恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
溜め息を吐く。
閑散とした店内には僕一人。本日十回を越えた溜め息は、耳障りな程空気を揺らす。
どこからか入り込んだ冷たい風が、左手側を抜けていった。
今日も、雨は止まない。
あれから数日が経つ。
崩れ気味な営業スマイルと、無理して張り上げる声でバイトをこなす。
時折掛かる僕を心配する声にも「大丈夫です」と返すので精一杯だった。
彼女とは顔を会わせていない。
帰宅時刻はもとより、手伝いの時間も文化祭の準備に物を言わせてズラされる始末だった。
「……友也くん」
後ろから響く、千紘さんの声。
いつの日かと違って、今度は振り向く。
「……大丈夫……には、とても見えないわね」
「……そんなに酷い顔してますか」
こくりと、頷かれる。
それを見て
「……山吹さん、どうしてますか」
最後に記憶している彼女の表情は、何度も、何度も見てきた柔らかい微笑み。
頭の中で回想される記憶は、何日経ったとしても僕を苦しめるばかり。脳裏には、あの笑顔だけが浮かび上がる。
こんなことなら、という言葉だけはなんとか飲み込んで、千紘さんに訊ねる。
「ごめんなさい、私も分かることは少ないの」
眉をハの字に曲げて、声のトーンを落とす千紘さん。
「あの娘、私たちの前でも気丈に振る舞うから。私の前だと、尚更」
分かるのは、お互い傷ついてしまったという事実だけで、彼女の心境がいかなものかなどわかるはずもない。
お店を訪れる戸山さんたちの様子を見ても、とても山吹さんのことを知っているとは思えない。
顔を合わせれば分かることもあるだろうに、もう一度あの部屋に入る勇気が、無い。
雑に絆創膏が巻かれた、左手の指先を見つめる。
あのとき開いた傷口の治りは遅く、ことあるごとに痛みが走る。ズキリ、ズキリと。
ふとした瞬間に響く鈍痛に、悲痛に歪んだ彼女の顔がフラッシュバックする。
我ながら、精神的に参っていた。
後悔にも似た感情だった。いや、後悔を含んだ自責の念だった。
日を跨ぎ、朝目覚める度に、心に穿たれた穴が広がっている。
外出するときにはなんとか強がって平静を装っていたが、千紘さんにとって、そんなハリボテは始めたときからバレていたに違いない。
自ずと力の入る手のひら。じわりと痺れる指先。
"もう、私たちは仲良くなりすぎたんだよ"
"だから、もう一度だけ、言うね"
あのときの、雨の音も、苦しさに裏返りかけた声も、口元が歪んだ綺麗な微笑みも、全てが画家の一枚絵のように鮮明に思い出される。
中途半端。
彼女の心を知ったのは、正にあのとき。
今まで彼女が必死に押し殺して、必死に隠し通してきた感情を目の当たりにして、僕は逃げ出した。
真正面から感情を叩きつけられて、いかに自分が彼女を知らなかったを思い知らされた。
足りなかった。
知らなかった彼女を目の当たりにしても、それが彼女なのだと認める覚悟が。
山吹さんだから、と無条件に信じる覚悟が。
僕はここまで踏み込んでおきながら、最後の最後に彼女を裏切った。
彼女の
その事が、酷く僕を痛め付けていた。
考えれば考えるほど思考も声風も、自ずと落ちていく。
手袋越しに握るパンの暖かさを感じる余裕もなくなっていた。
雨に濡れていた指先は、赤く冷たい。
「友也くん」
ハッとして、顔を上げる。
そうしてからやっと、自分が
再び上げた目線の先、千紘さんは微笑んでいた。
嗚呼、似ている。胸がチクリと痛む。
母と娘だ。当たり前なのだけれど。
「──少し、休もっか」
「……え?」
何を、にあたる主語の欠落に頭を傾げる。
「最近と言わず、友也くん働き詰めだもの。たまには、きちんと休まなきゃ」
休みを、ということらしい。
ああ、そういえば彼女もそんなことを言ってくれていた。
「……無理は、良くないですよね」
「一回きちんと休んだ方が、整理もつくものよ。……大丈夫。友也くんは間違ってないわ」
「……現に、こんな状況でも?」
それでも千紘さんは顔を縦に振る。
「諦めないでほしい、友也くんにはあの娘と居て欲しいっていう願いも、あるのだけれどね」
ああ、この人は。
この人はこんな僕であっても、まだそんなに信頼を寄せてくれるのか。
ボロボロと崩れ落ちる思考では、どう返せば正解なのかわからない。
「……そう、します」
零れ落ちた言葉は、自分でも分かるほど弱々しかった。
雨が降っている。
妙に
文化祭まで、あと二週間を切っていた。
────────
彼と喧嘩をしてから、一週間が経った。
ここのところ毎日、身体が重い。きっと心に引っ張られての結果なのだろうけど、日が経つ度に重くなっている気がする。
ちょっとだけ、寝る時間も増えた。目覚まし時計が必要になる日もあった。
それと、何度も泣いた。
母さんは気遣って純と紗南を言いくるめてくれたし、暫くは母さんに任せてって言ってくれた。
そのときは、母さんに頼った。暖かかった。
そしてまた、彼に頼れなかった後悔で泣いた。不器用な自分が不甲斐なかった。
数日と経たずに手伝いは出来るようにした。
学校でも平静で居られていると思う。多分。
時々目が赤いのを心配されるけど、皆の前では泣いたりなんてしなかった。
彼には、会えなかった。
自分から突き放しておいて寂しくなってるなんて、あまりに自分勝手だってわかってる。
今更隠すことなんて無かったのに。彼がいるからって甘えられたら、信じられたら、きっと笑えたのに。
ぐっと身体を縮める。
ベットのシーツとパンツが擦れて、高く、小さく音を立てた。
好きだったら、いっそのこと離れないように。
いつでもおかえりって、お疲れ様って、そう言ってくれるようにしておけば良かったのに。
そんなこと、彼にはできないけれど。
濡れたタオルは二枚、こっそり洗濯に出した。
結構びしょ濡れだった。
自分で言ったのに、仲良くなりすぎたんだ、だなんて。
二人とも傷付くってわかっていたのに。
仮初めでも、上面でも、彼と笑っていた方が幸せだったのかもしれない。
数か月前の私の方が、今よりずっと笑っていたのに。
行かないで欲しい。
また涙が一筋零れる。
目を瞑って、悲しい夢を見るみたいにシーツを濡らす。
やだなぁ。また目が赤いって香澄に言われちゃうよ。
ずっと、仲良くならなければって考えていた。
だから言ったんだよ。「浮いた話の一つでもないの?」って。
ない、なんて聞いたときに心のどこかで「もしかしたら」なんて囁く自分が居た。
こんなに近いのは、キミが初めてだったんだもの。
失恋、なんだろうか。
何年かしたら街で、キミと、私じゃない誰かが笑いあってるのかな。
左手の薬指に銀色に輝く契りを嵌めてさ。恋人つなぎなんかしちゃって。
そしたら私、立ち直れないだろうな。
眼前に持ってきた右手を、開いては閉じて、開いては閉じて。
そこに絡まる左手が無かったから、私の体温で暖かくなったタオルを掴む。
指を絡めて離さないようにって。私はこのタオルみたいに、彼の手を掴むことは出来なかったけれど。
思わず手に力が入る。濡れ始めていたタオルにシワが付く。
部屋の中は静かだった。雨音もしなくて、静かで、寂しかった。
何十時間ぶりか、部屋のカーテンを開けようと思った。
一分以上使って起き上がる。半分這ったように進んでカーテンの端を掴むと、赤い光が差し込んだ。
「……あぁ、夕焼け」
そのまま、半分投げ出すような形でカーテンを開ける。
勢いよく動いたカーテンレースが悲鳴みたいな
見つめていれば、どんどん沈んで行く太陽。光を失っていくようで、なんだか余計寂しくなった。
夕焼けをこうやって見るのは、随分久しぶりなことだった。
最初は、彼を迎えようとして。
初バイト以降だったかな。彼がいつも私より先に家に来てるものだから、たまには迎えてやろうだなんて息を切らして走って帰ってきた日。
私が汗だくなところを、涼しい顔をした彼に発見されて「大丈夫?」だなんて。
ちょっとだけ悔しかった思い出。
最近は、彼に会おうとして。
家に帰れば、彼がいるのが当たり前で。働いているときだって、彼に話しかけては一緒に笑って。
思い出すだけで目頭が熱くなる。
私がドアノブに手を掛けるのは、東の空が蒼く染まり始めた頃だった。
ふらふらと、
普段より大きく足音を立てて階段を降りる。
階下から声が聴こえないあたり、リビングには誰も居ないみたい。
電気をつけぬまま、椅子に掛けっぱなしのエプロンを取ろうとして手を引っ込める。冷たい空気が欲しかった。
外の空気を浴びようと玄関先でサンダルを引っ掛ける。
磨りガラスから差し込む光に目を細めながら、ドアノブに手を掛けた。
商店街を抜けた先、彼と夜道を歩いた道でみる夕焼けは、とても眩しかった。
いつも彼が帰る方向、私が彼を見送る方向。
ちょっと傾斜がかかってて、向こう側にいる人なら大きく影が伸びてくるようなそんな坂道に夕日が沈んでいく。
眩しくて、眩しくて。
少しでも目を開けば、目の奥がつんと熱くなって。
それが眩しさ故のものじゃないとわかったのは、視界が歪み始めてから。
また、まただよ。
最近は涙脆くていけない。彼がいないと私はこんなに弱いんだってわかってしまう。
零れ落ちそうになる雫を必死に抑え込んで、顔を
二人並んで、隣り合わせで働くのも。
弟たちと遊んでるキミを見るのも。
またキミと料理を作りあったりするのも。
例えば、またキミと夜道で話をするのも。
「──もうおしまい、なのかな」
こらえきれなくなった涙を、袖で拭う。
一度
やっぱり嫌、かも。離れ離れ。辛いよ。
「……いか、ないで……」
まるで呪いみたい。
もうダメかもしれなくても、想いは溢れて溢れて止まらない。
忘れないように、なくしてしまわないように。必死に掻き集めては、この一週間何度も呟いてきた想い。
やっぱり、私は。
「──キミが、好きなの」
また、誰も聞いていないのにそう呟く。
部屋の中のように反響してくれることすらなく、どこか遠くから聞こえてくる車のエンジン音が
一度夕焼けを背にして、商店街に戻る。
下を向いて、自分の影を見つめて。今の私なら、影もふらりとどこかに消えてしまいそう。
家の前まで戻ってきて、もう一度夕日を見上げる。
さっきより少しだけ沈んだみたい。
「……これでおしまいは、嫌だよ……」
口にしてしまったが最後。
涙が一筋頬を伝って、顔を離れる。
一滴、ぽたり。コンクリートに染みを作る。
ぽたり、ぽたり。染みを作る。
もう顔を拭うことも忘れていた。
叶わない願いも、やり直したい後悔も、ない。
ただキミが、今その坂道の向こう側から現れてくれれば、サンダルでだって走ってみせる。
来ない筈のキミを待って、立ち尽くしていた。
沈み続ける夕焼けを、なにも出来ずに見つめていた。
「──さーや?」
振り向いた。
「……香澄……」
泣き腫らした目を隠しもせず、そこにいる彼女を見つめる。
ギターを背負って走ってきたのだろう、額に汗を添えて。夕焼けに照らされた瞳は、私なんかよりずっとキラキラと星のように輝いている。
彼女は私の目元を見て随分と驚いた顔をしたけれど、その表情はすぐに硬いものに戻った。
「……どうしたの? こんなところまで来るなんて。パン、買いに来てくれたの?」
そんな冗談では、香澄の表情は緩まなかった。
それもあるけど、と前置きして一度口を閉じると、彼女は深呼吸をする。
「……ねぇ、沙綾。少しだけ話、できる?」
「──────」
どこか落ち着きを払ったような表情と声。力の籠った瞳。
今の私とは大違いな、彼女の姿。夕日を背にしているのは私のはずなのに、香澄はとても眩しかった。
嗚呼、香澄も知ってるの?
「……いいよ、中、入ろ?」
私には、それだけを絞り出すので精一杯だった。