恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
地面を叩くスニーカーから軽快に音が鳴る。
息を吐く音に一定のリズムを感じる。
天頂に近付きつつある太陽が、頭上から強い日差しで照らす。
常に吹き付ける向かい風も、時折背中を押す追い風も、そのどちらもが涼しい。
見慣れた景色を遡るように、追いかけるように、後ろへと流し続ける。
いつか、こんな風に走ったことがあった。
そう、キミがうちで働き始めた頃。
お店の前で見たキミの涼しい顔がすぐに思い浮かぶ。
お客さんの名前を覚える機会は少ない。
特に、私と同じくらいの世代の人たちは常連であっても名前を知らないことの方が多い。
そう思うと、彼は不思議だ。
沢山いる、名前も知らないお客さんの中で、彼と関わる確率はどれくらいだったんだろう。
あの日、星が浮かび始めたばかりの夜。
蒼空が窓から覗いていた時間。
思い出した。冬だ。
雪の降らない、寒い冬の夜だったんだ。
「……売り切れ……」
情けない声を上げるキミ。
お店の中には他に誰もいなくて。
含みのある言い方をするなら、二人きりだった、なんて。
他のパンへと目を移すキミに、袋に入れたコッペパンを持ち出して。
「いつもコッペパンとるから、ひとつだけストックしてありますよ」
そうやって声を掛けたのは、大きな出来事でもない、ありふれた偶然だったのだろう。
初めて、面と向かって話をした気がしたんだ。
レジの向こう側のキミじゃない、一人のキミと話ができたから。
「いつもコッペパンを買いますよね」
「シンプルな味が好きなだけですよ」
一度距離が縮まってしまえば、その先の歩みはだんだんと早くなって。
口調が崩れたのは、いつだったかな。
名前を知ったのは、いつだったかな。
「……山吹さんは、どんなパンが好きなのかな」
ああ、そうだ。
キミが最初に名前を読んでくれたんだ。
なんだかちょっとくすぐったくて、でもそれを表情に出さないように堪えて。
でも、キミもなんだか照れくさそうにしていた。
「──ところで、キミの名前。私はまだ知らないんですけど」
その場の勢いで。
多分自然に尋ねられていたんじゃないかな。
キミの真似をして、お互い名字で呼び合って。
寒さの厳しい冬の中で、暖かな手の熱を感じるのが嬉しかった。
「鴻くん、合格おめでとう。はい、これ」
「これはサービス? こちらこそ、ありがとう」
いつの間にか木々の芽が出るような時期になっていた。
父さんや母さんとコソコソ話すキミを見かけるようになった。
秘密にされていることにちょっと距離を感じたりした。
妬いてるわけでは無かったはずだ。まだ。
「おかえり、山吹さん」
とても、とっても驚いた。
ふわふわとした天気の日だったから、まさか幻じゃないかと疑って、でも幻でもなんでもなくて、隣にキミがいるという不思議がなんだかとても心地良くて。
「これからも、よろしくね」
夜を背景に背中を向けるキミが珍しくて、ちょっとだけ悪戯をしてみたり。
すぐにドアを閉めたのは恥ずかしかったからだって、今なら素直に認められる。
「そろそろ名前で呼び合わない?」
夜に紛れて、闇に紛れて。
赤くなった頬が隠せていれば良かったけれど。
友也くん、友也くん。
彼にもそろそろ、私のことを名前で呼んで欲しいかな。
「ああもう、絶対彼と目合わせられないよ……」
だらしない人と思われなかったかな。
変な女の子とだと思われなかったかな。
そんなことばかり心配していて、そんな理由で目を合わせられなかったという幸せを、どう言い表せばいいのだろう。
「あ、ペペロンチーノだ」
私の好物がペペロンチーノだなんで、どこで知ったのだと思いきや、母さんからの入れ知恵とは。
律儀に作ってくれるキミも優しいんだろうけど。
自分で作るよりもちょっとだけ味が薄くて、パスタが固めで。
ああ、なんだかキミらしいかもなんて。
「やっぱり、料理がおいしいって言ってもらえるのは嬉しいよ」
とても美味しそうに食べてくれるものだから。
機会があればもう一度くらいご馳走させてほしいかな。
ああ、そうだ。
その後だったんだ。
街路樹が並ぶ大きな道路を通り過ぎた。
景色が変わると、学校までの距離がより具体的に掴めるようになる。
このまま走って、あと十分もない。
少し細く、でもきちんと整備された道を走り続ける。
今までBGMのように小さく聞こえていた息の音が、急に大きくなったように感じられた。
今は何時だろう。
約束まで、あとどれくらい残されているんだろう。
分からない。分からないけれど。
大丈夫。絶対に間に合う。
ああ、そう。お皿を洗っていたんだ。
ちりっ、と。
まるで火傷したかのような感触だった。
「…………っ!」
まるで沸騰したように心は跳ね回っていて。
お椀が転がる音も、さっきまで聞こえていたリビングの向こう側の話し声も、流れ続ける水の音でさえ。
一瞬は消えて、でもまた戻ってきて。
時間が経つほどに、指先の熱だけは冷めることがなくて。
「ああ、もう…………」
暗い部屋、星空の見える窓の、その縁。
手を掛けても、ただ手すりの冷たさを感じるだけで。
「熱いなぁ……」
夜風に当たる顔も、頬も、指先も。
ああ、そうだね。
心も、熱かったんだよ。
「……ねえ、私がキミと知り合って何ヵ月経つのかな」
暗い、でも空はそれなりに明るい帰り道。
少しだけ湿った風の吹く、雨の前の日だった。
「みんなのこと、よろしくね」
本当は、今こんな風に走っているなんて想像もできなかった。
私は、ステージの下から見上げるだけだって思っていた。
輝き続ける香澄たちを、ただ近くで見守るだけだと思っていた。
学校が見えた。
入り口から校舎の中まで人で溢れかえる中を、半ば強引に、走ってきたままの勢いで駆け抜けていく。
下駄箱で靴を履きかえるのに手間取って、落ち着け、落ち着けと懸命に自分に言い聞かせて。
よく知る自分の学校を、何かにぶつかったら危ないくらいの速度で駆けていく。
あと、少し。
あと少しで、約束が果たせる。
長くて苦しいときがあった。むしろ、その方が長かった。
「最近の友也くん、何か変だよ」
ああ、来たんだ、って。
いつか、彼だって知るときが来ると分かっていた。
その先の暗闇から目を背け続けていて、避けられない別れを知らない振りをして。
「もう、私たちは仲良くなりすぎたんだよ」
あのときに、心にヒビが入った気がした。
それが何なのか、すぐには分からなかった。
でも、すぐに分かったんだ。
「────好き」
壊れに壊れて。
割れて、粉々に飛び散ったそれは、とても綺麗な色で輝いていた。
割れてから見つけたそれを、それを。
「──キミが、好きなの」
香澄とまで喧嘩をして。
ボロボロで。
でも、目の前に飛散するそれは眩しいくらいに輝いていて。
綺麗に光るそれを集めようとすれば、指先も、手のひらも、赤く傷つく。
青くて、痛くて。
集めるのを、簡単に諦めようとしていて。
「もう少しだけ、話をしようか」
そこに、向こう側から手が伸びてきたんだ。
かき集める度に傷つく手を見て、赤く斑点を作るそれを見て、どうして、って、なんで、って。
「山吹さんは、もう一人じゃない」
苦しそうな、痛そうな。明らかにそんな顔をしながら。
でも口元はどこか笑っていて。
集めた欠片を、一つも溢さないようにこちらに差し出すキミの姿。
「キミの手、暖かいね」
一人の手じゃ包めなかったそれを、二人で。
人の目を見て泣いたのは、初めてだったかな。
繋いだ手の暖かさが、とても愛しくて。
零した涙が暖かいことに、その時初めて気が付いて。
「ありがとう、友也くん」
隣にキミがいることが、何より幸せだった。
出会いが偶然だったとしても。
積み重なる日々のそれぞれが、大したことのないものだったとしても。
声を交わして、言葉を紡いで、手を重ねて、手のひらを合わせて、指先を絡めて。
そんな
泣くのも、笑うのも、喧嘩をするのも、全部が全部、キミとの大切な想いの欠片。
確かに私は今走っている。
私は確かに、前に向かって走っているんだ。
そうだ、だから私は──。
気がつけば、目の前に扉があった。
スマホの時計を見る。発表まで、あと一○分程。
体勢を立て直して、息を重ねる。
この先。
この先に、ステージがある。
この先で、香澄が、みんなが待っている。
「行ってくるね」
誰にも聞こえないはずの言葉。
でも確かに、きっと、伝わっているはずだ。
最後に小さくキミの名前を呼んで、重たいドアを開け放つ。
光はきっと、走り続けた先にあるから。
──だから私は、キミに恋をするんだ。