幕末・浪漫千香〜どんな時代でも、幸せになれる〜 作:秋藤冨美
七月二〇日。家茂公が大坂城で崩御した。その数日後、隊内でもその話が駆け巡り、どの隊士もただならぬ雰囲気を醸し出していた。時の将軍が亡くなったのだから、この様になるのも頷ける。史実では第二次長州征伐の途中で、脚気で大坂城に倒れ治療の甲斐も虚しく息を引き取ったとされている。二〇歳という若さでこの世を去った人物故に、日本史においてあまり注目されることはないが、生きていれば間違いなく英邁として名を残しただろうと勝海舟が語っている。その言葉から武勇に優れ、己を律することの出来る精神力の強さ、聡明さを兼ね揃えた将軍であったのだろうと千香も想いを馳せた。
掃き掃除をしようと箒を持って局長部屋の前に来てみると、近藤の啜り泣く声が聞こえてきた。
「うううっ!家茂公が崩御なさるとは!この日の本はこれからどうなるのだ! 」
袖で溢れてやまない涙を拭いながら、近藤が叫んだ。
「近藤さんよ。確かに家茂公が崩御なされたのはこの上なく辛く残念なことだ。だが、あくまでもあんたは新選組の局長だぞ。こんな姿を平隊士なんかに見られちゃあ、いけねえ。あっという間に威厳が失われちまう。 」
はあ...と深い溜め息を吐きながら、土方が呆れ返っている。
「やっぱり、近藤さんは涙脆い人なんやね。 」
色々あったものの、近藤のこういう面を目の当たりにしてしまうと不思議と笑みが溢れてしまう。これも近藤勇という人間の魅力の一つなのかもしれない。
「...おい。誰だ。部屋の前に突っ立ってるのは。入れ。 」
すると土方の声が聞こえ。相変わらずだなと内心溜め息を吐きつつ、障子を開け千香は足を踏み入れた。
「森宮です。盗み聞きをしていた訳ではありません。近藤さんの声が大きくて外まで聞こえてきたもので。 」
「おや。千香さんか。すまないね。あまりにも悲しかったものだから、我慢が効かなかったんだ。 」
千香は持っていた箒を置いて、腰を下ろし。
「いいえ。近藤さんは本当に忠義を尽さんとなさっていましたから、涙が出るのも当然ですよ。 」
「そう言ってくれて嬉しいよ。トシはどうも私に厳しくてな。 」
「千香、だと?近藤さん。一体どうして森宮のことをそう呼ぶ様になったんだ。 」
「森宮峻三、という隊士が左之助の隊に居るだろう。同じ森宮だから、どちらか分かる様にしなければならないからだ。 」
「...ああ。居たな。確か此奴の曾祖父だとか言う。 」
すると土方は千香を舐める様に見て。千香はそれに目を見開いて、不機嫌そうな顔をした。
「土方さん、そういう風に見るのは芸妓さんだけにして下さいね。 」
「阿呆。一度たりともお前をそういう目で見たことは無い。それに、お前には芸妓の様な色気は全く無いからな。 」
「な、な、失礼な!いくら副長でも、言うてええことといかんことがあることぐらい分かるでしょうに! 」
それを見ていた近藤の涙は、いつの間にか悲しみのものから笑いのものに変わっていた。
「あははは!!いやあ。あいも変わらずトシと千香さんが顔を合わせると言い合いばかりだなあ。それもかなり滑稽だ。 」
「近藤さん。これの一体何処が滑稽なんだ?ただの生意気な小娘が突っかかってきているだけだろう。 」
「小娘え!?土方さんやって、もうおいちゃんやん! 」
「何だと!? 」
「あはははッ!!も、もう止めてくれ! 」
「局長!?一体どうなされたので、すか...。 」
近藤の声を聞きつけて入って来たのだろう。斎藤が珍しく感情を露わにして部屋に駆け込んで来た。
「これは、どういう状況なんだ...。 」
部屋に入ったはいいものの、中では土方と千香が激しい口論を繰り広げていて。その傍らでは近藤がその様子を見て笑い転げている。何故だ。今朝見たときには近藤は涙を堪えていた程なのに。
「ふん!餓鬼には大人の男の魅力が分からねえんだよ! 」
「なーにが大人の男の魅力よ!本当にかっこええのは、ええ感じに歳を重ねたしぶーいおじさまよ! 」
「あはははは!!!まるで落語を見ているようだ! 」
「つ、付き合いきれん。...失礼しました。 」
暫く待っても収まらない事態に、最早関わることは無いと、斎藤は部屋を後にした。そうして今日も平和に一日が過ぎていった。