子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける 作:ソノママチョフ
耕作のアパートへと続く坂道は、街灯と月明かりに照らされているにもかかわらず、暗く静かだった。
彼の足音だけが響き続けている。
結局、遅くなってしまった。
ミーコは心配しているだろうな。
と、耕作は考えた。
にもかかわらず、彼の足並みはアパートへ近づくにつれて速度を落としていった。
今日の出来事をミーコにどう説明すれば良いのか、考えがまとまらなかったからだ。
基本的には起きたこと言われたことを正直に伝えるつもりだった。
だがミーコの影響で耕作に被害が及んでいる、などと話せば、彼女はショックを受けるだろう。
信じられない、そんなはずはない、と怒り出すかもしれない。
それに静音に対して、あまり敵対心を抱かせないようにもしたかった。
静音が天使から幼馴染に戻ったのは和解のチャンスでもある。
全面的に仲良くなるのは難しいだろうが、まっとうな話し合いができる程度には仲を修復しておきたかった。
考え続けるうちに、耕作はアパートへ到着してしまう。
結局、結論は出ていない。
これ以上は考えたところで堂々巡りだろう。
後は場の流れとミーコの機嫌を見て、どう話を進めるか判断するだけだ。
耕作は決断した。
大きく深呼吸し、ドアを開ける。
「ミー……」
「コーサク!」
耕作の足音を聞いて待ち構えていたのだろう。
ミーコが猛烈な速さで飛びついてきた。
そのまま耕作の胸元に首筋や頬をこすりつける。
あまりの勢いに、耕作は二歩ほど後退してしまっていた。
ミーコはさらに、耕作を玄関へ押し倒そうとする。
ところが、
「……ニャ?」
と呟くと、急に動きを止めた。
続いて耕作に抱き付いたまま、さかんに彼の胸元を嗅ぎまわる。
それから彼の肩や腕、さらには下半身に至るまで全身を嗅ぎまわった。
「どうした?」
いつもと異なる様子のミーコを見て、耕作は心配し声をかけた。
ミーコは彼の胸元に顔を埋め戻し、低い声で問い返した。
「コーサク、なにがあったの?」
「え?」
「コーサクから、あいつの臭いがする」
ミーコの宣告には、暗く重い響きがあった。
耕作の背に霜柱が立つ。
それは恐怖によって引き起こされた、というだけのものではなかった。
ミーコの周囲で冷気が渦を巻き始めていたのだ。
玄関先にある靴箱や、はては台所にある食器類も振動を始めている。
ミーコは怒り、既に超能力を発動させていたのだ。
耕作もすぐにそれに気づき、
「しまった!」
と、今更ながら己のうかつさを呪った。
ミーコの言う「あいつ」とは静音のことであろう。
静音とは先刻まで会っていただけではなく、昼間には抱きつかれてもいた。
そのため彼女の香りが耕作の身体に残っていたのだ。
ただそれは、耕作に限らず、常人であれば気が付かないほどのものである。
しかしミーコの鋭敏な嗅覚が逃すはずもない。
相手が静音であればなおさらである。
底知れない恐怖を感じ、ミーコの能力を甘く見ていた自分を呪いつつ。
耕作はミーコの両肩に手を置いた。
今もうつむき、肌に爪を立ててくる彼女をなだめながら、部屋の中へといざなう。
「話を始めるには最悪の状況かもしれないな、これは」
と、彼は心の中で嘆息していた。
「あの鳥公!」
ミーコは一連の話を聞き終えると、即座に怒声を上げた。
自分が傍にいない間に愛する男に手を出された。
そのうえ、自分によって彼が被害を受けているなどと吹き込まれもした。
静音に対する怒りはミーコの沸点をはるかに凌駕していた。
部屋の中では包丁やらドライバーやら、様々な凶器が宙を乱舞し始めている。
耕作はミーコの有無を言わせぬ迫力に、圧倒されていた。
だが、このまま放置しておくわけにもいかない。
ミーコの怒気をおさえるため、わざと的外れな言葉をかける。
「ミーコ、今のしーちゃんは鳥……天使さんじゃないぞ」
「ニャ!?」
思いもかけなかった指摘を受け、ミーコは面食らった。
爆発していた怒気が方向性を失い、頭の中を駆け巡る。
困惑する思考の中。
それでも彼女は憎い相手を罵倒する、新たな言葉を見つけ出した。
「うー……じゃあ、あのホルスタイン! 乳でか女!」
……。
あまりにも子供じみている。
というよりも、ミーコはひょっとして胸の大きさがコンプレックスなんだろうか。
と、耕作は考えた。
呆れると同時に、彼の恐怖心は薄れていく。
冷静な目を少女の胸元へ向けた。
ピンクストライプのパジャマに覆われている少女のふくらみは、歳相応には発達している。
少なくとも耕作はそう思っている。
まあ静音に比べると惨敗とまではいかなくても、大敗ぐらいはしているだろうが。
と、呑気かつよこしまな考えをも彼は抱いた。
「う~」
ミーコが鋭く睨み付けてきた。
耕作は慌てて胸から視線を外し、彼女の頭を撫でる。
ただミーコにしてみれば、この場合なぐさめられても嬉しくも何ともなかった。
「五年後には追いつくから!」
負け惜しみとしか取れない言葉を発し、ミーコは耕作に抱きついた。
同時に、周囲に舞っていた凶器が乾いた音を立てて床に落ちた。
耕作は、可能性を感じさせるような気がしないでもない少女の胸の感触を、身体で受け止めつつ、
「とりあえず、先のことを話し合える程度には落ち着いてくれたようだ」
と、安堵していた。
「それでいつ、あの乳でかと会うつもりなの?」
「うーん」
二人はベッドの上に並んで座りながら相談している。
耕作は髪の毛をかき回し、考えるそぶりを見せた。
だがそれも、長い時間ではなかった。
「次の日曜日にするつもりだよ」
「どこで会うの? やっぱりあいつの家?」
「いや。どこかのレストランに個室を予約して、そこで会うつもりだ」
いきなり静音の家に行くのは早計にすぎる気がする。
まずは耕作の魂が汚れているといった辺りの詳しい事情を聞いておくべきだ。
その上で、なにが最善の方法なのかを皆で話し合う。
それが耕作の考えだった。
それに静音とかかわりの浅い場所であれば、以前のように薬を混入されるといった、罠を仕掛けられる可能性も少なくなる。
今の静音は天使ではなくなったが、万が一は考えておくべきだ。
この考えは彼女には失礼にあたるものなので、心が痛む。
だがミーコも同席する以上、万全を期さなくてはならないだろう。
耕作は説明を終えた。
ミーコは横から彼を見上げつつ、問いかける。
「でもそうなると……」
「ん?」
「私も外出するんだよね」
「うん」
「大丈夫なの?」
ミーコは心配気な顔をしていた。
ただそれは、初めて外の世界に出る不安の表れ、というものではない。
人の目について騒動になり、耕作に迷惑がかかるのではないか、という点を彼女は心配していたのだ。
耕作はミーコの頭にある二つの突起物、猫耳に目を向けて考える。
たしかに彼女が世間に見つかってしまえば、それこそ世界中がひっくり返るような大騒ぎになる。
耕作にとっても悩みの種であった。
帽子をかぶらせ、猫耳と三色の髪の毛を隠し、サングラスとマスクを着用させる。
そこまでやれば猫の面影も、桁違いの美貌も隠せるだろう。
もっとも、見るからに怪しげな人物として逆に注目を集めてしまうかもしれないが。
「まあできるだけ近場に店を見つけて、出歩く距離も少なくすれば、大丈夫じゃないかな」
耕作は自分の不安も振り払うため、明るく声をかけた。
ミーコも弾んだ声で彼に話を合わせる。
「うん。それに夜なら、暗くて目立たないかもしれないし……」
「いや、ミーコ。出かけるのは昼間にするつもりだよ」
「ニャ!?」
ミーコは目を丸くした。