らしいC班と合流して、A班を救出しつつ脱出。イェラビッチを背負う杉野君を守りながら、戦闘に男子をおく、と。
指示されたとおり、男子が先に出てきた。まだ外に敵はない。気配がない。消している可能性は低くないが、だから警戒すべきは、人質その人だった。
ドサ、と、誰かが崩れ落ちた。背後だ。その音に、クラスメートは順々に反応して振り返る。通路に出ていた男子も足を止めた。合わせて同じ方向へ目を向ける。
「六箇月くらい眠ってたわ。自分の本来の姿も忘れて――」
彼女はいたって健全に立ち上がった。両手にハイジェッター、足元に主力の二人。それさえなければ、クラスメートは皆、手放しに喜んだだろうに。
仲間が続々と倒れた。これだって一分とたたないうちのできごとだった。彼女はちょうど出入り口で、ぴたりと足を止めた。
「降伏のつもり?」
「はい、降伏です」
私は挙げた両手を、愚か者にもわかるように、ひらひらと振った。スタンガンにモデルガン、催涙スプレーに爆薬、はてはスマートフォンまで、所持品のほとんど全てを足元に落としてある。わけのわからない薬で眠らされるより、よほど良い。
彼女も武器を下ろした。
「ずっとそうしてなさい。どうせ彼にはかなわないんだから」
「わかってます」
答えた後ろに、男の声が響いた。
「君一人に負けちゃったか。――そっちの君、全部拾ってもいいよ」
花屋だった男が笑っていた。
「この子たちと僕らとじゃ、住む世界が違うんだ。わかっただろう」
「ええ。やっぱり組む価値がない」
殺し屋の女は、ちらりと私をうかがって、そして部屋の奥へ目をそらした。
その後、また僅かで全てが決した。らしい。
「あっちは降伏ですって」
「良かった」
「着いてきなさい。御褒美に、一番最初に手錠着けたげるから」
「それ、とっても幸福ですね」