恋を紡ぐ指先   作:ぽんぺ

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#21

 

『今からうちに来られる?』

 

 右手に握っていたスマホが、軽快な着信音を発する。

 真っ黒だった液晶は叩き起こされ、とても暗い藍色に。

 画面中央のポップアップ表示は、千紘さんからのメッセージを映し出している。

 

 駅構内の喧騒をBGMに、流し目でメッセージを眺める。

 突然の呼び出しに驚きやら疑問やら様々な感情が駆け巡るも、千紘さんからの呼び出しに応じないという選択肢は無かった。

 先程まで足を縛っていた倦怠感がいくらか軽くなる。

 実に三日振りになるやまぶきベーカリー。

 普段よりも赤みの深い空を背景に、懐かしさすら覚える道を歩き始めた。

 

 七月が近いと言えど、どうしても日は傾く。

 背中で受ける日差しが暑い。リュックを背負っていても、うなじには直接日が当たる。

 じわりと暖まる首筋を撫でると、べったりとした汗がついた。

 ふと曲がり角を覗けば、ブロック塀と住宅街が影を作る。真っ黒ではなく、暗いグレーに染まるアスファルト。

 

 大気を突き抜けた赤い光が、不気味なほど空を赤く染める。今日は随分と夕焼けが綺麗だ。振り返ったら、眩しさに目が(くら)んだけれど。

 

 空に浮かぶ雲も薄い。降水も少なくなってきた。天気図の停滞前線は、いつの間にか北海道にまで移動していた。

 辺りから駆動音が聞こえてこないのをいいことに、空を見上げながら歩く。

 道路の向こう側で、小学生らしき影が別れの挨拶を交わしていた。さよなら、また明日。

 彼女の声でそれを聴いたのは、いつが最後だっただろうか。

 

 踏みつけた地面が、黒光りするアスファルトから茶色を基調とした石畳に変わる。

 喧騒が戻ってきた。

 時折呼ばれる僕の名前に笑顔で応えながら歩みを進める。

 八百屋の店長さんは相変わらず活力に満ちている。

 いつもやまぶきベーカリーに通ってくれていた主婦が、向こう側から歩いてきた。

 珈琲店、精肉店などが立ち並ぶ十字路が見える。

 あと少し。

 錯覚かもしれない。でも、パンの香りがした。

 

 窮屈に空を覆っていた雲が晴れ、空は随分高く見える。

 (ほの)かに紫が差す夕焼け空、天頂より東側には煌めく星も見え隠れ。

 

 

 夏は近い。ひまわりの綺麗な季節が来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃい、友也くん」

 

 やまぶきベーカリーは休みだった。

 代わりにリビングに通される。

 

「……兄ちゃん」

「久しぶり、純くん」

 

 足元に純くんたちが寄ってくる。気のせいか、目元が赤い。優しい声が出せていればいいけれど。

 黄昏時、電灯をつけようかつけまいか悩む時間帯。

 いつも彼らが座っている椅子には別の顔があった。

 

「友也、こんにちは」

 

「友也くん、こんにちは」

 

「……こんにちは」

 

 花園さん、牛込さん、市ヶ谷さん。表情は硬い。

 彼女らと対面になるようにして座る。隣には千紘さん。

 ここに彼女らがいるということは、多分。

 

「山吹さんのこと、ですか」

 

 店が閉まっていた時点で、予感はしていた。

 

「……どこまで、話したんですか?」

「……この前の雨の日のことまで、ね」

 

 目の前の彼女らの表情が硬いのも納得がゆく。

 千紘さんの表情も心無しか暗い。

 

 あの日は雨だった。鮮明に頭に過る、雨音と彼女の微笑み。一週間顔を合わせていなくても、その景色はずっと僕を縛り続けている。縛り続けてくれている。

 

「……戸山さんは?」

 

 山吹さんのことを知っているからこそ、三人はここに来たのだろう。友達のことになれば彼女が止まっていないはずだ。

 

 花園さんが黙って上を指差す。

 

「香澄は、上。私たちはその後を追って来たの」

 

 瞬間的に上を向いた。

 訪れた沈黙をバックに耳を傾けると、小さく声が聞こえてくる。間違いなく戸山さんと、彼女の声。

 

「……それならなんで、僕が……?」

 

 覇気の無い声だった。

 この期に及んで、僕にできることが思い浮かばなかった。

 きっと、戸山さんができることの方が多い。

 俯けた顔はきっと、情けなく歪んでいるはずだ。

 

「私たちは、友也くんを信頼してるから」

 

 千紘さんの言葉。

 彼女との距離に戸惑ったとき、いつも僕の支えになってくれた言葉だった。

 

「悔しいけど」

 

 市ヶ谷さんが口を開く。一見鋭いように感じる目つきも、どこか優しい。

 

「沙綾に一番近くて、沙綾が一番信じてるのは、友也だと思ってる」

 

 顔を赤らめても、しっかりと目を向けて力強く。

 でもそれは、戸山さん何じゃないかと、思う。

 相手を突き動かすのは、いつだって戸山さんだから。

 

「友也くんの話、聞いたよ」

 

 きゅっと拳を握って、こちらを見て。ベースを演奏するときのように力の籠った牛込さんの目線。

 

「相変わらず、頑張り屋さんなんだもん。友也くんなら、きっと大丈夫! 友也くんも沙綾ちゃんは、そんなに簡単に離れたりしない!」

 

 憧れの姉を追いかける、どこまでも透き通って、キラキラと光る目。

 頑張っているのなら、それは君たちだと言いたい。

 僕は、頑張りきれなかったから。

 

「友也はさ」

 

 いつも通りに。どこか抜けているように見えていつも確信を突く、花園さんの重い言葉。

 

「沙綾に似てるよね」

「え?」

 

 予想外の言葉に、かなり間の抜けた声が出る。

 

「頑張り屋さんで、仲間想いで。気遣いができて、なんでも一人でできる……ほら、似てる」

「…………………」

「だから友也なら、沙綾の気持ちも分かるはず」

 

 少しだけ眉をつり上げて、目に力の籠る花園さん。

 そんなに、僕は優しい人ではないよ。

 どうして、どうして。

 どうして君たちは僕を、僕を。

 

「僕はあのとき、山吹さんに向き合ってあげられなかったのに……」

 

 また、また彼女の微笑がリフレインする。

 天井から声が響いている。できるよ、できないよ、って。

 まるで自分のことを見せられているかのような言葉たちに、自然と手に力が入っていく。

 

 突然手を包まれた。隣に座る千紘さんだった。

 左手の怪我は、昨日治ったばかりだった。

 赤い点となった傷痕が残っている。

 

「友也くんは、このままでいいの?」

「……それは」

「このまま、沙綾と離れ離れのままでいいの?」

「……そんなわけ、ありません」

 

 欲張りなのかもしれないけれど。彼女と笑い合う日常を忘れろというのは、無理なことだった。

 指先が触れたキッチン。窓から吹き込んだ風が足元を駆け抜けていく。

 沈み行く夕焼けが、僕を後ろから照らしている。

 彼女との距離が一番近かったあの瞬間、指先が触れたあの一瞬を忘れられなかった。

 

「じゃあ、大丈夫じゃないかしら?」

 

 まだ、言葉は紡がれる。

 

「間違えても、(つまず)いても、貴方が沙綾の隣にいてくれるって言うなら、私は安心して貴方に娘を任せられるわ」

 

 でも、と口に出しかける。

 また天井から声が聞こえた。

 

「一緒に、考えさせてよ……」

 

 ハッとする。

 聞いたこともないような戸山さんの声。確かに弱々しいかもしれないけれど。

 山吹さんに「できない」と言われてもなお、力になろうとする声。それが戸山さんなんだ。

 いつか、僕がたどり着きたかった場所。

 いつか、僕が届かなかった場所。

 僕がまだ、やり残した場所。

 

「兄ちゃん」「お兄ちゃん」

 

 声と共に、制服の袖が引っ張られる。

 隣で立っていた、純くんと紗南ちゃんの仕業。

 

「姉ちゃん、いっつも一人で頑張ってるからさ」

「お姉ちゃんのこと、助けてあげて」

 

 赤く泣き腫らした目を、大きく見開いて、こっちを向いて。短く発した言葉は、とても重かった。

 

 でも、を飲み込む。

 

「……僕はまだ、山吹さんの力になれるのかな」

 

 三人とも、声を揃える。

 

「「「もちろん!」」」

 

 背中がむず痒い。大事な親友を僕に任せると言ってくれたのだ。唯一無二の大切な親友を。

 その重さが今は嬉しかった。背中を押されていた。

 千紘さんがにこりと笑う。

 

「大丈夫。友也くんは私たちを頼ってくれた。だから、友也くんは安心して沙綾を支えてあげて?」

 

 いつも、いつだってこの人は僕を信じてくれる。

 

「どうして、千紘さんは……僕をこんなに信じてくれるんですか?」

 

 その言葉を受けて、この人はまた微笑むんだ。

 

「友也くん、沙綾のことあんなに大切に見てくれてるんだもの。それこそ、私が娘を思うようにね」

 

 だから期待に応えたいと思うんだ。

 

「……はは、ぞっこん、ってやつですか?」

「あら、愛の重さで負けるつもりはないわよ?」

 

 そんな冗談まで口からこぼれ出てしまう。

 もう大分、目線は下を向かなくなったみたいだ。

 

 階段。フローリングを踏む足音が聞こえる。

 目尻に涙を溜めて、それでもそれを溢さないように。

 強い足取りで降りてきた戸山さんは、僕の姿を認めてこちらへ向かってきた。

 

「ともくん」

「うん」

 

 椅子から立ち上がり、応える。

 

「さーやから聞いたよ。ともくんのこと」

「うん」

 

 あの雨の日の話。

 彼女はなんと言ったのか、僕には分からないけれど。

 

「私は、さーやにドラムを叩いてほしい。やりたいことをやって欲しい」

「うん」

 

 一滴(こぼ)れそうになって、それを急いで(ぬぐ)った。

 

「私たちと一緒に、お弁当を食べて欲しい。私たちと一緒に、居て欲しい」

「うん」

 

 声が揺れる。

 

「だから、私は絶対に諦めない」

「─────」

 

 それでも声は、力強かった。

 それが、戸山さんの強さだった。

 だから僕も、へこたれるわけにはいかないって思えたんだ。そんなこと決意したの、つい数秒前だったけど。

 

「……うん、わかった。戸山さんの思い、伝わったよ」

 

 たりないトコは、半分こ。

 僕にも山吹さんにも、足りないところがある。

 だから今度は、彼女の番。

 

「……友也くん」

 

 今一度、振り返る。今の僕はきっと、良い目で応えられているはずだ。

 

「沙綾も友也くんも戻ってきたら、純も紗南も、もちろん香澄ちゃんたちも」

 

 みんな、みーんなで。

 

「ご飯、食べましょ?」

 

 笑顔で言う千紘さん。

 やっぱり笑顔っていうのは、人を明るくするものなのだろう。苦しくて笑うものじゃないのだろう。

 

「……ありがとう、千紘さん、皆。……行ってきます」

 

 戸山さんと入れ替わり。

 

 三回目になるフローリングの階段を、一歩ずつ登り始める。

 

 足取りはもう重くない。

 

 

 指先はきっと、彼女を掴める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嵌め込まれた窓から差し込む赤い光。

 

 啜り泣く声。

 

 さっきタンスから取り出したばかりの、濡れたタオル。

 これは三枚目。

 

「あーあ」

 

 漏れ出た声は、語尾が揺れて涙声になる。

 情けない声と分かっていても、抑えることはできなかった。

 もう後戻りはできないかも。

 

「ごめんね、香澄」

 

 目尻一杯に涙を溜めた親友の姿を思い出す。

 他人の泣き顔なんて見るの、久しぶりだったなぁ。

 声、下まで響いてたかも。

 母さん、純と紗南のこと見ててくれたのかな。

 

 後悔ばかりが募る。

 キミを拒んだあの日から、変な方向に吹っ切れちゃったみたい。

 胸の奥が痛い。

 ナツの顔と、香澄の顔が交互に浮かぶ。

 挨拶されて無視するの、辛いのに。

 

「キミは?」

 

 キミはどうなるんだろ。

 挨拶くらいは交わすかな。一応、仕事仲間だし。

 でも、隣に立ったって話せない。

 それは、すごくつらいや。

 

 ポロポロ、涙が落ちる。

 雨粒みたいに冷たくなくて、でも濡れていて、気持ち悪くて。

 タオルを持ちかえては、乾いた場所で目元を拭う。

 

「どうすれば、いいのかな」

 

 きっと、もう元には戻れない。もう、おしまい。

 つい数十分前に思ったことなのに、思い出すだけで涙が溢れてしまいそう。

 

 タオルの乾いている場所がなくなった。

 掴んでも濡れていて、拭っても濡れていて。

 立ち上がって、またこっそり洗濯物に紛れ込ませよう。

 

 座り込んでいたカーペット。拭い切れなかった涙が落ちて、ところどころに染みがついている。

 踏みつけるように立ち上がって、またドアノブへと向かう。

 

 その手が伸びる前に、硬いものがぶつかる音が、向こう側から聞こえた。知ってる。これはノックの音。

 律儀に三回。これも、知ってる。私が寝ぼけてたときのノックの回数。

 

 言葉を発する前に、聞き慣れた金属音と共にドアノブが回転した。

 キミは、随分と優しくモノを扱うんだね。

 

「山吹さん」

 

「……友也くん」

 

 声の主は、キミで。

 

 押し込まれたドアの向こうには、一週間前と変わらない、キミの姿。

 

「……もう少しだけ、話をしようか」

 

 それだけでもう、涙が一粒、(こぼ)れてしまった。

 


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