子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける   作:ソノママチョフ

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誤算、のち帰還 一

「悪魔が現れた!?」

 

 耕作は帰宅するなり大声をあげていた。

 ミーコから日中の出来事について聞かされたためだ。

 

 取るものもとりあえず、まずはミーコの無事を確認する。

 彼女が一つの傷も負っていないと分かると、深い安堵の溜め息をついた。

 連れ立って部屋へ入り、ベッドに並んで腰かける。

 それからミーコを落ち着かせるため頭を撫でながら、詳しく話を聞いていった。

 

 話が終わると、耕作は再びホッとした顔を見せた。

 

「まあなんにしても、ミーコが無事でよかったよ」

「コーサク!」

 

 最愛の男が、なによりもまず自分の身を心配してくれたのだ。

 ミーコは感激した。

 瞳を潤ませ、彼の身体へ飛びつく。

 首筋を中心として全身を耕作にこすりつけた。

 

 耕作は身体に押し付けられる、柔らかくなめらかなミーコの肢体と、そこから発せられる甘い香りに酩酊しそうになっていた。

 身体中の血がたぎり、雄の本能が呼び覚まされそうになる。

 慌てて頭を振り、煩悩を追い払った。

 それから気を静めるため髪の毛をかき回しつつ、ミーコの話を心の中で反芻していく。

 

 悪魔はなぜ、契約を解除しようとしたのか。

 それは分からない。

 しかし探し求めていた切っ掛けを、遂につかめたかもしれない。

 悪魔の行動を静音に伝えれば、彼女の協力を確実なものにできるだろう。

 

 その理由は。

 悪魔はおそらく、ミーコの魂を奪うためだけに契約を結んだ訳ではない、ということにあった。

 もっと深い企みを隠している。

 耕作にそう思わせるほど、悪魔の発言にはおかしなところがあった。

 

 まず第一に。

 悪魔はミーコが猫に戻るよう、耕作が望んでいることを知っていた。

 契約成立後も耕作達の様子をなんらかの方法で監視していたのだろう。

 

 契約が遂行されるのを見守っていたのかもしれない。

 しかしそうなると、静音の妨害があった際に全く手を出してこなかったのはおかしいともいえる。

 

 第二に。

 ミーコが耕作に抱いている愛情が深まったことを、悪魔は喜んでいた。

 

 契約がうまく進んでいるのを喜んだのかもしれない。

 だが、直後には契約解除を申し出ているのだ。

 ミーコが耕作を好いていればいるほど、契約解除は難しくなるはずだ。

 それを喜ぶのでは、つじつまが合わない。

 

 そして第三のおかしな点は。

 ミーコの身体に起きた変化は二点なのかと、彼女に聞いていることだ。

 ミーコを人間にし、超能力も与えたのは悪魔のはずである。

 その本人がなぜ、わざわざミーコに確認したのだろうか。

 

 悪魔の考えは人間には理解できないものなのかもしれない。

 それにしても疑問を抱かざるを得ない。

 

 悪魔は何か深い企みをもって、ミーコと契約を交わした。

 さらに今日、どんな思惑を抱いたのか改めて接触してきている。

 これを静音に知らせれば、彼女の協力も得やすくなるだろう。

 

 静音は悪魔に対し相当な敵愾心を持っている。

 だから悪魔に対抗し、その企みを阻止するためであれば、耕作や、それにミーコとも足並みを揃えてくれるのではないか。

 

「甘い考えかもしれないな。でもせっかく訪れた機会だ、利用しない手はない」

 

 耕作はそう独り言ち、結論づけた。

 

 静音から全面的な協力を得られなくても、事態を解決する糸口ぐらいは見つけねばならない。

 まずは明日。

 静音に会って今日の出来事を伝える。

 

 それから彼女の協力を仰ぎ、天国や地獄について詳しく教えてもらう。

 なんとかミーコを救えるよう話を進めるのだ。

 全ては耕作の交渉、話術にかかってくる。

 

 耕作は正直いって、交渉となるとあまり自信はなかった。

 ミーコや静音が例外なだけで、女性と話すこと自体、苦手にしているぐらいである。

 だがそれでも、やらなければならないのだ。

 

「コーサク……」

 

 ミーコの小さな声を、耕作は聞いた。

 思考を中断し、彼女へ視線を向ける。

 ミーコは密着していた身体を耕作から離すと、両手の人差し指を突き合わせ、恐る恐るといった様子で問いかけてきた。

 

「怒ってる?」

「なにを?」

「私が猫に戻らなかったことを……」

「いいや」

 

 耕作は一瞬、沈黙した。

 だがすぐに柔らかな微笑みを浮かべる。

 ミーコの頭を撫で、彼女の不安を取り除くべく語りかけた。

 

「ミーコが決めたことだ。それに俺のことを想って、そうしてくれたんだろ。とても嬉しいよ」

「コーサク!」

 

 愛情と信頼に満たされた返答を聞き、ミーコはまたしても涙目になった。

 耕作に抱きつき、先ほどに勝る勢いで身体をこすりつける。

 耕作は雄の本能を抑えるため、再び努力しなければならなくなっていた。

 

 再びミーコの頭を撫でつつ、彼は考える。

 ミーコへの答えは、嘘ではない。

 しかしそこには、彼女には隠した別の思いもあった。

 

 つい先ほど。

 自分はミーコが悪魔と遭遇し、無事だったことを喜んでいた。

 彼女の身体に傷一つなかったことを、喜んでいた。

 

 そして同時に。

 ミーコが変わらなかったことにも確かに喜びを抱いていた。

 自分に絶大な愛情を注いでくれる、類まれなる美少女。

 彼女が消えてしまわなかったことを喜んだのだ。

 

 この心情に気づいた時。

 耕作は激しく自分を恥じていた。

 

 自分はミーコを助けようとしているのではないか。

 それなのに彼女が魂を救う機会を逃して人間で居続けたことに、喜びを覚えるとは。

 これでは自分の欲望のためにミーコを犠牲にするのと、なんら変わりがないではないか。

 

 自分の気持ちは未だに、かくも曖昧なままなのだ。

 こんな男にミーコを責める資格などない。

 彼女は一直線に自分を愛し、恋人となるべく努力し、行動してくれているのに。

 

 耕作は大きく深呼吸をした。

 ミーコから身体を離し、真剣な顔を彼女に向ける。

 神妙な雰囲気にミーコは目を丸くした。

 

 数瞬の後。

 耕作は重い口を開いた。

 

「でもミーコ、もし今日と同じ状況に俺が立ち会ったとしたら」

 

 唇を閉じ、一拍の間を置く。

 そして自身の心にも刻み付けるようにして、彼は告げた。

 

「その時には、俺は悪魔に契約を解除するよう、お願いするつもりだ」

「コーサク……」

「それは分かってくれるかな」

 

 優しい、諭すような声だった。

 だがその言葉はミーコにとって、あまりにも悲しいものだった。

 実際、彼女は顔に陰を落とし、うつむいてしまっている。

 

 それでもミーコは、しばらくすると顔を上げた。

 そして涙目ながらも精一杯の力で笑みを浮かべ、

 

「うん」

 

 と、頷いた。

 

 

 ――――――

 

 

 耕作の計画は、いきなり頓挫する。

 

 翌日の朝。

 いつものように静音からメッセージが送られてきた。

 耕作はさっそく、

 

「今夜お時間を頂けませんか。お話ししたいことがあります」

 

 と、申し出た。

 

 静音は間違いなく大喜びして、了承するだろう。

 彼はそう思っていた。

 しかし返答は、

 

「耕作さん、申し訳ございません。今夜はお会いすることができません」

 

 というものであった。

 

 これには耕作も面食らってしまった。

 当然、理由を尋ねる。

 ところが静音の返答は、歯切れが悪いというか、とにかく会えないの一点張りだった。

 思わぬ状況に、耕作は頭を抱えていた。

 

 

 ――――――

 

 

 翌週月曜日。

 耕作の勤め先にて。

 

 耕作は他部署とのミーティングのため、会議室へ移動するべくエレベーターを待っていた。

 この間にも、彼は思案を続けている。

 

 考える内容はというと。

 勤め人としては残念なことに、差し迫ったミーティングについてなどではなかった。

 静音について考えていた。

 耕作はこの日に至るまで、静音には会えないままだったのだ。

 

 静音から送られてくるメッセージの量は、以前と変わりない。

 大量かつ頻繁に送られてきていた。

 文面も以前と変わっておらず、耕作への執心と、愛情が込められたものだった。

 

 メッセージを読む限り、静音の耕作に対する愛情は変わっていないように思えた。

 ところが彼女は、対面だけは頑として拒んでいたのだ。

 

 なにか真っ当な理由があれば、耕作も納得できる。

 例えば出張にでも行っているのなら疑問に思うこともないだろう。

 ところが静音は、理由についても言葉を濁したままだったのだ。

 

 高く小気味の良い音が耕作の耳に届いた。

 エレベーターが到着したのだ。

 耕作は思考を続けたまま、数名の先客がいるエレベーターへ乗り込んだ。

 

 このビルの清掃員は非常に勤勉な人々であるらしい。

 エレベーターの中も綺麗に掃除がされていた。

 壁面にも染み一つない。

 小さな花と蝶の模様が描かれている壁紙を眺めながら、耕作は尚も考え続けた。

 

 ひょっとすると、悪魔が現れたことと静音の変化には、なにかしら関係があるのではないか。

 偶然にしてはタイミングが合いすぎている。

 

 となると、静音に危険が迫っている可能性もある。

 悪魔に影響され、耕作に会いたくても会えない状況に陥っているのかもしれない。

 だとすると一刻も早く彼女を助けなければならない。

 

 しかし逆に、静音に会うことで耕作に危険が及ぶのかもしれない。

 静音の性格からすると、耕作と会うためなら自分の身などかえりみないはずだ。

 だが耕作に危険が迫るということになれば、対面も躊躇するに違いない。

 なぜそんなことになるのかと言われても、正直さっぱり分からないのだが。

 

「どちらにしても、交渉うんぬんとか考えている場合じゃなさそうだ」

 

 静音に会うまでは悪魔の話は伏せているつもりだった。

 しかし彼女の変化を見る限り、事態は思った以上に進んでいるのかもしれない。

 静音には、取り返しがつかなくなる前に悪魔の行動を教えておく必要がある。

 

「今日中に、電話なりメッセージなりで悪魔について伝えておこう」

 

 耕作は決断した。

 

 再び高い音が鳴った。

 エレベーターが停止している。

 目の前にある扉が、静かに開き始めた。

 

 耕作は人の流れに乗り、エレベーターを出て、考えごとをしながらも歩き出す。

 そうして十数メートルも進んだ時。

 彼は、周囲の様子がおかしいことに気がついた。

 

 壁に貼られている掲示物が見慣れないものになっている。

 廊下に並ぶドアの配置も、どこかおかしい。

 次の瞬間、耕作は悟った。

 

「しまった」

 

 考えごとにふけるあまり、目的の階を通り過ぎてしまったのだ。

 思い返せば、そもそもエレベーターのボタンを押した記憶もない。

 自分のうかつさに呆れつつ、耕作は来た道を引き返し始めた。

 

 廊下には所々、観葉植物がならんでいた。

 照明にも美術品のような装飾が付いている。

 この階にはおそらく役員のオフィスや、特に重要な来客を迎える部屋などが設けられているのだろう。

 平社員の耕作にとっては、あまり居心地のいい場所ではない。

 

「それに、万が一……」

 

 嫌な予感に襲われ、耕作は呟いた。

 

 直後。

 耕作にほど近い場所にあったドアが開いた。

 中から数名の男女が出てくる。

 そのうちの一人を目にして、耕作は思わず声を上げた。

 

「あっ」

 

 静音がいたのだ。

 彼女もすぐ耕作に目を向け、

 

「え?」

 

 と、呟いていた。

 

 偶然にも程がある。

 と、耕作が自分の悪運を祝うべきか呪うべきか迷っている間に。

 静音は表情を、目まぐるしく変化させていった。

 

 彼女はまず、口を丸くして驚きをあらわにした。

 続いて花が咲いたような笑みを浮かべ、視線も熱く、ねっとりとしたものにする。

 

 しかしそれも一瞬のことだった。

 すぐに我に返ったのか、笑顔を収める。

 さらに狼狽しきったように手を口に当て、叫び声をあげた。

 

「耕作さん! 今すぐ離れ……!」

 

 そこまで話したところで。

 静音は言葉を止める。

 気を失ったのか、目を閉じ、表情を消し、その場で崩れ落ちた。

 

 耕作は静音の様子に呆気にとられていた。

 それでも危機を察すると、間髪入れずに彼女へ駆け寄った。

 

「静音さん!」

 

 膝をつき、美女の身体を抱きかかえる。

 

 周りにいた静音の同僚と思しき人たちも、困惑と驚きの声を上げていた。

 彼らは静音だけでなく、耕作にも次々と声をかけてきた。

 しかし耕作の耳には、その言葉は届かない。

 彼は今、静音の安否だけに気を取られていたのだ。

 

「静音さん! 大丈夫ですか!」

 

 必死になって呼びかけたが、返事はなかった。

 耕作は救急車を要請するべく、スマートフォンを取り出した。

 

 その時。

 耕作の腕に、白く細い指が添えられた。

 静音が手を差し出し、耕作の動きを制止したのだ。

 

「静音さん?」

 

 耕作は不安と喜びの入り混じった声で、問いかける。

 

 静音の瞼がゆっくりと開いていった。

 黒く美しい瞳は、すぐに耕作へと向けられる。

 

「ああ……」

 

 静音の口から漏れ出たその声には、感極まったかのような響きがあった。

 目には、あっという間に涙があふれていく。

 静音は頬を赤く染め、耕作を掴む腕に力を込めた。

 

 今の静音の姿は、耕作がかつて見たことのないものだった。

 身体から指先、さらには髪の毛の一本一本に至るまで生命力が満ち、光り輝くかのようだ。

 神々しいばかりの美しさに、耕作も思わず息を飲んだ。

 

 彼が見つめる、その前で。

 静音の唇が開いていく。

 

「……会いたかった、会いたかった、こーくん。私です。静音です」

 

 その言葉には、万感の思いが込められていた。

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