子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける 作:ソノママチョフ
「嫌よ!」
静音は絶叫した。
散乱していた包丁やハサミ、釘や石片などの凶器が一斉に浮き上がった。
静音の身体からは冷気が放出され、周囲にゆっくりと渦を巻いていく。
激情のおもむくまま、彼女はさらに叫んだ。
「嫌よ、絶対に嫌! せっかく生き返れて……ううん、そんなことはどうでもいい」
静音は耕作に目を向ける。
「本当の私を取り戻して、こーくんに再会できたのに。また天国なんかへ戻されるなんて、絶対に嫌よ!」
その声は、怒号とも悲鳴ともいえるものだった。
しかしベルゼブブに動じる様子はない。
それどころか薄笑いさえ浮かべていた。
「そうはいかんな。おまえの魂とおまえの中にある種は、ここに存在してはならないものだ。あるべき姿に戻さねばならん」
冷淡な返答を受け、静音は怒りをさらに燃え上らせた。
まなじりを釣り上げ、顔を鬼面へと変える。
凶器の群れも急激に速度を上げていた。
「ちょっと待ってくれ!」
耕作がベルゼブブに向け、抗議の声を上げた。
これまでベルゼブブの話に愕然とし、さらに静音の迫力にも圧倒されていた彼ではあったが。
事ここに至って、ようやく我を取り戻せていた。
「しーちゃんは今までずっと、辛く苦しい人生を送って来たんだ。でもようやく解放されて、本当の人生を始められるようになった。それをここで終わらせるなんて、あんまりだ。だから……」
耕作は必死に、真心を込めて説得している。
だがベルゼブブに通用するはずもない。
悪魔は今も嗜虐的な笑みを浮かべたまま、耕作の話を露骨に聞き流していた。
ベルゼブブに話しても、らちが明かない。
耕作は悟った。
説得する対象をジーリアに切り替える。
「ジーリアさん、お願いです! しーちゃんを殺さないでください!」
ジーリアからの返答はない。
無表情かつ無言のまま、腕を組んでいる。
「ジーリアさん!」
耕作が再び呼びかけた。
彼の両隣では二人の女性が、異なる表情で事態の推移を見守っている。
静音は悔し涙が浮かんだ目を、ジーリアに向けていた。
歯を食いしばった面容からは憎悪と無念、そしてわずかながらの期待といった複雑な感情がうかがえる。
彼女は今、藁にもすがるような気持ちでジーリアの返答を待っているのだろう。
他方、ミーコはというと。
こちらは耕作の右腕を抱きしめ、彼にぴったりと寄り添っていた。
そして刃物のように鋭い眼差しをジーリアと、そして静音にも向けている。
ジーリアはしばらくの間、耕作たちを眺めていたのだが。
やがて首を横に、二度ふった。
「いくら耕作さんの頼みでも、それは聞けません」
「そんな!」
「その死にぞこないの魂は人間界に存在してはならない、それは事実です。それに……」
ジーリアは口と目を閉じた。
耕作は唾を飲み込み、彼女の言葉を待つ。
数瞬の後。
ジーリアは重くひび割れた、地獄の大魔王にこそ似つかわしいような、とてつもなく恐ろしい声を出した。
「それに、私が貴方にまとわりつく女を許すとお思いですか?」
宣告と共に、ミーコと静音を睨みつける。
その双眼には嫉妬の暗い炎が渦を巻き、青かったはずの瞳をも濃暗色に変貌させていた。
耕作は絶句する。
だが、ここで引くわけにはいかない。
なんとかしてジーリアの翻意を促そうと、口を開いた。
だがしかし。
彼には、話す間も与えられなかった。
ジーリアが指を高く鳴らした、その瞬間。
「えっ!?」
耕作とミーコと、静音。
三人は見えない力によってそれぞれ別の方向へと、猛烈な勢いで吹き飛ばされていた。
鈍くも激しい衝突音が鳴り響く。
衝撃によって、部屋が大きく揺さぶられた。
ミーコと静音が壁に叩きつけられたのだ。
「かはっ……!」
二人はともに、激突の衝撃で息ができなくなってしまう。
背中には激痛が走っていた。
二人は力なく壁からずり落ち、そのまま床に転がってしまう。
二人の腕が見えない力で後ろへ回り、ひねりあげられる。
新たな激痛に、二人は苦悶の声を上げた。
続いて両腕と両ひざに、見えない輪のようなものがはめられる。
天使の力によって拘束されたのだ。
一方、耕作も危険に直面していた。
と言っても、壁に叩きつけられた訳ではない。
彼もまた見えない力で吹き飛ばされてはいたのだが、ミーコや静音と違いすぐに減速している。
そして背後から、誰かに身体を受け止められていた。
耕作の鼻腔に甘く瑞々しい、煩悩を刺激する芳香が飛び込んでくる。
小さな腕と足が後ろから進み出て、上半身にからみついてきた。
服を隔てても分かるほどの、なめらかで柔らかな感触を持つ肌が背中に密着する。
背後の人物が、耕作にささやいた。
「つかまえた」
その声は弾み、心底からの喜びにあふれたかのような響きがあった。
だがそれを聞かされた耕作は、ゾッとするような寒気を覚えている。
「ジーリアさん!」
「もう離しません」
ジーリアは耕作に頬ずりをし、さらには全身もこすりつけてきた。
動物が甘えるような仕草である。
しかしその動きは、どこか淫猥だった。
ジーリアは頬を朱に染め、目も陶然とさせている。
二枚の美しい羽根も広く大きく、限界まで広がり、彼女の喜びを表しているかのようだった。
天使の愛情と執心を直に感じさせられて。
耕作は喜ぶどころか、さらに恐怖していた。
「離してくれ!」
叫び、必死にジーリアを振りほどこうとする。
しかし彼女はびくともしない。
小さな身体からは想像もできないほどの強大な力で耕作を捕らえ、離さない。
さらには彼を抱えたまま宙に浮かび上がっていった。
しまった!
と、耕作は思った。
これでは抵抗するのも逃げ出すのも難しくなる。
……いや、自分のことはどうでもいい。
だがこれでは、ミーコや静音を守れなくなる。
いざとなったら自分の身を盾にしてでも、彼女たちを助けるつもりだったのに。
耕作は考え、自分のうかつさを呪い、奥歯をかみしめた。
「耕作さん、耕作さん、耕作さん……。私はずっと貴方を、貴方だけを見ていました。好きです。愛しています。……いいえ、私が耕作さんに抱くこの気持ちを表すには、『愛』という言葉ですら足りません。ああ、でも言わずにはいられないんです。耕作さん、耕作さん、耕作さん……愛しています!」
耕作の心情に気づいているのかいないのか。
ジーリアはひたすら耕作へ愛の告白を繰り返し、抱き着く力を強め、唇が届くところであれば所かまわず接吻していた。
その様子を見て、ミーコと静音は激昂した。
「鳥公、貴様! コーサクを離せ! ぶっ殺してやる!」
「こーくんになにするのよ、この盗人!」
拘束され床に転がっている状態ながらも、超能力を発動させる。
冷気の竜巻が発生し、凶器が群れを成して激しく暴れだした。
だが。
「無駄だ」
ベルゼブブが呟き、右手を翻した。
そのわずかな所作だけで、全ての凶器が動きを停止する。
床と凶器が衝突する乾いた音が、あちこちで鳴り響いた。
冷気の竜巻も姿を消している。
まるで勝負にならない。
圧倒的な力の差を目の当たりにして、耕作たちは言葉を失っていた。
ベルゼブブは何事もなかったかのように歩みを再開する。
向かう先には顔を蒼白にして後ずさる、静音の姿があった。