恋を紡ぐ指先   作:ぽんぺ

25 / 28
#25

 

 彼女との関係は、分からないことだらけだと、分からないことだらけだったと思う。

 

 思い返せばいくらでも彼女との思い出は言葉にでてくるのに、言葉にするほど現実味を帯びずに響いている。

 慣れないことだらけのこの頃は、夢の中にいるようにふわふわとしていて。

 思い出して確かめていないと、すぐにでも忘れてしまいそうで。

 

 ああ。

 

 いつ出会ったんだっけ。

 いつ初めて話したんだっけ。

 いつ敬語が外れたんだっけ。

 いつ名前を呼んでくれたのだっけ。

 いつ本心を打ち明けてくれたのだっけ。

 

 思い出の情景に時計は映っていない。カレンダーも映っていない。

 ただ、彼女の姿だけが鮮明に浮かんでいる。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 さっきからとても頭が熱い。

 

『沙綾のことを、よろしく頼む』

 

 照りつける朝日が目を焼いてしまうから、ずっと目を細くしている。

 足に注意を向けた途端がくりと膝が折れてしまいそうな気がして、すぐに別のところに意識を集中させる。

 あと、どれくらい。

 肺が熱い。痛い。酸素を求める喉が悲鳴のような甲高い音を立てた。

 

 きっと、下ろし立ての半袖の背中も汗に濡れている。

 触覚の一部が狂ったみたいに、足を貫く鈍痛だけがはっきりと意識を刺激する。

 地面を踏みしめる度に響く衝撃が思考を邪魔する。

 でも、なんのために走っているのかだけは忘れずに。

 見慣れた景色はもう通り過ぎてしまった。

 名前も知らない街路樹を通りすぎる度に、肌を光が焼く。

 車が通り過ぎる音を何回聞いただろう。

 うんざりするような風切り音を聞き流して、ただ走る。

 一際強い風が吹いて、顔をしかめて、逸らす。

 もう一度前を向いたとき、弓なりに曲がった地平線、坂道を下った先に、亘史さんから伝えられた病院が見えた。

 

 ポケットに突っ込んでおいたスマホを取り出す。

 ロック解除の指紋認証に二回失敗して、三回目でやっと画面が開く。

 緩慢に確認した時間は、既にお見舞いができる時間を示している。

 もう涼しいとも言えなくなってきた時間帯だと認識して、同時に約束までのタイムリミットを肌で理解する。

 開いた画面に、戸山さんとのトーク画面が表示されている。

 

『約束したんだ。今度こそステージに立とうって』

『まだ、さーやは初ライブもできてないかったから』

『お願い、ともくん』

『さーやのこと、待ってる』

 

 少しも歩を緩めること無く、坂道を駆け降りてゆく。

 靴と足の僅かな隙間で摩擦が起きて、無視できないほどに足が熱くなる。

 次第に膨らんでゆく病院の姿だけを見つめながら、入り口はどこだったかと必死に探し求める。

 救急患者の入り口を通り過ぎて、小さめの押し扉を見つける。

 逆光で眩しく反射するガラスの向こうに、澄ました顔で座っている受付の看護師が見えた。

 

 走ってきた勢いのまま扉を押し開けて、中へ。

 受付の人は、こんなに急いだ客に慣れているのか、冷静に用件を聞いてくれる。

 

「山吹、千紘さんの、──っ、お見舞いで──」

 

 行きも絶え絶えと、実に聞き取りにくいであろう僕の言葉を、看護師はきちんと聞き届けてくれた。

 

「はい。山吹千紘さんですね」

 

 説明された部屋番号と、受け取ったカードを首からぶら下げる。

 首に掛けた紐からぬるりとした感触がして、その感覚でやっと、自分が大量の汗をかいていたことに気が付いた。

 気が付いて、それを無視して走った。

 まともに運動をしない生活を送っていた代償は大きかった。

 行く先に他の人がいないのは幸いだった。

 エレベーターを見つけて、それでは遅いと判断する。

 階段を駆け上がる度に響く足音がやけに大きく聞こえて、誰かの迷惑になっているだろうかと心配する。

 心配して、踊り場の床を踏んだ瞬間にそれを忘れる。

 

「────あそこ……」

 

 階段を上り終わってから、三つ目の曲がり角を曲がった先。

 ずっと頭の中で復唱していた番号が目の前に。

 金属製の取っ手の目の前で止まり、肩を揺らして何度か荒く息をする。

 ベタついた手が取っ手を掴むのを少しだけ躊躇する。

 初めて足を止めたその瞬間に、頭を振って忘れていた不安の種が思考の内に根付いた。

 僕に何ができる。

 前のあれはたまたまだろう。

 一人じゃなにもできなかっただろう。

 そんな思いが芽を出して。

 

『僕に存分に手助けさせてよ。僕が山吹さんにできることなんて、それぐらいなんだ』

 

 その芽を強引に踏みつけようとして、それを止めた。

 ああ、あるじゃないか。自分で言ったんじゃないか。

 僕にできることは、それだけで。

 僕にできることは、きっとその程度のこと。

 その間にも何度か息をして、結局そのままドアをスライドさせた。

 

 

 開け方に応えてか、静かにスライドしたドアの先。

 ドアから一番近い場所にあるベッドの上と、その周り。

 病室は穏やかな話し声に包まれている。

 さっきまでの頭の中の喧騒はいつの間にか静まっていて、ただ彼女らを見つめ続ける。

 

 彼女らは驚いたような表情をしていた。

 

「──はぁっ──っ、はあっ──」

 

 何と言えばいいのかと考えて、耳障りな呼吸音が喉から震え出ようとする言葉を溶かし落とす。

 開きっぱなしだったドアが、後ろで閉まる音がした。

 

「山吹、さん」

 

 やっと、やっと彼女の名前が出てきた。

 言葉を紡ぐのに、何度も肺が苦しく締め付けられる。

 

「もう、大丈夫だから」

 

 考えたうちの一欠片しか言葉にならない。

 伝えたいことだけは言葉にならない。

 余分な飾りだけが、ざらざらとした喉を通り過ぎていく。

 

「後は、僕に任せてくれ」

 

 なんて拙い言葉だろう。主語ぐらい付け加えなければ。

 それも既に忘れて、次の言葉を考えている。

 彼女の顔が見えない。どんな表情をしているのだろう。

 

「だから、山吹さんは──」

 

 目蓋に流れてきた汗に目を閉じる。

 腕で粗っぽく拭って、また目を開ける。

 

「ね、友也くん」

 

 僕の名前を呼ぶ声は彼女だった。

 その声にハッとして、彼女の顔を真正面から見る。

 彼女は一歩だけこっちに近づいて、微笑(わら)って。

 

「私、香澄と約束したんだ。一緒のステージに立とうって」

 

 それは聞いたよ。

 やっとそれが果たせるっていうときに限って、こんなことが起こってしまったんだ。

 また山吹さんがステージから離れていくんだ。

 

「母さんが運ばれて、でも約束は果たさなくちゃいけない」

 

 でも、彼女は泣いてなんかいない。確かに笑っている。

 強がりでもなく、ただ僕が来たことに安堵を覚えるように。

 

「友也くん」

 

 呆けるように思考を止めた頭に、彼女の声が響いている。名前を呼ばれると、ハッとして彼女の顔にピントを合わせる。

 

「私は、大丈夫。ちゃんと約束は守る。守りたい」

 

 静かな病室、というのは錯覚だと思った。

 本当はきっともっと沢山の話し声だとか、物音だとか、誰かが歩く音だとかが聞こえてくるのだと思う。

 でも今だけは、彼女の声だけが僕の耳を揺さぶっている気がした。

 

「だから、友也くんに頼らせて」

 

 彼女の姿だけにピントが合っている。

 瞳の内の僅かな光の揺れ動きまで、自然とその姿だけに目を向けている。

 

「友也くん」

 

 ああ、また名前だ。名前を呼ばれるんだ。

 その声が、その言葉が、僕の脳を揺さぶっていて堪らない。我慢ならない。それを聞くだけで、迸る思考を全て溶かされてしまう。

 

「母さんと、妹たちをお願い」

 

 その言葉で、やっと彼女からピントが外れる。

 彼女から一歩奥のベッド、その上と周辺にいる三人の姿を認めた。

 彼女がそちらの方を向く。

 

「いってきます、母さん」

「ええ、いってらっしゃい、沙綾」

「純と紗南も、母さんの言うこと聞くんだよ」

「うん、分かった」「いってらっしゃい、お姉ちゃん」

 

 そんな会話を見つめていた。

 彼女はもう一度こちらに向いた。

 晴れやかな、というか、すっきりした、というか。

 曖昧だけれど確かに明るい顔で、彼女は言う。

 

 

「頼りにしてるよ、友也くん」

 

 

 ふっ、と。右隣に風が吹いた気がした。

 彼女がそこを通って言ったのだと分かったのは、後ろから廊下の冷たい風が入り込んできたときだった。

 

 ああ、強いな。

 僕が心配なんかせずとも、彼女はもう振りきれていた。

 誰かに頼ることを知った。そして、もう頼れる誰かがいた。

 彼女を縛るものはもう無かった。

 ただ、親友との約束のために走ることができるようになっていたんだ。

 

 ああ、嬉しい。

 烏滸がましくも、僕がいたことでできることがあるのだと、確かめられたから。

 根付いていた小さな不安の芽は枯れている。

 

「友也くん」

 

 僕を呼ぶ声。千紘さんのものだった。

 同時に、病室に響く喧騒が一斉に僕の耳に届いてくる。

 冷めきったワイシャツが急に気持ち悪くなって、着替えるものもないからとそのままに。

 声に誘われるように、千紘さんの横たわるベッドの側へと向かう。

 

「来てくれてありがとう、そしてごめんなさい。また迷惑を掛けてしまったわね」

 

 少しだけ目を伏せている。

 山吹さんに似て──いや、山吹さんが繊細なのが、千紘さん譲りなのだろうかと漠然と考える。

 それに声を掛けようとしたけれど、刹那、千紘さんが顔を上げる。

 

「それでも、ありがとうの方が大きいわね」

 

 そう微笑む千紘さんに何も言えなくなる。

 きっと最近の無理が祟ったのだろうと思う。

 思い当たる節は、僕が彼女と喧嘩をしていたときくらいだ。

 あの頃から、千紘さんがお店に顔を出す機会は多かったから。

 きっとまだまだ解決しなきゃいけないこともある。

 山吹さんは進み始めたばかりだから。

 進み始めたばかりの君に。

 僕ができることは、どれだけあるのだろう。

 

「ね、友也くん」

 

 意識を頭から視覚に切り換える。

 なぜだか千紘さんが不思議そうな顔をしていた。

 

「沙綾のこと、好き?」

 

 音が消えた。

 僕に声を届ける彼女がいないから、本当の静寂が僕を襲う。

 込み上げてくるものがあった。

 けれど、決して戸惑うようなものでは無かった。

 返答は決まっている。

 音はすぐに戻ってきた。

 

「──はい、好きです」

 

 自然に、ふわりと、風が吹くように。

 予想以上に優しく、落ち着いた声で返事をする。

 その言葉を発してから少しだけ間があって。

 千紘さんはまた、ふっと微笑んだ。

 

「そう、うん。友也くんなら安心ね」

 

 その言葉を聞いて、なんとなく彼女の気持ちを知る。

 なんだか、自分の気持ちを知るのにとても長い遠回りをしていた気がする。

 

「きっとあの娘も友也くんのこと、好きよ」

 

 特に驚くわけでも無かったけれど、すとんとその言葉が耳に響いていた。響いて、そこら中で跳ね返っていた。

 

「ね、友也くん。あの娘のこと、よろしくね」

 

 何度か聞いたことのある言葉だった。

 でも、今まで聞いたどの時よりもその言葉が実感を伴って聞こえていた。

 

 手を握ってから開いてみる。

 窓の向こうを覗いた。

 確か今日はまだ雲があったはずだけれど、窓から見えた空は確かに、雲一つ無く晴れ渡っていた。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。