子供が歩いている。駅前を歩いている。ふらふらと、一人で歩いている。手にはくしゃりと丸まった、ゴミ袋かなにか、ビニールの塊。
子供はふらりふらりと歩いていたが、やがてテント村の入口までやってきた。夢見るような足取りで、ゆるゆると奥へ歩いていく。ずるずるとビニール袋が引きずられる。
突き当たりに積み上げられたダンボールハウスの中に、子供は顔を突っ込んだ。その身体が、中から飛び出してきた足に蹴り飛ばされた。子供の小さな身体は、簡単に吹っ飛んで、地面にバウンドした。男が、ダンボールハウスから飛び出す。背には、荷物のように縛られた、布団。
男は子供を見ずに走り出した。テント村の男達が、何だ何だと顔を覗かせたときにはもう後姿しか見えない。子供は顔に土をつけたまま、何事もなかったようにふわふわとした足取りで追いかけ始めた。ゴミ袋がかしゃかしゃと地面に擦れる。
男はただひたすらに走っていた。背中の荷物が重い。だけど、置いていけない。これは彼の生命線だった。少なくとも、彼はそう信じていた。
走る。心臓が破れそうだ。だが走る。後ろからは子供。白い子供。手にもったビニール袋が鳴る。あれは本当にビニール袋だろうか。あれはこわい。あれは死人。あれは水死体。あれは地獄。
男の脳裏に、早朝歩いていた死人の姿が浮かぶ。周りの男達に話したが、誰も取り合わなかった。いや、一人だけ彼の話を聞いた。田中という男だ。そのあとにもう一人聞きに来た。誰だったか。ああ、地獄だ。あそこから逃げたのに。背中が重い。でもこれを捨てたら駄目だ。これが地獄で唯一大丈夫なものだ。小さな咳が聞こえる。流れ続ける血の音が聞こえる。ゆるやかな鼓動が聞こえる。
男は必死に逃げるあまり、暗がりへ、暗がりへと進んでいた。街頭の明かりが途絶えた路地裏。男の頭上から、何かが振ってきて男の頭をアスファルトに叩きつけた。
「ふぁ」
男は呻き、折れた歯で口中を真っ赤に染めながら、声を上げた。男の上から降ってきたのは、子供だった。子供は男を見た。眼球が、ぎょろぎょろと動いていた。
「タスケテ」
女の声だった。子供の唇から聞こえたのは、女の声。子供の小さな手が、男の手を掴む。
「嫌だっいやだいやだいやだああ!!!!」
喚く男は、手を振り回し、子供の手を離そうとした。子供は微動だにせず、また「タスケテ」と言った。
「コノ子ガわたしかラはなれない助けテ」
奇妙な抑揚で子供は女の声色を真似する。小さな顔がみるみるうちに膨れ上がっていく。身体の中からボコボコと何かが湧き上がってくる。「こノ子私をタベてるの助けテ、痛い、痛いいたいたい! 熱い! 助けテお母さン!!」
途中から声には感情が入り始める。膨れ上がった醜い顔の上に女の顔が浮かび上がる。顔は苦痛で歪み、叫んでいた。
「いやっ! 怪物が! 怪物が! こんなとこで死ぬのは嫌ァア!!」
「助けテコノ子助ケテ」
「うう、うわ、あああ……っ!!」
女の顔が死にたくないと叫び、子供の顔がタスケテと言い、手をつかまれている男はただそれを振り払おうと馬鹿みたいに腕を振り回したが、子供の手はぴったりと男の手に張り付き、どうしても取れない。振りほどけない。背からずり落ちた布団がアスファルトに落ち、そこから人が転がり落ちていた。人だった。全身が裂け、筋肉が、骨が、肉の断面が、組織が、癒えぬ傷を晒していた。引き千切られたような無残な断面から、真っ赤な血がゆるやかに流れ続けていた。それは小さく咳き込んだが、白い顔は生きているものの顔色ではなかった。
「ひっひぃいいいい!!」
男が絶叫する。手を振り上げ、そのまま子供から逃れようと、暴れ、膨れ上がった白い身体を押しやろうとした。ビシャリと体液が弾けた。男の手に張り付いていた子供の手が、手首から切り離された。男の身体が勢いあまって転がり、布団からはみ出して転がっている人にぶつかった。
子供は、膨れ上がった醜い顔に、不思議そうな表情を浮かべ、己の断ち切られた手首を見た。そこからは赤黒い液体が流れ出していた。
「いなくなった人は、どこにいったんだろうな」
後ろから声がする。子供は振り返った。奇妙な人影がいた。闇に溶け込みそうな真っ黒な人影。形は明瞭ではなく、輪郭がわずかに見えるのみ。人だった。だが、異形だった。身体の表面は硬い殻に覆われているようだった。それは例えば、SFに出てくるスペーススーツやパイロットスーツに似ていた。宇宙船の中で人を襲うクリーチャーに似ていた。子供番組に出てくる、特撮ヒーローに似ていた。その敵の怪人に似ていた。人に似ていた。そして、そのどれにも似ていなかった。黒い殻には赤い光が走り、それはゆるやかに明滅していた。目にも同じ光。奇妙な突起が身体を飾る。右腕は肥大し、熊の腕のように凶悪な鉤爪がついていた。その爪の先は赤黒い液体で濡れていた。
「タスけテ」
「助けてやりたいんだけどなあ」
子供はなおも不思議そうな顔をしたまま、のろのろと鈍重な動きでそいつに向き直った。跳ね上がった。巨体がではない。その口が一瞬にして裂け、箱の蓋が開くように開いた。そこから、人が跳ね上がった。膨れ上がった子供だったものが、ぺしゃりと潰れる。白い人影の手刀が、黒い人影に真っ直ぐ叩き込まれる。とっさに手を交差させた黒い人影はそのまま吹っ飛ばされた。けたたましい音を立てて、道にあったゴミ箱ごと転がる。
白い人影もまた、異形だった。ぬめる表面には無数の眼球があった。半透明の身体からは骨格が見えた。背中から一対、羽根のように手が生えていた。顔に目はなく、大きな口だけがあった。びっしりと人の歯が何重にも生えていて、ときおりカチカチと歯を鳴らす。
「タスケテコノ子ガ」
「おいおいおい、何人食ったんだ、それ」
黒い影は「卑怯だろう」と呑気な声で言いながら起き上がり、横を向いてうんざりした声を出した。
「なんだよ、あんたもか。後ろのそいつもか? 誰か呼んでよけばよかったなこりゃ。全ては手遅れ、いつものこととはいえ、なんと、まあ」
転がっていた男が立ち上がり、震えながら彼等を見ていた。その顔は、巨大な蝿に似ていた。彼は痙攣し、ぶるぶると羽音を立てながら、手を閉じたり開いたりした。その足元に転がる人影は動かない。血だけはまだ、流れ続けている。異形が三体。白い怪物、黒い異形、蝿の頭をした男。そして、ただ転がる、死体のような何か。
動いたのは黒い影だった。白い怪物の懐に、一呼吸で飛び込む。羽根のように開いた背中の腕を、肥大化した鍵爪が薙いだ。つるりとした弾力を断ち切り、ブチブチと筋肉を断裂させ、骨を叩き割る。力任せに与えられた斬撃が、白から一本、腕を奪った。残りの腕が手を開いて黒を掴もうとする。手のひらには、無数のトゲが飛び出し、それは一瞬で伸び、獣の顎のようにガチリと上下から合わさった。だがそれより速く、黒は白の腹を蹴り、飛び退る。後ろを見ずに、飛び掛ってきた蝿男の胸を蹴り飛ばし、路地の壁を蹴って頭上に飛び上がった。
「今から十年ほど前にな、そいつは現れたんだと。ぐっちゃぐちゃに人を混ぜ込んだ、ひどい形してたらしいぜ」
白の脳天に振り下ろされた蹴りはかわされ、踵がアスファルトに深い穴を穿つ。同時に横合いから飛んできた白の蹴りを、黒は手で弾いた。爪に抉られた足から体液がほとばり、黒の甲殻にも白の粘膜にも跳ね上がる。
「次のは人型だったけど、頭からいっぱいいろんなもの生やしててな。包丁持って家族と近所を刺し殺しまくって撃ち殺されたんだと。どんどんどんどん、あとからあとから色々湧いてきて、んで、そのうちに安定したのが出てきて」
蝿が奇妙な音を立てて跳ねる。服が破れ、胸から、腹から、小さな足がわさわさと生え、胸から肋骨がせり出して羽音を何度も立てた。びぃいいいいんと鳴り響く音に、ゴミ箱から転がったペットボトルがいくつか弾けた。黒は蝿の延髄に蹴りを入れ、地面に引き倒した上から脊髄を踏み抜いた。骨の砕ける音がした。
「花粉症とかアレルギーってな、アレルギー物質が蓄積されて、一定容量を超えたらなっちまうもんなんだと。理由は未だにわからないが、俺は、それが世界に蔓延していて、ある日、何かちょっと後押しがあったら、越えちまう。そういうもんなんじゃないか、って思うんだ」
白の腕が黒を捉えた。掴まれた両肩口に、手のひらから飛び出した顎がしっかりと噛み付き、肉を抉った。黒の背がブロック塀に押し付けられ、そのまますりおろされるように横に引きずられた。苦痛の声は、出ない。黒は、赤い目で、白を見た。目のない顔。口が大きく開かれ、まるで口付けでもするように、黒の顔に近づく。口の中で歯が鳴る。大きく開かれ、真っ赤なその中に何重もの歯歯歯歯歯歯歯歯歯。
黒は肩を抉られたまま、首を勢いよく起こした。近づいてくる大口の中に、自分の額を叩き付ける。冠のように生えた黒の角が、白の咥内を抉った。
「ひーーぃ!! ヒギィいいいいいあああああああ!!!」
「46人死んで、75人いなくなって、24人殺した。3人ここにいる。まともな奴も、まともじゃない奴も、皆等しく同じ変異体なのに、何で殺し合いしてんだか」
肉を抉られたまま、黒は白の首目掛けて両腕を振るった。肥大した巨大な腕が、鉤爪が交差し、その頭を粉砕した。肉がバラバラに切り裂かれて、弾ける。歯が、無数の歯が、無数の歯が、ばら撒かれた。びくりと痙攣する身体にさらに爪がねじ込まれる。変形した内臓を貫き、肉を押しつぶし、爪が引かれる。切り裂かれた腹から臓物を緩やかに零し、白は空気が抜けるように崩れ落ちた。さらにその背に執拗に爪を下ろす。
小さな、咳が聞こえた。振り向く。蝿男が、布団の近くにいた。脊髄を踏み抜かれたのに、這いずり、そこまでたどり着いて、何かをしていた。蝿男が振り向く。手と口は、血に濡れていた。手には肉。何の肉?
黒は視線を降ろした。肉を抉られ、身体中から血を流し続ける、死体のような、何か。この場にいる、3人目。肉を咀嚼されながら、また、小さく咳をした。
「餌かお前は」
思わず黒はつっこむ。食べられていたのか。ずっと。ビル倒壊から、ずっと。怪物にならず、人にも戻らず、ただただ食べられていたのか。
蝿男は小さく「だいじょうぶだ、だいじょうぶだ」と小さく呟き続け、そいつの血だらけの身体を布団で包んだ。口にはまだ、肉の塊。黒は黙ってそれを見た。蝿男は小さく震えた。自分の命の終わりが、近いことを知っているかのように。
人が変態し、怪物化し、異形化する。変異体。そう呼ばれるようになったのはつい最近のこと。何故なるのか。原因はわからない。戻し方も、わからない。バラバラになった元素が再構築されるように、理不尽に、不条理に、残酷に、人はある日変異する。その数は少ないはずだった。だが、緩やかな上昇線は上へ上へと上り続ける。
変異した後も、意識を残す者が出た。そいつはもう死んだが、あとに続く者が出た。何人も倒れた。だが、何人も続いた。意識も人格も全て手放して怪物化した人を、彼等はひっそりと狩り、闇に沈めた。彼等にはそれが出来た。彼等は倒れたが、今なおも続く者がいる。怪物同士の同士討ち、共食いだ。
彼等を敵対視する組織も現れた。変異体を追う者もいる。変異体を集め、武力と成そうとする者たちも。それでもなお、彼等は歩みを止めない。狩人達は、今なお、闇の中で不条理を狩り続ける。今ここにいる、黒のように。正義の味方ではない。子供のヒーローでもない。ただの、怪物だ。怪物を狩る、怪物だ。
それでいい。黒はゆっくりと近づいた。蝿男が震える。喰らってきた肉を大事なもののようにかき抱き、黒を見上げた。逃げない。逃げ切れないと、知っているのだろうか。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだいじょうぶ、だいじょうぶ」
「大丈夫じゃねえけどな」
「だって生きてない、生きてない、これは死んでる、だいj」
呪文のように唱えていた言葉が、ふいに止んだ。ずるりと、蝿男は崩れ落ちた。首から、真っ赤な血が噴出した。白とは違う人の血。血まみれの顔が、蝿男の首筋に食らい付いていた。強靭な顎が、首の半分を食いちぎった。ブチンと音がして、かくんと蝿男の頭が横に垂れた。首筋に食らい付く男の血にまみれた顔はもう人のものではなく、黒に似た硬い殻に覆われた異形だった。赤黒い殻はなおも蝿の首筋に食らいつき、ついには首をねじ切った。黒の足元まで、人の血が跳ねる。赤黒が、黒を見た。やはり赤い目だった。表情のない、赤い目。
「よう」
「…………」
「言葉はわかるか。なんで餌になっていた。何故、抵抗しなかった。何で今、このタイミングで、『起きた』?」
「…………」
「お前が言葉の通じない奴なら、俺はもう一仕事しなきゃならん」
赤黒は、尚も動かなかった。蝿の頭を見て、それから黒に目線を戻した。
「おれ、は」
かすれた声が、喉からこぼれた。
「しんだんだ」
「何故、そいつと一緒に居た。大人しく、餌になっていた」
「死んでるから。おれは、しんでるから。しんでるなら、怪物にはならない、んだ……。しんでるのに、生きてるのは、おれが、かいぶつじゃなくて、食料だから、だから、おれは、かいぶつにならないはずで……かいぶつじゃないおれを食えば、自分もかいぶつにはならないって、……」
「蝿男とお前の妄想だよ。もうお前等はなってたんだよ。ビルから逃げ出した時に。いや、ビルが崩落した時に、か」
「…………」
「何故、そいつを殺した?」
「怪物になったから」
「殺してくれって、言われてたのか」
「…………でも、おれも、もう怪物だ……」
「死にたいか?」
「……わからない」
「来るか?」
「……?」
「言葉が残っているなら、連れて行ってやる。怪物にも、仕事はあるんだよ。それをやってりゃ、人らしさが残るって、信じてる奴もいる。信じていない奴もいる。俺にゃわからん。だけど、やることがあるってのは、いいもんだ。きっと、お前が思っているよりも、俺達は随分と生き残っている。来るか」
黒い手が、伸ばされた。赤黒は呆けたようにその手を見た。
「仲間の中には、正義の味方気取って何とかライダーとか名乗ってるバカもいる。勝手にヒーロー名名乗ってな。そうしたきゃ、そうすりゃいい。したくなきゃ、しなければいい。怪物になった人を、殺すんだ。正義の味方でもなんでもない、汚れ仕事だ」
「…………」
「それでも死にたきゃ、その時に殺してやる。それに、どうせ、殺されなくてもそんなに寿命は長くない」
黒い手を、赤黒の硬い手が掴んだ。怪我をしているとは思えぬ力強さで、赤黒い甲殻の青年は簡単に引っ張り上げられる。陽光が、暗い夜を越えて、すぐそこまできていた。遠くから、朝の気配がした。
黒い手は、硬さを失い、肥大化した巨大さを失い、爪を失い、皮膚と骨と肉でできた人の手となっていく。くたびれたジャケットを着た、男の手だ。
「俺は吉村。吉村、浩二だ。名前は覚えてるか?」
「おれの名前は……」
高橋大輔だった青年は、かすれた声で、自分の名を呟いた。射してきた朝日の中で、キラキラと埃が舞い散る。二体の変容体は、そうして、光の中に消えた。