子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける   作:ソノママチョフ

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最後のかけら 二

 今から二十年ちかくも昔の、ある晴れた日のこと。

 静音はいつもと同じように家の近くにある公園で、耕作と遊んでいた。

 二人はままごとをして、これまたいつもと同じように夫婦役を演じていた。

 

 ただこの日の静音は完全にいつも通りというわけではなかった。

 胸に重大な悩みを抱えていたのだ。

 そしてそれを耕作に告げるべきか否か、迷い続けてもいた。

 悩みと迷いは暗く厚い雲となって彼女の心を覆いつくし、いつもは熱中するはずの遊戯に対しても、どこか上の空にさせてしまっていた。

 

 静音の普段と異なる様子に耕作も気づいたらしい。

 心配そうに声をかけてきた。

 

「しーちゃん、だいじょうぶ?」

「えっ……なにが?」

「きょうはなんだか、ぼーっとしてるよ」

 

 指摘を受け、静音は慌てた。

 両手を振りながら言い訳を始める。

 

「ちがうの、ぼーっとしてるんじゃなくて……」

 

 そこまで話したところで言葉が続かなくなってしまう。

 それからしばらくの間は下を向いたまま、ただじっとしていた。

 

 静音はやがて踏ん切りをつける。

 顔を上げ、大好きな少年の顔を真正面から見つめた。

 躊躇いつつ口を開く。

 

「あのね、こーくん……おはなししなきゃいけないことがあるの」

「なに?」

「……もうすぐおわかれしなきゃいけないの」

「え?」

「わたしのおうち、もうすぐおひっこしするんだって」

 

 耕作は口を大きく開け、呆然とした様子を見せた。

 そして立ち上がらんばかりの勢いで叫んだ。

 

「え……そんなのやだよ!」

 

 子供らしからぬ悲痛な声。

 それを聞き、静音の感情をせき止めていた心の堤防も決壊した。

 

「わたしもこーくんとはなれたくない! でも……でも……」

 

 静音の語彙は、まだ幼く拙い。

 彼女の悲しみを表現しきるだけの力は備わっていなかった。

 情の波は行き場を失い身体からあふれ出す。

 大きな瞳に、あっという間に涙がたまっていった。

 

 静音の、今にも泣き叫びだしそうな姿を見て。

 耕作は、はっとした顔になった。

 続いて思いつめたような表情を見せたかと思うと、大人びた、強い決意を感じさせる眼差しを静音に向ける。

 

 大好きな少年にじっと見つめられて。

 静音は一瞬、息が止まるような不思議な感覚をおぼえていた。

 心臓が高鳴り頬も熱くなる。

 これまで感じたことのない熱く激しい衝動が、彼女に襲い掛かってきていた。

 

 耕作は急に表情を変えた。

 優しくやわらかな、静音が大好きな笑みを浮かべる。

 

「しーちゃんは、ぼくといっしょにいたいんでしょ?」

「もちろん! でも……」

「じゃあ、まっててよ! ぼくがんばるから!」

「え?」

 

 静音には耕作の意図が分からなかった。

 口と目を丸くして少年を見つめ返す。

 すると耕作は、次から次へと言葉を投げかけてきた。

 そのどれもが力強く、決意に満ちたものだった。

 

「ぼくがんばっておかねをためて、しーちゃんをむかえにいくよ! そしたら、またまいにちいっしょにあそぼう! だから……すこしのあいだだから、まってて!」

 

 耕作の顔には太字で大きく「自信満々」と記されていた。

 自分の言葉を信じて疑わない少年の純粋な思いが、面上に現れたのだ。

 

 彼の顔を見て。

 言葉をかみしめて。

 静音は身体が、急速に暖かくなっていくように感じていた。

 心も、まるで太陽そのものにでもなったかのように明るく輝き始めていく。

 

 歓喜にあふれる気持ちのまま。

 彼女は問いかけた。

 

「こーくん、ほんとうに!?」

「もちろん!」

「やくそくしてくれる!?」

「うん!」

 

 耕作は迷うことなく右手の小指を差し出した。

 静音もすぐ、自分の小指を彼のそれと絡める。

 

「やくそく!」

 

 この時まで耕作は、静音に一度だって嘘をつかなかった。

 約束は必ず守ってくれた。

 その彼が断言してくれたのだ。

 耕作は、いつか必ず迎えに来てくれる。

 

 先ほどまで静音の心を覆っていた暗く厚い雲が、今はきれいさっぱり吹き飛んでいた。

 

 

 ――――――

 

 

「それからすぐ私はこの家に引き取られて……河原崎家の後継者としてふさわしい人間になるための、過酷な教育が始まった」

 

 静音の口調が急に変わった。

 耕作との思い出を語っていた時の弾んだ様子から、冷たく淡々としたものへと。

 

「辛くて苦しくて……身を削がれるような毎日が続いた。自分が何者かも分からなくなっていって……こーくんとの約束を心の支えにしていなかったら、私はもっと早くこの家に殺されてたと思う」

 

 静音の顔色も今は青白くなっていた。

 生気を感じられない。

 語る内容も含め、今の彼女は「絶望」という言葉を擬人化したかのような存在となっている。

 

 そんな静音を見て、耕作は苦悩する。

 彼女の残酷な様子に心を痛めたというだけのことではない。

 彼は今だ「約束」について思い出せなかったのだ。

 静音の話を聞き、懸命に記憶を探っても、当時の情景がかすかに脳裏に浮かぶ程度でしかなかった。

 

 なんと情けないことか。

 静音に申し訳ない。

 と、耕作は強い罪悪感を覚えていた。

 

 耕作のそんな気持ちを知ってか知らずか。

 静音は尚も語るのをやめない。

 

「でも結局、私の抵抗も儚いものだった……この家の娘としてふさわしい人間へ作り替えられてしまったんだから。こーくんのことも、ほとんど忘れさせられてしまった」

 

 そこまで話したところで、静音は口を閉じた。

 

 部屋の中が静まり返る。

 情景も絵画のように動かない。

 コーヒーの芳香だけが、ごくわずかに宙を漂っていた。

 

 静音になんと声をかければいいのだろうか。

 耕作は途方に暮れてしまっていた。

 

 なにを伝えればいいのか。

 どう声をかけるべきなのか。

 いくら考えても答えは見つからなかった。

 

 だがそれでも。

 彼女をいたわる、慰めの言葉をかけなくては。

 耕作は決意した。

 

 その時だった。

 

「でも」

 

 静音がつぶやいた。

 黒く美しい瞳に火が灯る。

 吐き出される呼気が熱く、勢いのあるものへと変わっていった。

 流れる黒髪も、目に見えて艶を増していた。

 

 静音の口調と表情が、またしても一変したのだ。

 先ほどまでの暗く冷たいものから、熱く、底知れないほどの執心を感じさせるものへと。

 

「でも、あの約束は生きていたの」

 

 一拍の間を置いた後。

 静音は、次から次へと言葉を紡ぎだした。

 

「お父様やお義母様や、他にも数多くの人々が望んでいた『河原崎家の娘』へと作り替えられていく中で……私の心は、それでもあの約束だけは守っていたの」

 

 静音は大切な、かけがえのないものを守るかのように、両手を胸の前で組んだ。

 

「心の中の奥深く……私ですら気づかなくなるほどの奥底にしまい込んで、何重にも封をして、守っていたの。いつか絶対、こーくんは迎えに来てくれる。それを忘れないために」

 

 静音は優しい、慈母のような微笑みを浮かべる。

 

「あの約束は私が、本当の私が、最後まで守っていたものなの。たった一つのちっぽけなかけら。でも……」

 

 静音はこみ上げるものをこらえるかのように、一度うつむいた。

 数瞬の間、その姿勢を保った後。

 顔を上げる。

 

「その小さなかけらが、こーくんを待ち焦がれる気持ちが、私を生き返らせる力になった。こーくんも、私が一番必要としていた時に、約束通り迎えに来てくれた。だから……あの約束が、こーくんが、私を助けてくれたの! 本当の私も取り戻させてくれたの!」

 

 静音は語り終える。

 それから先は涙のにじむ目で、ただ耕作を見つめ続けた。

 

 愛情と執心に満ち、どこか鬼気せまるかのような様相をも見せている静音を眺めながら。

 耕作は考える。

 

 幼い子供同士が将来の再会を約束する。

 それは世にありふれた、ごくごく平凡な光景だろう。

 自分と静音が特段めずらしいことをした訳ではない。

 

 大人になって再会したのも、結局は偶然だ。

 幸運だったのは間違いないが意図した行動ではない。

 そもそも自分は静音と別れてから約束を守る努力をしていただろうか。

 全く自信がない。

 

 だが静音は、二人の関係に運命を感じたのだろう。

 そのため過去の思い出を過剰なまでに美化してしまっているのではないか。

 自分は彼女が思っているような、奇跡を起こせるような立派な人物などではないのに。

 それが耕作の、無情ともいえる結論だった。

 

 ただ、だからと言って。

 自分の認識と異なるからと言って。

 静音の気持ちをはぐらかす、あるいは否定するようなことは彼にはできなかった。

 

 彼女は幼い頃のありふれた約束を、とても大事にしてくれた。

 さらには、その約束によって命が救われたと信じてくれているのだ。

 自分をこんなにも想い続けてくれたのだ。

 その気持ちを踏みにじるような真似はできない。

 

 耕作は一つ、大きな深呼吸をする。

 静音に正対し、幼いころと同じ真っ直ぐな目で彼女を見つめ、答えた。

 

「しーちゃん。長い間、待たせてごめん」

 

 その言葉を聞くや否や。

 静音は目に、今度は歓喜による涙をにじませた。

 閉ざされていた唇もほころび、花が開くような笑みを浮かべる。

 

 耕作は安堵する。

 しかし同時に、胸をえぐられるような気持ちをも抱いていた。

 

 ミーコのことがある。

 ミーコを一番大切に思う気持ちは今も揺るがない。

 静音の想いにどれだけ応えられるだろうか。

 最終的には彼女を悲しませることになるかもしれない。

 

 だが、諦める訳にはいかない。

 ミーコを幸せにするのはもちろんのこと、静音も傷つけたくはない。

 皆が幸せになる方法など、ありはしないだろうが。

 それでも、少なくとも自分を大切に思ってくれる人の気持ちには、精一杯こたえたい。

 

 と、耕作は心に誓っていた。

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