恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
「疲れた」
電車の座席に体を預けながら一言、張り詰めた息を吐くように言葉を放つ。
高校に入学して早一ヶ月。
中学の進級でも変化に疲れているのに、進学ともなればその変化はより大きいものになる。
新しい教室に新しいクラスメイト、スピードが上がり始めた授業に、熱烈な部活勧誘。怒濤の日々についていくのに精一杯で、帰りの電車に乗ればこの様である。全く体力が無い。帰宅部の宿命か。
下校時刻直後の列車には、あまり人は乗っていない。
普段は友人と駄弁りながら帰るので、今乗っている電車の一本から二本ほど後の電車に乗ることが多いのだが、今日は下校時刻から間に合うギリギリの電車で帰っている。走ってきたせいで汗の量が多い。
最近は日も長くなってきて、今現在ちょうど窓から夕日が射し込んでいた。
未だに着なれない制服のネクタイを緩めて暑さを逃がし、楽にする。
山吹ベーカリーには相変わらず通い続けている。春休み頃に山吹さんの妹達こと純くんと紗南ちゃんと顔を会わせたのだが、どうやら懐かれてしまったようで、面倒をよく見るようになった。大体僕が小学生の体力についていけずギブアップしていたが。
本日もやまぶきベーカリーには行くのだが、今日は、というか今日からは客ではない身分で通うことになるだろう。
高校生たるもの、財布は常に薄くなりやすい。
趣味、部活、遊び……多岐に渡る支出に対応するため、多くの高校生が通る道。
そう、バイトである。
───────
やまぶきベーカリーに着くと、いつも通り扉を開ける。普段と違うのは、迎える人が彼女の母親だということ。
「こんにちは。千紘さん」
「あら、
山吹千紘さん。三児の母である。
本当に山吹さんの母なのかと疑うほど若々しく見える美人さんだ。
体が弱いのだからよく休んで欲しいとは山吹さんの弁。
「ええ。まぁ。……山吹さんにバレたくないのもありますけど」
「あら? もしかして沙綾に言ってない?」
「少し恥ずかしくて。言う機会もあまりありませんでしたからね」
「なるほど……それじゃあ、さっそく準備しないとね。あの娘驚かせてあげなきゃ。ほらほら、こっちこっち♪」
そう言って、店の奥に案内される。
僕の仕事は基本的に接客とパンの補充。山吹さんに秘密で、亘史さんや千紘さんに教わっていた。パン作りに関しては、今でも修行中ではあるが。
……それはそうと千紘さん、やっぱり人を弄るの好きなんじゃないだろうか。知り合いがレジの向こうにいるなど、ドッキリも同然である。
スラックス、Yシャツの上からエプロン等を装着。
手洗い、うがいもしっかりとし、食べ物を扱う準備ができた。
「………よし」
気合いを入れるように呟く。バイトはもちろん初めてだ。
失敗は許されないと思うと、なかなかどうして体が固まってしまう。
緊張を解しているうちに、千紘さんから声が掛かった。
「そろそろいいかしら?」
「ええ。大丈夫です」
返事をして店の奥から出る。
既に客は多く居て、さっき解したはずの緊張が戻ってくるようだった。
「あら。よく似合ってる」
「えっ、あ、ありがとうございます」
突然千紘さんから褒められた。
張り詰めていた緊張に針を刺されて、萎縮していた気分が少しだけ膨らむ。
というか、エプロン姿が似合っているとはこれいかに。将来は専業主夫だろうか。
「ふふ、そんなに固くならなくていいのよ。それじゃ、よろしくお願いできるかしら?」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
改めて気合いを入れる。
それと同時に、一人目のお客さんがレジに向かってきた。
さあ、アルバイトの始まりだ。
────────
結論からいうと、非常にやりやすかった。
考えてみればいつも目にする人たちがレジの向こう側にたっていただけの話だ。
毎日目にしていた主婦の方々に「あら、友也くん婿入り修行かしら?」などとからかわれるのが殆どで、それに応対しながらレジを打っていればレジ回りの仕事は済んでしまう。
はじめのうちは拙かったレジ打ちも、何度かこなすことで慣れることができた。
「合計で六七九円になります」
「おや、友也くんじゃないか。アルバイトかい?」
「ええ、もう高校生ですから。元々ここでバイトしようとは思ってました。こちら、レシートとおつりが30円です」
「そうかそうか。がんばれよー」
「はい。ありがとうございました。またお越しください」
お客さんが扉をくぐって外へ出ていく。
いくら顔見知りとはいえ、流石に疲れてきてしまった。これは早く慣れないとなと思いつつ店内を見渡す。
今の人で区切りがついたようで、レジに並ぶ人は今のところいない。
ふぅ、と息をはいて少し体を楽にする。
「友也くんお疲れさま。これどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
丁度いいタイミングで千紘さんがお茶を出してくれた。
まだバイトは終わらない。一息ついたらまた接客だ。
「慣れるの早いわね。感心しちゃった」
「前々から教えてもらってたおかげですよ。何から何までありがとうございます」
「後を継いでくれたら助かるのだけれど」
「そのネタでからかうのやめません……?」
「あら、否定はしないのね」
「ぐっ……」
僕をからかいながらクスクスと笑う千紘さん。この人やっぱりSっ気あるよ。
というか後を継ぐってそれは……いや、今考えるのはやめておこう……。
千紘さんと話をしながら、再び立ち上がる。
丁度お客さんが来たようで、迎え入れる準備をする、のだが。
「あら、帰って来たみたいね」
「え? ………あ」
外に見えた人影は僕のよく知る形をしていて、それが山吹さんだと気づくのにそう時間はかからなかった。
「おかえりなさい、沙綾。無理して早く帰らなくていいのよ?」
「ただいまー。いいの。お店を手伝うって言ったのは私だから」
「おかえり。山吹さん」
「あ、
僕の挨拶にもきちんと返してくれる山吹さん。
そそくさと手伝いの準備をしながら応えている。いつもこんな急いでいるのだろうか、とそんな事を考えていると、突然山吹さんの手が止まった。
「…………え」
何かに気づいたようにこちらを凝視する山吹さん。
やがて信じられないものを見るように目を見開いてわなわなと口を開き、こちらを指差しながら言った。
「……ど、どうしてキミがそこにいるの……?」
そこ、というのはレジの向こう側、ということだろう。その質問待ってました。
少しだけ胸を張って答える。
「今日からここでアルバイトすることになりました。どうぞよろしく」
再び山吹さんが固まる。
少しだけしてやったりなんて思ってしまった。
しばらくしたのち、山吹さんが少しずつ口を開き始めた。
「……母さんからも父さんから聞いてないんだけど」
「言わないでおいてくださいって言ったから」
「……やけに慣れてるようだけど」
「教わりましたから」
「……聞いてないんだけど」
「そりゃあ言ってませんから」
「…………………」
山吹さん、顔がとてもひきつっている。
大方、「家に帰ったら知り合いがバイトしていた」という状況に混乱しているのだろう。
……僕なんかとバイトしたくないというのが顔に現れてああなっている、とかだったら流石に泣く。
固まっている山吹さんと、どうにも出来ない僕。しばらく沈黙が続いていると、それを眺めていた千紘さんがなにか思い付いたような顔をした。
「沙綾、ちょっとこっち」
「え、ちょ、母さん?」
突然山吹さんを僕から離れた場所に連れていって話を始めた。
「ど、どうしたの母さん」
「…彼、今日からバイト始めたのだけれど、近所の奥様方にずっと「婿入り修行かしら?」って言われてるの」
「………えっ」
「母さん、娘に貰い手が出来て嬉しいわぁ」
「ちょっ、ちょっと! そんなのからかいに決まってるじゃない!」
「あらそう? 母さんも彼に後を継いで欲しいって言ったら別に否定はしなかったわよ」
「…………え」
小声で話を続ける山吹さん親子。内容は聞こえないが、やっぱり気にはなる。
というか、さっきから山吹さんの表情がいつも以上にコロコロ変わっていて見ていて面白い。
「お会計お願いします」
「あ、はい」
危ない。お客さんが来ていた。向こうも気になるが、とにかくこっちを頑張らないと。
「少し気になってるんじゃないの?」
「……そりゃあ、同世代でよく話す異性なんて彼だけだけどさ……」
「あらら、脈アリかしら? 母さん期待しちゃうわ」
「もう! 私は手伝いするから、母さんは休んでてね!」
「はいはい。私は若い二人を見守ってるわ~」
「──ありがとうございました。またお越しください」
あ、戻ってきた。なんか山吹さんが膨れっ面で千紘さんがツヤツヤしてるけど。
「それじゃ、私は先にお休みを頂くわね」
そう言って店の奥へ向かう千紘さん。僕の横を通り過ぎる瞬間、声をかけてきた。
「それじゃ友也くん、沙綾を頼むわね~」
「え」
それはどちらの意味ですか。もう一言くらい付け加えてもらわないと返答に困ります。
正直どちらもOKですが……冗談です。
「ほら! 母さんは早く休んでて!」
「ふふふ~」
「…………」
戻ってきた山吹さんか隣に立つ。
山吹さんの帰宅を皮切りに、だんだんとお客さんが増えてきた。
「もう、母さんたら……」
「相変わらず若々しいな千紘さん」
「元気ならそれがいいんだけどね……」
前述したように、千紘さんは体が弱い。
もともと貧血気味なのだそうで、あまり長い時間働いていると危険なのだそうだ。
山吹さんが毎日早く帰ってくるのは、お店の手伝いをするためなのだと千紘さんから聞いた。
『あの娘にはやりたいことをやって欲しい』
とは、千紘さんも亘史さんも言っている。
「……これからはバイトとはいえ多少手伝いに入れるし、協力するよ」
「ごめんね、わざわざありがとう」
山吹さんが少し申し訳ないような表情で言う。別に謝る必要などないのだが。少しだけ空気が重くなってしまうと思った直後。
「っていうか、キミって結構エプロン似合うんだね」
「ぷっ、あはははは!」
流石に吹き出した。
「ちょっと、どうしたの?」
「いや、山吹さんが千紘さんと同じこと言うから、つい」
「あはは! そっかぁ、やっぱり家族なんだなぁ」
山吹さんとひとしきり笑ったあと再び仕事に戻る。
さっきまでの重たい空気は消え去っていた。
山吹さんが笑顔で言う。
「とにかくこれからよろしく、
「ああ、こちらこそよろしくね、山吹さん」
「ふふ、この挨拶は初めてだね」
「それを言えば、この後のお疲れさまの挨拶もはじめてになるね」
これで少しでも山吹さんや千紘さんの体が休まると良いな。パン作りを覚えたら亘史さんも。
小さな決意と共に改めて接客に挑む。
心の火種は燻り始めて、少しずつ熱を灯していた。