子猫と令嬢に愛された青年は、修羅場の海を懸命に泳ぎ続ける 作:ソノママチョフ
金曜日まで、残り二時間となった頃。
河原崎静音は、自宅の応接間に客人を迎えていた。
随分と遅い時間の訪問ではあるが、この時間を指定したのは静音自身である。
都内某所にある河原崎邸は、広く、大きい。
設計したのは先代の当主である。
地上三階、地下一階の建屋には、両手両足の指ではとても足りないほどの数多くの部屋があった。
しかもその多くが、一般家庭における広間の倍以上の広さがあった。
いま静音がいる部屋にしても二十畳を軽く超えている。
二世帯どころか三世帯、四世帯が入っても持て余しそうな建屋である。
しかし現在、ここには静音と客人の他、数名の使用人がいるだけだった。
静音の両親は数日前からヨーロッパに出張している。
静音は大理石製のチェスセットが置かれたテーブルを挟み、客人と対していた。
彼女の後ろには黒いスーツを着た大柄な人物が佇んでいる。
静園は写真の束を手にして、それに目をやっていた。
やがて唇を開く。
「
「はい。左様でございます、河原崎様」
静音の向かい側に座る客人が、恭しい口調で答えた。
滝沢と呼ばれたその男は、三十代前半と思しき外見をしている。
瘦身かつ目も切れ長で、鋭い。
才気あふれる油断ならない男、といった印象である。
そして見た目通り、静音から依頼を受けた分野に関しては特に非凡な男であった。
「日中はどこにも出かけておりません。それに電話をかけても、インターホンを鳴らしても、全く反応しませんでした。おまけにカーテンを閉め切っているので、中の様子を見る機会はほとんどありませんでした」
滝沢の苦労話を聞きながら、静音は写真の束をめくっていく。
彼女はそのような単純な所作さえ、優雅で美しい。
と言っても、本人が意識して、ことさら美し気に行動している訳ではない。
眼前の相手に美貌をアピールする必要性など、静音は全く感じていなかった。
彼女は今、他のことに気を取られている。
静音の心は、滝沢から手渡された写真の束に向けられていた。
そこには、白・茶色・黒三色の髪と、黄色い右目と青い左目をした少女の姿が写っていた。
ほとんどの写真が、わずかに空いたカーテンの隙間から身体の一部分だけを写したものではあったが。
「他に親しい女はいないのですね?」
写真をめくる手を止めず、静音は尋ねる。
「ございません。その女だけでございます」
そう。
と、わずかながらも安心したような声を、静音は発した。
しかし、新たな写真を目にするや否や。
静音は猛烈な勢いでそれを握りつぶしていた。
表情は変えていないが、こめかみには血管が浮き出ている。
滝沢と、静音の後ろで佇む人物が、共に息を飲んだ。
静音は内心で暴風が荒れ狂っているのを押し隠すように、つとめて冷静な声を出す。
「ご苦労様でした。この件については調査を打ち切っても結構です。請求書は私あてに郵送してください」
続けて後ろの人物へ目を向ける。
「
その言葉に黒スーツの人物は、
「かしこまりました」
と、答えた。
加藤と呼ばれたその人物は、二メートルに届こうかという長身だった。
しかもただ背が高いというだけでなく、骨太で、肉厚だった。
歳は四十代半ばといったところであろうか。
短く刈られた髪に、彫りの深い顔をしている。
そのうえ、上下黒のスーツをまとっているのだ。
一見すると用心棒か、あるいはボディガードか、と思わせる風貌である。
だが勘の鋭い人間が見れば、加藤という人物に何かしら違和感を覚えるかもしれない。
そしてより注意深い者なら、この人物の胸を見て真実に気づくだろう。
この巨人は女性だった。
二人の様子を見た滝沢は、口と目を操作して完璧な作り笑いを浮かべた。
「いえ、その必要はございません。実はこの後にも別の依頼がございまして……」
立ち上がり、慇懃な礼をする。
「商売繁盛で結構なことね」
静音も笑い、玄関まで滝沢を見送った。
「加藤さん、明日の件ですけど」
自室に戻る途中。
静音は傍らに立つ女丈夫に声をかけた。
「はい、お嬢様」
「少し予定が変わりそうだわ。詳しいことは明朝、指示します」
加藤は黙って頷いた。
しかし、何か腑に落ちないことがあったのだろうか。
遠慮がちに静音へ問いかけた。
「それにしても、よろしかったのでしょうか」
「……なんのことかしら?」
「吉良様のことです。お嬢様は吉良様に、返事を待つ、と約束されたのでは」
静音は足を止めた。
耕作との会話を思い出す。
──しばらくの間、待っていてほしいんです。
──分かりました。お待ちしております。
「約束は破っていないわ。彼が話をしてくれるまで待ち続けるつもりよ」
静音の返答を聞き、加藤は面食らった顔を見せる。
静音は黒髪をなびかせ、振り返った。
「でもその間、私も勝手に調べている。それだけのことだわ」
罪悪感など皆無な口調で、静音は告げた。
加藤は絶句する。
静音は丸く握りつぶされた写真を加藤に差し出すと、微笑しつつ命令した。
「これを捨てて……いえ、燃やして下さい」
楽し気な口調とは裏腹に、静音の目は笑っていない。
加藤は恭しく礼をして写真を受け取った。
それから後。
加藤は静音を、彼女の部屋まで見送った。
部屋のドアが閉まってからも、加藤は長い間その場で佇んでいた。
やがて思いつめたような表情で写真を広げる。
どこから撮ったのであろうか。
そこには、アパートのドアを開ける耕作と、彼に飛びつくミーコの姿が写っていた。
──────
「じゃあ、行ってくる」
金曜日の朝。
耕作は出勤しようとした。
だがスーツの裾を白く細い手に引っ張られ、引き留められてしまう。
このようにして出勤の邪魔をされるのは、この日だけでも三回目だった。
耕作は呆れながらも、限りなく優しい声でミーコへ説得を始める。
「ミーコ、分かってるだろ? 今日は行かなくちゃいけないんだ」
「でも……」
ミーコは潤んだ瞳を、上目づかいで耕作へと向けた。
両手は胸の前で祈るように組んでいる。
必殺技をいくつも繰り出し、耕作を引き留めているのだ。
耕作は、思わず白旗を上げたくなっていた。
しかし感情を理性で叩きのめし、ミーコに告げる。
「心配しないで。必ず今日中に帰ってくるから。約束するよ」
「うん」
その言葉を聞き、ミーコもようやく諦めた。
代わりに目を閉じ、唇を差し出し、キスをせがむ。
耕作は一瞬、悩む素振りを見せた。
その後でミーコの期待する場所ではなく、彼女の額に唇を当てる。
「じゃ、じゃあ行ってくる」
顔の赤さを自覚した耕作は、急いで踵を返し、ドアを閉めた。
耕作を見送った後も、ミーコは不安の中にいた。
それでも「約束してくれたんだから、大丈夫」と自らに言い聞かせ、心を落ち着かせる。
ピンクストライプの寝間着のまま、ベッドの上に寝転がった。
膝を抱えて丸くなり、夜の訪れを願う。
しかしその時から、負の感情が次から次へとミーコに襲い掛かってきた。
それは、耕作が自分から離れるのではないかという恐怖であり、あるいは彼の身に危機が訪れるのではないかという、漠然とした不安であった。
普段、耕作が出勤してから帰宅するまでの間、ミーコが部屋の中でやることと言うと。
食事と睡眠以外では、耕作のことをひたすら考える、ただそれだけである。
稀にテレビを見たりパソコンで遊んだりしたとしても、短時間にすぎない。
ミーコにとって耕作のことを考え、彼の帰宅を待つ時間は、楽しいものでもあったのだ。
しかし今日は違っていた。
耕作のことを考えても、楽しい気分にはならなかった。
悪いことばかり考えてしまうのである。
耕作は約束してくれたが、大丈夫だろうか。
あの女に取りこまれてしまうのではないか。
やっぱり自分もついていって、この手であの女を始末したほうが良かったのではないか……。
などと物騒なことも考えつつ、悶々として、ただ待つしかないのだ。
ミーコは時計を見た。
耕作が出て行ってから、まだ十分しかたっていない。
「今なら、追いかければ間に合うかも」
そう考えると、居てもたっても居られなくなった。
ベッドから降り、飛び出しかける。
しかしそこで耕作の言葉を思い出し、自重した。
再びベッドに寝転がり、白い天井を見上げる。
見慣れた光景のはずなのに、天井に押しつぶされそうな圧迫感をミーコは覚えていた。
口から大きな息の塊を吐き出す。
続いてうつ伏せになり、何も見ない、聞かないようにして、ただ時が過ぎるのを待った。
ひたすら恐怖に耐え続け、身も心も憔悴しきった後。
ミーコは「もう夜になったのでは」と思い、顔を上げた。
しかし、まだ日は高い。
再び時計を見ると、耕作が出勤してからまだ半時も過ぎていなかった。
泣き叫びたくなるのを、ミーコは必死にこらえた。
ただひたすらに耕作の名を呼び、嗚咽を漏らし、丸まって世界を拒否する。
そんなことを繰り返して、いやになるほど繰り返しているうちに。
疲れ切ったミーコは、いつの間にか眠りに落ちていた。
──コーサクは食事をくれるし、気持ちのいい暖かいベッドで寝かせてくれるし、先にフワフワのついた棒で遊んでくれるし、愛してくれる……。
いつかと同じ夢を再び見たような気がして、ミーコは目を覚ました。
身体を起こし、周囲を見回す。
部屋の暗さ、カーテンから透けて見える星空。
さらに外の静けさから、夜の訪れを知った。
時計に目をやると、日付が変わるまで三十分を切っていた。
耕作はまだ、帰宅していない。
ミーコは両手で頭を抱え、絶叫する。
しかし彼女の肉体、特に声帯は、激しい感情に耐えきれなかった。
口からは息が抜ける低く乾いた音だけが漏れた。
ミーコの周囲で冷気が渦を巻き始めた。
部屋中の家具が軋み、振動する。
ミーコは今や、殺意の塊と化しつつあった。
だがその時。
彼女の、常人を遥かに凌駕する五感が、アパートの前に車が止まる気配を捉えた。
耕作がタクシーかなにかで帰宅したのだろうか。
そう思い、ミーコは怒気を収める。
車のドアが開く音がした。
中から人が降りてくる。
だがその気配は、耕作のものではなかった。
ミーコは再び絶望する。
しかし彼女はすぐに、異変が起きていることを察した。
降りてきた人間の足音に覚えがなかったのだ。
つまりその人物は、アパートの住人ではないということになる。
住人ではなくても、来客の可能性もあるだろう。
ところがその人物は、よどみない足取りでアパートの階段を上がってきた。
通路を進み、ミーコの部屋の前で止まる。
誰だ?
ミーコは考えた。
耕作でないことは、確実である。
ミーコはベッドから飛び出し、帽子をかぶり、玄関の前に立った。
相手が扉をこじ開けようとしたら全力で阻止するつもりだった。
彼女の準備は無意味となる。
ドアノブに鍵が差し込まれる音が聞こえたかと思うと、扉はあっけなく解錠されたのだ。
ミーコは驚愕した。
この部屋の鍵を持つのは耕作だけである。
ミーコですら──外出しないため当たり前なのだが──持っていない。
それなのに、なぜ?
考えるうちに、ミーコは思い出す。
扉の前にいる人物の足音が、ハイヒールという靴のものであったことに。
それは女性専用の靴のはずだ。
ということは、今ここに侵入しようとしているのは……。
軋んだ音を立て、ドアが開く。
小気味良い足音を響かせて入って来たのは、招かれざる来訪者。
黒く澄んだ大きな瞳に、ロングの黒髪。
黒のパンツスーツを隙なく着こなした、掛け値なしの美女──。
「こんばんは。ミーコさん、とお呼びすればよろしいかしら? わたくし、河原崎静音と申します」
静音の、普段は他者に暖かい印象を与える口元が、今は両端が吊り上がって三日月型になっていた。