恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
「これでよし……」
お店の扉の前に着いた看板を、「OPEN」から「CLOSE」に裏返す。
今日のやまぶきベーカリーの業務もおしまい。同時に、今日の僕のバイトも終了となった。
「さてさて、掃除しちゃいますかね」
ここの掃除も手慣れたもの。掃き掃除からモップ掛けまで、丁寧にこなしていく。
これが終われば夕食、つまり山吹さんの手料理が楽しめる時間が来る。
「山吹さんの手料理か……楽しみだなー……」
掃除をしながら、呆けたように呟く。無意識の一言だったのだが、後ろからそれに反応する声が聞こえた。
「あら、沙綾も幸せ者ね」
「千紘さん!? いや、ちょ、今のは」
「うふふ、夕食が出来たから呼びに来たらいいこと聞いちゃった」
誰にも聞かれてないと思っていたのに。この人いつどこに出てくるかわかったもんじゃないな……。
「大丈夫よ、沙綾には言わないから」
「そうしてくれると、僕の羞恥心を煽られずに済みます……」
「あらら、今のを聞いてたのが沙綾だったらどうしたのかしら」
多分、したり顔でこっちを見てくると思う。「へぇー、そんなに私の料理が楽しみなんだー」って。絶対そうしてくる。
「楽しみにしてて正解よ。なんか随分気合い入ってたみたいだから」
「それは僕のペペロンチーノに対する対抗精神なのでは?」
「それもあるけど……ね?」
意味深に微笑む千紘さん。それ「も」って、その他って言ったら普通に料理を作る楽しみとかじゃないんですか?
「……まあ、いいです。夕食、こっちの掃除が終わったら行きますね」
「それじゃあ、私も手伝おうかしら。早く終わった方が、ご飯もゆっくり食べられるでしょう?」
僕がモップを、千紘さんが台布巾を手にとって掃除をする。
掃除の間も、他愛ない話を続ける。大抵は山吹さんのことだけれど。
「今日の献立、どんな感じです?」
「ご飯にお味噌汁、筑前煮に肉じゃがだったかしら」
「ホントに和食ですね……リクエストしたのは僕ですけど……」
「あ、特にお味噌汁。凄く真剣に作ってたわ。何かに影響受けたようにダシも変えてたし……」
こっちを見つめて呟く千紘さん。あ、やっぱりわかってるんですね。
「……まあ、勉強会やったときに少しばかりお味噌汁作りましたけど。そこまで対抗されるのは予想外ですよ」
「あの子、ああ見えて頑固だから。下手に美味しいおいしい言ってるだけじゃきっと納得しないわよ」
「食レポは苦手な部類なんですけど」
そんなこんなと駄弁っている間に掃除も終了した。というか、千紘さんのおかげで凄く早く終わった。ありがとうございます。
最後に、台を拭いた布巾を洗って物干し台に掛ける。手が冷えた。この時期でも水は冷たいな。
「……よし、お疲れ様。それじゃあ夕食食べに行きましょう。夫以外は揃っている筈だし、その夫もすぐに仕事を終わらせてくるはずだわ」
「そうですね。行きましょうか」
お店の電気を完全に落とす。暗闇の中で、山吹さん宅の方向から、暖かい光が射し込んでいた。
その方向に歩いて、リビングに出る。
「あ! 姉ちゃーん! お母さんと兄ちゃんが戻ってきたー!」
真っ先に出迎えてくれたのは純くん。僕らを確認すると、大声で山吹さんを呼んだ。
「お母さんも、お兄ちゃんも、おつかれさま!」
「うん、出迎えありがとう、紗南ちゃん」
「ありがとう、紗南。お姉ちゃんのお手伝い、ご苦労様」
「えへへ……ありがとうお母さん!」
続いて、紗南ちゃんが出迎えてくれた。千紘さんが紗南ちゃんの頭を撫でる姿がなんとも微笑ましい。家族の暖かさを感じる。
二人の様子を眺めていると、タッタッタとこちらに向かってくる足音が聞こえた。
「母さんも友也くんもお疲れ様。もうご飯出来てるから、テーブルに運ぶの手伝ってくれる?」
足音の正体は山吹さん。エプロン姿。なんだろう、このあるべきところに収まっている感。
「……やけにエプロンが似合うね」
「そう? お店の手伝いとかで馴染んでるのかも」
「それ以上に馴染んでるよ。もしかして山吹さん、エプロンの申し子……」
「何変なこと言ってるの。ほら、運んじゃお。キミが楽しみにしてるって言うから、ドンと気合い入れて作ったんだよ」
そう言ってまた台所へ行く山吹さん。それについて行くと、台所のスペースに沢山の料理が並んでいた。
「……凄い。これ全部山吹さんが……?」
「実は母さんにも手伝ってもらっちゃって……」
「それでも十分凄いさ。これはホントに楽しみだな……」
千紘さんが言っていた筑前煮と肉じゃが以外にも、多くの料理がある。まさかこんなご馳走をもらえるとは、なんと運の良いことか。
山吹さんたちの作った料理をテーブルに運ぶ。
筑前煮など、大きなものは僕が。それ以外を山吹さんたちが運ぶ。
純くんや紗南ちゃんも箸を並べたりして手伝ってくれて、すぐに食べられるようにまで準備出来た。
準備が終わって、皆が席についてから少しした頃、お店の方から亘史さんが戻ってきた。
「おお、今日はまた一段と豪勢だな。ご馳走じゃないか」
「これ、ほとんど山吹さんが作ったんですって」
「……そうか……沙綾も成長してるんだな……」
目の前に並べられた豪勢な料理の数々に、娘の成長を感じたのか少し寂しそうに呟く亘史さん。やっはりこの人も父親なんだな。
「ほら、あなたも座って。沢山あるから、早く食べないと残しちゃうわ」
「そうだね。早速頂こうかな」
亘史さんが席に着いて、普段は埋まることのないであろう長方形のテーブルが囲まれる。
皆が席に着いたのを確認すると、千紘さんが声を掛けた。
「それじゃあ、いただきます」
「「「「「いただきます!」」」」」
───────
「いやホントに、ビックリするくらい美味しかったよ。参りました」
「ふふ、良かったでしょう。気合い入れて作ったんだから。女の子の本気ってものを思い知ってくれたかな?」
夕食を食べ終わって少し。
台所にいるのは、僕と山吹さんの二人。夕食の片付けをしていた。
「あの量を作っておきながら味も良くできてるって、ホントに敵わないな……」
「沢山褒めてくれてありがとう。やっぱり、料理がおいしいって言ってもらえるのは嬉しいよ」
山吹さんの料理は本当に美味しかった。
筑前煮と肉じゃがに味がよく染みていたのも良かったけど、いつからダシを取っていたのかお味噌汁の味が深かった。完全に負けました。
あ、ちなみに千紘さんに言われた通り食レポしましたよ。ちゃんと出来たかとか聞かないでください。
短く会話を交わしながら、片付けを進める。
手に当たる水は冷たく、指先がだんだん赤くなっていくのがわかる。
温水に設定すれば良かったかなと少しばかり後悔したが、電気代も使うし、どのみち洗い物もあと少しなのでこのまま冷水でやることにした。
「……それ、水冷たいままだけど大丈夫?」
「大丈夫だいじょうぶ。洗い物も量無いし、平気だよ」
「それならいいけど……無理そうだったら言ってね。変わるから」
「それはありがたい。その時が来たら甘えさせていただきますよっと」
お気遣い痛み入る。山吹さんはホントに良いお嫁さんになるよ。料理美味しくて家事出来て、面倒見もいいと三拍子揃ってるんだもの。夫になる人はヒモになってしまうんじゃないだろうか。
バレないように、山吹さんの横顔を盗み見る。
やっぱりというか、まあ当たり前のことなんだけど。
改めて、端正な顔立ちだと思う。
ローズブラウンでウェーブが掛かった髪に、淡青色の透き通った目。手入れを欠かしていないのだろう健康的で白い肌。
近くにいるとなかなか気がつかないとは良く言ったもの。当たり前のようにしていたが、やっぱり山吹さんは美少女なのだ。
初めて見たときから思っていたけど、山吹さん程整った人はなかなかいないんじゃないか?
見ているのがバレないうちに、目線を戻す。気がつけば洗い物も後少し。早く終わらせなきゃと、既に洗っていた木の椀を水ですすぐ。
「山吹さん、これ」
「─あっ、ありがとー」
返事が遅れた? 気のせいかな。
少しだけよそ見をして、左隣にいる山吹さんにお椀を渡そうとする。下手に見たら、また見とれてしまいそうだったから。
結論から言えば、それがまずかったのかもしれない。
───────
「それはありがたい。その時が来たら甘えさせていただきますよっと」
これは絶対言わないなぁ、キミは我慢強いからね。相変わらずお人好しなんだなぁ、キミは。
なんて思いつつ隣にいる彼の様子をチラリと見た。すぐに目線戻しちゃったけど。
気遣っても、わざわざこっちが申し訳なくならないように断るんだもの。けど、わかっちゃう私に効果はないよー。
隣、一メートルとない距離の向こうにキミがいる。
あまり同世代の男の子と関わる機会なんてなかったから、ここまで近い距離にいると流石に緊張しちゃってるのかもしれない。それでもキミがいると少しばかり身体がポカポカと暖かい。なんでかな。
もう一回、彼の顔を覗く。
キミは男の子なのに、やけに肌とか目が綺麗だし、身長が私より高いからかっこよく見えちゃうし。男の子ってずるいかも。今だって、キミを見上げるように見てるんだもの。
私にとって初めての体験ばかりくれるキミは、まるで輝く星みたい。
「山吹さん、これ」
はっとして、すぐさま返事をする。
「あっ、ありがとー」
咄嗟だった。なんでもなく聞こえてたかな。
様子を伺うけれど、キミは水の流れる蛇口の方を見たままこっちにお椀を出している。
キミがこっち見てなくてラッキーだったなー、なんて思いながらお椀を受け取ろうと手を伸ばす。
見られてたらなんて言われてたかな。どうせキミのことだから「どうしたの? 役割交代なら大丈夫」って言うんだろうな。心配性ったらありゃしない。
それでも、やっぱりキミに見とれてたんだと思う。よそ見をしてた私が悪かったのかな。
───────
刹那、
「………っ!?」
「…………あっ!?」
最初は、何が起きたのか良く分からなかった。
一瞬指先に伝わったその熱が一瞬で心を沸騰させて、身体が言うことを聞かなくなる。
反射だけで、咄嗟に手を引っ込めたが、それだけで収まるはずがない。
心拍が速い。指先から伝わる熱が、全身に、顔に充満していくのを感覚で理解する。
目線が動かせない。体が動かない。それほどまでに、今指先に伝わった熱は、強く鮮烈に「
数秒して、やっと脳が「山吹さんと指先が触れ合った」ことを理解する。でも、未だに僕の頭はそれを受け入れようとしていない。キャパオーバーというやつである。
山吹さんも驚いたのか、手を引っ込めていた。
顔は赤く、透き通った目は驚いたように見開かれていて此方を見つめている。
二人の間、台所の金属の台に木製のお椀が落ちる鈍い音。リビングのテレビからニュースを読み上げる男性キャスターの声が聞こえる。
蛇口から流れ出る水の音、台を転がるお椀の音、遠くから聞こえる純くんと紗南ちゃんの声。全て、今この二人の空間には届かない。
「………………」
「………………」
僕は左手、彼女は右手。
指先の熱は収まることを知らずに、心臓に早鐘を打てと命令を下してくる。
全力疾走並みだろうか。僕の知らない速さで心臓が動いている。
山吹さんの赤い顔を知らないうちに心に保存して、やっと動き始めた身体でなんとか蛇口の水を止めた。
「……やっ、山吹さん」
「……なんでしょうか」
山吹さんらしからぬ敬語も気になど出来るわけがない。僕は未だに、今起きたことを受け止めきれていないのだ。
「……えっと、その、なんかごめんなさい……」
「……いや、こっちこそごめんなさい……」
恥ずかしさも衝撃も、朝のそれとは比べ物にならない。指先が触れただけなのに、身体の一部が触れ合うということは、ここまでドキドキするものだったのか。
「……うん、うん、うん。オーケーオーケー……」
「ダメだなあ……恥ずかしいなあ……」
目の前に山吹さんがいるにも関わらず、なんとか精神を落ち着かせようと小さく呟く。
山吹さんも両手を所在なさげにもじもじと絡めていて、なんともかわいい…………ってこんなこと考えてる場合じゃない。
「……とっ……! ……取り敢えず、片付け終わらせましょうか!」
「……うん! そうだね! そうしよう! うん!」
二人して恥ずかしい気持ちを抑えるように言い合う。
そうして二人、隣を決して向かないようにまた片付けを再開する。
蛇口から精一杯冷水は吐き出されているのに、一向に指先は冷えてくれないし、心臓の心拍も収まらない。
そうしてまた、どうしても彼女のことが気になって、お皿を一枚洗う間にも隣を盗み見てしまうのだ。
目線だけ向けても、さっきほどちゃんとみることが出来ない。
彼女もこちらのことが気になるのか、ほぼ同時に二人とも隣を向いてしまう。
そうすると、結局向き合う形になるわけで。
「…………………ごめん」
「……………ううん、私こそごめん……」
また二人して、既に紅潮した頬をまた赤く赤く染めるのだった。