恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
初めて入った山吹さんの部屋は、雨と夜のせいで随分と暗かった。
「入っていいよ」
「……お邪魔します」
二階に続く階段を上ったのは、これで二回目。
あれが一ヶ月前なのかと思うと、彼女との関係も短い間に随分変化したものだと思う。
家具はシンプルに。
無駄なものは無く、かつ必要なものは十分に。
一人でいるには丁度良い広さの部屋は、山吹さんの性格をよく表す。
部屋をじっくりと観察する余裕は、今の僕には無かった。
「お茶も出せなくて、ごめんね?」
「……別に、問題ないよ」
今日は、彼女と二人でいても殆ど話をしない。
彼女の声に、さっきの寂しさは感じられない。
カチコチ、カチコチ、秒針が鳴る。
「どこか、適当に座ってよ」
彼女は、自分のベッドに腰を掛けた。
木材の軋む音が、ほんの一回、秒針の音を掻き消す。
カーペットの敷かれた、小さなテーブル。
彼女とテーブル越しに向き合う形で座る。
戸山さんが頭を捻って歌詞を書いたであろうそのテーブルに、消しカスなどは一つも残っていなかった。
カチコチ、カチコチ、秒針は鳴る。
「……私の話、母さんから聞いたの?」
切り出したのは、彼女からだった。
彼女の目とは、少しだけ違う方向を見ながら答える。
「ああ、そうだよ」
「やっぱり。母さん、友也くんにはいつか話すだろうなぁって、なんとなく思ってはいたから」
声のトーンは低くない。
代わりに彼女の声は落ち着いていた。いつもより、ずっと。
「それで、様子がおかしかったんだ」
ふらり、ふらり。ベットから伸ばされた彼女の足が前後に揺れる。
右足から数えて四往復。一〇秒の空白の後、彼女が口を開いた。
「私、バンドはやれないよ」
先回り。
「……僕が居ても?」
「尚更。裁縫の件だってあったし、母さんの代わりに今度はキミが倒れたりなんかしたら、私、嫌だよ」
「……それは、随分と耳の痛い話だ」
僕が倒れたら元も子も無い。それこそ、亘史さんと話したときに考えたことだった。
会話の合間の空白は、次第に少なくなっていく。
「僕は、山吹さんにバンドをやってもらいたいよ」
「だから、無理だってば」
目を逸らして否定する彼女。
もうバンドに対する気持ちを隠すつもりも無いらしい。
「それは、千紘さんがまた無理をするから?」
「それだけじゃ、ないよ」
会話を重ねるにつれ、彼女の声に寂しさが宿り始める。僕の意思とは関係なく、彼女の核へと近づいていく。
「別に、千紘さんが倒れたのは山吹さんのせいじゃないよ。話を聞く限りでも、その、言い方は悪いけど、必然ではあったかもしれないけど、タイミングは偶然じゃないか」
千紘さんが倒れたことに、彼女が負い目を感じているのだとしたら、それは違うのだと、そう言いたかった。
「分かってる」
その狙いは、空回りに終わったけれど。
「──怖いの」
「……え?」
「怖いんだ。バンド、やるの」
意外だった。
だから、聞かざるを得なかった。
「……それは、どういうこと?」
「母さんが倒れたのは、ただの偶然。それは分かってるの。確かに、キミが手伝ってくれれば、母さんは倒れなくなると思う。キミだって、倒れるまで働くなんてことはしないって思ってる。……それでも、怖いの」
そして、後悔した。
「──ドラムを叩いていたら、また誰かが傷つくんじゃないかって。そんなことないはずなのに、もしかしたら、私の大切な誰かが、また倒れたりするんじゃないかって、怖くなる、んだ」
──母親が倒れるって、そういうことなの。
過去の後悔が、まるでトラウマのように彼女を苦しめている。
千紘さんが倒れて、後悔した。
バンドを抜けて、後悔した。
後悔して後悔して、やっと彼女が落ち着いたのが、家族を思うことだった。
だから、僕だって後悔した。
あの時。例えば、僕が彼女と初めて話をした時でもいい。
なんの関係も無かった僕が「進学したら、ここでバイトしたい」なんてポロッと口にしたりするだけで、もしかしたら彼女は
僕を理由にして、バンドを続けてすらいてくれたんじゃないかって。
「だから、私はバンドはできないの」
「……………」
いつの間にか、彼女の語気も荒くなり始めている。
聞きたかった筈の彼女の本心に迫る度、心は苦しくなる。
この苦しさから脱したい。
彼女の助けになりたい。
彼女に、本当に自分のやりたいことをやって欲しい。
だからきっと、それは最悪な選択だった。
「……山吹さんは、もう、バンドをしたくないの?」
「───────っ!」
彼女の明らかな変化を認めた瞬間、失敗したって、そう思った。
「そんなわけ、ない!」
空色の目は見開かれ、少しだけ瞳が揺れる。
カーペットに足を着けて立ち上がった彼女は、さっきまでの落ち着いた様子をどこにも見せていなかった。
間違いなく、言ってはいけなかった。
嗚呼、否。
彼女の本心を聞くという点において、これは正解だった。
犠牲は、高くつくけれど。
差し引きマイナス。結局不正解。
「やりたいに……っ、決まってるじゃん! でも、でも! ダメなの! 離れない、離れないんだよ。あの日、電話越しに聞こえてきた泣き声、母さんが倒れたって言葉が……っ!」
僕の言葉によって、乱暴に剥がされた心。
痛みと共に顕になったものを、僕などが視るべきではなかった。
「皆! 皆、私の為って言っては、練習時間を減らそうって、手伝うって………っ、それで、いいの!? 皆、皆、私の事ばっかり! それで、楽しいの!? 皆に甘えて、私だけ楽しんでいいの!? いいわけないじゃん!」
彼女の空色の瞳が、さらに揺れる。
目尻に、キラリと輝くものが見えている。
「山吹、さん……」
何に
「───っ!」
乾いた音。
打ち払われた左手は宙を舞い、テーブルの上に落ちる。カツンと乾いた音と共に、鋭く痛みが走った。
人差し指に巻かれた包帯から、血が滲んだ。
傷口が開いたらしい。
彼女はそこで落ち着いたのか、声の大きさは小さくなっていく。
寂しさを含んだ声色は、外の雨音に溶けるように弱々しい。
「……苦しいんだよ。皆、皆優しくて、つい甘えそうになるの。母さんも、父さんも、純も紗南も。CHiSPAも、ポピパも、キミも」
「……そんなに、頼るのが嫌なの?」
「私は、皆に迷惑を掛けてまで、バンドなんてやりたくない」
さっき、激昂してまで叫んだ彼女の願いは、彼女の思いによって押さえ付けられる。
どこまでも、彼女は優しかった。
彼女の声は、揺れていた。
「私ね、香澄が羨ましいの」
「戸山さん……?」
突然飛び出した戸山さんの名前に、少しだけ驚く。
「香澄はいつも、思ったことはすぐに行動に移すからさ。私みたいにウジウジ悩んでなくて、だからあんなに仲間も集まって」
「………………」
「過去のことをいつまでも引きずってるだなんて、嫌な女だよね、私。……でも、でもね、お願い。分かって。私は、大切な人は絶対に大切にするんだよ……って……っ」
「……うん、分かってる。山吹さんがいつも皆のことを思ってるのは、とてもよく分かるよ」
彼女は頷いて、「ありがとう」と言った。
「キミだって……っ、そうなんだよ?」
「それは、嬉しいね」
揺れ動く声に伴った暖かい言葉と、感情の
「最初は、別に普通のお客さんだなって思ってたのに、な。おかしいよ、こんなに大切になるなんて。聞いて、ないよ……っ」
目尻に溜まった暖かい涙は、窓に貼りついた雨粒なんかよりも、確かに、残酷な程、人の体温を持っていた。
一筋、流れる。
「……友也くんが私を助けてくれるには、もう、私たちは
彼女は、余りにも優しいから。
彼女が相手を大切に思うほど、彼女は大切な人に迷惑を掛けないようにする。
決して、頼ることはない。
どれだけ彼女と近くなったとしても、いや、彼女と近くなればなるほど、彼女の核心へは迫れなくなる。
もう、そんなことを考えても何もリアクションを起こさない程度には、僕は諦めていた。
「だから、もう一度だけ、言うね」
もうすっかり涙声となった彼女の声が告げる。
一度顔を
「──────────」
彼女は、微笑んでいた。
涙を流しても、それでも微笑んでいた。
その微笑みがどんなに僕の心を
君は、こんなときまで微笑むのか。
そして、止めは刺される。
「──私には、できないよ」
微笑み、涙声で告げられる彼女の思い。
これはもうダメだと、思った。
僕は結局、約束を守れなかった。
「……山吹さんの気持ちは分かった。……また今度、来るよ」
それだけを目を逸らしながら言い残して、彼女の部屋から出る。
その間彼女は、何も言わなかった。
ドアの閉まる音は、数十分前より比べものにならないくらい無機質に聞こえた。
今日は、雨に打たれて帰ろう。
────────
「あはは、嫌われ、ちゃったかな……」
彼が出ていったドアを見つめて、呟く。
いつからか、彼ばかり目で追っていた。
香澄たちと比べても、彼は特別に距離が近かった。
だから、いつかきっとこんな日が来るって分かってた。
涙は、降り続ける雨みたいに止まらない。
「……やだなぁ、
力が抜けたように呟く。
階下から、玄関の扉が開く音が聴こえて。
直ぐに、ガチャリと閉まった。
彼が家から出ていった音だった。
もしかしたら、もう二度と彼と話せなくなるかもしれない。
それを示す、音だった。
「──────あぁ」
人は、失ってから初めて大切なものに気付く、なんてよく言う。
私は、家族が好きだ。
香澄を含めた、ポピパが好きだ。
ずっと話せていないけれど、CHiSPAの皆が好きだ。
その延長線上で彼も好きだと、そう思っていた。
認識が甘かったのかな。
素直に認めれば良かったのに、な。
「ああ…………あああ………っ」
膝からゆっくりと、カーペットに崩れ落ちる。
「………嫌、嫌だ、嫌だよ……嫌だよ……」
どうしてこんな時に気がついてしまうんだろう。
どうして、今まで気がつかなかったんだろう。
「……こんなの、ないよ………」
もっと早く、知りたかった。
もっと後で、知りたかった。
もう、知らないままで良かった。
「──────好き」
その言葉を受け取ってくれる人は、誰も居ない。
それでも、呟く。
ぐちゃぐちゃに歪んだ視界で、彼の出ていった扉を見つめて、呟く。
「好き、好き。友達とかじゃなくて、そうじゃ、そんなんじゃなくて、っ! 男の子として、好き」
好き。
その優しさが好き、笑った顔が好き。
私をからかう姿が好き。真剣に働く姿が好き。
全部、全部。私の知る彼の姿、その全てが、好き。
まだ知らない彼の姿だって、絶対に好きになる。
「好き、好き……っ、好き、すき……すき……っ」
言葉にする事に、涙が流れていくのが分かる。
手のひらを濡らす涙は止まらず、溢れた分が零れ落ちて、カーペットを濡らした。
胸がきゅっと締まる。
こんなに切なくて、こんなに苦しくて、それでも。こんなにも──愛おしい。
「──私は───」
私は、彼に、恋をしているんだ。