子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける 作:ソノママチョフ
「そうですか、私が去った直後に悪魔が来ていたとは……」
静音は耕作の説明を聞き終えると、唇を歪め、悔しそうに呟いた。
彼女にとって悪魔の行動は予想外だったのだろう。
「しばらくここに残っていれば良かったのかしらね……まあ、もう遅いけど。ありがとうございます、よく分かりました」
「どういたしまして」
耕作の話が終われば、次は静音が事情を説明する番となる。
彼女は初めに、自分が天使であることと、耕作の母が亡くなった日に彼を見初め、それからずっと見守り続けていたという事実を告白した。
この時点で、耕作は既に頭を抱えてしまっている。
ミーコが猫だった頃、耕作は彼女の前で様々な痴態を晒していた。
後日それを思い出した時には、思わず赤面している。
ところが静音には、それ以上の痴態や醜態を見られていた訳である。
なにしろ自分の半生を覗かれていたのだ。
首を釣りたくなるような恥ずかしさを、耕作は覚えていた。
そして静音にしても、耕作とは別の意味で恥ずかしかったらしい。
恋心を告白した少女のごとく頬を赤らめ、うつむいていた。
「それにしてもなんで今頃になって、俺の前に姿を見せたんですか」
憔悴しきった顔で、耕作は尋ねた。
「仕方がなかったんです。私たち天使には、神様に定められた規則があります。そのため姿を現す訳にはいきませんでした」
申し訳なさそうな顔で語った後。
静音は詳しい説明を始めた。
「天使には使命があるんです」
使命とは人間でいうところの仕事のようなものである。
数多くいる天使が、それぞれ異なる使命を神から託されているのだ。
そして使命を遂行するとき以外は人間の前に姿を現してはならず、また力を振るってはならないともされていた。
ただし、悪魔に攻撃された、というような非常事態であれば別となる。
「私は神様から、三つの使命を託されていました」
神が静音に託した使命のうち、一つ目は「純粋で美しい心の持ち主を見つけ、その願いを神様まで届けること」であった。
さらにその願いは、直接本人の利益になるものであってはならない、とされていた。
本人に直結する願いだと私利私欲となってしまい、美しい心の持ち主として相応しくない。
他者の幸せにつながるものでなければならないのだ。
「あの日、そこにいる化け猫が抱いた『耕作さんに彼女ができますように』という願いは、この条件に当てはまりました。だから神様までお届けしたんです」
静音は、暗い目をミーコに向けた。
ミーコは座り込んだまま低い唸り声をあげ、静音を睨み返している。
二人の様子を眺めつつ。
耕作は「なるほど」と相槌を打っていた。
それから後、心に浮かんだ疑問を口にする。
「でも静音さんは、天使として勤めながら人間としての生活も送っていたんですか?」
「いいえ、それはこれから説明いたします」
静音は再び説明を始めた。
静音に託された使命のうち二つ目は「届けた願いごとが神様に受理されたら、それを実現させること」であった。
耕作は、またしても疑問を抱いた。
「つまり神様は願いを受け付けるだけで、実際にかなえるのは静音さんたちになるんでしょうか?」
「その通りです」
弾んだ声で、静音は答えた。
神様も、投げっぱなしな対応をするんだなあ。
と、耕作は考えた。
もっとも天国と人間界を治めているとなると、小さな願いごとを一つ一つをかなえて回るのは忙しすぎて無理なのかもしれない。
それで全能と言えるのか、という気もするが。
静音の話は、核心へと迫っていく。
「神様から許可を得て、私は耕作さんに彼女を作ることにしました。……正確に言えば、私が彼女になる、そのつもりでした」
静音の声からは、耕作に向けられた執念にも似た愛情が感じられた。
その底知れない響きに、耕作は思わず背筋を寒くしている。
「耕作さん、その為にこの身体を手に入れました。この身体の持ち主だった河原崎静音は、あの事故で死ぬ運命だったんです。それを変更して助けた上で、魂には肉体から出ていってもらいました。彼女は善行を積んでいたので、天国に行きました」
耕作は言葉を失った。
ただし心のどこかでは「やはりそうだったか」とも考えている。
あの時の状況を思い返すに、天使が発揮したであろう不思議な力の助けがなければ、静音は助からなかったはずなのだ。
その点は、耕作にも納得できた。
だが、まだ生きている人間の魂を抜き取ってしまうという手法には、やはり慄然とせざるを得ない。
身体を奪われて、静音本人の魂は何を思ったのだろうか。
やりきれない思いを抱きつつ。
耕作は問いかける。
「魂を抜き取るなんて、そんなことが可能なんですか」
「普通なら無理です。でも本来は死ぬ運命……寿命を迎えた人間ですから、それなら簡単です」
静音は、非情なまでに落ち着いた口調で述べ続けた。
「その後は、抜け殻になった身体に入り込んで記憶を合わせれば、作業は終わります」
過去の行いを語っているうちに、耕作への情念も燃え上がってきたのだろう。
静音の黒い目は、今や濃暗色となっていた。
その、深く暗い目に見つめられているうちに。
耕作は不思議な感覚を覚えていた。
五感が遠くなり、全身が静音へ引き寄せられていく。
意識もおぼろげになり、まともな思考ができなくなっていた。
頭の中では、静音の言葉だけが響き続けている。
「耕作さん。長い間まち続けて、やっと訪れた機会だったんです。私は貴方と一つになりたかった。この想いをかなえるために、心の美しい者が貴方の幸せを願う、その日が来るのを待ち続けました。それも、ただの幸せでは駄目だったんです。私が貴方と結ばれる、きっかけにならなければ……。そして遂にあの日が訪れたんです。あの日、あの瞬間、私の心は歓喜で満たされました。この点についてだけは、そこの化け猫に感謝しています」
静音は話しながらも、ゆっくりと耕作に近づいている。
耕作は身じろぎすらできないまま、その姿を眺めていた。
耕作は今、静音の術中に落ちようとしていた。
静音は言葉の端々に、密かに情愛の言霊を込めていたのだ。
それによって耕作の心を捕らえ、自身の愛欲で満たされた底なし沼へと引きずり込もうとしていた。
耕作には、その圧倒的な力に抗うすべはない。
静音の艶やかな声と深い瞳に魅入られ、そして畏れるあまり、蛇に見込まれた蛙のようになってしまっていた。
だが、この時。
自分に向けられた、少女の必死な叫び声を耕作は聞いた。
「コーサク、駄目だニャ! しっかりして!」
ミーコが拘束された身体を懸命に動かし、耕作に向けて這いずっていた。
目には涙が浮かんでいる。
その、青と黄の瞳を覆う透明な雫を見て、耕作は我に返った。
「待ってください。まだ質問があります」
頭を振りつつ右手を前に出し、静音の動きを掣肘する。
静音は一瞬、眉間に皺を寄せていた。
しかしすぐに表情を緩めると、穏やかな顔で「なんでしょうか?」と、尋ねた。
「ミーコのことです」
耕作はミーコへ目を向けた。
ミーコから縋り付くような視線が返ってくる。
耕作は優しく、そしてどこか悲し気にも見える笑みを彼女に送った後、再び静音に問いかけた。
「静音さん。貴女の力でミーコを完全な人間にするか、でなければ元の猫に戻すことはできますか?」
「コーサク、そんな!」
ミーコは叫び、さらに悲鳴をも上げた。
悲痛な声が、部屋中に満ちていく。
完全な人間になるのはともかく、猫に戻るのは彼女の本意ではないのだ。
静音はミーコを一瞥した後、頭を振った。
「それは無理です。元の姿に戻るには、悪魔と同意の上で契約を解除する必要があります」
「……では、悪魔に魂を奪われる、という約束を反古にするのも無理ですか?」
「いえ、それは簡単です」
静音は、楽しげな声で即答した。
耕作の心を埋めていた暗雲が、あっという間に吹き飛んだ。
ミーコを救う方法がある。
その希望が、彼に再び活力を与えたのだ。
だがそれも、ごくわずかな間のことだった。
「耕作さん。貴方と化け猫は、まだ男女の仲にはなっていませんね? もしそうなっていたら、貴方の性格からして元の猫に戻そうとは考えないはずですから」
「はい」
「じゃあ、今すぐその化け猫を殺しましょう。貴方の彼女になる前に死ねば、悪魔との契約は履行不能になります。魂を奪われるという約束も、当然なくなるはずです」
耕作は絶句した。
死人のように青ざめ、片膝をつく。
その様子を見たミーコもまた、ショックを受けていた。
ただし彼女は、自分が助からないという事実についてよりも、耕作の心がひどく傷ついたことを悲しみ、嘆いていた。
「コーサクをいじめるな!」
絶叫し、泣きわめき、静音に罵倒の言葉を浴びせかけた。
静音は心底あきれたような表情を浮かべる。
ミーコに向けて手をかざし、再び超能力を発動させようとした。
だがその動きは、苦渋に塗れた耕作の声によって遮られる。
「いや、ミーコを殺すなんて冗談じゃない」
耕作はうつむいたまま、重い口を開いていた。
静音は彼の前にかがみこみ、諭すようにして話しかける。
「でもそれ以外、方法はないんですよ?」
「……静音さん。魂は悪魔に取られた後、どうなるんですか?」
「分かりません。魂をどのように扱うのかは悪魔によって異なります。でも間違いなく絶望が訪れる、とだけは言えます」
苦虫を数十匹かみ潰したような表情を、耕作は浮かべる。
それでも彼は絶望に耐えて顔を上げ、静音を真正面から見据えた。
「だとしても、殺すなんて冗談じゃない。そんなことがミーコにとって幸せなはずはない。俺が解決する方法を見つけます」
「どうやって?」
「……今はまだ、分かりません。でも必ず見つけ出します。ミーコは俺が幸せにする。約束したんです」
静音の周囲に、目視できるほどの勢いで殺意のオーラが立ち上った。
耕作の心をここまで捉えた恋敵に対する、嫉妬心の現れである。
しかし彼女はこの時、自分を真っ直ぐに見つめてくる耕作の、少年の面影を残した力強い眼差しに抗い難い魅力を感じていた。
最愛の男の、これまで見た中で最も凛々しく美しい瞳が、そこにあった。
――この瞳を、眼差しを、私一人で独占したい。
その激しい欲求を満たすために。
静音は行動を始める。
「耕作さん、最後にお話しすることがあります」
静音は立ち上り、神から託された三つ目にして最後の使命の内容を、耕作に告げる。
それは「悪魔と、その企みを見つけ出し、痕跡をも残さぬよう排除すること」であった。
つまり今回で言えば、悪魔の力で人間になったミーコが排除の対象となる。
「やはり私の結論は変わりません」
静音が冷徹に告げる。
その途端、耕作の両手が見えない力で後ろ手に回された。
「静音さん、待っ……!」
抵抗する間もなかった。
耕作の両手首と両膝は、透明な輪で拘束されてしまう。
耕作はバランスを崩し、床に転がってしまった。
「コーサク!」
耕作の危機を見て。
ミーコは叫び這いずりながら、超能力を発動させようとした。
静音が即座に、右掌をミーコに向ける。
壁に肉体が激突する、重く激しい音が轟いた。
ミーコは壁際からずり落ちると、またしても苦痛のため呼吸ができなくなってしまっていた。
恋敵が無力化したのを見て。
静音は耕作の傍で膝をついた。
「でも使命なんてどうでもいいんです。それがあろうとなかろうと、耕作さん、貴方の隣にこの女がいるのは許せない」
静音は耕作の頬を、両手で包み込んだ。
顔を愛する男の、文字通り目と鼻の先まで近づける。
「耕作さん、私が貴方の恋人になります。将来は妻にもなるわ……いいえ、貴方が望むなら母にもなる。娘にも。姉にも、妹にも。友人にも、それこそペットにだって。貴方の周りに私以外の女なんていらないのよ」
静音は美しくも独占欲に塗れた、狂った微笑を浮かべた。
続いて思い直したように表情を引き締めると、目を潤ませ、声をも震わせながら告白の言葉を口にする。
「二十年ちかく待ち続けて、やっと言える……愛しています」
耕作は自分に向けられた、底知れない深さを感じさせる漆黒の瞳を見つめ返した。
瞬時に思考を巡らし、決断を下す。
全身の力を込め、首を上げた。
そして静音に唇を重ね、キスをした。