恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
「完成ー!」
バッとエプロンを掲げる戸山さん。
僕が左手を怪我をしてから数十分もしないうちに、皆のエプロンは次々に出来上がっていった。
最後に大きな星型の
「みんな、お疲れ様」
手持ち無沙汰だった僕に出来たのは、飲み物を一度淹れたことくらい。
頼まれたのに、あまり力になれなかったのは不甲斐なく思う。
「友也くんもお疲れ様。無理に手伝ってもらってごめんね?」
左手の人差し指は、血は止まってもまだ傷が塞がっていないらしく、動かすと鋭く痛みが走る。
「こっちこそ、ごめん。怪我の処置までしてもらって……」
今日は迷惑を掛けてばかりだと、思う。
気が
「いいのいいの」
そう言って笑う山吹さん。
「……疲れてるなら、バイトとか見直そうか?」
「いやいや、そこはしっかりやりますとも。今日は
咄嗟に言葉を返す。
そこだけは、千紘さんの身とか、そういうものを考慮すると外せない。
彼女は、
「ちょっと腑に落ちないけど……ま、疲れてるのは確かみたいだし、ほらほら、早く帰って休んで?」
心配するように声のトーンを下げ、優しさを滲ませる。
僕もこれ以上、ここに居る意味は無い。彼女に心配を掛けるわけにはいかないだろう。
「了解。今日は早めに休んで、また次から頑張らせていただくとするよ」
そう笑って、荷物を纏める。
教科書が入ったリュックはいつもより重かった。
きっと、肩が凝っていたんだと思う。
店の外に出ると、もう夜空が広がっていた。
最近は日も長くなっていたと思うが、流石にこの時間になれば当たり前か。
「それじゃあ香澄、歌詞作り頑張ってね」
戸山さんは山吹さんの家に一泊していくらしい。
文化祭で発表するオリジナル曲の歌詞作り。
山吹さんがいた方が寝ないだろうという計らい。
明日はやまぶきベーカリーも休業日。千紘さんたちも快く受け入れてくれたのだそう。
「皆も、気をつけて帰ってね」
今日は他の3人を家に送り届けることはしない。
勿論申し出たのだが、市ヶ谷さんを筆頭に「早く帰れ」と言われてしまった。
ゆっくりと動く空。冷え込む街。
長く話をしない内に、各々解散し始めた。
明かりを背に、やまぶきベーカリーを離れる。
最後の最後に、振り返った。
「戸山さん」
今まさに家に戻ろうとしていた戸山さんに声を掛ける。彼女はすぐにこちらを向いてくれた。
「山吹さんのこと、よろしくね」
一瞬、困惑するような表情を見せる彼女。
言わんとすることは分かるし、その表情を見て、やっぱりまだ知らないんだと、わかった。
それでも。
「……うん! 任せて!」
直ぐに笑顔になって、自信ありげにそう言う。
それを見て、きっと、と思った。信頼が出来た。
再び山吹さんの家に入っていった彼女を見送って、僕も歩きだす。
癖のように、ポケットからスマホを取り出した。
暗所に光る液晶が眩しくて、一瞬顔をしかめる。
スマホに表示された時刻は19時30分。
梅雨の気紛れは、未だ雲で空を覆ってはいない。
ああ、確か今の時間なら。
東の空を見上げる。
外灯の明かりはあれど、明るく煌めく一等星はその存在を僕の目に示してくる。
ベガ……デネブ。織姫に、天の川を繋ぐ橋。
では、彦星は? ……残念ながら、彼を示すアルタイルは、見えない。
空を見上げるのが今より早い時間であれば、そもそも星は見られなかった。
あるいは空を見上げるのが今より遅い時間であれば、アルタイルも天球に輝き、先の二つの星と共に三角形を作っていた筈。
この時間だからこそ、アルタイルは空にいない。
ああ、まるで風刺画みたいじゃないか?
橋を渡されていたって、今の僕が彼女と同じ空に輝くことが許されていないみたいで。
その例え話すら、前提には二人の関係がある。
最早、空に瞬く星に自分を重ねることすら
「……帰ろ」
────────
その日の夜に、また雲が空を覆い尽くした。
星々の輝きは乱層雲に遮られ、地上に降りるのは僅かな月明かり。
結局その夜、アルタイルがその姿を僕の瞳に映すことは無かった。
────────
あれから、数日が経つ。
意外と沢山のことがあった。
「──バンド名、決まったんだってさ」
山吹さんの口からそんな言葉が発されたのは、僕が怪我をしてから2日後、休業日の次の日のことだった。
「結構早く決まった……のかな? 僕にはわからないけど……」
彼女の口から「バンド」という単語が出たことに、少し動揺していた。
「『Poppin‘ Party』だってさ。かわいい名前だよね」
「考案は戸山さん?」
「ううん、元は市ヶ谷さん」
「それは意外。結構メルヘンチックなところあるのかな……?」
会話を重ねるうちに、いつもの調子を取り戻す。
「あ、あとドラマー探しは諦めかけてるみたい」
「…それは残念。文化祭どうするつもりなの?」
山吹さんはまるで、狙っているかのようにこちらの動揺するようなことを言ってくる。
自分でも驚くくらい、「山吹さん」と「バンド」の話は僕を動揺させるのだ。
「バックでドラムだけ流して演奏するって」
あの日から、山吹さんの声には少しだけ寂しさが浮かぶようになった。
クライブの帰りに見せたような、少しトーンの低い声。
『山吹さんはドラム、叩かないの?』
そう言いそうになる口を無理矢理押さえつける。
「……そっか。でも、ドラマー見つかるといいね」
「うん」
多分、僕も声のトーンは低かったと思う。
長い時間、考えた。そのせいで学校の授業が疎かになったりもした。
千紘さんや、亘史さんが僕に寄せてくれた信頼に応えたい、と思った。
どうすればいいなんて、最初から一つしかなかったんだとようやくわかった。
真正面からぶつかっても、きっと、という思いがあって、千紘さんは話を聞かせてくれたのだろう。
この前の戸山さんの反応で、山吹さんの過去を知っているのが僕だけであると確認できた。できて、しまった。
文化祭まで、もう時間は少ない。
山吹さんをバンドという場所に引き戻す為に、文化祭の戸山さんたちの初ライブは、これ以上ないチャンスだと思えた。
また、日は過ぎる。
千紘さんの話を聞いてから、既に一週間が経過した。
相変わらず梅雨前線は日本列島を乱層雲で覆い、しとしと、しとしと、雨を降らし続けている。
蝙蝠傘を差す回数も、もう数えきれなくなった。
台風のような激しい雨もなければ、中々止むこともない。
毎日毎日、地面を濡らし続けている。
日が落ち、バイトも終わった。
モップを持つ手に、自然と力が入ってしまう。
後ろには彼女が、同じようにモップを握って掃除をしている。
多分、今が絶好のチャンスだろう。
「……………」
されど、僕の履いたスニーカーが、濡れた床を擦る音は響かない。
振り向くための、最後の踏ん切りがついてくれない。
どう切り出せばいいのかわからない、だとか、どう伝えればいいのかわからない、なんていう、言葉に出しもしない言い訳だけが、頭の中を駆け巡る。
僕が固まっている間に、窓に貼り付いた雨粒が二つ落ちて、窓枠へと溶けていった。
後ろから、靴の擦れる音が聞こえる。
「あのさ」
背を向けたままではなく、さっきは微動だにしなかった足を動かして、彼女の方を向く。
目は合わせない。
「最近の友也くん、何か変だよ」
本気で心配しているような声だった。
「上の空でいることが多くなったし、何かいつも考え事してるし」
声のトーンは低く、弾まない声。
雨のように、ただ落ちていくだけのような、重たい声。
その、僕を心配してくれる声が、やっぱり、どうしても気になってしまう。
どうして、その気持ちを自分に向けてあげられないのかって。
どうして、もっと自分を甘やかさないのかって。
あれだけ躊躇した言葉も、勝手に出てきた。
「──山吹さんの過去のことを、聞いたんだ」
その告白を聞いても、彼女の表情は変わらなかった。
もしかしたらもう、分かっていたのかもしれない。
だとしたら相当演技が下手だな、僕は。
「……もしかして、その事で色々おかしかったの?」
彼女は冷静に尋ねてくる。
反して、僕の感情は酷く昂っていた。
「うん」
「……一週間前、私が帰ってきたときも?」
「ああ」
「……ついこの間、針で怪我したときも?」
「そう、なるね」
山吹さんはゆっくりと口を閉じて、考えるように向こうを向く。
対して、僕は特に行動できるわけでもない。
ただモップを握って、掃除を続ける。
屋根に、窓に、地面に。
降り注ぐ雨粒は、少しだけその勢いを弱めた。
彼女がこちらに振り返る。
「ありがとう、私なんかの為に、そんなに悩んでくれて」
「そんなことないさ。現に、僕は山吹さんに言われるまで、そのことを話せなかったと思うし」
「……やっぱり、キミは優しいんだね」
彼女がまた、微笑みを浮かべる。
千紘さんが僕に、話を聞かせてくれた日。
あの日も、今日みたいな雨の日だったと記憶している。
雨に降られた山吹さんは、それでも、こちらを見て微笑むことを優先してくれた。
紛れもなく笑顔であったそれを、僕は薄っぺらいように感じられて、目を逸らしてしまった。
もしかしたら今だって、僕の目がおかしいだけなのかもしれない。
ただ、健気に微笑む姿が、痛ましく感じられただけなのかもしれない。
「………ここで話すのはまずいからさ」
でも、その時は間違いなく、彼女はその声に。
「私の部屋、いこっか」
いつかのような寂しさを込めていた。