恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
彼女との関係は、分からないことだらけだと、分からないことだらけだったと思う。
思い返せばいくらでも彼女との思い出は言葉にでてくるのに、言葉にするほど現実味を帯びずに響いている。
慣れないことだらけのこの頃は、夢の中にいるようにふわふわとしていて。
思い出して確かめていないと、すぐにでも忘れてしまいそうで。
ああ。
いつ出会ったんだっけ。
いつ初めて話したんだっけ。
いつ敬語が外れたんだっけ。
いつ名前を呼んでくれたのだっけ。
いつ本心を打ち明けてくれたのだっけ。
思い出の情景に時計は映っていない。カレンダーも映っていない。
ただ、彼女の姿だけが鮮明に浮かんでいる。
◇
さっきからとても頭が熱い。
『沙綾のことを、よろしく頼む』
照りつける朝日が目を焼いてしまうから、ずっと目を細くしている。
足に注意を向けた途端がくりと膝が折れてしまいそうな気がして、すぐに別のところに意識を集中させる。
あと、どれくらい。
肺が熱い。痛い。酸素を求める喉が悲鳴のような甲高い音を立てた。
きっと、下ろし立ての半袖の背中も汗に濡れている。
触覚の一部が狂ったみたいに、足を貫く鈍痛だけがはっきりと意識を刺激する。
地面を踏みしめる度に響く衝撃が思考を邪魔する。
でも、なんのために走っているのかだけは忘れずに。
見慣れた景色はもう通り過ぎてしまった。
名前も知らない街路樹を通りすぎる度に、肌を光が焼く。
車が通り過ぎる音を何回聞いただろう。
うんざりするような風切り音を聞き流して、ただ走る。
一際強い風が吹いて、顔をしかめて、逸らす。
もう一度前を向いたとき、弓なりに曲がった地平線、坂道を下った先に、亘史さんから伝えられた病院が見えた。
ポケットに突っ込んでおいたスマホを取り出す。
ロック解除の指紋認証に二回失敗して、三回目でやっと画面が開く。
緩慢に確認した時間は、既にお見舞いができる時間を示している。
もう涼しいとも言えなくなってきた時間帯だと認識して、同時に約束までのタイムリミットを肌で理解する。
開いた画面に、戸山さんとのトーク画面が表示されている。
『約束したんだ。今度こそステージに立とうって』
『まだ、さーやは初ライブもできてないかったから』
『お願い、ともくん』
『さーやのこと、待ってる』
少しも歩を緩めること無く、坂道を駆け降りてゆく。
靴と足の僅かな隙間で摩擦が起きて、無視できないほどに足が熱くなる。
次第に膨らんでゆく病院の姿だけを見つめながら、入り口はどこだったかと必死に探し求める。
救急患者の入り口を通り過ぎて、小さめの押し扉を見つける。
逆光で眩しく反射するガラスの向こうに、澄ました顔で座っている受付の看護師が見えた。
走ってきた勢いのまま扉を押し開けて、中へ。
受付の人は、こんなに急いだ客に慣れているのか、冷静に用件を聞いてくれる。
「山吹、千紘さんの、──っ、お見舞いで──」
行きも絶え絶えと、実に聞き取りにくいであろう僕の言葉を、看護師はきちんと聞き届けてくれた。
「はい。山吹千紘さんですね」
説明された部屋番号と、受け取ったカードを首からぶら下げる。
首に掛けた紐からぬるりとした感触がして、その感覚でやっと、自分が大量の汗をかいていたことに気が付いた。
気が付いて、それを無視して走った。
まともに運動をしない生活を送っていた代償は大きかった。
行く先に他の人がいないのは幸いだった。
エレベーターを見つけて、それでは遅いと判断する。
階段を駆け上がる度に響く足音がやけに大きく聞こえて、誰かの迷惑になっているだろうかと心配する。
心配して、踊り場の床を踏んだ瞬間にそれを忘れる。
「────あそこ……」
階段を上り終わってから、三つ目の曲がり角を曲がった先。
ずっと頭の中で復唱していた番号が目の前に。
金属製の取っ手の目の前で止まり、肩を揺らして何度か荒く息をする。
ベタついた手が取っ手を掴むのを少しだけ躊躇する。
初めて足を止めたその瞬間に、頭を振って忘れていた不安の種が思考の内に根付いた。
僕に何ができる。
前のあれはたまたまだろう。
一人じゃなにもできなかっただろう。
そんな思いが芽を出して。
『僕に存分に手助けさせてよ。僕が山吹さんにできることなんて、それぐらいなんだ』
その芽を強引に踏みつけようとして、それを止めた。
ああ、あるじゃないか。自分で言ったんじゃないか。
僕にできることは、それだけで。
僕にできることは、きっとその程度のこと。
その間にも何度か息をして、結局そのままドアをスライドさせた。
開け方に応えてか、静かにスライドしたドアの先。
ドアから一番近い場所にあるベッドの上と、その周り。
病室は穏やかな話し声に包まれている。
さっきまでの頭の中の喧騒はいつの間にか静まっていて、ただ彼女らを見つめ続ける。
彼女らは驚いたような表情をしていた。
「──はぁっ──っ、はあっ──」
何と言えばいいのかと考えて、耳障りな呼吸音が喉から震え出ようとする言葉を溶かし落とす。
開きっぱなしだったドアが、後ろで閉まる音がした。
「山吹、さん」
やっと、やっと彼女の名前が出てきた。
言葉を紡ぐのに、何度も肺が苦しく締め付けられる。
「もう、大丈夫だから」
考えたうちの一欠片しか言葉にならない。
伝えたいことだけは言葉にならない。
余分な飾りだけが、ざらざらとした喉を通り過ぎていく。
「後は、僕に任せてくれ」
なんて拙い言葉だろう。主語ぐらい付け加えなければ。
それも既に忘れて、次の言葉を考えている。
彼女の顔が見えない。どんな表情をしているのだろう。
「だから、山吹さんは──」
目蓋に流れてきた汗に目を閉じる。
腕で粗っぽく拭って、また目を開ける。
「ね、友也くん」
僕の名前を呼ぶ声は彼女だった。
その声にハッとして、彼女の顔を真正面から見る。
彼女は一歩だけこっちに近づいて、
「私、香澄と約束したんだ。一緒のステージに立とうって」
それは聞いたよ。
やっとそれが果たせるっていうときに限って、こんなことが起こってしまったんだ。
また山吹さんがステージから離れていくんだ。
「母さんが運ばれて、でも約束は果たさなくちゃいけない」
でも、彼女は泣いてなんかいない。確かに笑っている。
強がりでもなく、ただ僕が来たことに安堵を覚えるように。
「友也くん」
呆けるように思考を止めた頭に、彼女の声が響いている。名前を呼ばれると、ハッとして彼女の顔にピントを合わせる。
「私は、大丈夫。ちゃんと約束は守る。守りたい」
静かな病室、というのは錯覚だと思った。
本当はきっともっと沢山の話し声だとか、物音だとか、誰かが歩く音だとかが聞こえてくるのだと思う。
でも今だけは、彼女の声だけが僕の耳を揺さぶっている気がした。
「だから、友也くんに頼らせて」
彼女の姿だけにピントが合っている。
瞳の内の僅かな光の揺れ動きまで、自然とその姿だけに目を向けている。
「友也くん」
ああ、また名前だ。名前を呼ばれるんだ。
その声が、その言葉が、僕の脳を揺さぶっていて堪らない。我慢ならない。それを聞くだけで、迸る思考を全て溶かされてしまう。
「母さんと、妹たちをお願い」
その言葉で、やっと彼女からピントが外れる。
彼女から一歩奥のベッド、その上と周辺にいる三人の姿を認めた。
彼女がそちらの方を向く。
「いってきます、母さん」
「ええ、いってらっしゃい、沙綾」
「純と紗南も、母さんの言うこと聞くんだよ」
「うん、分かった」「いってらっしゃい、お姉ちゃん」
そんな会話を見つめていた。
彼女はもう一度こちらに向いた。
晴れやかな、というか、すっきりした、というか。
曖昧だけれど確かに明るい顔で、彼女は言う。
「頼りにしてるよ、友也くん」
ふっ、と。右隣に風が吹いた気がした。
彼女がそこを通って言ったのだと分かったのは、後ろから廊下の冷たい風が入り込んできたときだった。
ああ、強いな。
僕が心配なんかせずとも、彼女はもう振りきれていた。
誰かに頼ることを知った。そして、もう頼れる誰かがいた。
彼女を縛るものはもう無かった。
ただ、親友との約束のために走ることができるようになっていたんだ。
ああ、嬉しい。
烏滸がましくも、僕がいたことでできることがあるのだと、確かめられたから。
根付いていた小さな不安の芽は枯れている。
「友也くん」
僕を呼ぶ声。千紘さんのものだった。
同時に、病室に響く喧騒が一斉に僕の耳に届いてくる。
冷めきったワイシャツが急に気持ち悪くなって、着替えるものもないからとそのままに。
声に誘われるように、千紘さんの横たわるベッドの側へと向かう。
「来てくれてありがとう、そしてごめんなさい。また迷惑を掛けてしまったわね」
少しだけ目を伏せている。
山吹さんに似て──いや、山吹さんが繊細なのが、千紘さん譲りなのだろうかと漠然と考える。
それに声を掛けようとしたけれど、刹那、千紘さんが顔を上げる。
「それでも、ありがとうの方が大きいわね」
そう微笑む千紘さんに何も言えなくなる。
きっと最近の無理が祟ったのだろうと思う。
思い当たる節は、僕が彼女と喧嘩をしていたときくらいだ。
あの頃から、千紘さんがお店に顔を出す機会は多かったから。
きっとまだまだ解決しなきゃいけないこともある。
山吹さんは進み始めたばかりだから。
進み始めたばかりの君に。
僕ができることは、どれだけあるのだろう。
「ね、友也くん」
意識を頭から視覚に切り換える。
なぜだか千紘さんが不思議そうな顔をしていた。
「沙綾のこと、好き?」
音が消えた。
僕に声を届ける彼女がいないから、本当の静寂が僕を襲う。
込み上げてくるものがあった。
けれど、決して戸惑うようなものでは無かった。
返答は決まっている。
音はすぐに戻ってきた。
「──はい、好きです」
自然に、ふわりと、風が吹くように。
予想以上に優しく、落ち着いた声で返事をする。
その言葉を発してから少しだけ間があって。
千紘さんはまた、ふっと微笑んだ。
「そう、うん。友也くんなら安心ね」
その言葉を聞いて、なんとなく彼女の気持ちを知る。
なんだか、自分の気持ちを知るのにとても長い遠回りをしていた気がする。
「きっとあの娘も友也くんのこと、好きよ」
特に驚くわけでも無かったけれど、すとんとその言葉が耳に響いていた。響いて、そこら中で跳ね返っていた。
「ね、友也くん。あの娘のこと、よろしくね」
何度か聞いたことのある言葉だった。
でも、今まで聞いたどの時よりもその言葉が実感を伴って聞こえていた。
手を握ってから開いてみる。
窓の向こうを覗いた。
確か今日はまだ雲があったはずだけれど、窓から見えた空は確かに、雲一つ無く晴れ渡っていた。