子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける 作:ソノママチョフ
室内が、昼に転じたかのように明るくなった。
耕作は身体を起こし、光の発生場所へ顔を向ける。
ミーコも目を開いた。
莫大な量の光は、二人の背後で発生していた。
倒れた静音の身体が、光の塊へ変化していたのだ。
あまりの光量に、耕作は思わず手を目の前にかざした。
ミーコは耕作にしがみついたまま牙をむき、威嚇する様子を見せる。
光の塊は今回も白い衣をまとった少女になった。
羽を最大限に広げ、立ち上がる。
そして目を血走らせ、こめかみに青筋を立て、口を開いた。
「やってくれたわね、この化け猫」
天使の恫喝に対し、ミーコよりも早く耕作が反応する。
ミーコを守るようにして天使の前に立ちふさがったのだ。
「静音さん、それが貴女の本当の姿なんですか」
「はい。こんな形でお見せすることになるとは、思っていませんでしたが」
天使は頬を薄く朱に染めながら答えた。
しかしすぐに表情を引き締めると、毅然とした口調で耕作に願い出る。
「耕作さん、そこをどいて下さい。先ほども言いましたように、私はその化け猫を殺さなければなりません。使命と、そして私と貴方の未来のために」
「お断りします」
天使は眉間に皺を寄せた。
「なぜですか?」
「ミーコを殺させる訳にはいきません」
「こういうことを言うのは心苦しいのですが。耕作さん、私を止められるとお思いですか?」
天使の言葉は静かながらも、有無を言わせぬ迫力があった。
だがそれでも、耕作は怯まない。
「……無理かもしれません。でも今の静音さんは相当ダメージがあるように見えます。ミーコだけは、なんとか逃がしてみせますよ」
普段と同じ、落ち着いた様子で耕作は答えた。
だがその発言には、根拠などなかった。
さらに言えば、耕作はミーコを助けられる自信も、本当はもっていなかった。
天使が持つ力の強大さは、十分に理解させられた。
その力を前にして、自分にどれほどのことができるとも思えない。
そしてなにより、ミーコが大人しく逃げるとも思えない。
とはいえ、最悪の状況は脱したのだ。
ミーコが期待に応えてくれた以上、今度は自分がやらなければならない。
なにがなんでも、ミーコだけは助けてみせる。
耕作はそう思い、天使に対峙していたのだ。
その決意の前には、自信の有無は問題にすらならなかったのである。
命がけで恋敵を守ろうとする、耕作の姿を見て。
天使は説得を始めた。
「耕作さん、よく考えてください。そこの化け猫が悪魔と交わした契約は、死ぬことで解除されます。それ以外、方法はないんですよ?」
「駄目です、お断りします」
「なぜですか?」
耕作は答える前に、一拍の間を置いた。
そして半ば自分に言い聞かせるようにして、心情を告げていく。
「俺の幸せは、ミーコが幸せになることです。今ここで死んでも、ミーコが幸せになれるとは思えません。……たぶん、俺の我がままなんでしょうけど。でもミーコが不幸なら、俺も不幸です」
耕作の言葉を聞き、天使の顔は鬼面へと変化していく。
他方、ミーコは喜びのあまり目を潤ませ、彼の名を呼び、後ろから抱き付いていた。
少女の温もりを背中で感じながら、耕作は断言する。
「だから俺自身のためにも、ここをどく訳にはいきません」
天使の心中で、嫉妬が激しく暴れ出す。
彼女の髪は比喩でなく逆立っていた。
だが同時に。
彼女の内では、耕作に対する愛情もまた、身を焼き尽くさんほどに燃え上がっている。
耕作の言葉には少年の純粋さと、青年の覚悟が混在していた。
その響きに、天使はまたも魅了されていたのだ。
彼女はさらに、耕作の柔和かつ整った顔立ちや、精悍な体躯を見つめ直し、その全てに酔いしれた。
情熱のおもむくまま、視線を愛する男の瞳へ向ける。
そして。
天使は耕作の瞳の奥に、あるものを見つけていた。
「……?」
耕作が、訝し気な表情を浮かべる。
天使の様子が急におかしくなったからだ。
目を見開き、頭を両手で抱えている。
うつむいた顔は、濃く深い陰で覆われていた。
口からは「そんな、まさか……」といった呟きが漏れている。
その様は「絶望」という言葉の、生きた見本と言ってもいい。
耕作は不審に思うと共に、天使に対する警戒を解き、声をかけようとした。
天使はその動きを遮るかのように、顔を上げる。
「耕作さん、それとそこの化け猫。二人とも動かないでください。大丈夫です、危害は加えません」
天使は右の掌を耕作とミーコに向け、目を閉じた。
数瞬の後。
耕作は、またしても天使の身体が光りだしたように感じていた。
だがそれは、誤りであった。
身体を発光させていたのは、耕作とミーコだったのだ。
二人から発した白色の光は、部屋の中で半球を形作る。
やがて収束し一点に集まると、一筋の光線となって天井を突き抜け、直上へと進んでいった。
深夜ではあったが、耕作のアパートから天に向け闇を貫いた光線を、多くの人が目にしている。
もっともほとんどの人は「今の現象はなんだろう」と疑問に思いつつも、すぐに忘れてしまっていたが。
光線は、やがて天に飲み込まれて消えた。
再び天使の身体が輝きだした。
光の塊と化した天使は、しばらくすると黒いパンツスーツを身につけた美女、河原崎静音へ変化する。
その身体はミーコによって破壊される前の美しい姿を、寸分の狂いもなく再現しているかに見えた。
しかし静音は、変身が終わるや否や床に片膝をついてしまった。
咳き込んだ口から、血が零れだす。
「この化け猫が……完全に修復するには、まだ時間がかかりそうね」
口元から出た血が首筋へ流れ、一筋の赤い糸となって落ちていった。
青白い肌に映えたその朱によって、静音の美貌も凄惨で妖艶なものへと引き立てられている。
「大丈夫ですか?」
耕作も今は、先ほどまで命を懸けて対峙していた相手ということも忘れ、静音の身体を気遣っていた。
静音は疲労しているにもかかわらず、精一杯の笑顔を浮かべる。
耕作は安心すると共に、問いかけた。
「ところで、さっき俺達になにをしたんですか?」
「今はまだ、知る必要はありません。いずれ時が来ればお話し致します」
静音は身体の埃を払うような仕草を見せ、立ち上がった。
ハンカチを取り出し、口元をぬぐう。
「その化け猫に負わされた傷の影響で、今日はもう、これ以上は力を使えそうにありません。残念ですが引き上げます」
と、静音は耕作に告げた。
負け惜しみなのかもしれないが、彼女の口調は毅然としており、悔恨の情など感じさせないものだった。
静音は耕作に向けて一礼すると、踵を返し玄関に向けて歩き出した。
ドアを開けたところで動きを止め、振り返る。
「耕作さん、私は必ず貴方を手に入れてみせます。待っていてください」
静音は凛とした表情で、最愛の男を真っ直ぐに見据えていた。
その姿を、耕作は素直に美しいと思っていた。
そして一瞬、惚けてしまっている。
もっともその様子に気づいたミーコが、静音に向けて唸り声をあげると、すぐに我に返ったが。
ドアが閉じ、静音は去っていく。
彼女の足音が消え車が遠く走り去るまで、耕作とミーコは一言も口をきかなかった。