恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
梅雨の気まぐれか、厚い乱層雲の掛かっていた空から晴れ間が覗く。
コンクリートの凹みに溜まっていた雨水が、日の光を僕の目に反射する。
頭で意識するでもなく目をつむった僕は、本日何回目ともわからなくなった溜め息を吐いた。
光が差し込む空とは裏腹に、僕の頭はいつ雨が降るかもわからないような、曖昧な雲が覆いつくしているばかり。
天気を恨むことなどしないが、どうか、この空に差し込む光を僕の心にも照らしてほしい。
手に握られたスマートフォンには、一件のポップアップ表示。
真っ黒な画面を無理矢理叩き起こす事の出来るアプリなど一つしかなく、通知の送り主はきっと、僕が悩んでいることなど微塵も知らないだろう。というか、知っていて欲しくない。
「エプロン作りの手伝い………か」
連投されたメッセージには、文化祭で使うエプロンを作ること、その手伝いを頼みたいことがつらつらと書かれている。
その全てに目を通し、「バイト終わってからならOK」と短く返した。
千紘さんから話を聞いたあの雨の日から、既に何日も経っている。
6月も中盤に差し掛かり始めて、花女の文化祭も開催まで一ヶ月を切った。
僕が彼女らの手伝いをする機会は無く、裏方、山吹さんの負担を減らすように日々やまぶきベーカリーで働いている。
あの話を聞いてから、どうにも山吹さんと接しづらくなっている。
もしかしたら、山吹さん自身がもうそこまで気にしていないのかもしれない。あるいは、僕や千紘さんが知らないだけで、もう前のバンドのメンバーと学校で仲良くしているのかもしれない。
けれど、山吹さんのあの表情──戸山さんを眩しそうに見つめる、あの表情──を思い出す度に、その考えを肯定できなくなってしまう。
彼女は今、何を考えているのだろう、と画面の文字列を眺める。自分が送ったメッセージの時刻表時の上に、小さく「既読」と文字が浮かんだ。
目を見て、笑い合って、喋ってすら分からなかったと言うのに、メッセージで何が判るのかと自嘲気味に笑う。
ふと気がつけば、もうやまぶきベーカリーの前。
燻り続ける感情を無視してそのままアプリを閉じると、手慣れた動作でスラックスの右ポケットにスマホを突っ込んだ。
いつものように、扉を開けて中へ。
嗅ぎ慣れたパンの匂いが僕を包んだ。
───────
パチリと音を立ててスイッチが沈む。
店内に満ちていた暖かい光は刹那の内に消えて、代わりに外灯から漏れた僅かな光が、がらんどうになった店内の商品棚を照らす。
「ふぅ………」
吐いた溜め息は天井へ。
掃除したての床から高い音を鳴らして、山吹さんの家の方へ。
明かりの点いている方へと進むと、少しずつ笑い声だとか、叫び声だとかが聞こえてきた。
声はやがて大きくなり、誰の声かもわかるようになって。
「ほら香澄、危ないからちゃんと針見てろって!」
「ご、ごめんってー」
「沙綾、私うさぎの刺繍を入れたいんだけど」
「沙綾ちゃん、ここって………」
「はいはい、二人とも待っててね……っていうか、うさぎの刺繍はレベルが高すぎないかな……?」
リビングから聞こえてくる、幾つもの声。
いつもより賑やかな部屋には、いつもの5人が集まって手を動かしていた。
「あ、友也くん、お疲れ様」
「やってるね、山吹さん。……さて、何から手伝えばいいのかな?」
リビングに出てすぐ、僕を迎えてくれる山吹さん。
器用にも牛込さんと花園さんの相手をしながら、こちらにも目を向けてくれている。
「出来ればりみりんを……って、大丈夫? 疲れてたら逆に危ないし、頼んでおいてあれだけど休むなら帰った方が……」
僕の様子を一瞥して、心配そうに眉をハの字に曲げる山吹さん。
彼女の目は間違っていない。
いつも以上に疲れた体を引きずってここに来たのは事実だし、溜め息だって今日ほど吐いたことはなかった。
やはり精神的に万全と言えない状態で仕事をするのも流石にまずかったようで、常連のお客さんの幾人かには「大丈夫?」と聞かれることもしばしば。
その度に笑顔で返していたが、果たして僕の営業スマイルは不自然ではなかっただろうか。
「大丈夫だって。まだまだ体力はあるさ」
まるで気にしていない、というように返して、さっさと皆が座るテーブルの方へと向かう。
山吹さんはまだ気になるような目線を向けていたが、それも花園さんから助けを求められたことによって逸れていった。
「それじゃ牛込さん、どこを手伝えばいいかな」
「えっと……」
空いていたイスに座って聞いてみるも、どこか遠慮がちに言葉を渋る牛込さん。
「僕なら大丈夫だって。ふざけられる程度に余裕はあるんだから、気にしないで」
「うん……それならいいんだけど……」
僕と山吹さんの会話を聞いていたのだろう。実際、肉体的な疲労はいつもと大して変わらない。
疲れているように見えるのは、きっと考え事をしていて気難しいような顔をしていたから。きっと、それだけ。
「大丈夫。万が一危なかったりしたら直ぐに止めるからさ。発案者の僕にも、文化祭の手伝いをさせて?」
「……うん、わかった。約束だよ? ……えっとね……」
牛込さんを言いくるめて、僕も作業に参加する。
エプロンとしての形は僕がせっせと働いている間に出来上がっていたらしく、牛込さんから任されたのは首からぶら下げる紐とポケットの取り付け。
手縫いでやった方が早そうだ。
太めの糸を手に取って二本取り。糸の端を手際よく玉結びすると、順調に紐を縫い付けていく。
昔から料理だの掃除だの裁縫だの、家庭的な作業は得意な方だった。家庭科の評定は何もしなくても高い、とかそういう程度だったけれど。
「友也くんって器用なんだね……なんでも出来ちゃいそう……」
僕の手元を覗き込みながら、感心したように声を漏らす牛込さん。
「余所見してると危ないよ牛込さん。針握ってるんだから、怪我しないように気を付けてね?」
「わわわっ、ごめんね……」
慌てたように向き直す彼女の姿を横目に見ながら、僕も作業を続ける。
硬い紐の布から、薄いエプロンの布地へ。
針を通しては糸を引いて。白いキャンパスに規則正しく点線を描くように、赤い糸で縫い合わせていく。
「有咲! ポケットってこんな感じでいいかな?」
「……んー、いい感じ……あ、ポケットの入り口の左右は折り返しで縫えよ」
「了解ー!」
戸山さんの扱うミシンが、会話を挟みながら音を立てる。戸山さんと市ヶ谷さんのところももう完成が近いようだ。
こちらも既にエプロン紐は縫い付けた。
ミシンが無くても特に問題が無かったので、そのままポケットを縫い付けている。
手伝い始めてほとんど時間は立っていないが、そもそも手伝い始める時間が遅かったので当然と言えば当然なのかもしれない。
手元も順調。難しい作業でもないので、特に詰まることもなく手が動いてくれる。
単純な作業を続けていると、目は手元に集中しているのに頭は別のことを考えているという事がある。
あの日、千紘さんから聞いた話は、何度も僕の頭の中で反芻され続けている。
あの時の雨粒の音も、後ろから響いていた千紘さんの声も、彼女の笑顔が、薄っぺらく見えてしまったことも。
ミシンの音が聞こえない方──その延長線上にいる彼女の事を考えてしまうのは、今の僕にとっては必然なのだと感じる。
反対に、彼女は今何を考えているのだろう。
彼女はいつだって笑顔を浮かべていた。
たとえそれが満面の笑みじゃなかったとしても、彼女はずっと、笑顔を浮かべてくれていた。
今までわかったように交わしていた会話も、関わる度に見せてくれた表情も、全部ホンモノだったのかと疑いそうになってしまう。
少しだけ、彼女の方へと目を向ける。
さっきまで考えていた通り、いつものような笑顔を浮かべる彼女。
ああ、いつだったか。僕が一日、山吹さんの家にお世話になった日。
あの時、戸山さんがギターを見せてくれたときと変わらない微笑みをその顔に浮かべている。
……もしも千紘さんから話を聞かなければ、その微笑みも───
「───痛っ!?」
左手の人差し指に鋭い痛みが走る。
反射的に手を引っ込めてみれば、指先の腹にぽつりと赤い点。
「………えっ!? ちょっと友也くん、大丈夫!?」
隣に居た牛込さんがいち早く反応する。
皆がその声に反応してこちらを向く間に、人差し指に乗った赤い点はどんどんその直径を膨らませてゆく。
「あー、やっちゃったなこれ……ごめん山吹さん、ティッシュとかあるかな?」
牛込さんによそ見は危ない、とか言っておきながら僕自身がよそ見とはなんという体たらくだろうか。
取り敢えず止血しようと、山吹さんにティッシュの在りかを尋ねる。
ただ、その質問に応える声は無い。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫!?」
いつの間にか駆け付けていた山吹さんが、僕の手を掴む。あまりの柔らかさに少し驚くも、心配させまいと落ち着いて言葉を投げる。
「いやいや、大丈夫だって。きちんと止血して、絆創膏でも張れば問題はないから。別に針に毒が塗ってあるわけでもないんだからさ」
僕の平気そうな様子を確認したのか、山吹さんの後に駆けつけてきた戸山さん、市ヶ谷さん、花園さんも安堵したように息をつく。
山吹さんが取り敢えず、と出してくれたポケットティッシュで止血を始める。
「突然りみりんが声あげるから心配したよ……いや、今も心配してるんだけど」
「ご、ごめんね? 隣でケガされたから、つい……」
「いや、そもそも僕が不注意でケガをしたのが悪いんだし、牛込さんは謝らなくていいよ」
そう会話を交わす間にも止血を続けるが、深く刺しすぎたのか、刺した場所が悪かったのか、中々血を止めてくれない。
既に血の滲んだティッシュは3枚。赤黒い染みが点々と真っ白いティッシュを染める。
「や、やっぱり疲れてたんじゃないかな? 無理矢理手伝わせちゃってホントに───」
「ストップ、牛込さん。それこそ牛込さんが謝ることじゃないさ」
謝罪の言葉が続くであろう牛込さんの言葉を途中で遮る。
「山吹さんがわざわざ心配してくれたのに、それを振り切った僕の責任さ。謝るのはこっちだよ」
じわりと痛む指先を押さえながら、ごめんねと謝る。
ティッシュを取り替えると、滲む血の量も途端に少なくなった。止血の方も、特に問題なく済みそうだ。
「…………ところで山吹さんは?」
「あれ? さっきまで居たのにね」
忽然と消えた山吹さん。さっきまで言葉を交わしていた筈なのだけれど。
「沙綾なら、急いであっちに──」
「──ごめん! お待たせ!」
彼女が消えた先を花園さんが扉を指差すと同時に、その扉が開かれる。中から現れたのは、まさにその山吹さん。
皆の視線を一気に浴びた彼女はその手になにやら箱を抱えていた。
その箱には、大きく赤い十字の印。
「いや山吹さん、軽い刺し傷だから。止血も済んだし絆創膏で大丈夫だから」
そう言う僕の言葉を無視して、机に救急箱を置いてはすぐさま中身を取り出し始める山吹さん。
「それでも! 針に何かついてたらまずいでしょ? せめて消毒だけでもするの!」
「お、おおう………」
山吹さんの剣幕に圧されて、一同沈黙。
渦中の彼女は、手際よく救急箱から必要な物を取り出すと、有無を言わせず僕の左手を取って治療をし始めた。
きっと、こういうところなのだろう。
姉、だからなのかもしれない。
人一倍、他の人の事を気にかける性格は、きっとバンドを抜けるときにも何かしらの影響を与えた筈だ。
多分、山吹さんのキズは癒えていない。
沢山のキズ口を、消毒して、ガーゼを貼って、包帯をくるくると巻いて。そうやって、キズ口を塞いでいるだけ。
どんな人だって、そうすることでしか心のキズは埋められない。キズを癒しきれる人なんていない。
ただ山吹さんみたいな人は、包帯を巻く回数がとても、とっても多くて、キズを隠すのが上手いだけ。
きっと、僕が亘史さんや千紘さんに任されたことは、その包帯をほどくことなのだろう。
古くなった包帯をほどいて、痛みの滲んだガーゼを取って、もう一回消毒し直して、キズを塞ぎ直すことなのだろう。
キズはきっと、そうやって処置し直さなければ、痛みが包帯に滲んでしまうから。
僕の指先にも、包帯が巻かれる。
刺し傷を包んで、くるくる巻かれる。
「はい、完了。友也くんは今日はもう手伝い禁止! あんまり無理しないでね?」
「ともくん、無理しないでよ?」
「こればっかりは沙綾に賛成。無茶はするなよ?」
「友也くん頼りやすいから、ついつい無茶させちゃうのかもね。無理だったら、絶対言ってね?」
「友也、頑張り屋さん過ぎ。少しは皆みたいにゆったりしていいんだよ?」
「いや、香澄はともかく「酷い!」……沙綾はそんなにゆったりしてねぇだろ」
「……………あっ、次のウサギにはカスミとか、サアヤって名付けてほしいってこと?」
「いや皆ってウサギのことかよ! 紛らわしい!」
各々、僕の事を心配してくれている模様。
「お気遣い、痛み入るよ。……その言葉に甘えて、今日はアドバイスに徹するとするかな」
素直にその言葉を受け取り、返事を返す。
僕の言葉に皆一様に頷くと、再び作業を再開し始めた。
左手の人差し指には、白い包帯。結び目は固く、傷口は簡単には開かないだろう。
「わざわざありがとうね、山吹さん」
「いいってこと。ホントに、無茶は厳禁だよ?」
また、いつも通りの微笑みを浮かべる山吹さん
彼女は、僕の傷を丁寧に処置してくれた。
皆は、僕の事を気遣ってくれた。
僕は、彼女のキズに優しく包帯を巻けるのだろうか。
ゴミ箱の中のティッシュは血を滲ませて、すっかり赤黒く。
彼女のキズは、開いたらどんなに血が溢れてしまうのだろう。
心の雲だけは、未だに晴れない。