子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける 作:ソノママチョフ
「これも地獄行きだ」
サラサの宣告を聞くと、静音の心と身体は一瞬にして凍りついてしまった。
死人のように青ざめたその顔を見て、サラサも目をみはる。
部屋はあらゆる物質が活動を止めたかのように、静寂によって支配された。
やがて静音の、一ミリたりとも動かなかった身体の中で、唇だけがわずかに開いた。
「……間違いはないのかしら」
「ない」
サラサは静音の異様な雰囲気に気圧されていたものの、それでも即答してみせた。
それによって落ち着きも取り戻せたのか、明瞭な口調で説明を始める。
「吉良という男は妖魔に魅了されてしまった。魂は既に汚れている」
妖魔とは先にも述べた通りミーコのことである。
耕作はミーコに惹かれたがために、邪悪な力の影響を魂に受けてしまった。
サラサはそう言っているのだ。
となると当然、天国としては彼を受け入れる訳には行かない。
「良い素質を持っていたようだが、惜しいな。とは言っても、あの妖魔のためなら神様にすら逆らいかねん。この男は、そこまで染まってしまっている」
サラサの説明を聞いても、静音は今だ氷像の如く微動だにしていない。
口だけを静かに動かし続けていた。
「天国に行く可能性は、もう残っていない?」
「ああ。君の方がよく分かっていると思うが、ひとたび妖魔に魅入られたら、それで終わりだ」
邪悪な力に影響された魂は、絶対に救われない。
だから無垢な魂を守るため、静音や、他にも数多くの天使たちが、悪魔を排除する使命を託されているのだ。
静音は天国のことわりと己の使命について、思い起こした。
目を閉じ、長嘆息する。
分かってはいたのだ。
静音は先刻、耕作の瞳の奥に黒い影が揺らめくのを見た。
それは彼の心身が、既に邪悪によって染められつつあることの証だった。
となれば耕作は地獄に落ちざるを得ない。
だがその結論は、静音にとっては受け入れがたいものだった。
だから万に一つの可能性に賭けて、彼の情報を天国に送り、サラサに調べてもらったのだ。
しかしその願いも虚しく、残酷な結論が突き付けられてしまった。
静音は立ち上り、目を開け、上を向く。
遥か上空にある天国へ思いをはせると、長い間そのままの姿勢を保っていた。
やがて、彼女は決断を終える。
顔をサラサへ向けると、落ち着いた声で礼を述べ始めた。
「ありがとう、サラサ。もう報告は結構よ」
「そうか。それで、これからどうするんだ?」
「天国に帰るわ」
「なに!?」
サラサは大声をあげていた。
さらに信じられないといった様子をも見せ、問いかける。
「ちょっと待て、なにを言っているのか分かっているのか?」
「ええ、分かっているわ」
サラサが動揺をあらわにしているのに対し、静音は今だ冷静さを保っていた。
声は淡々としており、かつ無機質で、およそ情というものを感じさせない。
サラサは息を飲みつつ、今度は説得を始めた。
「分かっているなら、今一度確認させてもらう。君の報告にあった化け猫、こいつは妖魔だ。そしてそれを見つけたのは君だ。つまり……」
「私はその化け猫を退治しなければならない。その使命がある、かしら?」
「その通りだ」
二人が話している通り。
悪魔排除の使命を託されている天使は、悪魔と彼らの企みを見つけた時には、本人がその事案に対するすべての責任を負うとされていた。
他の天使の助けを借りても構わないが、総指揮は本人が取り、問題を解決しなければならない。
しかし静音は、責任を全うせずミーコを放置したまま天国に帰還すると言っているのだ。
それはつまり、神の命令に背くということでもある。
当然ながら罰が下されるだろう。
「私は地獄に落とされ、堕天使となるでしょうね」
「そこまで分かっていて、なぜ?」
それが望みだからよ。
静音は口には出さず心の中だけで答えると、さらに思考を進めていった。
仕方がないではないか。
それ以外、方法はないのだ。
耕作は地獄に落ちる。
阻止する手段は無い。
ならば彼と共に居るためには、自分が地獄に行くしかない。
考えうる限り最悪の状況ではある。
だがそこには、耕作からミーコを引き離すための最後の希望もあった。
あの二人は遅かれ早かれ結ばれるだろう。
その予測は痛恨きわまりないものだ。
しかしその場合、ミーコの魂は悪魔のものとなる。
他方、耕作の魂は死後しばらくは地獄をさまようだろう。
つまり二人は、離ればなれとなるのだ。
ならば自分は堕天使となり、耕作の魂を手に入れてみせる。
そして永遠に手元に置いて、愛し続けるのだ。
静音は耕作への狂愛で埋め尽くされた未来図を脳裏に描きあげた。
唇を歪め、よこしまな笑みを浮かべる。
サラサは狂気に満ちた静音の姿を見て、背筋が寒くなるような感覚をおぼえていた。
それでも友人の暴走を止めるため、最後の説得を始める。
「人間と同化したり、どうも色々と無茶をしすぎたようだし情状酌量の余地があるとも思えん。まず確実に地獄行きだぞ?」
「分かってるわ。何度も言わせないで、私は天国に帰る」
静音は毅然として言った。
サラサは深く長い溜め息をつき、肩を落とす。
「人間として生活しているのなら家族もいるだろう。君が亡くなったら、彼らは悲しむんじゃないか?」
「そんなこと、気にする必要もないわ。もともと死んでいるはずの人間だし」
静音は相も変わらず、冷然と突き放した。
さらに善は急げとばかりに、肉体から天使の魂を解き放つため行動を始める。
目を閉じ両手を胸の前で組み、瞑想を始めたのだ。
「この身体ともさようなら、ね」
呟き、口元を小さく動かし始める。
サラサもついに諦めたのか、今は大人しく見守っていた。
「……?」
静音が口を閉じ、眉をしかめた。
サラサも異変を察し、問いかける。
「どうした?」
「……引き留められたのよ、この身体に」
「なに?」
サラサは、またしても絶句していた。
眼前では静音が、困惑した表情で自身の両掌を眺めている。
「君の他には、魂は入っていないんだろう?」
「ええ、もちろんよ。だからこの身体は、ただの抜け殻のはずなんだけど……」
「出られないのか?」
サラサの心に、今度は恐怖の感情が沸き始めた。
あり得ないことが起きている。
「いいえ、強引にやればなんとか……でも気になるわね。ちょっと時間をもらってもいい?」
静音の要請に、サラサは無言でうなずいた。
静音は再びベッドに腰かけ、額に右手の人差し指と中指をあてる。
目を閉じ、人間には聞き取れない音階の声で呪文を唱えた。
その音波に反応したかのように、カーテンが不規則に揺れた。
「同化する前にちゃんと精査したんだけど……もう一度、身体を調べ直してみる」
静音の全身が、青く淡い光によって包まれる。
光には光度の強い、球形をした部分がいくつも存在しており、機械仕掛けの如く走り回っていた。
静音の身体を調べ、報告を送っているのだ。
両足。
両手。
胴体。
心臓。
全て問題なし。
次々と送られてくる報告を聞き、静音は確信する。
「やはり脳か」
光球を停止させると、再び呪文を唱えだした。
全ての光球が静音の右手に集まる。
「深層まで潜り込まないと……」
呟くと同時に、静音は右手の指先を額に当てた。
光球が頭部へと吸い込まれていく。
途端に。
脳に刻まれた過去の記憶が、次々と静音の目の前で再現されていった。
大学生の頃から、高校生、さらにその先へと。
記憶は過去へ過去へと遡り続ける。
目に映る情景は、記憶が薄れていくためか次第におぼろげなものとなっていった。
所々かすれて見えないような部分も発生している。
遂には大部分を闇が占めるようになってしまったが、静音はそれでも、さらに記憶を遡り続けた。
底の無い穴の中を、ひたすら落ちていく。
そんな作業の果てに。
静音は脳のかなり深い場所で、固い箱のような記憶を見つけた。
中身を確認するため意識を集中させる。
しかし箱は、簡単には開かなかった。
静音は新たに光球を作り出し、集め、箱へぶつけ続けた。
持てる力を全て発揮して箱をこじ開けようとしたのだ。
箱は尚も抵抗を続けていた。
だがとうとう限界に達したのか、ひびが入るような音と感覚を静音に与え、破裂する。
静音の眼前に、鮮やかな光景が広がった。
そこは市街地にある、ブランコと砂場だけの小さな公園だった。
静音の身体は小さく、まだ小学生にもなっていないであろうと思われた。
目の前には、ままごとの道具が並んでいる。
その奥には一人の少年がいて、静音に笑顔を見せていた。
その少年を見るや否や。
静音は彼が何者なのかを悟り、喫驚した。
最愛の男が、そこにいたのだ。
静音と同じぐらい幼くはあったが、それでも耕作だということはすぐに分かった。
だがしかし、耕作のその姿は静音が初めて見るものでもあった。
耕作の母親が死去する、つまり静音が見初める前のものなのだろう。
幼い静音と耕作は、仲睦まじく遊んでいた。
だがしばらくすると、静音は幼い身体に緊張を走らせ、なにか重大なことを耕作に告げた。
その言葉は聞こえない。
記憶に残っていないのか、もしくは天使の力をもってしても暴けないほどに強く守られているのか。
それは今の静音にも分からなかった。
耕作は静音の言葉を聞き、驚いたような表情を浮かべる。
しかしすぐに強い決意と意志を感じさせる、まっすぐな眼差しを静音に向けた。
微笑み、静音に何ごとかを語りかける。
その声も、今の静音には聞こえなかった。
他方、幼い静音は耕作に微笑みを返している。
それから二人は小指を出し合い、指切りをして、何かを約束していた――。
そこで記憶は終わる。
静音は我に返った。
少しの間、茫然としていたものの、やがて唇を三日月型にする。
「そんなに大事な約束だったのかしら? 貴女自身、ほとんど忘れていたはずなのに」
嘲るような声に、サラサが反応した。
「どういうことだ?」
「いいえサラサ、貴女に言ったんじゃないわ……。ふん、先約を主張する気かしらね、この身体」
静音は立ち上り、腰に両手を当てる。
一呼吸おいてから、サラサに語りかけた。
「天国に帰るのは、まだ先ね。もうしばらくの間、人間として生活していくことにしたわ」
サラサはここまで、恐怖やら困惑やら、様々な感情に襲われ途方に暮れていた。
それでも静音の決意を聞くと、飛び上がって喜んでいる。
静音の手を取り、満面の笑みを浮かべた。
「そうか! 思い直してくれたか!」
「そういう訳でもないけどね」
苦笑しつつ、静音は考える。
耕作と恋仲になるために築き上げた計画は、計算外の事態に邪魔され続けてしまった。
挙句の果てには、耕作が将来、地獄へ落ちることにまでなってしまった。
そのため、自分は自暴自棄になっていたのだろう。
安易に地獄へ落ちるという結論を導き出してしまった。
確かに耕作を手に入れるには、もはや地獄へ行くしかないように思える。
だがそれもまた、自分の計算に過ぎない。
一方、自分の周囲では、今も計算外のことが起き続けている。
それならば、今はまだ見つけられていないだけで、現状から逆転する方法もあるのではないだろうか。
なにしろ、ただの抜け殻だったはずの身体が魂を引き留めたのだ。
このようなこと天国にいる天使の大半が信じないだろう。
ならばやってみせる。
ミーコを地獄に落とし、耕作とは人間界で結ばれ、死後も天国で共に暮らすのだ。
高望みにすぎる願いかもしれない。
だが地獄まで彼を追いかける気持ちは、微塵も変わっていない。
この覚悟がある限り、なんでもできる。
静音は決意すると、豊かな胸を張ってサラサに正対した。
「これからどうなるかは、まだ分からないけど。どんな結果になっても、まず初めに貴女に報告するつもり」
「分かった。今回の件については私のところで報告を止めておく」
サラサの返事を聞き、静音は久方ぶりの柔らかな笑みを浮かべた。
「感謝するわ。借りができたわね」
「気にするな、いずれ利子を付けて返してもらう」
サラサは、世の男性達が見れば一撃で籠絡されそうなウインクを、静音に贈った。
続けて羽を広げ、別れの挨拶をする。
「では、さようならだ。早く妖魔を退治して帰ってきてくれよな」
サラサは巨大な光の球に変身する。
光球は急速に縮み、蝋燭の炎ほどの大きさになると、そのまま消えた。
静音はしばらくの間、サラサが消えた後の空間を見つめていた。
やがてスーツ姿のままベッドへ寝ころぶと、枕を抱え、独り言ちる。
「あの化け猫は殺せない。殺せば私は使命を全うしてしまい、地獄に行く方法を失う」
一つ一つ。
静音は現状を確かめ、自身が向かうべき道を探していく。
「それに生かしておけば、いずれ契約が終了して、あいつの魂は悪魔のものとなる。耕作さんが地獄に落ちても再会する可能性は、ほぼゼロだわ。ここまでは良いのだけれど……」
静音の声音に、暗く重い響きがこもっていく。
「でも契約を終了させるためには、二人が結ばれなければならない……」
耕作とミーコが結ばれるなど、悪夢のようなものである。
静音は思わず歯ぎしりし、無意識のうちに両手へ尋常でない力をこめた。
腕の中にあった枕が、あっという間に引きちぎられる。
白い羽毛が飛び出して部屋中に広がった。
「まあ、私の話を聞いた耕作さんなら、しばらくは手を出さないでしょうけど。耕作さん……耕作さんの魂を天国に迎え入れる、その方法を見つけだせれば……」
そうすれば、ミーコを遠慮なく始末できる。
静音は使命を果たせる上に、耕作と人間界で結ばれ、死後も天国で共に暮らせるだろう。
「難解なパズルだけどね。必ず見つけだしてみせるわ、正解を」
部屋中に舞い上がった羽毛は、やがて雪のように降ってくる。
その華麗な眺めは、自分の未来を祝福してくれているように静音には思えていた。