子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける 作:ソノママチョフ
何が起きている?
なぜ今になって、天使と悪魔がここに現れた?
なぜミーコと静音の戦いを止めたのだろうか?
耕作の頭は次から次へと湧いてくる、様々な疑問で埋め尽くされていった。
だが答えを見つけようとしても、衝撃でまともに考えることもできない。
愕然とし言葉すら失い、眼前の光景をただ眺め続けた。
ミーコと静音も同様の心境であった。
共に口をポカンと開け、立ち尽くしている。
静寂によって支配された、部屋の中。
壁に空いた穴から夜風が流れ込み、カーテンの切れ端や木の葉などを宙に飛ばしていった。
風は勢いのまま、悪魔の長い髪も舞いあげた。
悪魔は忌々しそうに乱れた髪をかき上げる。
「ようやく舞台は整った。茶番に付き合わされるのもこれまでだ」
吐き捨てるようにして放たれた悪魔の言葉に、ジーリアが反応した。
冷笑を浮かべ、悪魔を罵倒する。
「ベルゼブブ! 元をただせば全ておまえの馬鹿げた行動から始まっているのに、なにを他人事のように言っているのかしら?」
ジーリアの声は蔑んだ感情が露わとなった、突き放すようなものだった。
その声を聞き、耕作は我に返った。
ジーリアの発言には、彼の心に引っかかる単語が含まれていたのだ。
彼女に向け、声をかける。
「天使さん!」
「耕作さん、違います」
「え?」
「どうぞ遠慮なさらずに、私のことは『ジーリア』と、名前でお呼びください」
ジーリアが弾んだ声で要求してきた。
交際を申し込む少女のように、はにかんだ表情を浮かべ、両手も胸の前で祈るように組んでいる。
瞳にはいつの間にか恋情の炎が浮かび上がり、本来の青から瑠璃色へと変貌していた。
対する耕作はというと、
「この状況、前にもあったような……?」
などと頭の片隅で思いつつ、答えに窮してしまっていた。
ジーリアがにじり寄るようにして、耕作との距離を詰めてくる。
その様子を見て、ミーコと静音が騒ぎ始めた。
「いきなり現れて何いってんだ、この鳥公!」
「人の身体を勝手に奪った盗人が! 馴れ馴れしくこーくんに近寄らないでよ!」
二人は全速力で耕作の両隣を陣取る。
ミーコは牙を剥き、静音は眦を釣り上げてジーリアを威嚇した。
他方ジーリアは、無機質な眼差しで恋敵二人を一瞥したのみだった。
視線を耕作に戻し、先にも勝る情熱と迫力で懇願する。
「ねえ、早く呼んで。ジ・ー・リ・ア。さあ早く」
ガラス細工のように完成された美貌も、今や口元が緩み、だらしなく涎を垂れ流していた。
神の使途から淫猥とすら言える表情で迫られて。
耕作は絶句してしまっていた。
しかし、このままでは話が進まない。
呼び方を改めない限り、ジーリアはまともに話をしてくれないだろう。
と、彼は考えた。
事態を打開するため、思い切って口を開く。
「えー、ジーリア……さん」
「んふふ……なんでしょうか、耕作さん」
ジーリアは両掌を頬に当て、幸せを噛みしめるようにしながら答えた。
耕作の左右から、非難の視線が飛んでくる。
ミーコは涙目で哀願するように、静音は険のある目つきで問い詰めるようにして、耕作を見つめていた。
耕作はそれらの視線を強引に無視し、ジーリアに問いかける。
「そちらにいる悪魔……さんの名前ですが」
「はい」
「ベルゼブブさん、とおっしゃるんですか」
「その通りです」
簡潔な返答を聞き、耕作は息をのむ。
ベルゼブブ。
その名は、特に信心深くもない耕作ですら知っている。
数多くの文献に名を残す、大魔王だ。
そんな相手がミーコを人間にしていたとは。
ジーリアは耕作の驚いた表情を見て、彼の心情を察した。
両腕を組んで悪魔を睨みつける。
「地獄でも特に悪名の高い『蠅の王』ベルゼブブ。こいつが今回、耕作さんにご迷惑をおかけした訳です」
「おいおい。その人間が勝手に右往左往していただけのことだろう。俺の知ったことじゃない」
「何をぬけぬけと……!」
ジーリアはこめかみに血管すら浮かべ、憤怒の表情を見せた。
他方ベルゼブブは肩をすくめ、おどけたような所作をとっていた。
態度は違えどお互いを敵視しているのは明白だ。
天使と悪魔の火花が散るような対峙を目の当たりにしつつ。
耕作はそれでも、心を落ち着けて問いかけた。
「ジーリアさん、どういうことですか? ベルゼブブさんは俺たちに何をしたんでしょうか?」
ジーリアは、すぐには答えなかった。
人差し指で唇をなぞり、考え込むような仕草を見せる。
それから後、躊躇いがちに口を開いた。
「私が説明してもよろしいのですが……」
ジーリアは形のいい眉をひそめる。
続いて汚物にたかる蠅を見るような、嫌悪感に満ちた目をベルゼブブに向けた。
「やはり当事者であるこいつが話すべきでしょう。耕作さんへの懺悔も込めて」
「馬鹿馬鹿しい」
ベルゼブブは間髪入れずに拒否した。
「時間の無駄だな。そんなことをして何の意味がある?」
「耕作さんたちにも真相を告げること。それが神様とサタンの指示のはずだけど、もう忘れたのかしら?」
ジーリアが冷静に指摘した。
ベルゼブブは唇を歪めたものの、渋々といった様子で相手に理があることを認めた。
「そうだったな」
呟き、耕作に顔を向ける。
そして情のない爬虫類を思わせる目で、彼を見据えた。
ただ、それだけのことで。
耕作の背から大量の冷や汗が噴き出した。
ベルゼブブは脅迫している訳ではないし、危害を加えようともしていない。
冷たい目で見つめているだけだ。
それでも耕作は恐れていた。
古来より悪名を轟かせる大魔王の眼光には、それだけの力があったのだ。
耕作の身体は蛇に見込まれた蛙のようにすくんでしまっていた。
しかし耕作は思い出す。
ミーコも以前、ベルゼブブに対峙していたことを。
当時、彼女は一人ぼっちだった。
そのうえベルゼブブからは露骨に脅迫されたりもしていた。
それでもミーコは一歩も引きさがらず、ベルゼブブに対抗したのだ。
耕作の恋人になるために。
ミーコの想いの強さを、耕作は改めて思い知らされていた。
ならば自分も、ベルゼブブに負ける訳にはいかない。
心を奮い立たせ、睨み返す。
ベルゼブブがわずかに驚いた顔を見せた。
ただそれは一瞬のことで、すぐに唇の片端を上げ、耕作から視線を外した。
そして何事もなかったかのように話し始めた。
「事の始まりは、今からおよそ百年前になる」
今からおよそ、百年の昔。
ベルゼブブは地獄の最下層に居た。
途方もなく深く暗い地獄の文字通り底の底、最果ての地である。
地獄は全域が人間ではとても生存できない過酷な環境にある。
古来から伝えられている血の池、針の山といったものも、現実に存在しているのだ。
おまけに下方へと進むにしたがって、劣悪の度を増していくようになっていた。
最下層ともなると悪魔でさえ足を踏み入れない場所となる。
気候は絶対零度の極寒と、岩をも溶かすほどの灼熱が交互に襲ってくる。
それに伴い地は常に姿を変えていた。
山が隆起したかと思えば、次の瞬間には谷底となったりするのだ。
大津波が襲ってきたかと思えば、あっという間に氷山となる。
さらには蒸発して雲になり、雷を落とす。
当然ながらこのような場所に住む生物など皆無である。
地獄の帝王サタンですら滅多なことでは立ち入らないのだ。
ではベルゼブブはなぜ、そんな場所に居たのか。
その疑問に彼は、長い黒髪を指先でからめとった後、陶然とした口調で答えた。
「サタン様がひるむような場所でも、俺は恐れない。新たな力、可能性を求めて危地に足を踏み入れるぐらい、どうということもない」
「……などと気取ったことを言っていますが、実際はサタンへの反逆を企み、それが露見して追放されただけのことです」
ジーリアが呆れかえった声で、耕作にささやいた。
ベルゼブブにもその声は聞こえていたらしく、険しい顔で睨みつけてくる。
天使はどこ吹く風でベルゼブブの視線をやり過ごしていた。
悪魔ですら立ち入らない地獄の最下層。
となれば当然、他の生物にとっては生活どころか生存すらできるような環境ではない。
そのはずだった。
ところが。
ベルゼブブはこの最果ての地からの脱出を試み、あがき、さまよっているうちに。
ある、不思議なものを見つけていた。