子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける 作:ソノママチョフ
「コーサク……」
ミーコは、満開に咲いた花のような笑顔を浮かべた。
両目からは涙があふれ、頬だけでなく顔中を濡らしていく。
耕作が、やっと言ってくれた。
愛していると言ってくれた。
その言葉によって彼女は今、胸がはち切れそうになるほどの喜びを感じていたのだ。
だがその喜びは、無情にも長続きはしなかった。
ジーリアが瘴気をも漂わせる声で、場の空気を押しつぶしたのだ。
「そう、ですか。ですが耕作さん、その気持ちもすぐに消し去って差し上げます」
「誰がミーコを忘れるものか!」
「耕作さんが愛すべきなのは、愛して良いのは、私だけです。それが正しい、あるべき姿なんです」
ジーリアの声音には一切の迷いがなかった。
実際、彼女は心の底から自分の発言を信じているのだろう。
他者からすると狂っているとしか思えない発言と愛情表現だが。
しかしジーリアにとっては、まぎれもない真実であったのだ。
「だから本来あるべき姿のため……正義のために、耕作さんから化け猫への愛情を消して差し上げます。そして、それ以上の愛情を私に抱かせてみせます」
ジーリアは耕作の顔を掴み、強引に自分へ向き直らせた。
耕作の抵抗とミーコの悲鳴や絶叫を楽しむかのようにして、激しい接吻を繰り返す。
数分後。
ジーリアはようやく満足したのか、耕作から口を放し、悪魔へ命令した。
「ベルゼブブ、こちらの話は終わったわ。化け猫から種を回収してくれる?」
「やっと終わりか。いい加減、見世物としてもくどくなりすぎていたな。天国の連中には脚本家の才能はないようだ」
ベルゼブブはうんざりした顔で言った。
ジーリアは怒りで眉を歪めたものの、すぐに思い直したように笑みを浮かべた。
「退屈させたお詫びと言ってはなんだけど。化け猫から種を回収する際には、さっきと違って出来るだけ苦しめてもいいわ」
「ほーう? 苦痛のあまり発狂するかもしれんぞ?」
「どうぞご自由に。処女の悲鳴は大好物なんでしょう?」
「その通りだ」
ベルゼブブは答え、ミーコに向き直った。
爬虫類を思わせる目に、無機質な光が宿る。
絶体絶命の状況に追い詰められても、ミーコは怯まなかった。
殺気に満ちた眼差しを向け、拘束された身体を懸命に動かし、悪魔に立ち向かおうとする。
「このバカでかい蠅が! あの鳥公の糞尿にでもたかってろ!」
「やめろ! ミーコに近寄るな!」
ミーコの罵詈雑言と耕作の絶叫が、部屋中にこだました。
ベルゼブブは意に介した様子もなく、鼻歌すら歌いながらミーコへ手をかざす。
黒い影が、再び悪魔の手から放出された。
耕作が、あらん限りの大声を出した。
「やめろ! ミーコに触るな! ミーコに……俺のミーコに触るな!」
「コーサク……!」
しかし耕作の鬼気迫るかのような声も、悪魔には心地よい響きに聞こえていたかもしれない。
ミーコの抵抗も全くの無意味であった。
黒い影は、すでに彼女の身体にとりついていたのだ。
影は瞬く間にミーコの全身を覆い尽くしていく。
そして彼女の視界が完全に闇で塞がれてしまった、その瞬間。
ミーコの身体中に激痛が走った。
先の言葉通り、ベルゼブブはミーコを苦しませたうえで種を回収するつもりなのだ。
ミーコの身体を襲った激痛は、常人であれば一秒も耐えられないようなものだった。
長く鋭く、そして熱く焼けた針が、肉体を貫いたような痛みだったのだ。
しかもそれが何十何百と、身体中を襲っていた。
苦痛に耐えきれずミーコも悲鳴を上げる。
夜の冷えた空気を、高く美しい、しかし胸を痛めざるを得ないような響きの声が切り裂いていった。
すると、ほとんど間をおかずに。
ミーコの悲鳴をはるかに凌駕するほどの勢いと声量で、耕作が怒号を放った。
「やめろ! おまえら、殺してやる! 天使だろうが悪魔だろうが知ったことか! 絶対に殺してやる! この恨みは忘れない! 忘れるもんか! ミーコ、ミーコ、ミーコ……! 愛してる! 愛してるぞ!」
その叫びを常人が聞いたとすれば、間違いなく恐れおののき耳をふさぎ地に伏して、ひたすら慈悲を請うたことだろう。
耕作の声音には、それほどの憎悪と怒りが込められていた。
その有り得ないほどの激昂した声を聞き、全身を苦痛にさいなまれながら。
しかしミーコは、幸せだった。
耕作のあの叫声は、もはや錯乱しているとしか思えない。
温厚だった彼が我を失うほどに怒り狂い、明確な殺意を天使と悪魔に向けているのだ。
それはつまり、自我を失うほどの、狂ってしまうほどの愛情をミーコに抱いていることの証でもある。
ミーコが人間になってからというもの、耕作は常に悩み、苦しんでいた。
そしてミーコも、耕作のつらそうな顔を見る度、悩んでいた。
もちろん耕作を愛する気持ちは一度だって揺らいだことはない。
だが、だからこそ。
彼にとって、自分の存在は負担にしかなっていないのではないか。
いつか彼に見放されてしまうのではないか。
結局、飼い猫としか見てもらえないのではないか。
最後まで「愛している」とは言ってくれないのではないか。
その不安は時として霧のようにミーコの心を覆い、前途への道を閉ざそうとしてきたのだ。
しかし、耕作は自分を愛してくれていた。
それも狂ってしまうほどの情熱をもって。
最愛の人に、これほどまでに愛されたのだ。
これが幸せでなくてなんであろうか。
ミーコはそう思い、全身が燃え上るほどの幸福を感じていた。
と、同時に。
彼をそこまで追い詰めた天使と悪魔には、尋常でない怒りと憎悪を抱いていた。
耕作を泣かせた。
耕作を苦しませた。
温厚な彼を狂わせ、殺意を抱くほどの怒りすら覚えさせたのだ。
そんな相手に対して、ミーコが容赦するはずもない。
彼女は今、五感の全てを埋め尽くしてもなお足りないほどの、激しい怒りを覚えていた。
天に至るほどの幸福と。
地の底に届くほどの憎悪を感じた、今。
ミーコの心は感情の爆発に耐えられなくなり、拡散する。
「なに!?」
異変に真っ先に気づいたのはベルゼブブだった。
ミーコを覆いつくし、黒い蓑虫のようになっていた影の塊に、ヒビが入ったのだ。
開いた隙間からは光が漏れ出てくる。
しかもその光は、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と、七色を備えていた。
七色の光は瞬く間に強くなっていった。
爆発的な勢いで光量を増し、周囲を眩く染めていく。
ミーコを覆っていた影も次々に崩れ、吹き飛ばされていった。
影が消滅した後には、ミーコの姿が現れる。
彼女は未だ床に転がされたままであったが、七色の光はその身体から発せられていた。
「まさか、三つ目の種か!」
ベルゼブブは怒鳴り声をあげた。
「え?」
ジーリアも困惑し、思わず声を漏らしている。
もっとも彼女は、三つ目の種が力を発揮する可能性については予想していた。
ミーコを極限まで追い詰めれば、彼女が感情を爆発させることにもなるだろう。
となれば、当然おこりえる事態である。
だが天使として最大級の力を発揮できる今の自分なら、どんな問題にも対処できる。
危険な事態が発生するのであれば、それを理由にミーコを始末してしまえばよい。
恋敵を完全に消せるのだから、むしろ好都合と言える。
そう思っていた。
しかし、今。
ジーリアは予想だにしていなかった事態の発生に驚き、そして恐怖していた。
「耕作さん!」
ジーリアが抱きしめ掌中に収めていたはずの耕作の身体が、七色の光を浴びた途端、薄れ始めたのだ。
色素が抜けていくかのように、耕作の全身がおぼろげなものとなっていく。
彼の重みも次第に失われていった。
耕作が消えていく。
ジーリアはその事実に愕然とした。
対処法すら見いだせず、悲鳴とも絶叫ともつかぬ声を上げる。
「ベルゼブブ、何をしている!? 早く種を回収しろ!」
「やかましい! 言われるまでもない!」
ベルゼブブは咆えると共に、全身から黒い影を放出させた。
膨大な量の影は拡散して部屋を埋め尽くし、渦を巻く。
ベルゼブブはそれらの影を再び両手に取り込み、ミーコへ叩きつけた。
影は光ごとミーコを覆いつくすかに見えた。
だが。
「馬鹿な!」
悪魔は驚愕する。
ミーコから放たれる光によって、影は瞬く間に吹き飛ばされてしまったのだ。
「がぁっ!」
ベルゼブブは苦悶の叫びをあげた。
そして、彼は見る。
ミーコへ向けていた両手が、七色の光によって削り取られていく様を。
先の影と同じように。
永劫の時を生き抜いてきたはずの身体が、熱湯を浴びた砂糖細工のように崩れていくのだ。
「おのれ……!」
その、怨嗟の声を最後として。
ベルゼブブの姿は七色に埋もれ、消えてしまった。
光は爆発し拡散し、部屋の隅々までをも埋め尽くした。
情景は虹の国と化したかのように、七色だけに染められてしまっていた。
「……耕作さん?」
爆発的に広がった光も、消えるのはあっけないほどに一瞬だった。
文字通り、瞬く間に消え去ってしまったのだ。
七色に代わって静寂に支配された、部屋の中。
ジーリアの声だけが通っている。
「耕作さん?」
愛する男を探す、その声に。
答える者はいない。
ジーリアの目に映る光景は、光が爆発する以前のものとは異なっていた。
ただし散乱する凶器、倒壊した家具などは変わっていない。
崩壊した窓などもそのままだ。
だが大きく欠けてしまったものが三つあった。
それは耕作と、ミーコと、そしてベルゼブブの姿だ。
「耕作さん!?」
ジーリアは必死に呼びかけ、あたりを見回した。
しかしやはり、耕作たちの影も形も見当たらなかった。
ジーリアの他にある人影と言えば、眠ったように横たわる静音の亡骸だけだ。
「耕作さん……!」
誰も答えない部屋の中で。
ジーリアは、いつまでも耕作の名を呼び続けていた。