恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
山吹さんの、過去。
その言葉に反応できず、後ろを振り替える余裕もない僕に向けて、千紘さんは少しずつ喋り始めた。
雨粒が一滴、窓ガラスを渡る。
「過去って言っても、十年前とか、生まれた直後とか、それほど昔じゃないわ。むしろ逆。ちょうど今から一年前の話よ」
一年前。山吹さんが僕と知り合う数ヵ月前。二人が未だに、中学生だった頃。
「沙綾、その時期のことについては絶対に話さないから。知ってるのも、私と夫と、あと少しの人たちだけよ」
「そのあと少しっていうのは、戸山さんとか……ですか?」
「いいえ、あの子たちじゃないの」
それを聞いて、動きにまでは表さないものの驚いてしまう。
山吹さんと今のところ一番親しく接しているのは戸山さん達だと認識している。
僕が知ることなど、戸山さんが知っていることの一つに過ぎないと思っていた。それほどまでに、彼女たちは仲が良かった。
その戸山さん達にすら話していない、山吹さんの秘密。
「……そんなことを、僕に」
「貴方だからこそ、よ」
僕にそんなことを伝えたところで、という僕の思考を、口に出した直後に否定される。
「貴方だからこそ、知っていて欲しいことなの。今、一番沙綾の近くにいるのは、友也くん、貴方だから」
「そんな───」
そんなこと、と反射的に否定しようとしたところでその口をつぐむ。
自惚れではない。この人の言っていること、僕らを一番近くで見てきてくれた千紘さんが言うことだからこそ、この言葉は真実になる。
少し思い返してみれば、僕と彼女の距離というのは思春期の男女として「ただの友達」などとはとても言い難いもの。
同性の友人なら「仲が良い」だけで片付く距離感も、異性となるだけでとても近く感じてしまう。
「沙綾、お店の手伝いばかりしてたから、家に誰かを呼ぶなんてことが少ないの。家の玄関から家族以外の人が出ていくなんて、結構珍しいことなのよ?」
追い討ちをかけるような、千紘さんの一言。僕はつくづく、押しに弱い人柄なんだなと自覚する。
「………わかりました。話、聞きます」
「ありがとう、友也くん」
諦めたように一言告げる。
一体いつから、こんな引き返せないところまで足を踏み入れていたのだろうか。
山吹さんと密接に過ごしたのは一ヶ月程でしかない。
一ヶ月など、クラスメイトとそれなりに話す程度まで進展するだけで費やしてしまうほどの、短い時間だ。
だが間違いなく、この一ヶ月間は僕らの関係の大きな変化があった。
中学の頃、あの短い時間では成し得なかった変化。
一体いつから?
初バイト? 勉強会? クライブ? それとも、あの日?
彼女と過ごしたこの一ヶ月を、走馬灯のように振り返る。
決定的な変化は一日一緒に過ごしたあの日だっただろうが、それだけが全てではない。
彼女と過ごす日々は、どこまでも輝かしかった。
初バイトも、勉強会も、クライブも。
彼女といると楽しくて、話していると心が弾んで。彼女と過ごす時が、なによりも楽しみで。
彼女のことをもっと知りたいと思うほどに、彼女の深みへと沈み込んでいく。
だから、だからこそ。
陽の目ばかり見ていたから、そろそろ陰にも目を向ける時が来たのかもしれない。
「それじゃあ、本題を話すわね」
────────
話は去年の春、沙綾が中学三年生になったところまで遡るわ。
さっきは「最近のこと」なんて言ったけど、振り返ってみると随分と懐かしい気もするわ。
当時、沙綾には花女の中等部に入学した時から仲の良かった友達がいたの。
沙綾がお店の手伝いで忙しいときがあっても、ずっと一緒にいてくれた友達。いつでも仲良しで、ずっと4人で固まってたのを覚えているわ。
花女、羽丘バラバラに進学して、貴方が名前も知らないような子たちだけれどね。
中学一年、二年と一緒に過ごしてきて、周りから見ていても本当に仲が良かった。
夏休みみたいな長期休みは、沙綾とその子達を一緒に見ない日はないくらい………っていうのは言い過ぎかしら。でも、それくらい一緒にいたわ。
じゃあ、前置きはこれくらいにして。
「……友也くん、SPACEは知ってるわよね」
「ライブハウスで……ガールズバンドの聖地、でしたっけ。戸山さんたちが目指してるっていう」
そう。
二年生の冬休み、ちょうど年末だったかしら。
いつもの四人組のリーダー役……沙綾と一番仲が良かった子ね。その子が沙綾たちをSPACEの年末ライブに誘ったの。
花女の高等部からもバンドが出るからっていうことで、四人とも行ったんだけどね。
そうそう。その夜帰って来た沙綾の顔。
あんなに目を輝かせて話をしてくれたのはいつ振りだったかしら。
家に帰ってくるなり、台所にいた私のところに来てね。それで、こう言ったのよ。
「私たちも、バンドがやりたい!」って。
「………バンドって」
今まで断片的だった手掛かり。
勉強会の時。クライブの時。その帰り道。
その全てが、線で結ばれていく。
「……そろそろ察して来る頃かしら?」
戸山さんのギターを見たときの表情。
演奏を見たときの目を細めた表情。
夜風が湿っていたあの道での、あの喋り方。
別れ際に一瞬見せた、寂しそうな表情。
「沙綾はね、その四人とバンドを組んでいたの」
そして、千紘さんの口から紡がれる「過去」の語り。
「………そのバンドは、どうしたんですか」
もう結論など明らか。
なのに、それなのに、それを認めようとせずに意味のない質問を返す。
「………今は、どうなっているのかわからないわ。でも、結成当時のメンバーでなくなっていることは確かよ」
「つまりそれは」
「沙綾は、そのバンドを脱退している、ということ。今もそのバンドがあったとして、結局当時の四人が並ぶ光景は見られないわ」
千紘さんが言葉にすることで、嫌が応でも僕の頭はそれを認識する。千紘さんの言葉でなければ、真実を真実と認められなかった。
「……仲が良かった、んでしょう? なんで……」
「……続きを話すわ」
バンドをやるって決めてからのあの子たちは早かったわ。
四人でやるものを決めて、本格的に練習し始めたのは……三年生になる前くらいだったわね。
春休みの後半なんかは、毎日練習してたかしら。
花女は中高一貫校だから。沙綾たちはそのまま高等部に進学するつもりだったから受験勉強の心配もなかったの。だからバンド活動も気兼ねなく出来たみたい。
沙綾が担当したのはドラム。
バンドにのめり込んでからは、二階から練習のために何かを叩いている音をよく聴いていたわ。
あの子ったらとっても楽しそうに練習してるんだもの。私がたまに覗いても気がつかないなんてこと、しょっちゅうだったわ。
皆で集まって練習する日なんかはいつもより早起きだったりする程に楽しみにしてた。
私も、その頃はまだ体調も良くてね。
沙綾がバンドに集中できるようにってちょっと無茶したりしてた。
そのおかげか沙綾はバンドに打ち込めていたようだけど、無茶するのはまずかったのでしょうね。
「……………」
千紘さんの体が弱いのは山吹さんから聞いた話。それも中学卒業間近の頃だ。僕がやまぶきベーカリーに通う前の千紘さんを、僕が知るわけがない。
ここまで言われてしまえば、何があったかなど察してはいる。僕が未だ関わっていない時にそういうことがあった、というのは後から聞かされる程悔しさだけが湧き出てくるのだった。
後ろを振り向かないまま黙って耳を傾けているうちに、やがて話は核心らしき場所へと移り変わっていく。
雨音は、一向に止まない。
「……それで、バンドが組まれてから数ヶ月後」
その時期、商店街の催しがあってね。沙綾達はその催しの途中で発表をしないかって誘われたの。
商店街の人達にも、沙綾がバンドを組んだことは伝わっていたから。初めてのライブはぜひここで! っていう計らいだったみたい。
沙綾達はもちろん承諾。具体的な目標が決まったことで、みんなのモチベーションも上がってね。
沙綾たちの練習時間が増えるのと比例して、私の働く時間も増えたわ。
時々純と紗南も手伝ってくれたけど、あの子たちには手伝いはまだ早いと思っていたから、手伝いをさせたのは本当に少しの時間だったはず。
商店街の催しまであと一週間の時。
直前に迫った発表の為に練習が多くて、中々お店の手伝いが出来なかった沙綾が、一度私のことを心配して声を掛けてくれたことがあったわ。「少しくらい手伝うよ」ってね。
思えば、あの時に素直に受け入れていれば良かったのね。変に意地を張りすぎたのかもしれなかったわ。
それで、沙綾たちのライブ当日。
少しずつ体調を崩しがちだった私は……ええ。恐らく限界だったのよね。
沙綾が家を出ていった後に倒れたの。間の悪いことに、沙綾にその連絡が行き届いたのは発表の直前だったらしいわ。
「───────」
わかっていたことでも、言葉に出されるだけで重みが違う。
山吹さんがやっていたバンドを止めたのも、間違いなく千紘さんが倒れた影響だろう。普段千紘さんを気遣う様子から、お店の手伝いの為にバンドを脱退したことはハッキリと伺える。
誰も悪くない。今の話で誰かが責められることはない。
だからこそ、彼女を襲った理不尽が腹立たしい。
ゆっくりと話す千紘さんの声には、いつの間にか寂しさが入り交じっていた。
「目が覚めた時、そばにあの子の顔を見つけたときは……正直、泣きそうになったわ」
私が目を覚ました時にはもう夕方でね。
ベッドに寝ていた私に向かって、純も紗南も沙綾も皆して「ごめんなさい」って言うの。夕焼けが眩しかったのに、それでも三人ともわかるくらいに目を赤く腫らしてたわ。
倒れて迷惑を掛けたのは私だったのにね。
その後に沙綾から話を聞けば、ライブ会場を飛び出してきたって。その話を聞いて、初めて「やっちゃったんだな」って思ったわ。
その日から、沙綾は学校から帰ってくるのが早くなった。店番をしている私を休ませて、エプロンをして。
沙綾が学校から帰ってから、お店が閉まるまでの数時間、あの子は一人でお店を回していたわ。
もちろん、バンドの子たちとは中々連絡を取れなくなった。沙綾の場合は、初ライブをダメにしちゃったからっていう責任も感じていたのでしょう。
それでも、私の体調が治ったら復帰するっていう一つのボーダーラインはあったみたい。
──千紘さんの体調は、まだ回復したとは言えない。
それは、つまり。
ええ、私の体調は見ての通り。
沙綾は最終的に、皆をこれ以上待たせるわけにはいかない、って言って脱退することを決めたの。
そして、沙綾が涙を流したまま、家の扉を開けて帰って来たのは──
……僕はいつか、自分のことを割と察しがいい人間だ、とか言った事があった。
どうか、それを撤回させて欲しい。
──去年の十二月。今日みたいに風が湿っていて、道端に雪が降るような日だったわ。
「………ちょっと、待ってください」
本当に、耳を疑った。
そんな心とは裏腹に、僕の頭は言葉の意味を刹那のうちに理解してしまう。
去年の十二月といえば、僕がもうやまぶきベーカリーに通い始めていた時期だ。
僕が通い詰めていたあの時でも、山吹さんは今と変わらないあの笑顔で僕の前に立ってくれていた。
──それだけのことを抱えていたというのに。
僕は、その笑顔の裏に在るものを何も読み取れていなかった。
彼女が考えていたものも、彼女が見ていたものも、彼女が心を決めていたことも。
あの10分間、それだけあれば見抜けていたかもしれないのに、それが出来なかった。
「僕が未だ関わっていない時にそういうことがあった」だと? 関わっているじゃないか。それも彼女が一番心を苦しめていた時期に。
「……友也くんが責任を感じることじゃないわ」
僕の心中を察したかのように、千紘さんが声を掛けてくれる。
それでも。
「……それでも、悔しいですよ。何も出来なかったっていうのは」
苦しんでいる人が目の前にいるのに、手を伸ばしてあげられない。それが何よりも僕の心を痛めつけていた。
「……そう。じゃあ、一つお願いをしようかしら」
少しだけ、声のトーンが明るくなった。
僕の返事を待たずに、間髪入れず千紘さんは続ける。
「……沙綾のことを、よろしくお願い。あの子の隣に居てくれるのは、貴方がいいなって思っているの」
話終わるのと同時に千紘さんが立ち上がり、向こうへと消えていく足音が響く。
僕にわざわざ山吹さんの過去を話したのは、そのお願いをするためだったのだろう。
僕ならば、このことを聞いても彼女と付き合っていけるだろうという、信頼。
いつかの、亘史さんからのお願いを思い出す。
あの人の「よろしく」には、このこともきっと含まれていたのだろう。
わからない、わからない。
そこまでの信頼を、僕に向けてくれる理由がわからない。
「……でも、僕は──っ!」
振り返った先には、誰もいない。僕の疑問に答えてくれる人はいない。応えるのは、ただ屋根を伝う雨音だけ。
お店の扉が開く音がする。本日久方ぶりのお客さんかと、振り向いていた姿勢を整える。
ただ、僕を出迎えるのは。
「……うわー、びしょびしょ。靴下気持ち悪いや……って、あ、友也くん」
「山吹さん………おかえりなさい」
茶色いスカートの端を濡らして、山吹さんが帰ってくる。その顔にはいつも通りの微笑みが浮かべられていた。
「ふふふっ。なにそれ、家族みたいじゃん。……うん、ただいまっ!」
僕に向かって咲く、彼女の笑顔。
半年前と何も変わらない、彼女の笑顔。
「……………っ………」
瞬時に目線を逸らす。
「……? どうかした?」
「……いんや、なんでもないさ。ほら、早く着替えてきなよ」
彼女の笑顔とは対照的に、酷く歪んだ僕の顔を見せないようにして、彼女から遠ざかる。
「……だめだ」
小さく、小さく呟いた。
彼女のいつも通りの笑顔は、確かに本心から咲かせている筈なのに。
僕にはその笑顔が、とても薄っぺらいものに感じられてしまって。
どうしても、まっすぐに見つめることが出来なかった。