恋を紡ぐ指先 作:ぽんぺ
蝉が鳴いている。
夏本番、と言ったところだろうか。
蝉の声を聞いているといよいよ夏らしさが溢れるように感じる。
冷房のよく効いた、涼しい部屋で聞く蝉の声は好きだ。あまりうるさいとその限りではない。
ドアを開けて、お客さんが一人入店してくる。
湿気の多い、お世辞にも暖かいとは言えない空気も一緒に入り込んでくる。
日傘を閉じる音と共にドアも閉まる。いらっしゃいませ、という挨拶に丁寧にお辞儀をして、そのお客さんは店内を歩き始めた。
文化祭の熱も抜けきり、伏兵のように潜んでいた期末テストも終わった、七月下旬。夏休みまでの短い期間は、どこか浮かれたような気分になる。
一月程の夏休みをどう過ごそう、だとか、そんな声が飛び交うクラス。全開にされた窓を見て、あるいは授業中に教科書の頁が捲られるのを見て、ああ、夏が来たのかと感じされられることも多い。
夏休みの課題、高校最初の成績表、まだ真っ白な進路表。
漠然とした大きなものに不安を覚えながら、それに対して何もできないまま日々を過ごしている。
朝、窓を開けた時に飛び込んで来る風も、あまり涼しいとは言えなくなってきた。
少し外を小走りするだけでも汗が吹き出るこの時期は、子供の頃と比べて苦手になっている気がする。
ガラス越しに外を覗いても、向こう側の景色は光に覆われていてとても白んでいる。
街路樹の影の形が、時間が正午に近いことを教えてくれた。
「今日の最高気温、三二度だってさ。暑いね」
窓の外を眺めていて、近づいてくる気配が掴めなかった。
レジを挟んだ対面に彼女が立っていた。
「真夏日か……もう何とも思わなくなってきた」
「学校に行って帰ってくるだけで汗が凄いよ」
「夜もなんだか蒸し暑いし。最近寝付きが悪い」
「それは私も」
今日は珍しく彼女も一日オフだそうで、お店の方を手伝っている。折角のオフなのだから店番など任せてくれればいいものを、「キミと一緒にいる時間も少ないから」と言われた。まったく、敵わない。
「在庫の補充は終わったの?」
「ちょうど今さっき」
「そろそろお昼だけど……」
「確かに、ちょっとお腹空いてきたかも」
会話を切って、彼女がこちら側へ入ってきた。
間もなくもしないうちに、お客さんがトレーを持ってやってくる。
もう随分とこなれた手さばきで会計を済ませてしまうと、「ありがとうございました」と見送る。
紙袋を片手に抱えたその人は、眩しそうに空を見上げてから、木陰に逃げるように小走りに店の前を去っていた。
「二人とも、お疲れ様」
「お疲れ様です、千紘さん」
「あ、母さん」
千紘さんの体調もこのところ良いらしい。
本格的に夏を迎えても暑さで体調を崩すことはないので、時々お店を手伝ってくれる戸山さんたちには頭が上がらない。
「二人にお願いなんだけれど……店番はやっておくから、お昼御飯の買い出し、頼めるかしら? 父さんも店番してくれるっていうから、折角だもの。沙綾も友也くんも、二人で、ね?」
悪戯っぽく笑う千紘さんと、苦笑いしながらも僅かに頬を染める彼女。
こちらに向かって手を振る千紘さんを背中に、二人で出掛ける準備をする。
僕はといえば、小さな肩掛けバッグに水のペットボトルと財布などを入れる程度で済んでしまう。
けれど彼女は少しばかり時間が掛かるらしく、僅か数分だけれど、ドアの前で彼女を待っていた。
ドアの前にいるだけでも、外で煩く鳴く蝉の声が届いてくる。薄手の靴下とスニーカーで揃えてきたけれど、それでも蒸れてしまうだろうか。
床を歩く足音に気がついて、その音の方向を向く。
「おまたせ」
「そんなに待ってないよ」
デートの待ち合わせに到着したみたいなやり取りを交わして、彼女が靴を履く。
爪先で何度か地面を叩いて、彼女が小さく「よし」と呟く。それを聞いてドアノブを掴んだ。
朝よりもよっぽど熱い風が顔に叩きつけられて、思わず顔をしかめる。開けかけたドアを、勢いのまま開け放ち、そのまま外に出る。
日差しは真上から差している。
遮るものもなく、天頂で悠々と輝く太陽が妙に恨めしく感じられて、腕で光を遮りながら空を睨んだ。
「うわ、予想以上にあっつい」
後ろでドアを閉めながら彼女が苦く笑う。まったくその通りだと同意して、帽子も持ってこなかった自分を後悔した。
道に一歩だけ飛び出す。近くの塀に手をついて、その熱さに小さく悲鳴をあげながら離した。後ろで彼女が笑っていた。頭に乗せたキャペリンは、僕の見たことのないものだった。
「それ」
「ん?」
「帽子、買ったの?」
「夏って言ったらこれかなぁって。似合ってる?」
そう言って、両手で唾を摘まむ。
目元が影に隠れていても、確かに笑っていると分かる。
「そりゃ、もちろん」
「ふふ、ありがとう」
手元に持っていた折り畳み傘を開く。さっきから直射日光がじりじりと肌を焼いていて、気になってしょうがない。
僕が傘を開いたのを確認すると、彼女から先行して歩き始めた。
彼女は前後をしきりに確認すると、そのままこちらを振り向いて、後ろ向きで歩いていく。
乾いた空気と、澄み渡る青空、その向こう側、摩天楼の間を縫うように入道雲が背を高く伸ばしている。
それをバックにした彼女は、とても綺麗に映えていた。
「あー、これ夕立来るよ」
「じゃあ、今日は早めに上がる?」
「……いや、夕立ならすぐに上がるだろうし」
「そっか、それは嬉しいな」
「……長く居られるから?」
「もちろん」
彼女はニコニコと笑ったまま、こちらを向いている。
最近彼女は笑顔を浮かべることが増えた。喧嘩をする前よりも、ずっと。
それが、僕が彼女に与えられたものなのかどうかは分からないけれど、正直どちらでもいい。
僕は彼女に隣に居て欲しくて、彼女は僕の隣に立ってくれているから。
ただ、それだけあれば良かった。大袈裟に言うなら、それだけで満ち足りていた。
彼女が隣に寄ってきて、けれど傘の下には入らない。
跳ねるような動作で戻ってきたせいで、頭のキャペリンがふわりと揺れた。それさえも綺麗に見えた。
「入らなくていいの?」
「私には、ほら。これがあるし。ちゃんと日焼け止めも塗ったからね」
「暑かったら言ってよ。傘ぐらい貸すからさ」
「心配性だなぁ、キミは」
「そりゃ、大切な彼女のことだからね」
「……心配性だなぁ、キミは」
少しだけ笑ったら、彼女に小突かれた。
頬を紅潮させながら優しく叩いてくる彼女が、面白くて、可愛らしくて、愛おしくて、今度は声を上げて笑った。
彼女は少しだけ力を強くして小突いてくる。
ひとしきり笑い終わったあと、彼女はまだ不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「……ほら、早く行かないと」
「うん、そうだね。行こうか」
涼しい顔をした僕のことが余程気に入らないようで、傘を持っていない僕の右手を掴むと、手を繋いだまま傘の中に入ってくる。
左肩が少し傘の影からはみ出たけれど、気にしない。
繋がれた手は、こんな真夏日の下だというのに暖かく感じる。
「汗っぽかったら、ごめんね」
「そんなの、全然気にしないったら」
さっきまでの不機嫌そうな顔が嘘のような笑顔を浮かべて、彼女が答える。それを見て、彼女が幸せそうならそれでいいかと、そう思った。
不意に、きゅっと手が握られる。
手のひらよりも暖かい、指先の部分が、僕の手の甲に触れていた。
ああ、彼女の指先はこんなにも暖かかったのか。
初めて手が触れた日のあの熱も、存外錯覚じゃなかったのかもしれないと思った。
こんなに小さくて、細やかなもので、僕らは想いを紡いできたんだ。
「ところで、昼御飯どうしよっか」
「はい、じゃあ麺類かご飯類、どっちがいい?」
「うーん、麺類で!」
「じゃあペペロンチーノだ」
「お、じゃあ美味しいの期待してようかな」
沢山傷ついて、幾度か掴み損ねて、中々届かなかった、小さな手のひら。その指先。
とても口下手で、とても不器用な二人だったと思う。
言いたいことは伝えられないし、素直にはなれないし、中々踏んだり蹴ったりで、前に進めなかった二人だったと思う。
「あ、そうそう!」
「どうしたの?」
「海に行く計画だよ。夏休みの中盤あたりでどうかって香澄が」
「お、いいね。今からなら予定に組み込んでおけるよ」
「海かぁ、楽しみだなぁ」
ああ、そうか。
口下手な僕らの素直な想いを繋いだのが、きっとなんてことのない指先だったんだ。
彼女と繋いだ右手に、少しだけ力が籠る。
なんてことのない、それでも、僕らにとっては特別なそれ。
「じゃあ、ひまわり畑の方は?」
「んー、夏休みの終わり? でも枯れてたら嫌だなぁ」
「夕方を狙って、でもいいかも」
「……それは虫が多そう」
「確かに」
じわりと伝わる暖かさが、何より大切だった。
伝わる気持ちが、何より愛おしかった。
傷跡が残っていたとしても、それすらまとめて包み込んでいる。
「あ、でも服装は決めてあるんだ」
「へぇ」
「白いワンピース。写真で見たのが綺麗だったんだ」
「絶対似合いそう」
「えへへ、ありがとう」
傷ついて、治して、触れて、繋いで、絡めて。
「もっと楽しみになってきたよ、夏休み」
「僕も」
僕らは淡く、ささやかに想いを作る。
「ね、友也くん」
「ん?」
僕らが繋いだそれは、きっと──
「ありがとう、大好きだよ」
「ああ、僕もだよ、沙綾」
──恋を紡ぐ指先、なのだから。
一言だけ。
読了、ありがとうございました。