子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける 作:ソノママチョフ
「なぜ……?」
静音は茫然と口を開け、立ちすくんでしまった。
今の状況は彼女にとって、理解できないものだったのだ。
耕作の飲み物へ入れさせた薬の効果は、まだ数時間は残っているはずだった。
ミーコを始末し、耕作を家へ連れ帰る。
それを可能とするだけの、十分な時間があるはずだった。
だのになぜ、彼は意識を取り戻せたのか。
その疑問には、すぐに答えが与えられる。
玄関のドアが開き、耕作の後ろからもう一人、別の人物が入ってきたのだ。
上下黒のスーツを着たその人物は、天井にぶつかりそうな頭をかがめつつ、勢いよく進み出て静音の前で土下座した。
「お嬢様! この加藤、いかなる罰もお叱りもお受けいたします! ですからこのようなことは、どうかもうおやめ下さい!」
巨体を丸め懇願する女丈夫の姿を見て、静音は呆気にとられてしまった。
その前で、加藤は尚も諫言を続けていく。
「吉良様を拉致するだけでなく部屋へ押しかけて狼藉に及ぶなど、正気とは思えません! どうか目を覚ましてください!」
加藤はそれから後も「なにとぞ、なにとぞ」と、やや時代がかった言葉を繰り返した。
静音も全てを理解した。
両手を腰に当て、怒りを抑えた、淡々とした口調で問いかける。
「加藤さん、まさか貴女が裏切るとはね。一応きかせてもらうけど、薬の効果が短かったのはなぜ?」
加藤は平伏したまま答え始めた。
耕作に飲ませた薬は、静音から依頼されたものではなかったのだ。
その薬は即効性はあるものの、持続性は薄かった。
それにレストランを出た後で、加藤は密かに解毒剤を耕作に飲ませていた。
説明を聞き。
静音は苦虫を噛み潰した顔で、命令した。
「そう、分かったわ。貴女への処分は追って伝えます。車に戻って待機してなさい」
「お嬢様……」
加藤は顔を上げ、静音を仰ぎ見た。
静音は加藤に一瞥をくれただけで、すぐに耕作に向き直った。
「ここから先は、私と彼の時間なの。貴女に割く時間なんて一秒たりともない。すぐに出ていきなさい」
主人から突き放され、加藤は捨てられた子犬のような顔を見せた。
よろけながら立ち上がると、静音に向かって一礼する。
そして、肩を落としたまま部屋を出ていった。
耕作は加藤とすれ違う際、声をかけた。
「ありがとうございました」
加藤を見送ったのち部屋へ入り、照明のスイッチを入れる。
そして真っ先に、ミーコへ声をかけた。
「ただいま」
「お帰りなさい、コーサク!」
ミーコは目に涙を浮かべた。
これ以上ない、最高の笑顔で耕作を迎える。
耕作も笑顔で応えた後、時計へと目を向けた。
「ぎりぎり日付が変わる前に帰ってこれたかな。約束を破らずに済んだ」
時刻は二十三時五十八分だった。
耕作とミーコはそれぞれ部屋の角、ちょうど対角線上に位置している。
二人の間には静音が佇んでいた。
室内には、緊張、疑問、愛情、といった様々な思惑や感情が混在し、充満している。
それは喉が締めつけられるような感覚をも、耕作に与えていた。
張り詰めた空気を打ち破るようにして。
静音が唇を開いた。
「いつから聞いてらしたんですか?」
「いや、今きたばかりですよ。まだ薬が抜けきっていないみたいで、足元もおぼつかないんです」
耕作は正直に答えた。
「だから今はまだ、何が起きているのかもさっぱり分からないんです。一体どうして……」
問いかけつつ、耕作は静音に歩み寄ろうとする。
ミーコが間髪入れずに警告を発した。
「コーサク、近づいたらだめ! そいつ、天使だニャ!」
「へ?」
警告を聞き、耕作は二重の意味で混乱した。
まず、静音が天使だという話が唐突すぎた。
さらに天使に近づいてはいけない、と言うのも意味不明である。
天使とは神の使いであり、正義の味方ではないのだろうか。
だがミーコの緊迫した表情と声からすると、ただならぬ事態に足を踏み入れようとしているのは間違いないようだ。
耕作はそう判断し、足を止めた。
静音が不快感を露わにした声をかけてくる。
「ずいぶん素直に、その化け猫の言うことを聞くんですね」
「ミーコは俺の不利益になることはしませんし、言いませんから」
答えると同時に、耕作は「しまった」と思っていた。
ミーコは、耕作を騙すようなことはしない。
一方、静音は薬を盛って拉致しようとした。
自分の発言は静音に対する皮肉にも取られかねない、と思ったのだ。
「でもまあ、約束を破って寝床に忍び込んできたりはしますけど」
と、静音をなだめるつもりで言葉を継ぎ足した。
だがそれは、明らかに逆効果であった。
静音は目に見えて逆上し、こめかみの血管を膨れさせてしまう。
耕作は慌て、今度は理論立った説明を始めた。
「でも今みたいにミーコを、超能力かなにかで拘束しているのを見ても、河原崎さんが普通の人じゃないのは分かります」
「……」
「それに誰にも連絡せず、一人でミーコをどうにかしようとしていたみたいですしね。それだけの自信と知識があるんでしょう」
耕作の説明を聞いている間も、静音はまだ剣呑な雰囲気を漂わせていた。
だがそれでも、次第に落ち着いてきたらしい。
溜め息を一つついてから、再び口を開いた。
「それで、これからどうされるおつもりですか?」
「どうしたらいいのかは、正直、俺にも分かりません。だから判断の材料が欲しいんです」
これが事態を解決する、最後のチャンスになるかもしれない。
そう考えながら、耕作は願い出た。
「俺やミーコに何が起きたのか。河原崎さんが知っていることを教えてもらえますか?」
静音は細く白い手を顎に当て、考える素振りを見せた。
だがそれは、ほんの十数秒ほどのことだった。
「聞いても仕方がないと思います」
「なぜですか?」
「私の結論は変わりませんもの」
「というと……」
「そこの化け猫を始末して貴方を家へ連れ帰る、ということです」
困った結論だ。
と耕作は思ったが、さすがに口には出さなかった。
やや癖のある頭髪をかき混ぜつつ、説得を試みる。
「俺やミーコに関わることです。せめて、納得できる理由を知りたい。納得してそれを受け入れるかどうかは、また別問題ですけど」
耕作はそこで、一拍の間を置いた。
続いて少年のように清雅な顔に強い意志の力を込め、静音へと告げる。
「少なくとも今は、その結論を突き付けられても全力で拒否しますよ」
耕作の決心を聞かされて。
静音はまたしても顎に手を当て、思考を始めた。
今度は数分間も考えた後。
静音は耕作を見つめ返し、答えた。
「分かりました。でも条件が三つあります」
「どんなことでしょうか」
「一つ。私が話す事柄については、他言無用に願います」
「もちろんです、分かりました」
元より誰かに話すつもりもない。
耕作からしてみれば、最初の条件は特に問題とも思えなかった。
「二つ。私が話す前に、まず貴方が知っていることを教えてください。私も全ての事実を知っている訳ではないんです」
「いいですよ」
耕作は、これまたあっさりと了承していた。
猫耳を生やしたミーコを目の前にしている以上、静音に隠す必要がある事柄など、もはや残っていない。
全てを話し、協力を仰いだ方が良いだろう。
と、耕作は思っていた。
耕作の返答を聞き、静音は頷く。
だが次に彼女が見せた所作は、耕作が予想だにしていないものだった。
淫猥と表現してよい笑みを浮かべ、媚を売るようにして耕作へにじり寄ったのだ。
「三つ。これから私のことは、静音って呼んでください」
「え?」
予想外の条件に、耕作は一瞬思考を止める。
だが静音の目は、本気であった。
ねっとりとした視線で耕作の口元を捉え、離さない。
「ねえ、早く呼んで。し・ず・ね。さあ早く」
静音は口から涎まで垂らしながら、せがみ続けた。
耕作は絶句していたが、やがて覚悟を決める。
ミーコがなにやら絶叫し暴れているのが目に入ったが、無視して口を開いた。
「し、静音……さん」
「んー……まあいいわ。許してあげる、耕作さん」
静音は両手を頬に当て、悦に入っていた。
その後ろでミーコは涙目になり、悔しさのあまり唇を噛んでいた。