恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
彼女が泣き止むのに、そう長い時間は掛からなかった。
部屋に響いていた涙声は途絶え、静寂が包む。
涙を拭った彼女は、相変わらず僕の手を握っている。
「あはは、私も泣き虫になっちゃったなぁ」
彼女が笑う。自嘲気味な笑いなのにどこか明るくて、そこにさっきまでの悲しそうな瞳は無かった。
月明かりが彼女と僕を照らす。
そこでやっと、今まで電灯をつけていなかったことを思い出した。
「ね、友也くん」
多分今胸中に溢れている気持ちは、きっと喜びだと思う。
強い瞳だった。
強く輝く空色の瞳が、僕を見つめている。
「下、降りよっか。みんな待ってるよね」
「うん、そうだね。きっと待ってる」
名残惜しく手を離す。
指先、中指の先が離れるまで彼女の暖かさを身に刻む。
ドアノブを握る。蝶番が軋む音と共に、足元に光が差し込んでくる。
先程までは聴こえなかった声が、小さく耳に届く。
ふと思い立って、後ろを振り向く。
ドアに沿うように彼女に通路をあげる。
「先、いいよ」
一瞬、きょとんとした顔をする彼女。でもすぐにふふっ、と笑いだした。
「なあに、それ」
「いや、後ろで見ていようかなって」
僕は、先に立って手を引っ張る役じゃない。
ここから皆の元へは、山吹さん一人の意思で向かわなければならない。
皆が彼女の手を引くための、最後の一押し。
最後に背中を押す役だ。
「でも、後ろにキミがいてくれるのは、嬉しいかな」
ありがとう、と続けて扉を潜っていく。
気のせいかもしれない。でも、暖かな光に包まれた彼女はなんだか眩しかった。
彼女の後に続いて僕も扉を抜ける。
入り口側のドアノブを握ると、丁寧にドアを閉める。
蝶番が再び軋み、寂しげな部屋は僕らに別れを告げる。
電灯の落ちた部屋には、もう誰も取り残されていなかった。
「それじゃ、行こっか」
彼女が優しく告げる。
こちらを見て、微笑んで。
後ろについていくつもりだったのに、彼女は何故か隣に並び立ってきた。
別に狭くはないけれど、これはこれでなんだかこそばゆい。
そんなことを思ったけれど、隣の彼女の笑顔を見たら、これはこれでいいんじゃないかと思えた。
階段を一段、降りてゆく。
並び立つ足音は僕のそれよりも少し小さく、けれど足取りは確かだった。
隣から伝わる熱が、とても心地いい。
階段を一段、降りてゆく。
足音が響くたびに、下の階の喧騒は大きくなり、明かりは強くなる。
眩しいような気もしたけど、それはさっきまで暗い部屋にいたせいだと気づいた。
階段を一段、降りてゆく。
広く開けた空間が見える。
階段の終わりだ。
暗い空間は、もう終わりだ。
「────沙綾、ちゃん……!?」
階段を降り切った先。足音を聴いて待ち構えていたのであろう牛込さん。
山吹さんがいることに、その綺麗な双眸を大きく広げて驚いている。
その牛込さんの、驚いた声が奥まで響いたのだろう。
「沙綾!?」
「さーや!?」
「沙綾って、本当?」
台所から次々と皆が飛び出してくる。当然、千紘さんも。
「皆……」
一歩だけ後ろに下がる。
最後に、背中を押すために。
「……私、わたし、は──」
少しだけ声が震える。
皆が彼女に注目している。
後ろに下がりそうになった。
一歩、足を後退させそうになった。
「──私は」
踏みとどまる。
きちんと、決めたから。
過去は全部吐き出したから。
「私は、バンドがしたい!」
僕が背中を押すまでもなく、彼女は前に進んだ。
自分の足で。皆の元へ。
とても強い足取り、とても強い一歩だった。
「皆と、みんなと一緒にいたい!」
眩しい、眩しい光だったけれど。
何も見えなくたって、光の先に確かな
「私は──!」
彼女の手を取るのは、僕だけじゃない。
皆が手を取り、繋いで、進んでいく。
手のひらに伝わる暖かな鼓動は、確かにそこにあるから。
「──もっと、夢を見てみたい!」
戸山さんが近づいてくる。
きゅっと握り締められた山吹さんの手を取る。
両手で包んで、そっと、そっと一言呟いた。
「待ってたよ、さーや」
果たして、手は取られた。
今度は前に出て、彼女の顔が見えるように立つ。
今にも泣きそうな彼女の顔があった。
半泣きといったほうが正しいかも。
「──香澄、その、私──」
「いいんだよ。こうやって来てくれたんだもん」
「でも……!」
でも、とそこで堪える。
申し訳なさそうに曲げられた眉を緩めて。
目尻の涙はあるけれど、それでも口元に弧を描いて。
こういうとき。嬉しいことがあったときは。
「……うん、うん! ありがとう、ありがとう!」
いつの間にか、視界が少し歪んでいる。
周りを見てみれば、皆その瞳を揺らしている。
牛込さんなんか感極まって泣いちゃってるけど。
でも、嬉しいことだった。
嬉し涙だった。
気がつけば涙が一粒溢れていた。
拭って、彼女の方を見る。
涙で崩れそうになる顔を、頑張って笑顔にして。
やっぱり彼女は、笑っている方がいい。
─────────
「ね、友也くん」
千紘さんが腕に縒りをかけて作った料理は、人数が人数なだけあって一晩で無くなってしまった。
机を囲む椅子の数も、皿をつつく箸の数も、食卓の賑わいも、いつかの時よりもずっと多かったし、大きかった。
─洗い物は、二人でお願いね。
台所に彼女と並び立つのも、結構久しぶりな気がする。
久しぶりと言っても、二回目なんだけど。
いつかと同じく、彼女は左側に。
水道から流れる水が僕の手を濡らしている。
「皆、元気だったね」
布巾を片手にほう、と呟く彼女。
力が抜けたように頬を緩ませている。
「山吹さんがいたからだよ」
近くから聴こえる喧騒、陶器が掻き鳴らす硬質な音、その全てを覆う水。
飛び散る水滴、手渡される皿、並び立つ影。
そして、柔らかく交わされる会話。
本当に、いつかのようで。
「はい、これお願い」
「了解、任せて」
自然と受け渡される声、慣れた距離感、不慣れなお皿渡し。目線は、逸らした、というより向けていなかった、というものだったけれど。
「「…………!」」
暖かく、あるいは熱く痺れる左手、そしてその指先。
触れる爪も、染まる頬も、喧騒へと溶けてゆく。
少しだけ固まる。顔が熱い。
でも、いつかのようなぎこちなさも無くて、ただ照れくささと共に跳ねる心があって。
「えへへ、ごめんね」
「…………いいや、こっちこそ」
ちょっと嬉しそうに笑う彼女はとても幸せそうで。
取り戻したささやかな幸せはちっぽけだけれど、でも大きかった。
「ほらほら、早く進めちゃおう?」
何故か長く感じる時間は、きっとお皿の量が多いせい。
わざわざ目を向けなくても、彼女の幸せそうな様子はその鼻歌が伝えてくれる。
どこかで聴いたことのあるメロディーだった。
そう考えてすぐに、ペペロンチーノを作ったときに彼女が鳴らしていたメロディーだと気がついた。
水の音が止まる。
カチャリと、皿が音を立てる。
綺麗に積まれたお皿と、滴を足らす両手。
「お疲れさま、友也くん」
「うん、こちらこそ」
短く会話を交わして、タオルを手に取る。
「山吹さん」
「ん?」
手元に目線を落としたまま、喋る。
「なんていうか、ごめん」
「どうしたの、突然」
笑って返す彼女。
「この前は、何も考えずに山吹さんの過去のことに踏み込んでたからさ」
「………………」
「正直、泣かれるとまでは思ってなかったんだ。それも考え無しだったゆえなんだけど」
そこまで話したところで、ストンと頭に何かが落ちる。
突然だった。
目線を上げると、山吹さんが僕の頭に手刀を落としていた。
「ごめん、は禁止!」
「……え?」
少しだけ眉間に皺を寄せて、でも目元は優しくて。
そんな表情で彼女は話す。
「私だって、皆の前では言葉を選んだんだよ? ごめん、って言ったら、香澄絶対怒るから」
ああ、そうか。そういうことだったのか。
「私はキミに助けられたんだもの。だから、もっと胸を張ってよ。キミは凄いことをしたんだ、って」
頭に感じていた暖かい感触が離れる。
視界の上で、彼女の腕が落とされるのが見えた。
「……そっか。そうか。うん、了解」
「分かったなら、それでよろしい。ほら、皆のところ、行こ?」
そう言って彼女が振り返る。
後ろで纏め上げられた髪がふわりと揺れた。
見覚えのある髪飾りが、電灯に当てられてキラリと光る。
これはたしか、勉強会のときにつけていたものだったっけ。
そこまで考えて、あらかじめ纏めておいた荷物を手に取る。
「友也くん」
不意に声が掛かる。
山吹さんではなくて、千紘さんだった。
「今日は、ありがとうね」
柔らかく笑う表情に少しだけ彼女を重ねて──すぐに引き離した。
「いえ、こちらこそ」
もう夜が空を覆う時間だった。
皆は外で待っている。話し声がここまで響いてくる。
玄関に続くフローリングは白色光によく映える。
そのフローリングを滑る足音は、綺麗に重なったり、あるいはバラバラとずれてしまったり。
歩を進める度に大きくなる話し声はとても明るくて。
玄関口を照らす光が、彼女らの影をガラス越しにこちらに映している。
「皆、まだまだ元気そう」
「そうだね」
二人で笑いながら進む廊下。
たった数秒の間でも、響く笑い声は少なくない。
不意に彼女が立ち止まる。
並び立って靴を履く。彼女はサンダルだけど。
その音に気がついたのか、ドアの向こうの話し声が止んだ。
ドアノブを捻る。
閑静な廊下に、ガチャリと大きな音が響く。
廊下の明かりの代わりに、玄関口の明かりが周りを照らしている。
「あ、二人とも」
いつもと変わらない笑顔で皆が迎えてくれる。
市ヶ谷さんだけは、なんだか照れくさそうに頬を染めているけど。
「皆、やるよ!」
突然声を上げる戸山さん。
「おっけー」
「う、うん!」
続いて頷く花園さんに牛込さん。
「マ、マジでやるのか……?」
恥ずかしそうな市ヶ谷さん。
これはどうやら、僕は捌けておいた方が良さそうな雰囲気。
「じゃ、いくよー……!」
ふっ、と風が吹いた。
四人が息を吸う音が重なる。
「「「ポピパ! ピポパ! ポピパパピポパー!」」」
「さーや! Poppin‘ Partyにようこそ!」
そうやって、満面の笑顔で両手を広げる戸山さん。
それとは対照的に、面食らったように目を丸くする山吹さん。
暫くの静寂。その後、ふ、と山吹さんが吹き出す。
「あはははは! うん! こちらこそよろしくね、香澄!」
ひとしきり笑ってそう言う彼女。
市ヶ谷さんが恥ずかしそうにしてたのはこのせいなんだと納得する。
「……あー! もう! なんでこんなこと……!」
耐えきれなくなった市ヶ谷さん。
それでも山吹さんのためにやってしまうあたり、本当に市ヶ谷さんらしい。
「恥ずかしがらないで、有咲」
「もとはと言えばおたえのせいだからな!?」
「ふ、ふたりとも、折角しっかりできたのに……」
結局、僕らが来る前と同じような騒ぎになってしまう。
もちろん心地のいいものだけれど。
そんな四人を横目に、再び山吹さんの隣に立つ。
「ね、友也くん」
「うん」
楽しそうな皆を眺めながら山吹さんが話す。
「私、よかった。ポピパに入れて」
「うん」
長いようで、短い道のりだった。
「ホントにホントに、よかったよ」
「うん」
それは僕もだ。
山吹さんがまた皆と笑えるような、そんな日常が戻ってきた。
とても、嬉しかった。
「だから、ね」
ふと、山吹さんが向き直る。
それに応えて、自然と僕の顔も彼女の方を向く。
「ありがとう、友也くん」
とくり、と心臓が音を立てた。
ふ、と一瞬、一瞬だけ音が消える。
一瞬で音が戻ってくる。
彼女の微笑みは、小さなひまわりのように。
小輪のひまわりだって力強く咲いている。
ああ、そっか。
「うん、どういたしまして」
「ふふ、うん。それでよろしい」
得意気に笑って、また皆の方へと向く彼女。
一瞬、いや一秒だけ遅れて僕も向き直る。
星の綺麗な夜だった。
月明かりの下でも輝く一等星は、天の川の両端に。
六月末の静かな夜だった。
少しだけ跳ねる心臓が煩いくらいに、静かな夜だった。