恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
『今からうちに来られる?』
右手に握っていたスマホが、軽快な着信音を発する。
真っ黒だった液晶は叩き起こされ、とても暗い藍色に。
画面中央のポップアップ表示は、千紘さんからのメッセージを映し出している。
駅構内の喧騒をBGMに、流し目でメッセージを眺める。
突然の呼び出しに驚きやら疑問やら様々な感情が駆け巡るも、千紘さんからの呼び出しに応じないという選択肢は無かった。
先程まで足を縛っていた倦怠感がいくらか軽くなる。
実に三日振りになるやまぶきベーカリー。
普段よりも赤みの深い空を背景に、懐かしさすら覚える道を歩き始めた。
七月が近いと言えど、どうしても日は傾く。
背中で受ける日差しが暑い。リュックを背負っていても、うなじには直接日が当たる。
じわりと暖まる首筋を撫でると、べったりとした汗がついた。
ふと曲がり角を覗けば、ブロック塀と住宅街が影を作る。真っ黒ではなく、暗いグレーに染まるアスファルト。
大気を突き抜けた赤い光が、不気味なほど空を赤く染める。今日は随分と夕焼けが綺麗だ。振り返ったら、眩しさに目が
空に浮かぶ雲も薄い。降水も少なくなってきた。天気図の停滞前線は、いつの間にか北海道にまで移動していた。
辺りから駆動音が聞こえてこないのをいいことに、空を見上げながら歩く。
道路の向こう側で、小学生らしき影が別れの挨拶を交わしていた。さよなら、また明日。
彼女の声でそれを聴いたのは、いつが最後だっただろうか。
踏みつけた地面が、黒光りするアスファルトから茶色を基調とした石畳に変わる。
喧騒が戻ってきた。
時折呼ばれる僕の名前に笑顔で応えながら歩みを進める。
八百屋の店長さんは相変わらず活力に満ちている。
いつもやまぶきベーカリーに通ってくれていた主婦が、向こう側から歩いてきた。
珈琲店、精肉店などが立ち並ぶ十字路が見える。
あと少し。
錯覚かもしれない。でも、パンの香りがした。
窮屈に空を覆っていた雲が晴れ、空は随分高く見える。
夏は近い。ひまわりの綺麗な季節が来る。
───────
「いらっしゃい、友也くん」
やまぶきベーカリーは休みだった。
代わりにリビングに通される。
「……兄ちゃん」
「久しぶり、純くん」
足元に純くんたちが寄ってくる。気のせいか、目元が赤い。優しい声が出せていればいいけれど。
黄昏時、電灯をつけようかつけまいか悩む時間帯。
いつも彼らが座っている椅子には別の顔があった。
「友也、こんにちは」
「友也くん、こんにちは」
「……こんにちは」
花園さん、牛込さん、市ヶ谷さん。表情は硬い。
彼女らと対面になるようにして座る。隣には千紘さん。
ここに彼女らがいるということは、多分。
「山吹さんのこと、ですか」
店が閉まっていた時点で、予感はしていた。
「……どこまで、話したんですか?」
「……この前の雨の日のことまで、ね」
目の前の彼女らの表情が硬いのも納得がゆく。
千紘さんの表情も心無しか暗い。
あの日は雨だった。鮮明に頭に過る、雨音と彼女の微笑み。一週間顔を合わせていなくても、その景色はずっと僕を縛り続けている。縛り続けてくれている。
「……戸山さんは?」
山吹さんのことを知っているからこそ、三人はここに来たのだろう。友達のことになれば彼女が止まっていないはずだ。
花園さんが黙って上を指差す。
「香澄は、上。私たちはその後を追って来たの」
瞬間的に上を向いた。
訪れた沈黙をバックに耳を傾けると、小さく声が聞こえてくる。間違いなく戸山さんと、彼女の声。
「……それならなんで、僕が……?」
覇気の無い声だった。
この期に及んで、僕にできることが思い浮かばなかった。
きっと、戸山さんができることの方が多い。
俯けた顔はきっと、情けなく歪んでいるはずだ。
「私たちは、友也くんを信頼してるから」
千紘さんの言葉。
彼女との距離に戸惑ったとき、いつも僕の支えになってくれた言葉だった。
「悔しいけど」
市ヶ谷さんが口を開く。一見鋭いように感じる目つきも、どこか優しい。
「沙綾に一番近くて、沙綾が一番信じてるのは、友也だと思ってる」
顔を赤らめても、しっかりと目を向けて力強く。
でもそれは、戸山さん何じゃないかと、思う。
相手を突き動かすのは、いつだって戸山さんだから。
「友也くんの話、聞いたよ」
きゅっと拳を握って、こちらを見て。ベースを演奏するときのように力の籠った牛込さんの目線。
「相変わらず、頑張り屋さんなんだもん。友也くんなら、きっと大丈夫! 友也くんも沙綾ちゃんは、そんなに簡単に離れたりしない!」
憧れの姉を追いかける、どこまでも透き通って、キラキラと光る目。
頑張っているのなら、それは君たちだと言いたい。
僕は、頑張りきれなかったから。
「友也はさ」
いつも通りに。どこか抜けているように見えていつも確信を突く、花園さんの重い言葉。
「沙綾に似てるよね」
「え?」
予想外の言葉に、かなり間の抜けた声が出る。
「頑張り屋さんで、仲間想いで。気遣いができて、なんでも一人でできる……ほら、似てる」
「…………………」
「だから友也なら、沙綾の気持ちも分かるはず」
少しだけ眉をつり上げて、目に力の籠る花園さん。
そんなに、僕は優しい人ではないよ。
どうして、どうして。
どうして君たちは僕を、僕を。
「僕はあのとき、山吹さんに向き合ってあげられなかったのに……」
また、また彼女の微笑がリフレインする。
天井から声が響いている。できるよ、できないよ、って。
まるで自分のことを見せられているかのような言葉たちに、自然と手に力が入っていく。
突然手を包まれた。隣に座る千紘さんだった。
左手の怪我は、昨日治ったばかりだった。
赤い点となった傷痕が残っている。
「友也くんは、このままでいいの?」
「……それは」
「このまま、沙綾と離れ離れのままでいいの?」
「……そんなわけ、ありません」
欲張りなのかもしれないけれど。彼女と笑い合う日常を忘れろというのは、無理なことだった。
指先が触れたキッチン。窓から吹き込んだ風が足元を駆け抜けていく。
沈み行く夕焼けが、僕を後ろから照らしている。
彼女との距離が一番近かったあの瞬間、指先が触れたあの一瞬を忘れられなかった。
「じゃあ、大丈夫じゃないかしら?」
まだ、言葉は紡がれる。
「間違えても、
でも、と口に出しかける。
また天井から声が聞こえた。
「一緒に、考えさせてよ……」
ハッとする。
聞いたこともないような戸山さんの声。確かに弱々しいかもしれないけれど。
山吹さんに「できない」と言われてもなお、力になろうとする声。それが戸山さんなんだ。
いつか、僕がたどり着きたかった場所。
いつか、僕が届かなかった場所。
僕がまだ、やり残した場所。
「兄ちゃん」「お兄ちゃん」
声と共に、制服の袖が引っ張られる。
隣で立っていた、純くんと紗南ちゃんの仕業。
「姉ちゃん、いっつも一人で頑張ってるからさ」
「お姉ちゃんのこと、助けてあげて」
赤く泣き腫らした目を、大きく見開いて、こっちを向いて。短く発した言葉は、とても重かった。
でも、を飲み込む。
「……僕はまだ、山吹さんの力になれるのかな」
三人とも、声を揃える。
「「「もちろん!」」」
背中がむず痒い。大事な親友を僕に任せると言ってくれたのだ。唯一無二の大切な親友を。
その重さが今は嬉しかった。背中を押されていた。
千紘さんがにこりと笑う。
「大丈夫。友也くんは私たちを頼ってくれた。だから、友也くんは安心して沙綾を支えてあげて?」
いつも、いつだってこの人は僕を信じてくれる。
「どうして、千紘さんは……僕をこんなに信じてくれるんですか?」
その言葉を受けて、この人はまた微笑むんだ。
「友也くん、沙綾のことあんなに大切に見てくれてるんだもの。それこそ、私が娘を思うようにね」
だから期待に応えたいと思うんだ。
「……はは、ぞっこん、ってやつですか?」
「あら、愛の重さで負けるつもりはないわよ?」
そんな冗談まで口からこぼれ出てしまう。
もう大分、目線は下を向かなくなったみたいだ。
階段。フローリングを踏む足音が聞こえる。
目尻に涙を溜めて、それでもそれを溢さないように。
強い足取りで降りてきた戸山さんは、僕の姿を認めてこちらへ向かってきた。
「ともくん」
「うん」
椅子から立ち上がり、応える。
「さーやから聞いたよ。ともくんのこと」
「うん」
あの雨の日の話。
彼女はなんと言ったのか、僕には分からないけれど。
「私は、さーやにドラムを叩いてほしい。やりたいことをやって欲しい」
「うん」
一滴
「私たちと一緒に、お弁当を食べて欲しい。私たちと一緒に、居て欲しい」
「うん」
声が揺れる。
「だから、私は絶対に諦めない」
「─────」
それでも声は、力強かった。
それが、戸山さんの強さだった。
だから僕も、へこたれるわけにはいかないって思えたんだ。そんなこと決意したの、つい数秒前だったけど。
「……うん、わかった。戸山さんの思い、伝わったよ」
たりないトコは、半分こ。
僕にも山吹さんにも、足りないところがある。
だから今度は、彼女の番。
「……友也くん」
今一度、振り返る。今の僕はきっと、良い目で応えられているはずだ。
「沙綾も友也くんも戻ってきたら、純も紗南も、もちろん香澄ちゃんたちも」
みんな、みーんなで。
「ご飯、食べましょ?」
笑顔で言う千紘さん。
やっぱり笑顔っていうのは、人を明るくするものなのだろう。苦しくて笑うものじゃないのだろう。
「……ありがとう、千紘さん、皆。……行ってきます」
戸山さんと入れ替わり。
三回目になるフローリングの階段を、一歩ずつ登り始める。
足取りはもう重くない。
指先はきっと、彼女を掴める。
─────────
嵌め込まれた窓から差し込む赤い光。
啜り泣く声。
さっきタンスから取り出したばかりの、濡れたタオル。
これは三枚目。
「あーあ」
漏れ出た声は、語尾が揺れて涙声になる。
情けない声と分かっていても、抑えることはできなかった。
もう後戻りはできないかも。
「ごめんね、香澄」
目尻一杯に涙を溜めた親友の姿を思い出す。
他人の泣き顔なんて見るの、久しぶりだったなぁ。
声、下まで響いてたかも。
母さん、純と紗南のこと見ててくれたのかな。
後悔ばかりが募る。
キミを拒んだあの日から、変な方向に吹っ切れちゃったみたい。
胸の奥が痛い。
ナツの顔と、香澄の顔が交互に浮かぶ。
挨拶されて無視するの、辛いのに。
「キミは?」
キミはどうなるんだろ。
挨拶くらいは交わすかな。一応、仕事仲間だし。
でも、隣に立ったって話せない。
それは、すごくつらいや。
ポロポロ、涙が落ちる。
雨粒みたいに冷たくなくて、でも濡れていて、気持ち悪くて。
タオルを持ちかえては、乾いた場所で目元を拭う。
「どうすれば、いいのかな」
きっと、もう元には戻れない。もう、おしまい。
つい数十分前に思ったことなのに、思い出すだけで涙が溢れてしまいそう。
タオルの乾いている場所がなくなった。
掴んでも濡れていて、拭っても濡れていて。
立ち上がって、またこっそり洗濯物に紛れ込ませよう。
座り込んでいたカーペット。拭い切れなかった涙が落ちて、ところどころに染みがついている。
踏みつけるように立ち上がって、またドアノブへと向かう。
その手が伸びる前に、硬いものがぶつかる音が、向こう側から聞こえた。知ってる。これはノックの音。
律儀に三回。これも、知ってる。私が寝ぼけてたときのノックの回数。
言葉を発する前に、聞き慣れた金属音と共にドアノブが回転した。
キミは、随分と優しくモノを扱うんだね。
「山吹さん」
「……友也くん」
声の主は、キミで。
押し込まれたドアの向こうには、一週間前と変わらない、キミの姿。
「……もう少しだけ、話をしようか」
それだけでもう、涙が一粒、