そうこうしている間に晩御飯を食べ終わった。
まったく、今日のパエリアは最高だった。
おこげの歯応えとご飯の焼き加減も良かったし具材の火の通り具合もバッチリだった。
口に入れた瞬間にふわりと膨らみ、そしてゆっくりと溶けていくような滑らかかつ長く残る風味が今も尚僕の口内を包み込んでいる。
スプーンに乗ったご飯とタコや貝といった色取り々のおかずを歯と舌で噛み締め味わった感触は今でも忘れられない。
ああ、どうしてパエリアはこんなに美味しいんだろう。
この料理を好物として生まれ育った僕は心底幸せ者だと思う。
これだけで僕は明後日の分の腹まで満たせてしまいそうだ。
今日もお腹いっぱい食べた。これ以上はもう何も入らない。満腹だ。至福だ。満足だ。
だから、だから。
「木下さん。もう遅いから帰らなきゃ。暗い夜道は危険だから家まで送って行くよ」
「え? 別にアタシはまだ──」
「駄目だよ。最近は何かと物騒なんだから。あ、僕のことは気にしなくて良いから。大丈夫。遠慮しないで、食べた分はきちんと運動しなきゃいけないからね」
「何を言っているのですかアキ君。まだデザートを食べていませんよ」
もう、何も食べたくない──!
「いやいや姉さん。今はもう夜の8時だよ? 僕や雄二ならともかく木下さんのような女の子がこんな遅くまで家に帰らなかったら親御さんが心配しちゃうよ」
「…………」
「確かに姉さんのデザートはすごく、それはもう別腹の別腹を作れるぐらい楽しみだったけどね。でも思いのほかパエリアを作るのに時間も掛かっちゃったしさ。もう外は普段背景の一部と化している街頭が町の主役を張れるぐらい真っ暗闇だ。だからここは姉さんの料理に対するプライドより木下さんの安全を考慮すべきだと思うんだ。当然夜道を歩いて帰るんだから僕も男として安全だと確信できるまで送っていく義務がある。こんな時間に木下さんを一人で帰らせるなんて心配で夜も眠れないからね。そういうわけだからここはこれでお開きするということにしようよ。料理はいつでもできるけど事件は起きてからじゃ遅いんだから」
僕は口からペラペラと逃げ口上を並べ立てる。
もはや説明するまでもないが、姉さんの料理は戦略級に危険だ。
ここでなんとしても姉さんがデザートを作る時間を消費させないと事件なんて生易しいと思えるぐらいの最悪の事態に発展しかねない。
やる気を出してくれた姉さんには少し申し訳ないと思うけど、ある意味これは人助けなんだ。
手段を選んじゃいられない。中途半端な偽善は返って寿命を縮めるだけだ──!
「……アキ君の言い分は分かりました。そういうことでしたら仕方がありません」
僕の真正面で姉さんは目を閉じ感じ入るようにそう言う。
「ほんとに? はぁ……よかった。いやぁあ話の分かる姉さんで僕は嬉しいよ」
「ふふ、人のいる前でそう褒められると照れてしまいます」
「そんなことないって、姉さんは素直に喜んでいいんだよ」
何しろ殺人事件が未然に防がれようとしているんだ。
人として越えてはならない一線を一歩前で立ち止まれたその勇気は敬意を表するに値するだろう。
もっとも、本人に自覚があれば。の話だが。
ともあれ危機は去った。
そのことに密かに胸を撫で下ろしていると、隣の木下さんが遠慮しがちに口を開いた。
「吉井君。玲さん。アタシならまだ大丈夫ですから。家にも連絡は入れていますし。まだ洗い物も終わってませんから。最後までいさせてください」
「木下さんっ!? それはちょっとっ」
「いいの! アタシがそうしたいんだから。まったく、吉井君は気を使いすぎ。気持ちは嬉しいけどアタシも中途半端は嫌なの。それに玲さんの作るデザートも食べてみたいし」
木下さんの台詞が自殺志願者のそれにしか聞こえない僕はすでに末期なのかもしれない。
「いや、でも……」
拙いな。
すでの体内に耐性ができた僕ならともかく、姉さんや姫路さんの料理を食べた事のない木下さんはかなりやばい。
あれは決して素人が手を出していい料理じゃないんだっ!
事の次第によっては最悪吉井家と木下家で裁判沙汰にもなりかねない。
穏便に事を済ますために木下さんに真実を伝えるという手段もあるが、姉さんの名誉の為にできればそれは最後の手段にしたいところだ。
ううう、どうすれば……。
「アキ君。そんなに悩まなくても大丈夫ですよ」
「え?」
「姉さんはアキ君の考えていることはちゃんと分かっています」
まるで子供をあやす時の包み込むような声で姉さんは僕を見る。
?? 分かってるってどういうことだろう?
正直これまで経験を省みても、激しく嫌な予感しかしないんだけど。
「時間を掛けずとも、すでに出来ていますから。何の心配もありません」
「……………」
そして、こういう時に限って僕の勘は良く当たるのだ。
ああ、なんて無常。
きっとこれは、それほど親しくなった女の子を急遽家に招くなんていう素敵イベントの起こした僕に対しての神様からの嫉妬なんだろう。
☆
「おまたせしました」
執行人が僕と木下さんの前に小皿を置く。
姉さんが作っていたのはプリンだった。
側面は卵黄の黄色いつるつるした弾力のありそうな光沢が天井の明かりに反射して光っていて上にはカラメルがかけられている。見た感じカラメルも手作りみたいだ。
パッと見は本当にどこにでもある普通のプリンだった。
これが今日買った本に載っていたデザートなんだろうか。
パエリアができるまで僕と木下さんがキッチンを使用していたのに一体いつのまに、どこで作っていたのだろう。
「どうぞ。遠慮せず召し上がってくださいね」
「…………」
どうしよう。普通に美味しそうだ。
いやっ、だ……騙されるな吉井明久!
惚れ薬の作り方なんて載っている雑誌のプリンなんて絶対ろくなもんじゃない。
きっとこれにも何らかの効果があるに違いないっ。
「ね、姉さん。一つだけ聞いてもいいかな?」
「はい? なんですかアキ君」
「これはちゃんと、その……手順通りに作ったの? 余計な事とかしてない?」
「あら、よく気がつきましたねアキ君。そうです。作っている途中に味見をしてみたのですが少し味が薄いと思ったので姉さんなりのオリジナルの味を出してみました」
駄目だ! もう不安材料しか見つからない!
「玲さん。玲さんの分はどうしたんですか?」
自分の所に皿を置かない姉さんを見て、木下さんは眼下に出されたプリンと姉さんを見比べるように視線を動かして問いかける。
「それが冷蔵庫にある材料の関係で二人分しか作れなかったんです。やはりろくに用意もせず意気込みだけでやろうとしたのがいけなかったですね。二人は私に気にせず食べてください」
「そうなんですか……。なんだか申し訳ないです」
「いえいえ、アキ君と優子さんが私の作ったデザートを食べている姿を見れるだけでも私は満足ですから。さあ、どうぞ」
姉さんの促す手が僕には絞首台に上れと言われているようにしか思えない。
「はい、いただきます」
何にも知らない木下さんは柔和な笑みと共にスプーンを手に取る。
「あの、木下さん。それほんとに食べるの……?」
「食べるに決まってるでしょ。玲さんの好意を無碍にはできないじゃない」
「だ、だよね……」
どうしよう、止めるべきだろうか。いやでもここで変な真似をすれば姉さんに僕達の関係性について余計な不信感を抱かせてしまう。
でもここで木下さんに卒倒されるのはもっと拙い。
ああでもどうやって姉さんの料理の危険性を伝えればいいんだ。こればっかりは一度食べないと理解してもらないし。この様子からして食べないという選択肢は彼女の中にはないだろう。
仮にここで僕が無理やり皿を奪っても結局は僕がただ女の子が使用した皿を奪って不埒な真似をしようとする変態という最低なレッテルを貼られるだけ。
くっ、なんて板ばさみなんだ。二者択一のどっちを選んでも最後は奈落の底にダイブだなんて。こんなのってない。
そんな苦悩をする僕を他所に、木下さんはプリンを一つすくい口に運んだ。それが殺傷能力を持つ毒薬だとも知らずに。
「…………うっ」
「き、木下さんっ!? 大丈夫! 意識ははっきりしてるっ!?」
「アキ君。その質問はおかしいです。それで、お味の方はいかがですか?」
「うぐ……っ お、おいしい……です、とっても……」
口元を手で押さえながらも必死に笑顔を取り繕って言葉を紡ぐ。
すごい! 今僕は鋼の精神力を目の当たりにしているっ!
「ただ……ちょっとさっきからお腹の調子が悪いようなので、おトイレを借りてもいいですか?」
「もちろんです。どうぞ」
「すいません……、では少し失礼します」
そう言う傍らで、開いているもう一方の手が僕の服を引っ張る。
どうやらついて来いということらしい。
「ね、姉さん。僕自分の部屋の電気を付けっぱなしだったこと思い出したよ! ちょっと消してくるね!」
「あっ──」
姉さんの返事を聞く前に僕は席を立った。
そのまま廊下に出る。
木下さんは廊下で相変わず手で口を抑えたまま恨めしそうに僕を睨んでいた。
「な、なんなのよこれ……。アンタ一体何したわけ……」
僕の肩に手を置いて舌足らずに言う。
「僕のせいじゃないよっ。あれが姉さんの腕前なんだ。姉さんは極度の料理オンチで何を作らせても絶対にゲテモノにしちゃうんだよ」
「だ、だからってあれはないでしょう、不味いなんてレベルじゃないわよ。びっくりして思わず叫びそうになったわ。あうぅ……。まだ舌が変な感じがする」
料理を食べて叫ぶなんてあきらかに普通じゃない。
「後で水を思いっきり飲んで口を潤しておいたほうがいいよ。きちんと消毒しとかないと後遺症とか出るかもしれないし」
「う~……、そんなプリン聞いたことないわよ」
まったく同感である。
「……でもちゃんと意識があって安心したよ。もし倒れられたらどうしようか不安で不安で」
「何よそれ」
あーもう。とか言いながらまだ気持ち悪いのか口をモゴモゴさせながら悪態を吐く。
関係ないけど、ちょっと涙目になっている顔は秀吉に似ていて不覚にも可愛いとか思ってしまった。
「はぁ、なんで事前に言わないのよ」
「言おうと思ったけど、でももし僕が『そのプリンは実は化学兵器で食べると命に関わるよ』って言ったら信じた?」
「信じないわね」
でしょ?
「つまりこれは実際に食べないと理解を得られない悪質なトラップなんだ」
「前例があるなら玲さんに直接言えばいいでしょう。なんでずっと放置してるわけ?」
「口で言って治るなら吉井家の食事事情はここまで切迫してないよ。一度でも苦情を言えば今度は治るまで延々食べさせられるんだから」
「それは地獄ね……」
分かってもらえてなによりだ。
「でもすごいよ木下さんは。姉さんの料理を食べてなお笑顔で応対できるなんて」
「当たり前でしょ。せっかく作ってくれたのに失礼な真似なんてできないじゃない。それに食卓の前で嘔吐するなんて無様な醜態を晒したくもなかったし」
毅然と言う。
何があっても人前では絶対に醜い姿を晒さない。
これまで仮面を被って優等生を続けてきた木下さんのプライドの高さが伺える台詞だった。
「ちなみに、さ」
「うん? 何よ」
「あのプリン、どんな味だったの?」
「…………えっと」
嫌な記憶が蘇ったのか木下さんの表情は歪む。
そして、苦いものを吐き出すように言った。
「酸っぱかった。口の中の水分が全部吸い取られるぐらい酸っぱかった」
「そ、そうなんだ……」
プリンなのに酸っぱいとはこれいかに。
やはり姉さんの調理技術は異次元の領域だ。
まさか卵黄だと思ってた黄色い面はすべてレモンだったのか?
とりあえずいつまでも廊下にいるわけにもいかないので、僕達はリビングに戻った。
さっきと同じ席に腰を下ろす。
……すでにこの時、僕はある一つの決意を固めていた。
これ以上客人である木下さんに迷惑はかけられない。
これは吉井家の問題だ。
ならばその責任は長男である僕が取らなければならない。
ふぅ、仕方がない。
──両方、僕が食ってやる────!
「木下さん。もし僕が死んでも骨は拾ってね」
「はい? あの、ちょっ、何してんの!」
両手にそれぞれ乱暴に皿を掴み口元へ持っていく。
へっ、スプーンなんていらないね。
だってプリンは飲み物だもの。
こんなもの、どんな味だって舌が味を認識する前に飲み込んでしまえば──っ!
「ふん──っ」
飲み込む。
あ、ダメだこれ。
がくんっ
「吉井くーーんっっ!?」
口と喉を焼く酸味と叫び声を最後に僕は気を失った。