恋を紡ぐ指先   作:ぽんぺ

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#24

 

 空はすっかりと晴れた。

 

 道の凹凸に溜まっていた水溜まりもいつしか蒸発して、濃く染まっていたコンクリートは、少しずつ乾いて、薄い色を取り戻している。

 空に浮かぶ雲は白い。

 綿のようにちりばめられたそれは、青い海に浮かせたようにふわふわと漂っている。

 

 隣に立つ人影はない。

 その違和感にもそろそろ慣れる頃。

 

「ありがとうございました」

 

 ドアの閉まる音を聞き届けて息を吐く。

 時間の進みがゆっくりに感じる休日の午後。

 蒸し暑い空気はどこかへと。

 カラリと乾いた風がドアから吹き込んでいる。

 

 ポピパが結成されて三日が経つ。

 長い、長いいざこざを終えた僕らには、緩やかに過ぎていく日常は遅すぎるほど穏やかだった。

 

 文化祭まで、あと一週間。

 

 毎日ドラムスティックを持って家を出ていく様子は幸せそうだと、千紘さんから聞いた。

 休日の朝は、僕が彼女を「いってらっしゃい」と見送る。

 そんな日々が続いている。

 

「お疲れさま、友也くん」

「いえ、こちらこそ」

 

 僕が休みをもらっていた間お店を仕切っていたのは、当然ながら千紘さん。

 本人は、無理をしたとも大丈夫とも言わない。

 気にしないでくれているのか、あるいは。

 少しだけ心配ではあった。

 

「山吹さんも、文化祭が終わったらまた調整するとは言ってましたから。それまでは気合いを入れて頑張りますよ」

「ふふ、頼もしいわね」

 

 体は軽い。

 重い足取りでこのお店に通っていた時期が嘘のよう。

 こうして山吹さんのいない空間は、喧嘩した後の時間よりもバイトを始めた頃を彷彿とさせる。

 

 朝が過ぎ、昼が過ぎ、少しずつ日の傾き始めた空は、次第に赤を帯び、青を薄め始める。

 

 いつだったか。

 ほとんど僕が先にやまぶきベーカリーに着いていた日々の中で、一度だけ。

 一度だけ、彼女が先に帰っていた事があった。

 入り口で息を整えている彼女を不思議そうに見つめていたら、不満そうな目線を向けられた覚えがある。

 

 手のひらを握り締めて、もう一度開いて。

 未だに実感は無い。

 現実味を帯びない一連の出来事が、夢の内容を鮮明に覚えているかのような感覚に僕を陥らせる。

 その全てがあっという間で、足がついていないような浮遊感がある。

 下手に歩き出してしまえば、足を縺れさせて転んでしまうような、朧気な気分。

 

 それでも。

 

「……あら、ふふふ。随分と急いで来たみたいね」

「……? ああ」

 

 不意に、ドアから影が差す。

 見慣れた形をした影だった。

 後ろに纏められた髪がふわりと揺れて、影もそれに従う。

 ふと視界に映った自分の手。袖口に皺が寄っている。

 なんだかみみっちいような気がする。

 もう一度ドアの目を向ける。

 けれど、逆光で彼女の顔がよく見えない。

 でも、その手がドアに掛けられたのは見ることができた。

 蝶番が来客を知らせて、鈴の音が短く、優しく鳴る。

 その間に少しだけ袖口を整える。ついでに襟も。

 

 目線を上げれば、同じようにこちらを見た彼女と目が合う。

 なにかを待っているみたいに動こうとしない。

 ああ、と思い至る。

 

「……おかえり、山吹さん」

 

 同じ挨拶をしたのが、一昨日のことだったから。

 彼女を迎えることには、あまり慣れない。

 でもそこで初めて、彼女は笑う。

 

「うん、ただいま、友也くん」

 

 柔らかくて、とても聞き慣れた声。

 ふわり、と漂う香りにハッとする。

 夢の中いるような気分は気のせいなのだと、目の前の彼女が教えてくれている。

 

「練習、お疲れさま」

「そっちこそ、バイトお疲れさま」

 

 どこからか、お疲れ様、と声が飛んだ。

 店内に居た幾人かのお客さんも、慣れた様子で彼女に声を掛けているらしい。

 その全てにきちんと答える彼女。

 それを見届けながら、僕も言葉を挟んでゆく。

 

「みんなの様子はどう?」

「ついていけないくらい元気」

 

 荷物を下ろしながら、疲れた様子で歩く彼女。

 それを流し目に見ながらエプロンの紐を縛り直す。

 

「でも、楽しいよ」

 

 気がつくと、彼女がこちらを見ていた。

 笑顔のような、でもそうでもないような、曖昧な表情。

 ああ、これは微笑だ。

 久し振りに見たそれは、とても幸せそうな笑い方だった。

 

「──そっか」

 

 自然と口元が弛むのが分かる。

 彼女の微笑が伝染したかのように、ただ暖かなモノが胸に溜まっていくのを感じた。

 

「うん、それじゃ手伝うよ。エプロン着てきちゃうね」

 

 彼女が奥へと消えていく。

 その後ろ姿を見て、あんなに大きかっただろうかと思った。

 何もかもが元通りなわけではない。

 変化はあるのだ。きっと。

 取り戻したものも、勝ち得たものも、まだ掴みきれていない。

 

 それでも、ただ。

 

「お待たせ! あと少し頑張ろっか!」

 

 その笑顔だけは、出会った頃と確実に変わっているのだろうと分かる。

 ただ純粋に笑えているのだと、そう思う。

 

「ああ、頑張ろう」

 

 隣に熱が灯る。

 ああ、そういえば一つ新しいことを覚えた。

 

 今は、この指先に灯る熱に名前を付けることができる。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 穏やかな日常はあっという間に過ぎ去ってゆく。

 気を抜いているうちに、朝は来る。

 

 カーテンの隙間から覗く朝日が眩しい。

 耳元で鳴り続ける目覚まし時計の音が、どこか朧気に聞こえている。

 なぜ普段セットしない目覚ましなんて、とそう思ったところで急に思考が一つに纏まった。

 

 ああ、今日は文化祭だったっけ。

 

「────!」

 

 パチリ、と目が冴え渡る。

 朧気だった目覚まし時計の音が急にけたたましく聞こえるようになった。

 身体に覆い被さっていた布団をどかしたところで、目覚まし時計を止める。

 

 二度寝を誘う睡魔は襲ってこない。

 勢いのままカーテンを開けて、空気を入れ換えるべく窓まで開ける。

 もう夏だ。朝の風であろうと寒くない。

 

 空は晴れ渡っている。

 もう梅雨が明けたのではないかと思ってしまうほどに、陽に当てられたフローリングが眩しい。

 雲ひとつ無い、というわけではなかったけれど、照りつける朝日が黄色に近い朝焼けを作っていた。

 

 吹き込んだ風が、壁に書けておいた制服を揺らす。

 長袖のワイシャツの袖を見て、そろそろ衣替えの季節だとも思った。

 クローゼットから半袖のワイシャツを取り出す。

 窓から離れ、着替えを済ませる。

 肘から先が自由になって、解放感に驚く。

 

 着替えまで済ませてしまえば、頭も冴えてくる。

 ああ、そうか。

 今日は山吹さんが初めてライブをするんだ。

 ステージに立ち、戸山さんたちと一緒に演奏する彼女の姿。

 きっとみんな笑顔で、楽しそうに。

 想像するだけで、自然と笑みが溢れてしまう。

 

 十分に空気の入れ換えられた部屋。

 窓を閉めて、部屋を出る。

 あれだけ長く思えていた一日。

 ましてや一週間が、よもやここまで早く過ぎていくとは思わなかった。

 

 母親が用意してくれていた朝食を取る。

 時計の長針が文字盤を半周する頃には、もう一度自分の部屋に戻っていた。

 改めて身だしなみを整えて、机の上に置いていたスマートフォンから充電ケーブルを抜き取る。

 机に落ちた端子部分が、硬く音を鳴らした。

 

 同時に点灯する液晶。眩しさに目を細める。

 通知が一件。それも不在着信。

 誰かと思えば、亘史さんからだった。

 

 ああ、今日の運搬で何かあるのだろう。

 そんな風に軽く考えて、物珍しい亘史さんの番号をプッシュする。

 何の気もなく、軽い気持ちだったのだ。

 

 よく聞き慣れた発信音が右耳を叩く。

 その間にも、左手だけで荷物の準備を進める。

 発信音がブツリと途切れたのは、一通り荷物を準備してしまってからだった。

 

「もしもし、亘史さんですか?」

『ああ、友也くんか』

 

 すかさず返答が帰ってくる。

 電話越しでもよく分かる男性の声。

 

「着信履歴があったんですが……どうしたんですか?」

『そう、そのことでね』

 

 何故か、少しだけ気を張っているような、そんな強張った声だった。

 気のせいなのかもしれないけれど。

 本当に、軽い気持ちだったのだ。

 

『──妻が、病院に運ばれてね』

「…………え」

 

 妻、病院。それはつまり。

 突然、電話以外の何もかもが無音になる。

 

『貧血のようなんだが、沙綾が付いていくと言って聞かなくてね』

 

 荷物を詰めたバッグを肩に掛ける。

 ここから、病院。

 走るしかない。

 

『パン運びは私がやっておく。それは、私の仕事だからね』

 

 ドアを開け放つ。

 発表までに時間はある。

 

 

『だから、友也くん』

 

 

 玄関に向かう間に、母親が何か言っていた。

 沙綾ちゃんによろしく、だとか、何とか。

 

 

『沙綾のことを、よろしく頼む』

 

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