恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
機材から流れるザラザラとしたノイズ。
弦の擦れる音。
誰かの息遣い。
誰一人喋ることなく、マイクの前に立つ彼女の言葉を待つ。
「──こんにちは!」
スピーカーから若干ハウリング気味に響く、元気のいい声。
スタンドにセットされたマイクに笑顔で喋るのは戸山さんだ。
「今日は来てくれてありがとう! 一曲だけだけど頑張って演奏するから、最後まで聴いていってね!」
よく澄んだ、明るい声が蔵の地下全体に反響する。
戸山さんがマイクから離れると、他の三人の姿勢が整う。
市ヶ谷さんは鍵盤を指でなぞり、花園さんはギターのツマミを調整、牛込さんは緊張をほぐすようにベースを担ぎ直して、戸山さんは一度マイクが離れ、深呼吸をする。
ステージを包む空気が締まり、奏者も観客も、曲の開始を待つ。
今日演奏する曲は、牛込さんが作ったオリジナルの曲なのだそう。
チョココロネへの愛を曲にしてしまうあたり、アーティスト気質なところもあるんじゃないだろうか。
─空気の音が消えて、一瞬、本当に刹那、すべての音が停止する。息遣いすら調子を合わせたかのように止み、空軍が無音に包まれる時間。
この感覚は知っている。コンサート、ひいては合唱コンクールでも味わえる、
そんな感覚が頭を巡ったか否か、その思考を優しく包むかのように、キーボードの美しい旋律が響き始めた。
────────
スピーカーから聞こえていた残響が止む。
バックグラウンドで流されていたドラム音声も同時に止み、静寂。しばらく誰も動かなかった。
「……ありがとうございました!」
再び響く戸山さんの声。
それに続けて、パチパチパチ…………といささか物足りないくらいの拍手が地下室に響き渡る。
演奏が終わった三人は少しばかり呆けているようだったけれど、戸山さんも含めて四人とも、何かがはっきりしたように笑顔を浮かべ始めた。
「……す、凄かった……なんか、皆の音がよく聞こえて……」
「有咲ちゃんも? 私もだったよ!」
「こう、皆の音がギューッって集まってパアァッてひろがったよね!」
「……それは、ハーモニーってことかな?」
皆、矢継ぎ早に感動の言葉を口にする。
観賞しているだけでも、音が重なる瞬間とかがあって見ていて感動したのだが、演奏していた本人たちは僕らが感じている以上に音を合わせる楽しさを味わっていたのだろう。
音楽には疎い僕だが、音を合わせる気持ちよさ位はわかるつもりだ。合唱コンクールとかが良い例だろう。
頑張って覚えた楽器で皆と楽しく演奏できたのだから、その感動は筆舌に尽くしがたいものの筈だ。
「いやあ、凄かったね。妹が作った曲をバンドでカバーしてもらうと、こんなに誇らしい気持ちになるなんて」
「私、あまりバンドとか音楽とか詳しくないですけど、皆さんとってもかっこ良かったです……!」
一緒に見ていたゆりさん、明日香ちゃんからも賞賛の声が上がる。ゆりさんはうんうんと頷いていて、明日香ちゃんはその綺麗な目を爛々と輝かせている。
「ありがとうお姉ちゃん。私、ちゃんと出来てたかな?」
「もちろん! よく演奏できてたよ」
「えへへ、嬉しいなぁ……」
片や立派に姉妹をする仲睦まじい二人。
「あーちゃん! 私はどうだった?」
「……お、お姉ちゃんも、かっこよかった」
「うふふーっ! ありがとうあーちゃん!」
片やちょっと素直じゃない妹と、素直すぎる姉の図。
そんな中、戸山さんを呼ぶ声が響く。
「……香澄」
「ん? どうしたのおたえ?」
戸山さんの反応にすぐには応えず、何かを掴むように両手を開いたり閉じたりする花園さん。
やがてその手を握ったかと思うと、うん、と一度頷いた。
「確かに、このままじゃSPASEには出られないね」
「……う、そっかあ……」
落胆するような表情を見せる戸山さん。
しかし、その表情を否定するように花園さんが続けた。
「でも、今日は凄く良かった。皆で合わせるのが、こんなに楽しかったなんて」
「…………!」
「だから、私も一緒にSPASEを目指させてほしい」
花園さんの言葉。
その意味を正しく受け取った戸山さんが、暗かった表情を再び明るく染め上げた。
「ありがとう! おたえ!」
今日一番の笑顔で、そう言う戸山さん。
その笑顔につられて、他のみんなも笑顔になっていく。
戸山さんの笑顔は、魔法のようだ。
いつだって周りを幸せにして、明るく導いてくれる強さがあって。
どんなことにもまっすぐぶつかる彼女だからこそ、花園さんも振り向いてくれたのかもしれない。
少し離れて、改めて向き直る花園さん。
視界にみんなを収めるような距離で笑顔になる。
「これからよろしくね、みんな」
いつものように落ち着いていて、よく感情の読めない声だったけれど。
今は、その笑顔が、彼女が喜んでいる何よりの証拠だった。
「ああ、よろしくな」
「よろしくね、おたえちゃん」
市ヶ谷さんは微笑んで、牛込さんは笑顔で応える。
「おたえがいれば百人力! SPASEも夢じゃ無くなってきたかも!」
「練習は厳しくいくよ」
「そ、そんな~…………でも、SPASEに出るためだもん。頑張るよ!」
「その意気その意気」
いつものように会話を繰り広げる二人。
花園さんが加わったことで、これで戸山さんのバンドは四人になった。
これから、ドラムのメンバーを探しながらSPASEでのライブの為に練習を重ねていくのだろう。
あれ、そういえば。
「……ねぇ、戸山さん」
「ん? どうしたの?」
「……このバンド、名前は何て言うの?」
まだ、このバンドの名前を聞いていない。さっきから「戸山さんのバンド」と読んでいるだけだ。
やっぱりバンドたるもの、立派な名前があるのだろう。戸山さんのことだからまた奇抜な名前をつけているのかもしれないけれど。
「そうだよ! バンド名!」
「「「あ」」」
「えっ」
バンド名を決めずに、真っ先に仲間集めをするあたり、とても戸山さんらしい。
すぐさま戸山さんのところに集まり、話し合いを始める4人。
「私考えても良い?」
「いやダメだろ。香澄語全開になる」
「うさぎって混ぜても良い?」
「いやダメだろ。メルヘンじゃねぇか」
あーだこーだと相談を始めるも、冒頭から躓いている模様。花園さん、うさぎを混ぜるってどういう。
隣に居た山吹さんたちとその様子を観察しながら、雑談をかわす。
「バンド結成も、現実味を帯びてきたねー」
「……戸山さんがバンドやるって言ったのはいつ頃?」
「五月の初め……キミがうちで働き初めたのが五月に入って少しした頃だったから、それの少し前くらいかな」
「へぇ、じゃあ一ヶ月くらいでここまで……」
「あー確かに。そう思うと早いものだね」
僕の知らない間にも一生懸命練習してきたのだろう。人間、熱意とかやる気でいくらでも成長できるものだ。
「まあ戸山さん、やるって言ったら必ずやりきりそうな性格してるし」
「まあ、お姉ちゃんは昔からそうでしたから……」
明日香ちゃんが少し呆れたように呟く。
それでも視線の先はみんな同じ、戸山さんの方を向いていた。
戸山さんは本当に、周りを巻き込んでいくのが得意だと思う。
弾けるような笑顔と常に熱のこもった喋り声は、相当でもない限り突っぱねるのは憚れるだろう。
そんな強引な戸山さんだからこそ、こんなにいい仲間が見つかるのかもしれない。
かれこれ十分程、彼女らは相談を繰り広げていた。
あれがいいのこれがいいの、それは違うだの香澄語はやめろだの。
そんな会話の後、戸山さんが仰向けに倒れる。
「──だめだあー、いいのが思い付かない……」
バンド名はこれからの活動に一番ついて回るもの、そう簡単に決まるものではなかったのだろう。
「そうトントン拍子で決まるようなもんじゃないしな……」
「どうしよう……」
「うーん」
他の三人も考えが煮詰まっている模様。
いつまでも難しい顔をしている皆を見かねて、山吹さんが動いた。
「よし! みんな!」
大きな声と、パンッとならされた手のひらが、張りつめた空気を緩める。みんなの視線は彼女の元に集まっていた。
「今急いで考えても仕方ないよ。そんな簡単に決まるものでもないでしょう? 今は、クライブの成功と花園さんの加入祝いをしよ!」
言うが早いが、山吹さんは持ってきていた荷物から沢山の袋を取り出した。中身はお菓子、ジュース等々、学生の打ち上げにはよく名前の上がるもの。
ちゃぶ台の上に、次々と積まれていくお菓子たち。
少しの間、あっけからんとその様子を見ていたが、ハッとして僕も近くに置いておいたパンの袋を引っ張ってきた。
「うん、そうしようか。ほら皆、やまぶきベーカリーのパンもあるんだし、早く食べないと悪くなっちゃうよ」
「チョココロネ……!」
「メロンパン……!」
反応が早い牛込さんと花園さん。目を輝かせて、茶色い紙袋を穴が空かんばかりに見つめている。
「二人とも落ち着いて。まずは、きちんと準備してからね」
「う、うん。わかってるよ?」
今にもパンに食いつきそうな二人を嗜めて紙袋の中身を空けていく。
「ほら、ゆりさん、明日香ちゃんも。皆で打ち上げしましょう?」
後ろで見ていた二人にも声をかける。
打ち上げなのだから、仲間外れは無し。さっきの演奏を楽しんだ人達全員でやるのが当たり前というものだろう。
「誘ってくれてるなら、混ざらせてもらおうかな」
「……えっと、じゃあお言葉に甘えて……」
二人も承諾して、ちゃぶ台のそばに寄ってくる。
比較的小さなちゃぶ台だったが、今回はただお菓子を置くためだけに使ったので混雑などはない。
広めの地下室を八人で広く使って、その場に座る。
やがてちゃぶ台の上一杯にお菓子とパンが広げられた。
もちろん、例のコッペパンは僕の手に握られている。
周囲は甘い匂いで包まれるが、不快感はない。
皆それぞれ、思い思いの飲み物を入れたグラスを持つ。
乾杯の音頭は山吹さん。
「─それじゃあ! クライブの成功と、花園さんの加入を祝って!」
「かんぱーい!」
────────
「それじゃあ、お疲れ様」
「牛込さん、今日は良かったよ」
「うん、二人ともありがとうね。また明日~」
ガチャリ、とドアが閉められる。
周囲はすっかり暗くなっていて、いつかの勉強会の時よりも遅い時間で帰っている僕らはそろそろ夜目が効いてきてしまった。
牛込さんを家まで送った僕は山吹さんと二人になった。
周りから聞こえる鈴虫の声も、時を経るにつれて大きくなっているように感じる。
「それじゃあ、最後のエスコート、お願いね」
「はいはい、了解しましたよ、お嬢様」
そんな軽口を交わして、商店街に向けて歩き出す。
空には既に月が昇っている。
大きく欠けた月は、地上を照らすには残念ながら不十分な光だけを放っており、さらにそこに叢雲がかかっているので、地上に月明かりはあまり届いていない。
僕らの影も、見えないくらいに薄くなっていた。
しばらく軽口を交わした僕ら。
ちょうどいい頃合いかと、僕にとっての本題を切り出した。
「そういえば、今日食べた食パン、凄く美味しかったよ」
「お、やっぱり父さんから聞いてたんだね。ふふ、ありがと」
こちらに微笑みかける彼女。僕はそれを見つめたまま、気になっていたことを質問した。
「あのパン、なんでまた?」
「日頃の感謝ってものだよ。それと、君に私のパン作りの実力を見てもらうためかな」
夜道は暗い。側溝に足を突っ込んでは危険だと、実はさりげなく彼女を道路側に移していたり。いかんせん、彼女との距離が近いような気はするけれど。
「ちゃんと美味しかったよ。僕もまだまだだなぁ」
「ふふ、キミのことだからすぐに上手くなるよ」
「それ、前も聞いたかも」
叢雲は晴れない。道路脇にある照明と、時々通る車のヘッドランプが、僕らの光源だった。
「じゃあさ、なんで直接渡さなかったの?」
「…………それは……」
「言いたくない?」
前から軽自動車が来た。ヘッドランプの明かりが下げられ、僕らの目を焼くことはない。
運転手がこちらの姿を認めてくれたようで、僕らを避けるような軌道を見せる。
「……直接渡すのが、恥ずかしかったから……」
山吹さんがそう言うのと、軽自動車が僕らの影を作りながら通り過ぎていくのは同時だった。
もしも、もしも彼女との距離がもっと広ければ、聞こえていなかったのかもしれない。
あるいは今通りすぎたのが大型トラックなどだったら、今の山吹さんの言葉は僕の耳には届かず、僕は山吹さんに聞き直していたことだろう。
「そ、そっか……」
「えっ…………聞こえたの…………?」
「まあ、あれぐらいで聞こえなくはならないよね。……ていうか、今の狙ってやってたのか」
……恥ずかしいなら言わなければいいのに。
考えた言葉とは裏腹に、みるみる顔が熱くなる。
わざわざ言ってくれたことに嬉しさを覚えながら隣を見れば、わずかに照らす月明かりの中でも山吹さんの頬が染まっているのが見えた。
先日に色々あってから、山吹さんとはずっとこんな調子。
正直、顔を合わせることですらあの事を思い出してしまって赤くなるほどなのだから、双方かなり堪えてはいるのだろう。
だから、さっきのようなことを言われてしまうと、それはそれはまあ、意識してしまうわけで。
夜の歩道で、二人して顔を熱くしてしまうのであった。
「……と、とにかく、僕は山吹さんの手作りパンが食べられて嬉しかったよ」
「……そ、それはありがとう……」
「手作りパン」っていう響きが、やけに耳に残る。自分で言ったことなのに。
二人とも無言のまま、暗い道を歩く。
何かを話そうにも、いざ口を開こうとすると言葉が出てきてくれない。
コンクリートから空気に響く足音が、二人の耳にやけに響いてしまう。
ふと、湿り気を帯びた向かい風が吹き付ける。
山吹さんが少しだけ目を細めて空を見上げた。
風は二人の髪を巻き上げ、遥か後方へ吹き抜けていく。
もうそろそろ、雨が多くなる時期だろう。蝙蝠傘が活躍する日が極端に増えそうだ。
商店街に入った直後、やっと顔の熱が引いた頃、山吹さんが喋り始めた。
「……ねえ、私がキミと知り合って何ヵ月経つのかな」
いつもより少しトーンが低い声。
「……僕が初めてやまぶきベーカリーに行ったのが去年の十月くらいだから……そろそろ八ヶ月になるかな」
「そっか……もうそれだけ経つんだね……」
隣を見れば、どこか懐かしむような、そんな雰囲気を滲ませた声を放つ彼女。
明かりのない空間では彼女の輪郭が朧気に見えて、彼女がどんな表情なのかが掴めなかった。
「香澄がバンド始めるって言って、そこに皆が集まって。気がついたらこんなに大きなことになっててさ」
商店街も、明かりは少ない。
暗闇に慣れてきた目で見た山吹さんは、これまであまり見たことのない表情をしていた。
そんな姿が珍しくて、相槌も忘れて話を聞く。
「私はそういうこと、出来ないからさ。ちょっと羨ましいなって思うんだけどね」
「……でも、それはお店があるからで」
商店街の入り口からやまぶきベーカリーまでは、そう遠くない。山吹さんとの話も、これが最後になるだろう。
「ううん、違うの。母さん、普段の家事も張り切っちゃうから体調崩すことも多くて」
「…………お店だけじゃ、ないんだ」
「……うん。だから」
暗い道の向こうに、見慣れた看板が見えてきた。
隣接する家の窓から、オレンジ色の光が漏れている。
「私はまたお店の手伝いとか忙しくなるし、文化祭の実行委員もやるって言ったら、みんなのこともあまり見られなくなっちゃうからさ」
そこまで言って、駆け出す山吹さん。やまぶきベーカリーまでの距離はもう百メートルも無く、僕らはそのまま山吹さんの家の前まで到着した。
さっきまで叢雲のかかっていた月が、少しだけ顔を出す。僕らの背後に影を作る。
追い付いてきた僕を見て、山吹さんが少しだけ寂しそうに言った。
「だからさ、みんなのこと、よろしくね」
その言葉と表情がいやに気になって、思わず口を開きかける。
でもその寂しそうな表情は一瞬で消えて、その顔はいつもの微笑みを浮かべていた。
「今日はありがと。……またね、友也くん」
そのまま振り返り、扉へと向かっていく山吹さん。
その姿が見えなくなると同時に、僕も歩き出す。
先刻の寂しそうな表情はなんだったのか。
こういう時に限って、山吹さんの考えていることは読み取れない。あんな表情を見慣れないからだろうか。
胸に少しの引っ掛かりを覚えたまま、足を進める。
突然、ポケットのスマホが震える。
山吹さんから連絡かと思ってポケットから取り出したスマホには、ポップアップ表示は無い。
電源ボタンを軽く押してやると、時計と共に一つ通知が入っていた。
何の変哲もない、ニュースアプリからの通知。
例年より早い九州地方の梅雨入りを伝える表示をフリック操作で消去すると、再びポケットにスマホを入れて歩き出す。
六月。
商店街の空にも、灰色の雲が掛かり始めていた。