「ただいまー」
「あ、おかえりなさいアキ君」
家に帰り玄関口で声を上げると、リビングから姉さんが顔を出した。
そして淡い微笑みを浮かべながら静かな足取りで玄関までやってくる。
「ただいま姉さん。はいこれ、頼まれてた本」
「ありがとうございますアキ君。──おや、そちらの方は?」
本の入った袋を受け取ると、姉さんは僕の隣にいる木下さんに顔を向けた。
「おじゃまします」
「こんばんわ秀吉君。どうぞゆっくりしてくださいね」
「違うんだ姉さん」
「はい?」
姉さんの言葉はある程度予想していた。
僕は一歩だけ前に出てなるべく自然な感じに木下さんを紹介した。
「この人は秀吉の双子のお姉さんで木下優子さん。いろいろあってこれから僕が料理を教えてあげることになったんだ」
「こんばんわ。始めまして。秀吉の姉の木下優子です」
僕に続くように木下さんは姉さんの方へ向き優等生スマイルで恭しくお辞儀する。
秀吉と間違われた部分に関しては特に突っ込みはないらしい。
慣れているのか。それとも笑顔の内心に怒りを隠しているのか、後者だと危険だ。特に僕の身が。
礼儀正しい態度に姉さんは「まあ」と口元に手を当てた後、木下さんを真似るように丁寧語で自己紹介した。
「そうなんですか。これは失礼しました。改めましてこんばんわ、私はアキ君の姉で吉井玲と申します。よろしくお願いしますね優子さん」
「こちらこそ、今日はよろしくお願いします」
「いえいえ、狭い家ですがどうぞゆっくりしていってください」
お互いすごく礼儀正しい態度と言葉で微笑み合う。
とても常識的な対応で見ていて安心できるやりとりだけど、この中で僕だけがこの二人の本性を知っているだけになんともいえない気持ちが胸の内に込み上がる。
姉さんは僕が異性と親しくする事に対して異常とも呼べるぐらいの嫌悪感を抱いている。
表面上は穏やかだけど、内心では僕にどんな拷問をするかなんて考えていてもおかしくない。
木下さんは木下さんで優等生の性格は仮面だと今日知って、本当はどんな人なのかよく把握できていないし。
……人間、知らないほうがいいこともあるって、ほんとなんだね。
「立ち話もなんだし、上がってよ木下さん」
二人の間を遮るように口を開いて木下さんが通れるように体を横にずらす。
再度「おじゃまします」と言って木下さんは靴を揃えた後、姉さんの後に続いてリビングに歩いていった。
僕は最後尾で玄関の鍵とチェーンロックを閉めた後に自室に鞄を置いて部屋着に着替える。
小さい手鏡でどこか変なところがないか確認し、微妙に緊張する体に一つ気合を入れてから自室を出て廊下を歩く。
そして二人が待つリビングへ入ると、
「これがアキ君の夏の期末テストの点数です」
「うわぁ……」
ずっしゃぁーーーーー!?!?!?
テーブルの上に僕の答案用紙を広げている木下さんと姉さんがいた。
「何をしているのですがアキ君。家でヘッドスライディングなんてしたら摩擦で火傷しますよ」
「姉さんの所為でしょ! 姉さんこそ初対面の人に何見せてるのさ!」
「優子さんがどうして姉さんが急遽帰国することになったのかを知りたいと言いましたので」
「なら口頭で説明すればいいでしょ! これじゃただの公開処刑だよ!」
まったく! せっかく来てくれたお客様になんてものを見せるんだ!
やっぱり姉さんは僕が女の子を連れてきたことを怒ってるのか。
「姉さん、もしかして怒ってる?」
「はい? 何をですか?」
「だから、何の連絡もなしに急に女の子の友達を連れてきたこと」
「いいえ、ちっとも怒ってません」
「な、なんだ……よかった」
「そういえばアキ君」
「どうしたの?」
「昨日姉さんが用意した体操服とブルマをどこへ置いたか知りませんか? あれがないと今日は組み体操ごっこができませんね」
やっぱり 姉さんは僕が突然女の子を連れてきたから怒ってるんだ。
「は、ははは、何言ってるのさ姉さん。それじゃまるで僕が常日頃から姉さんと体操服来て組み体操してるみたいじゃないか」
「何を言ってるのですか。昨日だってあんなに激しく──」
「違うよ木下さん! 僕は普段から姉さんとそんなことするような奇抜な間柄じゃないからね! 御願いだから僕を信じて!」
「そ、そう……」
辛うじて優等生スマイルを保っていたが木下さんの表情は微妙に引きつっていた。
ちぃっ!? 肉体的拷問の次は精神攻撃に移行したのか!?
急いでテーブル上の答案用紙を引ったくり折りたたんでズボンのポケットに仕舞う。
まったく、油断も隙もあったもんじゃないよ。
また姉さんが何かおかしな真似をしないか気を配りながら僕は台所へ立って二人分のエプロンを持ってくる。
その片方、猫のイラストがプリントされた方を木下さんに差し出した。
「はい、これ木下さんの分ね」
「ありがと……って何で猫?」
「え? そっちの方が木下さんにあってるかなと思ったんだけど」
「……まあいいけど」
なにやら微妙な顔でエプロンの猫と見つめ合っている。
あれ? ひょっとして猫は嫌いだったのかな?
「料理の指南を受けるという事は、今日はアキ君と優子さんの二人で台所に立つのですね」
「うん。まあね」
「でしたら姉さんも一緒に──」
僕達の傍で話を聞いていた姉さんがとんでもないことを言い出した。
「い、いや!? 姉さんはゆっくりしてていいよ! 晩御飯は全部僕達に任せてもらっていいから!」
「ですがお客様を働かせてのんびりしているわけには」
いやいや、むしろそっちの方が大変なことになるから。
「大丈夫だよ! それにいくらなんでも台所に三人も入ったら少し手狭になるし」
「? 何を言うのですか。この前は雄二君と康太君と一緒に調理していたではないですか」
ちっ、余計なことばかり覚えてるな!
「そうだけど。ほら、今回は木下さんに料理を教えなきゃいけないからさ。僕としてもマンツーマンの方がやりやすいし!」
「……そうですか。でしたらしかたありませんね」
「うんうん。姉さんは仕事で疲れてるんだからゆっくりしてて、いやしてください」
「アキ君がそこまで言うのでしたらお言葉に甘えましょうか」
よし! なんとか最悪の展開は回避できた。
「では姉さんは食後のデザートを担当しましょう」
なんだか事態が悪化した気がする。
「いやいやデザートも全部僕がやるから! 姉さんは何もしなくていいんだよ」
「そういうわけにいきません。姉としてアキ君の友達には感謝の念を込めて対応をしなければなりません」
「そう思ってるならお願いだからおとなしくテレビを見ててください」
「……アキ君。もしかしてまだ姉さんの料理の腕を疑っているのですか?」
少し怒ったようなにむすっとした顔をする姉さん。
そりゃそうだ。洗剤や食べ物かすらも怪しいものを平然と鍋に突っ込む料理をどう信用すればいいのか教えて欲しい。
「姉さんだってアキ君が少しずつ勉強をするようになっていくように、日々の短い自由時間の中で練習しているのですよ」
「いやでも……」
「大丈夫です。姉さんを信じてください」
姉さんは頑なだ。これはどう説得しても無駄かもしれない。
「むぅ……、そこまで言うなら」
「分かってもらえましたか。ではさっそく姉さんも準備に取り掛からなくてはいけません。ふふ、さっそくアキ君に買ってきてもらった本を実践してみましょうか」
そう言って、姉さんは椅子から立ち上がる。
大丈夫かなぁ。不器用な姉さんのことだから料理を作ろうとして間違えて化学兵器を製造してしまわないか心配だ。
言いようのない不安を胸中に抱いていると、立ち上がった時に腕が当たったのか今日僕と木下さんがそれぞれ一冊ずつ買った例の本、『狙え必中 気になる相手を一発撃沈!』が床に落ちてパサリと中身が開いた。
「あ」
姉さんが呟くのと、僕と木下さんが拾おうと手を伸ばして眼下の見開いた本に視線が向けたのはほぼ同時だった。
偶然開かれたページにはメロンジュースにような緑色の飲み物の見本写真と、
『一滴飲むだけで効果覿面の惚れ薬の作り方』
なんて言葉が書かれていた。
「「…………」」
「あらあら、私としたことが」
「待って姉さん! 今料理本にあるまじきものが載ってるのが見えたんだけど!」
「これはメロンジュースです」
「いやいや今明らかに惚れ薬って言葉が見えたよ!それって本当に料理の指南書なの? 実は化学の教本とかじゃないよね!」
「そんなことはありません。これは立派なお料理テキストです。アキ君は姉さんを信じてくれたのではないですか」
「今の一瞬で姉さんの信用が地に落ちたよ! なし! さっきのやっぱりなし!」
「さて、何を作りましょうか」
「ねえさぁん!!」
ああもう僕の言うことなんて聞いちゃいない。
きっと僕がなんと言おうと姉さんは止まらないだろう。
必死に引き止める僕の抵抗も空しく、姉さんはいつもの柔和な微笑みを浮かべたままリビングを出て行った。
拙い、僕はひょっとしたらとんでもない地雷を踏んでしまったのかもしれない。
このまま姉さんを放置すれば食卓の料理にあるまじき『何か』が出てきてもおかしくない。
「……玲さんって個性的な人ね」
「いいんだよ素直に変って言ってもらって」
個性的は変の同義語だと僕は思う。
と、そこで偶然木下さんの足元の通学鞄と薄い紙袋が眼に入った。
そういえば木下さんも姉さんと同じ本を買ってたよね。
まさか木下さんも惚れ薬を作ろうとしてるのか……。
「あの、木下さん」
「ん?」
「できれば惚れ薬なんて作らないほうが」
「作らないわよ! アタシだって今始めて知ったんだから!」
な、なんだ。よかった。
好きな人がいるなら惚れ薬なんて使わず正々堂々と挑むべきだよね。
「まったく。それより聞いたわよ。玲さんが帰国した理由」
「うっ、それは……」
「ウチにも秀吉がいるからあんまり強くは言えないけど、ちょっとは真面目に勉強しなさいよ。そうしたら玲さんだって安心させてあげられるんだから。一日5分でも10分でも復習すればあれよりは良い点数とれるわよ」
「僕だってやれるだけはやってるんだよ。でもどうしても解らない問題があると詰まって集中力が切れちゃって、そのままつい放置を」
「それをなんとかするのが復習でしょ。解らない問題なら誰かに聞けばいいじゃない──ってFクラスで教えられそうな人って姫路さんぐらいよね」
さすが木下さん。頭の回転が速い。
「あはは。どうせなら木下さんにも教えてもらおうかな」
「いいわよ」
「へ?」
おや。冗談のつもりで言ったんだけど、何故か了承されてしまった。
「人に教えることだって立派な勉強だし、吉井君にはこれから料理を教わるんだからギブアンドテイクの条件としては悪くないわね」
「え、いや。いいの?」
「良いも何も吉井君から言い出したことじゃない」
「そうだけど……」
罵倒でもされるのかと身構えながら言ったつもりが何故かあっさり勉強を教えてもらうなんて予想外の展開に発展して思わず言葉に詰まる。
木下さんの表情は特に相手をからかっているような感じには見えない。きっと彼女なりの善意の気持ちで言ってくれているんだろう。
うーん、教えてくれるのは嬉しいけどやっぱり勉強は嫌だなぁ。
「ありがとう。じゃあ定期テスト前にでもお願いするよ」
「本当は毎日した方がいいんだけど……。仕方ないわね」
毎日!? いくらなんでも無理だ。そんな人生の無駄遣いはできない。
さ、さすが学年最高成績者の集まるAクラス。バカのFクラスの僕らとは根本的な価値観が違うようだ。
せっかく近づいたと思った距離が再び遠のいた気がした。
少しだけ沈んだ気分を振り払うように、僕は気持ちを切り替えて横目で台所を見ながら言う。
「じゃあ姉さんが帰って来る前に始めようか」
「そうね。じゃあよろしくお願いします。”先生”」
「せ、先生って。なんだか恥ずかしいな」
背中が妙にすーすーするのを感じる。
でもこれはこれで悪くない。
普段はいつも教えられる側の人間の僕にとってはちょっとだけ心地よい気分だ。