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「挨拶、ですか……?」
ああそうだ、と彼の上司は告げる。かなり変則的ではあるが、ここ特異課へと配属されたばかりの新人の仕事としてはそこそこ妥当であろう。そんなことを述べながら、課長である中年の男性は彼に書類を手渡した。
「ついこの間、少しばかり厄介な人が引っ越しをしてきてね。霧江のような優秀な生贄が来たのはこれ幸いと」
「もう少し歯に衣着せてくれませんか?」
転職したばかりなのに即座に辞めたくなる。そんなことを思いつつ、霧江水無月は溜息を吐いた。渡された書類を眺め、住所を確認し。
一体何が厄介なのだろうか、と首を傾げた。資料によるとそこの住人は若い女性が一人。厄介と特異課がレッテルを貼るのだから、もう少し何か背筋に来るようなものを予想していたのだが。
「まあ、行けば分かるよ」
そう言って課長は笑う。その時点で猛烈に行きたくなくなったが、仕事は仕事、何となく嫌ですと言うわけにもいかない。何より妹の進学のために収入が不安定な『解決人』ではなく安定する公務員となったのだ。多少の理不尽は飲み込まねばならない。
それでも溜息の一つは許されるだろう。踵を返すと、では行ってきますと水無月は部屋を出た。そのまま車へと向かい、書類に記された住所へと向かう。
辿り着いたそこは、思った以上に大きな屋敷であった。人が一人で暮らしているとすればいさかか大き過ぎる。そんなことを思わず思ってしまうほどだ。
ネクタイの位置を直し、水無月は玄関であろう扉に立つ。どことなく西洋ファンタジーのような趣ではあったが、どうやら見た目だけらしい。扉の横に機械式の呼び鈴があるのを見付け、彼は少しだけ安堵した。
呼び鈴を押す。少々のノイズと共に、そこに備え付けられているスピーカーから声がした。
『あん? 何だ? 新聞の勧誘なら間に合ってんぞ』
資料の通り、若い女性の声。だがしかし、その口調はとても女性らしいとは思えなかった。粗暴で、ともすればチンピラのような口ぶりである。
が、水無月にとってそれは別に関係がない。別段気にすることなく、自身の名前と、来訪の理由をそこで述べた。
『ケーサツぅ? 何でだ、あたし別に何もやっちゃいねーぞ』
「それは重々承知しております。今回は、こちらの特異課固有の仕事といいますか」
『……特異課? あー、何か空港で言われたな。くれぐれも暴れないでください、とか』
向こうの女性の言葉に、水無月は思わず怪訝な顔をする。今の会話で、なぜ暴れる暴れないという話になるのだ。暫し考え込むような仕草を取ったが、しかし沈黙を続けるわけにもいかないと彼はそのまま呼び鈴のスピーカーへと。
ガチャリ、と扉が開いた。思わずそちらに目を向けると、一人の女性が、否、少女と言っても差し支えない人物がこちらを見ている。明らかに日本人ではない美しい顔立ちをしたその少女は、腰まで伸びている髪を靡かせながらジト目気味の目を向けた。ふむ、と水無月を眺めると、まあいいやと踵を返す。
「とりあえず、立ち話もなんだから、入りなー」
ひらひらと手を振る彼女の背中を見ながら、彼は我に返ったようにその扉をくぐった。
「んで?」
わざわざ挨拶とかどういうことだ。そう尋ねた少女に向かい、水無月は苦笑しながら頭を掻く。実を言うと、自分も良くは分かっていないのだ、と正直に眼の前の彼女に述べた。
「はぁ? 何だおめーさん、つーことはあたしが何かも分からず来たんか?」
「はい。恥ずかしながら」
「……く、ははははははっ! 何だそれ、ばっかじゃねーの!」
少女は盛大に笑い出す。椅子をギッタンバッタンさせながら、机をバンバンと叩きながら。何が可笑しいのか、ひたすら笑い続けた。そうしてひとしきり落ち着くと、彼女は改めて水無月を見る。
「そんな状態でも送り出されるってことは、機嫌を損ねないっつー確信を持たれてるのか、それとも、あたしを宥める程度には実力があるってことか」
「あ、あの……」
「おめーさん、名前は何だったっけ?」
「ああ、はい。霧江水無月です」
「ふーん、キリエ・ミナヅキねぇ……」
何かを思い出すような動きをとっていた少女であったが、出てこなかったらしくまあいいやと視線を戻す。とりあえず挨拶は受け取った、と軽い調子で流した。
「で、仕事は終わり?」
「そうですね、多分」
「……あんさ、あたしが言うのもなんだけど。それで済ませて本気で大丈夫なん?」
「と、いうと?」
水無月の言葉に、少女は小さく溜息を吐く。この部屋を見て何か思うことはないのか、と指を一本立てた。
彼が通されたこの場所は、いうなれば図書室だ。部屋全体が本棚となっていって、そこにこれでもかと本が詰められている。まだ空いている本棚もあることから、増える予定もあるのだろう。
問題は、その全てが普通ではないことだ。これは『魔法使い』やそれに連なるものが、怪異と共にある存在が執筆した魔導書。普通の一般人からすれば普通の本に見えても、一度開くと狂気に飲まれるものも一冊や二冊ではない。間違いなく日本では許可を取るだけで骨が折れる。
「本の所持については、許可を取っているんですよね?」
「そりゃあたしだからなー。ほぼ顔パス」
「なら、特に問題は」
「おい待て」
今のツッコミ入れる場所だろ。そんなことを言いながら立ち上がった少女は、こいつわざとやってるんじゃないだろうかとただでさえジト目気味の目を更に細めた。対する水無月、そう言われても、と頬を掻くのみである。
「貴女が強力な怪異に関する人物だというのは分かってますけれど」
「いやそれで流すなよおめー」
「そう言われても」
名前も聞いていませんし。そんなことを言いながら、水無月はバツの悪そうに視線を逸らした。最初に聞かなければならなかったそれを失念していたことに今ここでようやく気付いたのだ。
少女は再度大爆笑である。だから最初に言ったじゃないか、と机をバンバン叩きながら笑い転げた。少女の服装はスカートのため、捲れたそこから下着が見えたが、成人している身として彼はそっと見なかったことにした。
「あー、笑った笑った。うっし、んじゃ自己紹介しとくか」
ふう、と少女は息を吐く。そうしながら姿勢を正し、真っ直ぐに水無月を見た。
「あたしは『
「ビブロフィリア……? って、あの『
「お、知ってた知ってた。そーそー。あたしが、その、ビブロフィリアだ」
ビブロフィリアという異名は、本人が好き好んで名乗っているわけではない。ただ魔導書を集めることに熱中していたら、その過程で量産された被害者によって名付けられただけである。だから彼女の本名はもちろん存在し、そしてその名前、リタ・クレーメルという響きを割と好んでいるのも事実だ。
それでも彼女は基本的にまずはビブロフィリアと名乗る。その方が、色々と融通がきくからだ。
「変な奴だったなぁ」
ぎしり、と椅子を揺らしながらリタはぼやく。『本好きの魔法狂』の名前を知っていてもその姿を知らない輩は少なくない。だからそれそのものは別段興味を惹かれるものではなかったのだが。
「いや、待てよ。変な奴ら、か」
特異課、というからには怪異を専門とするのだろう。そこで厄介な相手と言われれば警戒してしかるべきで、だというのにあの男は少々変わった気難しい相手程度の気構えでやってきていた。加えて正体を知っても接し方が大して変わらないときた。
当然彼を送り込んできた上司にしろ先輩にしろ、分かっていてそうしたはずだ。生きる災害だの喋る破壊兵器だの、碌な噂のない『五大魔法狂』相手に。
「日本の警察が皆そんな感じ、なわけはないから」
この街の特異課が、文字通り特異なのか。一人ケラケラと笑ったリタは、立ち上がると手近な本棚から魔導書を一冊取り出した。ペラペラとそれを読みながら、彼女はこれからの予定を立てる。まだ見ぬお宝を探してちょっと滞在するだけのつもりであったが、ひょっとしたら案外面白いことが起きるかもしれない。そんなことを考えた。
「ま、つってもあたしは面倒が嫌いだしー」
パタンと本を閉じると、別の本を取り出す。それはそれとして自分から動く気力は湧かないのでとりあえず本でも読んでチャージするか。先程の意見をぶち壊すかのような、そんなことを考えた。
そうして彼女が動き出そうかと再度考えたのは、それから一週間が過ぎてからだ。そういえばそんなこと考えてたっけ。ふと朝食を食べながら頭に浮かんだそれを、今日はたまたま実行する気分になっていた。
ううん、と伸びをする。服を着替え、暇つぶしになりそうな本を一冊チョイスすると、それをカバンに放り込んだ。
「うし。じゃあ、《一度足を運ぼうと考えていましたの》」
普段の彼女とはまるで違う口調で、一言を呟く。そこに込められた魔法の一節が、いとも容易く世界を捻じ曲げる。ぐにゃりと景色が歪み、彼女は自身の書庫屋敷から一瞬にして警察署の前まで転移していた。
「確か手続きしろ、だったっけか」
あーめんどくさい。ポリポリと頭を掻きながら、警察署の受付へと足を運ぶ。特異課に行きたいんだけど、と告げると、一瞬目を丸くした後に場所を告げられた。
なるほど、とリタは頷く。日本はこういう時手続きさえすれば文句を言われないのだ。そんなことを思いながら、彼女は廊下を歩き端の端にあるその部屋の入り口へと立つ。一応礼儀は守っとくか、と軽くノックをした。
「ちーっす」
突然お来客に特異課の面々の注目が集まる。が、リタはそんなことを気にした様子もなく、部屋をぐるりと見渡した。別段何かしらの改装を施された様子もない。紛うことなき普通の部屋である。
「ひっでぇ部屋」
これで怪異扱ったら秒で壊れるぞ。思わずそんなことを呟いて、次だ次とこちらを見ている面々を見た。
中年の男が一人、若い女性が一人、若い男性が二人。それだけだ。机もその数と空いているものが一つだけ、間違いなくこれで全員だ。
「……大丈夫かこの街?」
何か怪異絡みのことがあった時、ヘタをしたら滅ぶ。柄にもなくそんな心配を込めた言葉を口にしてしまったリタは、そこで男性の片方がこちらに近付いてくるのを見た。
「ビブロフィリアさん、この間はどうも」
「はいはい。……って、ん?」
ガタガタ、と若い男女がドン引く。こっちは普通の反応だな、と思いながら、彼女は残る一人を見た。
「おっさん。あんたがここの責任者?」
「ええ、はい。私がこの特異課の課長を務めさせて頂いているものです」
それで、今回の来訪の理由は何なのでしょう。そう続ける課長の言葉に、リタは目を細めることで返答とした。自分は大丈夫だと勘違いしているのか、それとも。
よし、と彼女は決めた。先程の返答を翻すことにした。つかつかと課長の席の前まで歩いていくと、びしりと指を突き付ける。
「こないだ後ろのあいつに挨拶に行くように言ったのはあんた?」
「ええ。霧江ならば問題ないだろうと思いましてね」
「ふーん。でもあたし、貰ってないんだよね」
ぴくりと課長の眉が動く。何をでしょう、という彼の言葉に、リタは当然だろうと言わんばかりに胸を張った。そこそこの大きさのそれが、服を持ち上げ双丘を形作る。様子をうかがっていた若い男性はおお、と目を見開いていた。
「挨拶に来るんなら、手土産の一つや二つ、あんじゃね?」
「手土産、ですか……」
「そ。あたし曲がりなりにも有名人だし? それぐらいやってくれてもいいんじゃないかな?」
リタの言葉に、課長は考え込む仕草を取った。成程確かに、相手はある意味権力者。こういう時はご機嫌伺いの手土産を用意してもおかしくはない。警察としてはアレだが、ここは特異課、それくらいしなければ対処も出来ない。
「これは失礼しました。では近い内に何か」
「いや、今くれ」
ざわり、と僅かしかいない特異課の人間が息を呑んだ。眼の前のこの少女は一体何を言い出したのか、とその動向を見守った。
リタは笑う。思わず目を見開いた課長の顔を見て、してやったりと笑みを浮かべる。
「あたしは『本好きの魔法狂』。当然、手土産なら本だ」
「申し訳ありませんな。生憎と魔導書魔術書の類はここには――」
「無いなら、持ってくりゃいい」
そこで言葉を止めると、彼女はぐるりと振り向いた。いざとなったら取り押さえる、と言わんばかりの表情をした水無月を見て、リタの笑みはますます強くなった。
手をゆっくりと上げる。その動きで何かを行うと判断した特異課の面々は警戒態勢、あるいは退避を選択した。が、水無月だけは変わらず真っ直ぐに彼女を見ている。
「……おっさん」
「はい?」
「こっちだけ何か要求するってのもフェアじゃなかった。だから、こういうのはどう?」
そっちの仕事を一つ手伝うから、それに使われた魔導書をよこせ。振り向かずに、水無月を見たまま、彼女はそう告げた。この提案を断る理由は無いはずだ、と確信を持ってそう述べた。
「……そうですね。挨拶の手土産、という名目ならば、上もお目溢ししてくれるでしょう」
「課長!?」
「よし、交渉成立だな」
手を下ろす。ふう、と周囲の二人が息を吐くのを見て、リタは思わず吹き出してしまった。そうしながら、彼女は眼の前にいる男へと一歩踏み出す。
「そーいうわけだから。手伝ってやる。あたしが協力者とか、こりゃすっげーラッキーだかんね」
「……そうだといいな」
「お? 口調変わった?」
「もう、かしこまる必要もなさそうだからね」
「そーかいそーかい」
その方があたし好みだな、と笑うリタへ、水無月は苦笑することしか出来なかった。