恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
さっきまで、うたた寝をしていた。
日が傾くにつれて病室を訪れる人々は少なくなった。
静かな病室には時折暖かな風が吹き込み、小さく音を立ててカーテンが揺れている。
純くんらは眠たげな眼のまま、まだ日が沈まないうちに、退院した千紘さんに連れられていった。
病院の入り口で千紘さんたちとは別れた。
『あの娘のこと、よろしくね』
来たときよりもゆっくりだったけれど、駆け足で花女へ向かった。
道中、ポピパのポスターを見かけた。
チョココロネだとか、星だとか、ウサギだとか。
色んな絵の描かれた中に、メンバーの名前が書いてあった。
『Dr. 山吹沙綾』と書かれていた。
花女に着いたときには、もう文化祭を訪れている人々の姿はなかった。
代わりにメッセージが届いた。
『もしかして、母さんから迎え頼まれたりしてる?』
『頼まれてる。どこに行けばいい?』
『遅くなるから、先に帰ってていいよ』
近くの公園で待つことにした。
夢を見ていた。
どんな夢かは忘れてしまって、ただ、何かを見ていたという曖昧な暖かさがだけが身体に残っている。
どこまでが夢だったのだろうか。
慣れない場所で見る夢は、現実との境目を曖昧にする。
スマホからメッセージを確認してようやく、ああ、公園まで戻ってきた後に眠ってしまったのか、と理解した。
身の回りを確認して、何も盗まれたりしていないことを確認する。
公園に立てられた時計は七時過ぎを示している。
足にまとわりつく疲労と、背中を伝う冷たい風が少しだけ気持ち悪い。
乾かないワイシャツを、気休め程度に揺らしながら立ち上がる。
生暖かい向かい風が、自然と気分を落ち着かせる。
彼女は、驚いてくれるだろうか。
それとも、苦笑いして迎えてくれるだろうか。
多分後者だと思う。
一人でいると、声を出す機会も少ない。
鈴虫の声と、自分の足音、遠くから響いてくる車の音を全て混ぜて聴きながら、普段見慣れない学校を目指す。
街灯の少ない道は月明かりが頼りになる。
ふと、戸山さんの影がちらついた。
星が綺麗に見えていたからだろうか。
久しぶりに見上げる空には、目を凝らさずとも天の川が見えている。
三方に散りばめられた明るい三つの星も、月明かりに負けじと輝き続けている。
上ばかり見上げていたら、足がもつれかけた。一際大きな足音を立てて体勢を立て直す。
夜は、緩慢に過ぎてゆく。
さっきから、同じような制服を着た人たちと通り過ぎる。
ちらりと覗き見る顔は笑っている。
吐いた息が、影も形も作らぬまま空へと溶けていく。
皆、僕のことなど見えていないように歩いていく。
沢山の足音がする。
そのうちの一つが急に止まった。止まったと分かったのは、それが近くで止まったから。
見たことのある靴だった。顔を上げると、彼女がいた。
どうやら、さっき校門を出てきたばかりだったらしい。
彼女が笑った。
「もう、先に帰っててって言ったのに」
通行人のうち幾人かが、興味を示したようにこちらを見る。すぐに立ち去る人もいれば、止まって様子を見ている人もいた。それら全てを無視した。
「お節介ですまなかったね」
「ううん、嬉しいよ。ありがとう」
笑って、そう言う。
彼女の方へ歩み寄る。並んでから、彼女が歩き出した。
「それじゃ、帰ろっか」
進路を変えてから五分くらいが経った、と思う。スマホを開いていないから分からない。
彼女と話していると時間が早く過ぎるような気がするから、実はもっと経っているのかもしれない。
人は疎らで、少なくとも今歩いている道に人影は見当たらない。
街灯の数もさらに少なくなり、空を透かした白い月明かりが彼女の髪を照らしている。
色んな話をしていた。
初ライブは大成功を納めたらしい。ライブが終わった直後、戸山さんと牛込さんが飛び込んできて大変だったとも話していた。なぜだかその光景が目に浮かぶ。
あと、友達がビデオを撮っていたらしい。それを見せてくれるそうだ。
家族の皆にも見せてあげなよ、と言った。もちろんだよ、と彼女は返した。
やまぶきベーカリー花女支店は大盛況だったらしい。
「これからまた忙しくなるよ。みんな来るって言ってたもん」
「それは、いいことだね」
あ、と彼女が声を上げる。
「香澄たちも、お店手伝ってくれるってさ」
「……それは、大丈夫なの? バンドとか、山吹さん的には」
「忙しくなるのは事実だし、キミだけに任せるわけにもいかないもの」
表情に影は見られない。文化祭の興奮が未だに冷めやらぬ様子で、声のトーンもいつもより若干高い。
意外だ、という感想を得てハッとする。
山吹さんの周りにはもうこれだけ人がいるんだ。
もしかしたら僕の方が意固地になっていたのかもしれない。
「なんだか、僕がいなくても大丈夫な気がしてきたよ」
戸山さんが、その代表だった。
山吹さんに拒まれても、それでも諦めないと彼女は言っていたのを思い出した。
きっと僕がいなくても、彼女は山吹さんを連れ出していたに違いない。
正直な感想で、正直な悔しさで、認めざるを得ない嫉妬だった。
急に、山吹さんが遠くにいるように感じてしまった。
「そんなわけないよ」
あっさりと、その全てを否定される。
遠くにいるように感じてしまった彼女は、確かに今、僕の隣で歩いていた。
「ここまでやってこれたのは間違いなく、キミのおかげだよ」
偶然だった筈だ。
ただの、店員とお客さんの関係で、歳が同じだっただけで。
友達でも、ましてや同級生でも無かった、ただの他人だった。
「あの時、私は確かにキミに救われたんだよ」
正直に、分からないと思う。
結果的に成功しただけで、山吹さんを連れ出すという選択が正解だったかなんて、あの時は分からなかった。
頭に熱が上っていて、訳も分からず手を差し伸べただけだった。
「キミが私に、夢を見ていいんだって、そう言ってくれたんだよ」
僕は、彼女らのように凄くない。
楽器という、音楽という、バンドという、彼女らにとってのそういったものの大切さが分かっている訳ではないし、その熱意も計り知れなかった。
「キミがいたから、私はここまでやってこれたんだよ」
けれど────。
「キミがいたから、私は────」
けれど確かに、何かが変わったのだろう。
彼女に必要とされるだけの理由が僕にはあるのだろうと、ちゃんと分かる。
実感もなにも伴わない曖昧な感覚だけれど、悩んで、考えて、必死になったことが無駄じゃなかったと分かる。
それだけで「僕がいて良かった」と、そう思えた。
「だから、そんなこと、いなくても大丈夫とか、そんなこと、言わないで」
だんだんと声量が大きくなっている。それに気圧されて、ただ彼女を見ながら歩いている。途中で言葉が途切れても、そこに僕が付け入る隙はない。
「私にはキミが必要なんだよ」
長く、沈黙する。
彼女が足を止めて、こちらを見ている。突然止まった彼女に驚いて、彼女から一歩だけ離れた場所で僕も止まっていた。
彼女は僕を必要としてくれている。ちゃんと、分かる。
それは、とても嬉しいことだった。
「…………うん、分かった。ごめ……いや、ありがとう」
「うむ、よろしい」
ちゃんと、ありがとうと、そう添える。それに彼女は微笑んで応えてくれる。その笑顔を気付かれないように見つめる。
彼女が大きく一歩を踏み出して、僕との距離を詰める。それを皮切りにまた僕らは歩き出した。
気がついたら、辺りはさらに暗くなっていた。
地平線すれすれに見えていた夕焼けもいつの間にか消えていた。
「キミと外で話をするの、なんか夜が多いよね」
「そういえば、そうだね」
「勉強会の時も、蔵イブの時も。あと、仲直りした時も」
「……ああ、そうだね」
全て、とても昔のことのように思えてくる。
つい一週間とか、二週間とか。あるいは一ヶ月とか、二ヶ月とか。それほど最近のことなのに。
彼女が突然走り出す。
既視感を覚えて、そういえば蔵イブの帰りにこんなことがあったと思い出していた。
でも彼女は僕から離れずに、僕の目の前に回り込んだだけでこちらを振り向く。
月明かりが彼女を照らしている。けれど、以前のような寂しさだとか、そんな表情は浮かべていなかった。
彼女に進路を阻まれた僕は、素直に彼女の前で歩みを止める。
「ね、友也くん」
「うん?」
「そろそろ私のこと、名前で呼んで欲しいかな」
そこで初めて、彼女の顔を真正面から見た。
彼女の頬が僅かに紅潮しているように見えた。なぜか僕の心拍は早くなっていた。
周りの空気がやけに冷たくなった気がした。でもそれは僕の頬も少しばかり紅潮しているせいだと思った。
沙綾さん、なんて解答は求めていないはずだ。
勉強会の後の帰り道を思い出す。そういえば、あれから彼女の名前を呼ぶ練習はしていない。ああ、堂々と言おうだなんて、そんなことはできそうにない。
大丈夫だろうか。ちゃんと、噛まずに呼べるだろうか。沙綾、さあや、と。
彼女は今か今かと待っている。
喉の奥から言葉が中々出てこない。待ち受けて、やっと出てきたものを舌の上で転がして、吟味して、ようやく口から出す。
「……分かったよ、沙綾」
「えへへ、なんだかくすぐったい」
存外にすんなりと名前が出てきたように見える。
でも名前の前に、分かったよ、と付け加えなければならなかった。それくらいには照れくさい。
僕と同じように、目の前で照れくさそうに頬を染めて、でも僅かに微笑む彼女を見た。とてもかわいらしい。それを見つめているだけで、抵抗感も照れくささも、ふわりと浮かんで消えてしまう。
「そうかな、沙綾」
「む、からかってるね?」
彼女が眉をつり上げる。威嚇の意思などまるで無い。
沙綾、沙綾。とても新鮮で、とても優しい響きで、なんて安心する旋律だろう。
彼女が向こう側へ振り向く。歩き出した彼女の隣に、早足で追い付いて並び立つ。
近くなった距離の間で、お互いの手の甲が触れたり離れたりしていた。
向かい風が吹いてくる。冷たいような、でも生暖かくて、眠くなるような心地よさの風だった。
あとどのくらい話していられるのだろう。
ずっととは言わない、ああでも、別れの挨拶をするその時には時間が止まって欲しいなんて思ってしまうのだろうか。
「もう夏だね」
「海とか行く?」
「いいかも、ポピパも一緒でどう?」
「……海はみんなで、か。じゃあ、花畑とか」
「夏といえば、ひまわりかな。枯れないうちに見に行きたいね」
「じゃ、ひまわり畑に行こう」
「それは……じゃあ、二人で」
「うん、二人で」
「そっか、えへへ」
「楽しみだ」
「うん、楽しみだね」
月明かり、星明かり、数少ない街灯。
僅かな光が彩る道の向こう側に、小さく商店街の入り口が見えてきた。
乾いていなかったはずのワイシャツが乾いていることに、やっと気がついた。今更、そんなこと気にも止めなかった。
「もう七月なんだね」
「熱中症の患者とか、増え始めたらしいよ」
「うわぁ、私も気を付けなきゃ」
「沙綾まで倒れるとか、それは嫌だよ」
「……えへへ、善処します」
「なんで嬉しそうなのさ」
「名前、ようやく呼んでくれるんだなぁって、さ」
彼女がいる今日が、もうすぐ終わる。名残惜しい。まだ話していたい。そんな気持ちが言葉に先行して歩みを止めようとする。
でも、明日がある。
明日だってまた、きっと彼女に会える。
「空気、冷えるね」
「夏といっても始まったばかりだし、もう夜だからね」
「手袋がいる、ってそんなことは言わないけど、少しは冷たいかな、なんて」
また、手の甲が触れる。その感触を辿るように、彼女の手に指を這わせていく。
右手に熱が灯る。とても暖かくて、握り返してくる感触が例えようもなく愛おしい。
右手を伝って、身体全体にも熱が灯るような気がした。
顔が熱かったけれど、繋いだ手を離そうとはしなかった。彼女も、離そうとはしなかった。
不思議だった。自分にしては大胆が過ぎていた。
なんでこんなことができてしまったのだろう。
ああ、きっと夜のせいだ。
きっと街灯のせいだ。きっと星明かりのせいだ。きっと、月明かりのせいだ。
儚げな白い光に照らされる彼女は、筆舌に尽くしがたいほど綺麗で、可憐だった。
「ね、友也くん」
「ん?」
「これからも、手を繋いでくれる?」
とても穏やかな声だった。そんなこと、聞かなくてもわかっているくせに答えさせようとする。
「ああ、いくらでも」
「うん、嬉しい」
不意に手がほどかれる。互いを惜しむように、全てが離れることの無いように。
彼女の人差し指が、僕の人差し指と中指の間に入り込んで来た。
それに従って、指が絡まり合ってゆく。
手のひら同士が触れた。
ああ、言葉が漏れる。
言ってしまえ、言ってしまえ、と頭のどこかが叫んでいる。
唇が引き結ばれることはなかった。
舌で転がす間もなく、あまりにもそのままの形で、すらりと言葉は紡がれた。
「大切にする、絶対、幸せにする」
「うん、ありがとう」
どこかで鈴虫が鳴いている。優しい音色だった。
ふと隣を見る。満面の笑みではなかった。
でも、彼女は微笑んでいてくれた。
「でも私は、もうとっても、これ以上無いくらいに」
そう、そうやって、彼女にとても似合う素敵な笑顔で、笑ってくれている。
「うん、──この世で一番、幸せだよ」
絡められた手が、少しだけ、少しだけ。
指先が全部手の甲に触れるくらいに。されど優しく、決して痛くないように、きゅっと握り絞められていた。
次回、エピローグです。