恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
目元は仄かに赤く染まり、涙の跡が頬になだらかな曲線を描く。
空色の瞳は光を揺らし、目尻には小さく輝く雫。
綺麗な双眸は、しっかりとこちらに向けられいた。
「……友也くん」
電気の落ちた部屋で、彼女の顔を地平線に輝く残光が暗く照らす。
瞬きするごとに視界から光が落ちても、左手側にあるスイッチを押す気にはならなかった。
「もう少しだけ、話をしようか」
微笑みすら剥がれてしまった彼女の姿を見るのは、二度目。引き結ばれた唇が小さく開く。
「……どう、して?」
信じられないものを見るように、とまではいかない。でも山吹さんにとって僕は、ここで現れるには意外な人物だったようだ。
聞き返す声はさっきまでしゃくりあげていたせいか震えていた。
手には真っ白なタオルが握られている。
涙の跡を伝って、涙が一筋流れた。
「……ほら、また来るって言ったじゃない」
思い出したように呟く約束。
半ば諦めていたけれど、情けない悪足掻きも僕と彼女を繋ぐパスにはなってくれたらしい。
彼女の顔をきちんと見るのも、あの日振りだった。
「だからもう少し、山吹さんの話を聞かせて欲しいな」
彼女は目を逸らして顔を俯ける。
顔にあたる紫色の光は瞳で反射する。
ひまわりが成長して空を覆い隠してしまうように、光は太い茎に絡め捕られて。
赤紫の光芒は、心まで照らしてはくれなかった。
「……前も言った通りだって。やっぱり私にはバンドはできないよ」
ぎゅっと握られる手は、静かな部屋に音が響きそうなくらい強く丸まる。
頬になぞる跡をもう赤くしないように、堪える涙はさっきと変わらず目尻にある。
「戸山さんは、なんて?」
「……君と同じようなこと。バンドやろうって、私のこと、話してくれって」
僕は、山吹さんの気持ちを知らない。
僕にできるのは、人並み程度に相手の気持ちを読み取ろうとすることだけ。
「香澄はすごいよ。何回できないって言ったって迫ってくるんだもの。いまだに仲直りできない私とは大違いだよ」
自分を責めるように、過去の自分を諫めるように呟く。
心底苦しそうだった。
やっぱり山吹さんは優しすぎる、と思う。
「前のバンドがバラバラになっていったとき、私は何もできなかった。見ていることしかできなかったから」
一度結束した友達がバラバラになっていく苦しみを知っている。
何もできない辛さを知っている。
だから、そもそも遠ざけようとする。踏み越えさせない一線を保っている。
僕がこの前、その一線を越えてしまったのだけれど。
「キミも香澄も、すごいよ。私は前に進めてないのに、ね」
戸山さんの目はいつも輝いている。
皆といることが、とても楽しいようだった。
僕が初めて会ったときからそうだった。
多分、山吹さんが初めて会ったときもそうだった。
「だから、私のことは置いて、前に進んでよ」
いつもよりゆっくり。時間を掛けて息を吐く彼女。
深呼吸とも言えず、かといって普段通りの呼吸とも言えない、曖昧な息遣い。
声だけでなく、息も揺れている。
既視感とは程遠いけれど、こんな山吹さんを僕は知っている。
しんしんと雪の降る夜、大切な友人に別れを告げた後の彼女はきっと、今と同じような表情をしていたはず。
そしてこのまま僕が背を向ければ、また泣いてしまうのだろう。
「山吹さん」
そんなことは、望んでいない。
山吹さんの語ったことは、大体合っていた。
合っている、というより事実そのものだった。
「山吹さんは優しいよ」
小さく彼女が首を振る。横に、だった。
「千紘さんのことが辛かったんだよね」
「うん」
今度は声が漏れた。
涙のように、こぼれ落ちる声だった。
「一度別れた友達と、顔を合わせたりできなくなったんだよね」
「そう」
でも、間違っているところもあった。
そんな、冷たく語るようなものではないはずだった。
「バンドをやったら、また前のバンドみたいになるかもしれないって思ってるんだよね」
「……そう、いうこと。だから──」
「だったら、やっぱり山吹さんは優しいよ」
言葉を遮られた彼女が、これまた意外そうにこちらに目を向ける。
なんで? なのか、どうして? なのかはわからないけれど、明らかな疑問の色のある表情だった。
「戸山さんの思いに応えたいけれど、でもそれはどうしたって一年前の千紘さんのことを思い出してしまう」
千紘さんが倒れて、きっと整理できない頭で沢山考えたはずだ。
例えば、これからどうしよう、とか、皆になんて言おう、とか。
「この前、山吹さんは「怖い」って言ってくれた。紛れもなく、山吹さんの本心だったよね」
今思い返してみても、あれが初めてのことだったことに変わりはない。あれが僕に初めて伝えられた、彼女の奥底だったことに変わりはない。
彼女の本心は本心。でも、受け取り方は前と変わっている気がする。
「あんな状況でなきゃ話してくれないくらいに、山吹さんはその事の重さを知っている。山吹さんの過去を話せば、今まで通りの関係じゃいられなくなるって知っていた」
怖い、だなんて、他人にはどうしようもない。
それは自分自身にしか解決できないことだ。
山吹さんにしか解決できないことだ。
「それが、怖かったんだよね」
戸山さんたちと笑い合うことが、僕と居ることが楽しかったから。変えがたいほどに幸せだったから。
変えたくなかったから。
首を振る。今度は、縦に。
それなら良かった。
僕の推測は間違っていなかったことになる。
彼女はやっぱり、優しいんだ。
「苦しかった」
小さな唇が紡ぐのは、小さな声だった。
「キミが去って、香澄が去って、辛かったけど、これでいいんだって」
ふと、窓から光が差す。
半月に近い、歪な形の月が地平線から上り始めていた。
「……でも、でもね?」
ふらり、ふらりと声が揺れる。また涙が落ちそうだ。
「……まだ、皆で居たい」
歪に崩れる表情。
「キミと居たい」
月明かりが照らす瞳。
「これで終わりは、いや、なの──」
彼女にとっては、口にしてはいけなかった言葉。
彼女の本心。
家族を思う優しさと、友達を思う願い。
一人の少女が抱えるには大きすぎる矛盾。
「……僕だって、そうだよ」
誰も悪くない。でも、誰かに悪いことが降りかかる。
不幸というのはそういうものだ。
「あの後、ずっと落ち込んでた」
千紘さんが倒れたのは不幸だった。
タイミングは最悪で、ライブは台無しになって。
「どうしたら良かったんだろうって、何がいけなかったんだろうって」
山吹さんは友達と疎遠になって、千紘さんは自分を責めて。
「わからなかった。どうしようもなかったよ」
そうして山吹さんは、バンドを辞めた。
僕はのうのうと、彼女の元に通っていた。
「……本当は、今日こんなことになるなんて思ってもなかった」
視界が少しだけ揺れていた。
しっかりと言葉にしなければならないのに、それに反して感情のコントロールは効いてくれやしない。
「でも、皆の話を聞いて、千紘さんから信じてもらって、そして戸山さんから託されて」
手に込めた力を抜けば、今にも涙がこぼれそうだった。
「皆に支えられて僕はここにいる。だから次は、山吹さんを支えなくちゃならない」
正直、自分でも何を言っているのか分からなくなり始めていた。
でも、確かに伝えたい思いがあった。
目の奥がつんと熱くなった。頭の中はぐしゃぐしゃだった。
「僕だって、こんなまま終わりたくない」
不幸は仕方のないことだ。
「皆だって、山吹さんと居たいって言ってくれた」
でも、それは誰も悪くないということだ。
「僕だって、山吹さんと居たいに決まってる」
誰も悪くないのなら、やり直せる。
「山吹さんがいるから、僕らは楽しいんだ」
そこでやっと息をつく。
息継ぎもせずに喋っていたから息が荒い。
身体中が火照っていた。
「ズルいよ、そういうこと言うの」
少しだけ、表情が明るくなった気がする。
でもそれは月明かりのせいだとすぐに気づいた。
暗闇だったときよりも、彼女の表情がよく見えた。
「キミにそんなこと言われたら私、心変わりしちゃうよ?」
困るよ、と彼女は続ける。
「私がバンドをやったら、また───」
その先を喋ることなく口をつぐむ。
彼女は立ち止まっている。
一歩踏み出せばみんなの元に行けるのに、その一歩を怖がっている。怖がって、一年も立ち止まっている。
どこにも行けずに立ち止まっている。
「──だったら」
千紘さんも戸山さんも、その一歩を踏み出させる役ではない。皆は、待っていて受け止める人だから。
山吹さんの居場所を守り続ける人たちだから。
「僕を、僕を使ってよ」
だからきっと、手を引くのは僕の役目。
手を伸ばして、指先を絡めて、手のひらを繋いで。一歩を踏み出して、光に向かって彼女と一緒に飛び込む。
「僕に存分に手助けさせてよ。僕が山吹さんにできることなんて、それぐらいなんだ」
伸ばした手が掴まれるのを待つのではなく、伸ばされかけた彼女の手を掴んで。
そうでもしなければ、彼女はきっと進んでくれない。
「……だめ、だよ。そんな、そんなの、キミが無理するでしょ? 皆と居られても、それじゃ──」
「僕が居るだけで山吹さんが皆といられるなら、僕はなんだってやるよ」
些か言い過ぎでも、それでいい。
僕は山吹さんを手離しかけて後悔しかけた。それでも、後悔しかけただけで済んだのだ。
だから、今度は離さない。
「もう、いいんだよ」
君は。
「山吹さんは、もう一人じゃない」
夢は、目を閉じて見るものだけれど。
「戸山さんが、牛込さんが、花園さんが、市ヶ谷さんが───僕が、いる」
夢は、目を開いて見るものだから。
「皆がいるから。僕だって、一人じゃないから」
僕の言葉は、そこ途切れる。
山吹さんが手を差し出していた。
握手に随分似た形だったけれど、多分違う。
「手、繋いでくれる?」
「うん」
迷わず、彼女の手を取る。伸ばされていた手を取る。
暖かくて、とても柔らかくて、そして、とても小さな手だった。
この手に溢れるほど、彼女は思いを溜めてきた。
握ってみると、握り返してくる感触があった。
「キミの手、暖かいね」
「山吹さんだって、暖かいよ」
月明かりが僕らの顔を照らしていた。
静かな部屋で、彼女か泣いていた。
「伝わる、伝わるよ、キミの暖かい気持ち」
溜め込んでいた思いが溢れていた。
僕は彼女の顔を見ていた。
「……こんな私でも、まだユメを見ていいの?」
「もちろん、何度だって。当たり前だよ」
山吹さんはもう、目を開けていいんだよ。
「──ありがとう」
彼女の言葉は、それが最後だった。
彼女の涙が、僕の手の甲に落ちた。
とても暖かかった。人の暖かさだった。
とても沢山の思いが詰まった涙だった。
彼女は微笑んでいた。
泣いていたけれど、いつもの暖かい微笑みだった。
いつかのような、貼りついた笑顔ではなかった。
彼女の微笑みだった。
キラリと、彼女の頬が光る。
月の明かりが、彼女の涙を照らしていた。
彼女は銀色を溢しながら、微笑んでいた。