Re:Spirit-encore-   作:藺草影志(OVERBLOOD)

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前編の続き


Offside 3.「[Restructuring] Mad love "後編"」

I.

 

……………………

 

………………

 

…………

 

……

 

 

 

……

 

 

 

…………

 

 

 

……あれは

 

 

 

 

 

 

 

……闇

 

 

 

闇、闇闇、闇闇闇

 

 

 

闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇やみやみやみやみやみやみ

 

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

―――――――――――――――――

 

『●』

 

 

 

 

リゼ「っ……!」ググッ

 

 

ここあ「いだっ…りぜちゃんやめて……!」ポロポロ

 

 

リゼ「また……勝手にわたしのそばから……!」

 

 

ここあ「いたいよぉ!」

 

 

リゼ「うるさいっ!!」パシン!

 

 

ここあ「ひゃぅ!」

 

 

 

 

 

 

 

リゼ「お前はわたしのことが嫌いなんだろう!」ギリッ

 

 

ここあ「ちがう、ちがうよ……!」ポロポロ

 

 

リゼ「だからチノのところにいったんだろう!」

 

 

ここあ「ちがう!りぜちゃんのことだいすきだもん!」

 

 

リゼ「嘘を付け!」パシン!

 

 

ここあ「うぇっうえぇええ……!」ポロポロ

 

 

リゼ「正直に言わないか!!」

 

 

 

 

 

 

 

リゼ「……本当は……嫌いなんだろう……」グスッ

 

 

ここあ「……!」

 

 

リゼ「ここあは、わたしのことが……」ジワッ

 

 

 

――ポタッ

 

 

 

リゼ「いやだ……」

 

 

リゼ「わたしの側から…いなくならないで……」ポロポロ

 

 

リゼ「ずっと……そばにいてくれ……っ」

 

 

リゼ「ここあ……っ!」ギュッ

 

 

ここあ「りぜちゃん……っ」グスッ

 

 

 

 

 

 

 

ここあ「んっ……」ゴシゴシ

 

 

ここあ「りぜちゃん……だいじょうぶだよ……」

 

 

ここあ「わたしは、いなくならないから……」

 

 

ここあ「ずっと、りぜちゃんといっしょにいるよ……」

 

 

ここあ「だから、なかないで……?」

 

 

リゼ「ここあ……」

 

 

ここあ「よしよし……こわかったね」

 

 

ここあ「あんしんして……」

 

 

ここあ「りぜちゃんのこと、だいすきだから……」ナデナデ

 

 

 

 

 

 

 

リゼ「……っ」ギュッ

 

 

ここあ「ごめんね……」

 

 

リゼ「…………」ポロポロ

 

 

ここあ「ごめんなさい……」

 

 

リゼ「……っ!」ポロポロ

 

 

 

 

……やめて、くれ。

 

 

 

 

お前は、何も悪くない……。

 

 

 

 

リゼ「ここあ……」

 

 

 

――スッ……

 

 

 

 

依存……

 

 

終わりのない――依存

 

 

終わることのない――依存

 

 

依存……依存……――

 

 

 

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

『〇』

 

 

――AM8:00――

 

 

 

……朝、か。

 

 

 

人間の『慣れ』、というものはつくづく恐ろしい。

 

動悸を激しくさせながらベッドから飛び起きていた頃が、今でも遠い昔のようだ。

 

 

 

自分というまぎれもない証である手のひらを見つめ、ホッと肩をなで下ろす。

 

 

 

良かった。

 

 

 

どうやらこれは、『現実』らしい。

 

 

 

………………。

 

もう何度目になるだろうか。

 

あの悪夢を見るのは。

 

 

 

記憶というものは、例えどれほどの月日が流れようとも完全に消えることは無い。

 

あまつさえ『トラウマ』というものは律儀なことに、持つ者の生活を絶えず見つめ、牙を立てる機会を常に伺っている。

 

人間の就寝時、寝込みというものは格好の餌食なのだろう。

 

 

 

一度十字架を背負ってしまった人間は、生涯を全うするまで永遠にそれと向き合わなければならない。

 

わたしの場合、その原因が他でもない自業だったのだから皮肉な話だ。

 

 

 

リゼ「……いい天気だな、今日も」

 

 

 

悪夢、か。

 

有り体に言えば頻繁に見るこの悔恨の過去は、苦痛ではあるが実は悪夢という訳ではないのだ。

 

 

 

リゼ「……元気にしてるかな、今日も」

 

 

 

かつて同じ『現実』を生きていたあの子の顔を……少しでも思い浮かべられる。

 

 

違う現実にいる皆の顔を……鮮明に思い出すことができる。

 

 

白い空間、虚無、正常な世界。

 

 

 

わたしは、今日も生きている。

 

 

 

今はまだ、みんなとは違う、無機質な現実を。

 

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

『〇』

 

 

 

………………。

 

…………。

 

……。

 

 

 

深い眠りから覚めると、最初に飛び込んできたの眼が眩むほどの光だった。

 

――まぶしい。

 

『朝』だ。

 

一生続くと思っていた昨日までの暗闇は、塗り替えられたらしい。

 

 

おもむろに上体を起こす。

 

白と黒の景観に、誰かが立っていた。

 

 

わたしの元へと近づいてくる。

 

一歩、また一歩と。

 

 

 

「ここがどこか、分かりますか?」

 

 

 

子供に諭すような優しい声色。黒いネクタイに白いスーツ。

 

こちらを見つめるその表情には、幾分の憐れみとわずかな畏怖の念を抱いているのが見て取れた。

 

 

 

周囲を見回す。

 

純白の空間、消毒液の匂い……――――あの子が、いない。

 

それから数秒の沈黙のち、なんとか言葉を紡いだ。

 

 

 

「病院……か」

 

 

 

毒気を抜かれたわたしの言葉に、呆気にとられたのだろうか。

 

それとも、想像していた返答とはあまりに似つかない狂人の答えに、思わず感情が抜け落ちてしまったのか。

 

 

しばしの間わたしの顔をじっと見つめていた男は、足りない言葉を模索するように口を開こうとしては、なにかを言い淀んだ。

 

まるで触れてはいけない禁忌の箱を、もしくは繊細な飴細工を扱うかのように、わたしがなにより知りたいであろう『彼女』の以後を、どう伝えるべきなのか。そんなところか。

 

 

 

こちらから確信に触れるべきなのか、少し躊躇った。

 

だが、わたしはもう既に悟っていたのだ。

 

 

 

――その名を聞いても、もはや発狂してすがりつく気狂いすらも自分の中に残っていないと。

 

 

 

「――ここあは?」

 

 

 

突然の不意打ちに、男の双眸が大きく見開いた。

 

隣にいる純白の衣を纏った人物と顔を見合わせ、二人でわたしの心の根底にある深淵を訝しげに凝視する。

 

 

わたしは、どんな顔をしていたのだろう。

 

朧げな心情に虚ろな眼差しを携え、瞳に諦観でも滲ませていたのか。

 

 

純白の衣が隣で頷くと、スーツの男は意を決したかのように重い口を開いた。

 

 

 

「無事ですよ。……ご安心ください」

 

 

 

「……そうか」

 

 

 

その事実さえわかれば、十分だ。

 

他にもう、何も望んだりしない。

 

 

 

「良かった……」

 

 

 

「……お嬢」

 

 

 

「ははっ……よかった…………」

 

 

 

わたしは、たぶん泣いていたのだろう。

 

 

それは悲しさから、安堵から、背反する二つの感情からにじみ出てくるようなとても不思議な感覚だった。

 

 

 

良かった……?

 

 

 

お前を失ったのに。

 

 

 

おかしいな……。

 

 

 

でも、まぎれもないわたしの本心だ。

 

 

 

「……いまは何も考えず、どうかおやすみください」

 

 

 

その言葉……。

 

最後にあいつも、言ってたっけ。

 

 

 

ふと抗えない脱力感に襲われ、糸が切れた操り人形のようにベッドへと倒れこむ。

 

そのままわたしの意識は、徐々に深い眠りへと誘われた。

 

 

 

こんなに心が落ち着くのは、いつ以来だろう。

 

 

 

………………。

 

 

 

これでもう、お前を傷つけなくて済む。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

『●』

 

 

 

………………。

 

…………。

 

……。

 

 

 

リゼ「ただいま」ガチャッ

 

 

リゼ「あれ……?」

 

 

リゼ「ここあ……?」

 

 

リゼ「……………………」

 

 

リゼ「」チラッ

 

 

 

PM4:29

 

 

 

リゼ「…………」

 

 

リゼ「……遊びに行ったのか」

 

 

リゼ「…………」

 

 

リゼ(せっかく、急いで帰って来たのに……)

 

 

リゼ「…………」

 

 

 

 

――1時間後――

 

 

 

リゼ「………………」

 

 

リゼ(……遅いな)

 

 

リゼ「………………」

 

 

リゼ(課題、済まさないと……)

 

 

リゼ「………………」

 

 

 

ガチャッ

 

 

 

ここあ「りぜちゃん、ただいま!」

 

 

リゼ「…………」

 

 

ここあ「リゼちゃん?」

 

 

リゼ「…………」

 

 

ここあ「りぜちゃん、ただいま?帰ってきたよ?」グイッ

 

 

リゼ「!」ハッ

 

 

リゼ「ここあ……おかえり」

 

 

ここあ「ただいま!りーぜちゃん♪」ギュッ

 

 

リゼ「ふふっ」ヒョイ

 

 

リゼ「だれかのところに行ってたのか?」

 

 

ここあ「うん!しゃろちゃんのところ!」

 

 

リゼ「今日はバイト休みだったんだな」

 

 

ここあ「あしたのあしたがまたおやすみなんだって」

 

 

リゼ「そっか。なにして遊んでたんだ?」

 

 

ここあ「ん~……ないしょ!」

 

 

リゼ「……!」

 

 

ここあ「しゃろちゃんとのひみつなの」シーッ

 

 

リゼ「……………………」

 

 

ここあ「りぜちゃん?」

 

 

リゼ「……そうか」

 

 

ここあ「?」

 

 

リゼ「晩御飯、食べようか」ニコッ

 

 

ここあ「うん!」

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

……………………。

 

 

 

 

今にして思えば。

 

 

 

あの頃から既に、芽生え始めていたのかもしれない。

 

 

 

わたしの中の……狂った感情が。

 

 

 

――狂気が。

 

 

 

ただ、愛情という隠れ蓑で覆い隠されていただけで。

 

 

 

そのカタチが変わってしまうのは、むしろ必然だったのか。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

 

リゼ「ただいま」ガチャッ

 

 

リゼ「…………?」

 

 

リゼ「ここあ?」

 

 

リゼ「……………………」

 

 

リゼ(いない……また遊びに行ったのか)

 

 

リゼ「……お絵描きしてたのか」

 

 

リゼ(これ……千夜かな)

 

 

リゼ「……………………」

 

 

リゼ「……」ペラッ

 

 

リゼ「…………」

 

 

 

 

――PM6:42――

 

 

 

リゼ「………………」

 

 

ガチャッ

 

 

ここあ「りぜちゃん、ただいま~!」

 

 

リゼ「……おかえり、ここあ」

 

 

ここあ「おそくなってごめんね」

 

 

リゼ「千夜と遊んでたのか?」

 

 

ここあ「うん、いっしょに『おかいもの』いったんだよ」

 

 

リゼ「……そうか」

 

 

ここあ「ばんごはんもいっしょにつくったんだ、おむらいす!」

 

 

リゼ「晩御飯……食べてきたのか」

 

 

ここあ「こんど、りぜちゃんもいっしょにつくろうね」

 

 

リゼ「………………」

 

 

リゼ「……ここあ」

 

 

リゼ「お絵描き帳、遊びに行く前にちゃんと片づけないとダメだろ」

 

 

リゼ「机の上に置きっぱなしになってたぞ」

 

 

ここあ「あれ、りぜちゃんにみせるのわすれないようにおいてたんだよ?」

 

 

リゼ「それでも直すって約束だろ」

 

 

ここあ「うぅ……ごめんなさい」

 

 

リゼ「分かればいい、これからは直そうな」

 

 

ここあ「うん……」

 

 

リゼ「わたしもご飯を食べてくるか」

 

 

ここあ「あっ、まってりぜちゃん、きょうかいたのみて!」

 

 

ここあ「これね、ちやちゃんだよ、ほらっ」パラッ

 

 

リゼ「片づける時に見たから知ってるよ」

 

 

ここあ「ぁ……」

 

 

リゼ「少し待っててくれ、終わったらお風呂に入ろう」

 

 

ここあ「…………」

 

 

ここあ「」シュン

 

 

リゼ「あっ……ご、ごめん、ここあ」

 

 

リゼ「上手に描けてるな、色も綺麗に塗れてるし」

 

 

リゼ「これはアンコか、可愛いな」

 

 

ここあ「……うん」

 

 

リゼ「そうだ、後でなにか一緒に描かないか?」

 

 

ここあ「りぜちゃんとおえかき……?」

 

 

リゼ「ああ、ここあの描きたいものを描こう」

 

 

ここあ「……!うん!」ニコッ

 

 

リゼ「」ホッ

 

 

リゼ「………………」

 

 

ここあ「りぜちゃん?」

 

 

リゼ「……ここあ」

 

 

リゼ「デザートだけでも食べないか……?一人じゃ寂しくてな」

 

 

ここあ「わかった、いっしょにたべよっ♪」

 

 

リゼ「ありがとう」ヒョイ

 

 

ここあ「だいにんぐまでしゅっぱーつ」

 

 

リゼ「……」ギュッ

 

 

リゼ「ここあ…………」

 

 

リゼ「………………」

 

 

リゼ「…………」

 

 

リゼ「……」

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

……どうして、あんな態度を取ってしまったんだろう。

 

 

 

ここあを悲しませたかった……?

 

 

 

あいつに嫌な思いをさせたかった……?

 

 

 

好きなのに……?

 

 

 

大切なのに……?

 

 

 

………………。

 

 

…………。

 

 

……。

 

 

 

 

ここあ「ここはぴんくで~ここはむらさき♪」カキカキ

 

 

リゼ「はみ出さないようにな」

 

 

ここあ「うん!」

 

 

リゼ(二人で寝ころびながらお絵描き……幸せだ)

 

 

ここあ「りぜちゃん、ここの『せん』かいて?」

 

 

リゼ「ああ、任せろ」

 

 

ここあ「あとね、ここにわいるどぎーすも」

 

 

リゼ「この辺だな」カキカキ

 

 

ここあ「あっ、ぴんくいろおれちゃった……」

 

 

リゼ「削ってやる、貸してみろ」

 

 

リゼ「よっ……」スッ

 

 

ここあ「あ、りぜちゃんすわっちゃだめ」

 

 

リゼ「少し待ってくれ。ゴミ箱は……あった」

 

 

リゼ「このナイフでいけるか」

 

 

リゼ「…………」シャッシャッ

 

 

――ポスッ

 

 

リゼ「んっ?」

 

 

ここあ「りぜちゃんのひざまくら」ニヘラ

 

 

リゼ「こら、いまは危ないだろ」

 

 

ここあ「いいの~」ギュッ

 

 

リゼ「甘えんぼうめ」ナデナデ

 

 

ここあ「えへへ//」

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

――PM10:22――

 

 

 

ここあ「すぅ…………」Zzz

 

 

リゼ「…………」ナデナデ

 

 

ここあ「ん………すぅ……」Zzz

 

 

リゼ「…………」ナデナデ

 

 

リゼ「ここあ……」ギュッ

 

 

リゼ「…………」スリスリ

 

 

ここあ「ふぉぇ……」Zzz

 

 

 

 

――――――――――――――――――

 

 

――――――

 

――――

 

――

 

 

 

翌日、学校から帰宅するとまたここあの姿が無かった。

 

 

時計を見やると4時7分、また遊びにでも出かけたのだろう。

 

 

昨日といい、一昨日といい。

 

暇を持て余したゆえに、突発的な衝動に駆られたのだろうと自分の中で折り合いをつけていたが。

 

3日も続くところを見ると、どうやらここあが出かけているのは自発的なものらしい。

 

 

 

リゼ「……………………」

 

 

 

なんだろう、ふつふつと湧き出てくるこのやり場のない憤りは。

 

 

 

昨夜も変わらず、わたしはここあと触れ合い心を交わした。

 

お絵描きをしながらも、たわいもない話をしてじゃれあっては笑顔を咲かせた。

 

就寝の際も、布団に入るといつもわたしのぬくもりを求めるかのように擦り寄っては甘えてくる。

 

わたしもそれを受け入れ、互いの幸せを噛みしめ確かめ合う。

 

 

そんな満たされた毎日を、日常を、枚挙に暇が無いほど一緒に重ねてきた。

 

 

 

……なのに。

 

 

 

自発的な行動であれば、恐らく昨日から。

 

いや、計画があったなら3日前から既に今日出かけることを予定していたのだろう。

 

 

それならば、なぜわたしにその旨を伝えるなり事前に断っておく程度の忖度ができないのか。

 

まだ幼いから、純真無垢だからと言ってしまえばそれまでだが。

 

 

しかし、わたしもそこまで朴念仁ではない。

 

ここあがその程度の気づかいが出来ないような常識に欠けているとは思えない。

 

 

乱暴な言い方ではあるが、あの子は年端のいかない年齢ながらも人の目や評価を人一倍気にするきらいがある。

 

むろんそれは見栄や八方美人などの保身からくるものではなく、みんなに嫌われたくないというある種の強迫観念からだろうが。

 

 

その辺を考慮すれば、やはりわたしに対して一言も無しというのにはどうしても疑問が生じる。

 

 

ここあはわたしになんでも話してくれるし、わたしに心配をかけまいと普段から細かいところまで気を配ってくれている。

 

 

自分がいなければわたしが悲しむことも理解しているはずなのに、どうして……。

 

 

 

リゼ「……………………」

 

 

 

絶え間なく浮き出てくる腑に落ちない疑問はやがて焦燥感へと変わり――それが不安に変わってしまうのにそれほどの時間は要しなかった。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

不安は、2時間が経過するころには、既に『懐疑心』へとその姿を変えていた。

 

 

あれこれ思案しているうちに行き付いた、どうしても否定することができない、ひとつの推論。

 

 

 

ここあが、わたしを意図的に避けているという、万が一の可能性。

 

 

 

……考えたくない、それは。

 

 

でも、なぜだろう。

 

 

皮肉なことに、そう考えると全ての疑問が腑に落ち、辻褄も合ってしまう。

 

 

わたしの帰宅する頃合いを見計らって故意にみんなの元へと行けば、遊びに行ったという体裁で少なくとも6時ごろまではわたしと一切顔を合わせずに済む。

 

 

遊びに行く旨をあえて伝えなかったのも、そういった気持ちの表れだとしたら?

 

 

リゼ「……秘密」

 

 

『しゃろちゃんとのひみつなの』

 

 

2日前のここあの言葉が脳裏をよぎる。

 

 

秘密……何の秘密なんだろう。

 

 

悩み?相談?わたしじゃなくシャロに?

 

 

わたしじゃ役に立てないから?

 

 

それとも、わたしに言えないことだから?

 

 

ここあが、わたしに言えないこと。

 

 

 

昨日は、確か千夜のところだった。

 

 

シャロと共有するだけでは、その『秘密』は問題消化できなかったのか。

 

 

だから翌日に千夜のところへ。二人で考えるよりも三人、そうして解決策を練ってなにかの光明の兆しをこっそり探しているのか。

 

 

被害妄想に近しい邪推を頭から破棄しようにも、『万が一の可能性』がより一層現実味を帯びたせいで、もはや自分では止めることができない。

 

 

憶測にも関わらず、それが全て紛うこと無き真実のような、そんな気さえしてくる。

 

 

 

ここあが……本当は、わたしのことを嫌っている。

 

 

 

好きだなんて口ではなんとでもいえる。

 

 

もし今までの積み重ねが、全てわたしの一方的なものだったとしたら。

 

 

人一倍相手の気持ちを配慮できるここあが、一人ぼっちで悲しいわたしに慈悲をかけてくれていたとしたら……。

 

 

自分の気持ちを押し殺してまで、無理に受け入れてくれていたとしたら……?

 

 

リゼ「っ……」

 

 

否定したいのに、否定できない。

 

 

ここあは、そんな奴じゃない。あの子に、そんな裏表なんてあるはずがない。

 

 

分かっているのに。信じているのに。

 

 

 

……もう辞めよう、これ以上考えても悪化の一途を辿るだけだ。

 

 

 

重い腰をベッドから起こし、課題を済ませるべく勉強机の前へと腰を掛ける。

 

とは言ったものの、当然装いだけで肝心のペンは一向に進まない。

 

 

教科書や参考書が大きさ順に整頓されている本棚、その一番右端の可愛らしいスケッチブックをおもむろに引っ張り出す。

 

 

ここあのお絵描き帳。無地で味気なかった表紙は買った初日にたちまちカラーリングを施され、今ではウサギやネコ、ワイルドギースの絵などがところ狭しと描かれている。

 

わざわざ二人でシール用紙を買ってきて、絵を描いてから張り付けたんだっけ。懐かしいな。

 

 

感慨にふけって最初のページから1ページ、また1ページと読み漁る。

 

改めて覗くここあの描いた世界は、様々だった。ステッキを持った魔法使いらしき女の子、アンコ、ティッピー、親父、使用人、チノ、千夜、シャロ……自分が触れたもの、感じたこと、大切なもの、気持ち、日々の想いを絵というカタチで絶えずここにしたためてきたのだろう。好きなものを好きなだけ、目一杯描きこんでいるのが見てわかる。

 

 

中でも嬉しかったのが、70ページ以上埋められたお絵描き帳の半分以上にわたしが描かれていたこと。表紙のシールに描いてあげたここあとわたしの絵をどことなく模写しているようだし、恐らく至る所にあちこち描かれている似顔絵は『わたし』とみて間違いなさそうだ。

 

 

一緒にお絵描きをしている時も毎回描いてくれていたような気がするが、こんなにたくさんとは。

 

一人でお留守番をしているときも、わたしのことを思い浮かべながらこの白いページに鉛筆をはしらせてくれていたのだろうか。そう考えると自然と笑みがこぼれた。

 

 

 

だが、見た記憶に新しいページで、ふと手が止まる。相関関係であるかのように、先ほどまでの微笑みも顔から消えていた。

 

 

 

大きなスケッチブックに、大きく描かれている千夜。

 

丁寧に色鉛筆で細かく色分けされた着物、髪飾り、肌。子供の絵であれどここまで描くにはゆうに1時間はくだらなかっただろう。

 

少なくともわたしが見ている限りでは、ここあは大切なものを描く際に時間と手間は全く惜しんでいる様子はない。故にお絵描きに誘われた際は、わたしもだいたい1時間半を見積もっている。

 

 

「……………………」

 

 

この絵を描いているとき、あの子は無地だったページに何を想い、どう向き合っていたのだろうか。

 

心を弾ませ、時間の経過を待ち望み、千夜と会える瞬間の高揚をこの絵に描き表していたのかもしれない。

 

その間、きっとわたしは蚊帳の外。わたしが学校でここあと会えるのを心待ちにしていた時、あの子は全く別の、千夜を想い、わたしの存在など頭からスッポリ抜け落ちていた

 

のか……。

 

 

 

「っ……」

 

 

にわかに心の奥に痛みが走る。

 

その原因はどんな鈍感な人間にだって察しがつく、自分のことであればなおさらだ。

 

鏡を見てみたいが、ちっぽけな自尊心がそれを許さない。

 

 

きっといまわたしは、苦虫をかみ殺したような顔になっているに違いない。

 

でも、到底認めたくなかった。

 

 

 

わたしがずっと想っている間……同じようにわたしを想ってくれていなかったのかもしれないここあに、理不尽極まりない恨みを抱いているなんて。

 

 

千夜に……大切な親友に、ドス黒い嫉妬の感情を向けているなんて。

 

 

 

自分という人間が、そこまで醜いものだなんて。

 

 

目を逸らすことのできない事実から逃げ出すさながら、咄嗟に次のページをめくる。

 

 

仲良く寄り添うわたしとここあの絵。

 

わたしが形を描き、ここあが色を塗り、二人で描いた、二人の絵。

 

 

ここあに抱きつかれている色鉛筆のわたしが、真っ黒な今のわたしを見つめていた。

 

鏡を見ずとも、鏡合わせになる。

 

心を見透かされているような、不快感。

 

 

 

昨日わたしがここあと描いたこの絵は……何を意味していた。

 

 

 

……塗りつぶしたかった?

 

 

 

千夜の絵を、ここあの、気持ちを。

 

 

 

絵の中だけでも、わたしだけのものにするために?

 

 

 

わたしだけを、見てもらうために?

 

 

 

……絵の中だけ?

 

 

 

――絵の中までも。

 

 

 

――全てを、奪い去る。

 

 

 

――奪い去りたい。

 

 

 

――ここあの、気持ちを。

 

 

 

ここあの笑顔のためじゃなく……自分のために。

 

あいつの気持ちを、ダマシタ……?

 

 

ここあを優しく抱く綺麗なわたしが、歪んだ肉細工のわたしを完膚なきまで責めたてる。

 

 

見つめ合っているうちに、手に持っていたスケッチブックが、力なく崩れ落ちた。

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

――PM6:40 リゼの部屋――

 

 

 

ここあ「ただいま!」ガチャッ

 

 

リゼ「………………」

 

 

ここあ「りぜちゃん、かえってきたよ!」

 

 

リゼ「………………」

 

 

ここあ「りぜちゃん……?」

 

 

リゼ「………………」

 

 

ここあ「りぜちゃん、りぜちゃん?」クイックイッ

 

 

リゼ「……ここあ」

 

 

ここあ「ただいま、えへへ♪」

 

 

リゼ「……おかえり」

 

 

ここあ「おそくなってごめんね、しゃろちゃんとあそんでたの」

 

 

リゼ「シャロと……そうか」

 

 

ここあ「?」

 

 

リゼ「楽しかったか?」

 

 

ここあ「うん!」

 

 

リゼ「………………」

 

 

ここあ「りぜちゃん……あのね……」

 

 

リゼ「……?」

 

 

 

ここあ「――はい」スッ

 

 

 

リゼ「……これは?」

 

 

ここあ「はーぶくっきー、しゃろちゃんとつくったの」

 

 

リゼ「クッキー……」

 

 

ここあ「きのう『あまうさあん』であるばいとして、ちやちゃんにざいりょうかってもらったんだよ」

 

 

ここあ「りぜちゃんに、さぷらいずぷれぜんと!」

 

 

リゼ「!」

 

 

ここあ「ないしょにしててごめんね」

 

 

リゼ「………………」

 

 

ここあ「おどろいた?びっくりした?」ワクワク

 

 

 

リゼ「………………」

 

 

リゼ「…………」

 

 

リゼ「……」

 

 

リゼ「」

 

 

 

ここあ「……?りぜちゃん?」

 

 

 

リゼ「……!」ハッ

 

 

リゼ「あ……ありがとう、ここあ!わざわざわたしのために作ってくれたんだな」

 

 

リゼ「とってもおいしそうだ。ちゃんとアルバイトまでして、偉いぞ」ナデナデ

 

 

ここあ「ぁ……!」パアァ

 

 

リゼ「サプライズ大成功だ、嬉しいよ……」ギュッ

 

 

ここあ「よかった。りぜちゃん、よろこんでくれた//」ニヘラ

 

 

リゼ「わたしなんかのために……ありがとうな、ここあ」スリスリ

 

 

ここあ「うん//」

 

 

リゼ「まずは手を洗ってこようか、ここあも一緒に食べよう」

 

 

ここあ「ふぉぇ、いいの?りぜちゃんにつくったんだよ?」

 

 

リゼ「ああ、ここあと一緒がいい」ヒョイ

 

 

ここあ「ほんと!じゃあ、たべる!」ニコッ

 

 

リゼ「……っ」ギュッ

 

 

ここあ「わわっ……りぜちゃん?」

 

 

リゼ「……………………」

 

 

リゼ「…………」

 

 

リゼ「……」

 

 

リゼ「」

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 

――PM11:07 ダイニング――

 

 

 

透明なコップに注がれた水を、おもむろに飲み干す。

 

 

味気の無い感触が喉を潤し、勢いよく体内へと流れ込んだ。

 

 

透明な水道水は、その透き通った美しい色とは裏腹に不純物を多く含んでいるらしい。

 

 

キッチンには常備ウォーターサーバーが設置されており、いつでも比較的不純物を含まない純水を飲むことが出来る。

 

並ぶように置かれたコーヒーベンダーのほうは、わたしとここあを除いて大人しかいないこの家では圧倒的な人気だ。

 

故にわざわざ洗い場の蛇口をひねり、水道水を汲むことなどまず無いと言っていい。

 

 

しかし、今は故意にでも不純物を身体に取り込みたい気分だった。

 

感傷的な気分に浸りたいわけではない、ただ、純水は恐らく受け付けられない。

 

 

 

リゼ「………………」

 

 

 

あの時、わたしは何を思ったのだろう。

 

 

わたしの反応を心待ちに目を輝かせるここあを見て、いったい何を考えたのか。

 

 

たとえ刹那でも……その黒い感情は確かに芽生えていた。

 

 

言い訳などできない。取り繕うにもその術がない。あんな衝動に駆られた自分が許せなかった。

 

憎くて、醜くて、どうしようもなかった。

 

己自身を甘く許すなどという器用な思考回路は、あいにく持ち合わせていない。

 

 

 

リゼ「…………っ」

 

 

 

頭を抱える。両手で顔を覆う、というほうが正しい。

 

 

わたしの邪推は当然のことながら、杞憂に終わった。

 

 

ここあはただわたしの笑顔のために、自発的な行動を秘密にしているに過ぎなかった。

 

 

あの子は、わたしの喜ぶ顔が見たかった……本当にただ、それだけのことだったのだろう。

 

 

わたしはただその事実に驚き、安堵し、そして感謝し、その思いやりを受け止める。

 

これだけのことだ。コロンブスの卵が如く、実に簡単な原理だ。

 

はからずとも常人であれば、あの笑顔と気持ちを前にこうならない方がおかしい。

 

 

これで2度目……つくづく、最低だった。もはや人間ですらない。

 

ガラス細工の器に、不純物を飲み込んだ、歪んだ不純物であるわたしが――映る。

 

 

認めたくなかった。見たくなかった。

 

 

ここあの笑顔を曇らせようとした……あの子の気持ちを無下にしようとした、そんな自分がいたなんて。

 

 

 

どうして、こんな風に思ってしまう。

 

 

好きなのに。

 

 

大切なのに。

 

 

 

リゼ「……………………」

 

 

 

破滅願望。幸福の二律背反。人の潜在的な欲望が持つ矛盾が、現実味を帯びて襲い掛かってくる。

 

ここへやってきたのも、あの子の――ここあの側にいると、もう耐え難い自責に駆られてしまうから。

 

 

所詮はわたしも人間だった。矛盾だらけだ。

 

 

……自分を罵るだけ罵ったら、部屋に戻ろう。

 

あの子の側にいてもいい、少しでもそう思えたら、あの居場所へと帰ろう。

 

 

 

その日から、なにかがわたしを見つめていた。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 

 

3度目の正直は、世迷言だった。

 

 

翌日、またここあはいない。

 

 

 

リゼ「……………………」

 

 

 

はからずとも胸にはしる嫌悪感。自然と腕に力が加わる。

 

 

サプライズは、終わったはずだ。

 

 

わたしは取り繕いながらも笑顔でそれを受け取った、この一連は昨日で幕を閉じた。

 

 

なら、今日はわたしのためではなく、自分自身の欲求のために出かけたのか。

 

わたしと会うことなんかよりも、ここあにとって『優先すべき欲求』を満たすために。

 

 

 

スタンドミラーに映る自分の姿が、痛々しいほど惨めに思えた。

 

 

 

身勝手極まりないことは承知の上だが、それでもなお求めてしまうのが人間だ。期待するのが人の性だ。

 

 

 

……ここあ。

 

 

 

――わたしと会うことを、なによりも心待ちにしてくれないのか?

 

 

 

わたしは、こんなにお前を求めているのに……。

 

 

 

学校にいる間も、ずっとお前のことを考えていたのに……。

 

 

 

独りよがりなのか……?

 

 

 

わたしの、独り相撲か……?

 

 

 

……どうして、一方通行なんだ。

 

 

 

どうして、わたしのことを見てくれない。

 

 

 

リゼ「…………っ」

 

 

 

気が付けば、衝動的に足元にあったクズカゴを蹴飛ばしていた。

 

 

物理法則に従い、倒れたクズカゴの中に詰まっていたゴミが辺りに散乱する。

 

 

せっかく昨夜、ここあと掃除したのに。一体なにをしているんだろう。

 

 

両腕が、痛い。

 

無意識に固められた両拳が、奥底に封じ込めた感情を決壊寸前へと追いやっていった……。

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

ここあ「ただいま~!」ガチャッ

 

 

リゼ「………………」

 

 

ここあ「りぜちゃん、ただいま!」

 

 

リゼ「………………」

 

 

ここあ「……?」

 

 

リゼ「……ここあ」

 

 

ここあ「きょうはね、『あまうさあん』にいってたの」

 

 

リゼ「………………」

 

 

ここあ「りぜちゃん!て、だして?」

 

 

リゼ「……手?」

 

 

ここあ「――はい」スッ

 

 

 

綺麗な赤い包装が施された小箱が、わたしの右手へと添えられた。

 

 

 

ここあ「ぷりんたると。しゃろちゃんとちやちゃんといっしょにつくったんだよ♪」

 

 

リゼ「………………」

 

 

 

 

これは……なんだ。

 

 

 

 

ここあ「りぜちゃんのぶんと、わたしのぶんがはいってるの」

 

 

 

これは……なんなんだ。

 

 

 

ここあ「ばんごはんのあとに、ふたりでたべようね」

 

 

 

嬉しい……――憎い。

 

 

 

ここあ「りぜちゃんと、たべさせあいっこするの//」ニヘラ

 

 

 

嬉しい――憎い――嬉しい――憎い嬉しい憎い嬉しい憎い嬉しい憎い嬉しい憎い嬉しい憎い嬉しい憎い嬉しい憎い嬉しい憎い嬉しい憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。

 

 

 

ここあ「●×※□〇△―――――」

 

 

 

ここあの声が――聞こえない。

 

 

 

 

感情が――壊れる。

 

 

 

 

ここあ「……?りぜちゃん?」

 

 

 

リゼ「――なんだろう……」ギリッ

 

 

 

ここあ「ふぉぇ?」

 

 

 

リゼ「わたしのことが……嫌いなんだろうっ!!!!」バシッ!

 

 

 

ここあ「きゃ……っ!!」

 

 

 

ここあからのプレゼントが……わたしの手から、力いっぱい放たれて。

 

 

目がけたここあの頭に、直撃した。

 

 

 

リゼ「嫌いなら嫌いだとはっきり言えっ!!こんなもので、誤魔化すなっ!!!!」

 

 

 

ここあ「……!」

 

 

 

力なく尻もちを付いたここあが、怒鳴り狂うわたしを、見上げている。

 

小さな肩が震え、先ほどまでの笑顔はおろか、表情からは一切の色が消えていた。

 

 

天真爛漫で感情豊かなここあがこんな顔をできるなんて、にわかに信じられなかった。

 

ここあもまた、目の前に起こった現実が……なんの前振れもなく自身に振り注いだ厄災が、信じられなかったのだろう。

 

受け入れまいと……受け入れたくないと、バイオレットの瞳が、輝きを潜めてわたしを捉えていた。

 

 

我に返り、自分の起こしてしまった悲劇が認識できた頃には、もうなにもかもが手遅れだった。

 

 

 

ここあ「ひっく……うぇえっええぇん!!」ポロポロ

 

 

 

ここあが。

 

わたしの大切な、ここあが。

 

わたしのせいで、泣いてしまった。

 

泣かせてしまった。

 

 

たったの数秒で……わたしは、かけがえのないここあとの『幸せな時間』を、『気持ち』を、ここあとの関係を、全て砕いてしまった。

 

決して取り戻すことなど出来ないのに。それを、分かっていながら……。

 

 

 

リゼ「ここあ……っ!」ギュッ

 

 

 

抱きしめるしか、なかった。

 

何を言っていいのかさえわからない。どうしてこんなことをしてしまったのか、頭では理解できていながら、それを言葉にすることさえ。

 

言葉にしてしまえば、もはや――否、言葉にせずとも、わたしは既に狂人だった。

 

 

 

リゼ「ここあ……ごめんな……ごめん…ごめん…ごめん……っ!」ポロポロ

 

 

 

他に言葉が見つからない、勝手に涙が溢れる。

 

 

ここあ「りぜぢゃん……ごめ゛んなざい……っ!」ポロポロ

 

 

 

嗚咽を押し殺した涙声で、ここあは言葉を紡いだ。

 

 

どうして……お前が謝るんだ。

 

お前は何も悪くない、何もしてない。

 

 

 

リゼ「ここあ……わたし……っ!ごめん……ごめん……!」ポロポロ

 

 

 

返す言葉もないまま、壊れたトーキング人形のようにひたすら謝罪を繰り返すことしかできない。いたたまれずに右肩にあったここあの頭を胸元に引き寄せる。襟首に赤黒い何かが付着した。

 

 

 

リゼ「ここあ……!うぅ…っく……っ!」ポロポロ

 

 

 

血だった。額の右側から流れ出た血液が、ここあのか細い首筋までもを辿り、直線状に頬を真っ赤に濡らしていた。

 

 

わたしが……ここあを、傷つけた。怪我をさせた。暴力を振るった。

 

 

湿った舌先で、ここあの可愛い顔を真っ赤に染めた血液を舐めとっていく。

 

首筋から頬に、そして額に、ここあの体から溢れ出てしまった生命のしるしを一滴も余すことなく。

 

根源である額の外傷に、痛くないようにゆっくりと吸い付く。ここあの額に、唇を重ねる形。

 

血特有の鉄に似た独特な味が、口の中に広がった。

 

 

処置を終え、身体を少し離してここあと向き合う。

 

両肩に置いた手から、まだ微かな震えが伝わってきた。互いの瞳に互いを映す、相対的な鏡合わせ。

 

 

 

自己嫌悪にまみれたわたしの情けない泣き顔を見たここあは、またぶり返すように泣きじゃくり、縋りついてくる。

 

 

 

ここあ「りぜちゃん……っ!」ギュッ

 

 

どうしてあげることもできない。

 

ここあが一体、何をしたというんだ。

 

この子はまだ幼い。きっと昨日のクッキーを受け取ったわたしの笑顔が嬉しくてたまらなかったのだろう。

 

だからもっと喜んでもらえるよう、また内緒でお菓子を贈ろうと考えたのだ。

 

 

それをわたしは、怒鳴るどころか無下にして、壊して――あろうことか、傷つけてしまった。心も、身体さえも。

 

 

この子の行動原理の結果は、常に相手に委ねられている。

 

喜んでもらいたいというただ純粋な願いは、ここあ自身がどれだけ努力をしようとも最後は相手によって実り、もしくは枯れてしまうのだ。

 

ただひたすら実ることを疑わずに信じてきたここあにとって、わたしの行動は正に青天の霹靂だったのだろう。

 

 

悪意などを全く知らないゆえに、無垢で尊い。

 

でもその純白は、ほんのわずかな黒い悪意を混ぜただけで、たちまち白ではなくなり、ただのグレーになってしまう。

 

そんな危うい均等に気付かぬまま、わたしはただ己の感情に従い、ここあを――穢してしまった。

 

 

そんな壊れたガラス細工のような痛みを癒すためには、ただ自分の出来得る愛情表現の全てをふるってこの子を包んであげるしかない。

 

それ以上の術を人間は持ち合わせてなどいない。

 

 

ここあの心の痛みを、涙を拭うためになら、わたしは全てを投げうっても――

 

 

 

ここあ「――泣かないで……」ポロポロ

 

 

 

 

――――!

 

 

 

 

ここあ「ごめんね……大丈夫だよ……。だからもう、泣かないで……?リゼちゃん……」グスッ

 

 

 

 

ここ…あ……?

 

 

 

……なにを……言ってるんだ。

 

 

 

……まさか。

 

 

 

お前が……泣いているのは……。

 

 

 

……その涙は――

 

 

 

 

ここあ「りぜちゃんはわるくないよ……ごめんね、ごめんね……っ」ギュッ

 

 

 

 

――…………。

 

 

わたしの頭は、もはや真っ白になっていた。

 

 

思いやりのある人間……?

 

優しい人……?

 

温かい心……?

 

 

そんなものは全て、人間という生き物が汚れた世の中で勝手に祀り上げただけのただの妄信に過ぎなかったのだ。

 

 

人間は、不純だから人間である。

 

純粋な人間など、この世にはいない。

 

純粋に見えるのなら、それはその相手が何かを潜めていることに他ならない。

 

 

なにかの小説で耳にした先人の言葉。それをずっと信じてきた。

 

しかし、今のわたしには分かる……分かって、しまった。

 

 

それすらも、人の無知が生み出した惨めな戯言に他ならないと。

 

 

それを何の疑いもなく信じていたわたし自身も、その一人であったことを。

 

 

 

わたしは、知ってしまったのだ。

 

 

 

本当の、慈愛を。

 

優しい、という言葉の真理を。

 

『純粋』な、人間を。

 

 

――人間?

 

 

違う。もしかしたら、ここあは人間ではないのかもしれない。

 

 

――天使。

 

 

空想ではない、偶像でも虚像でもない人の形を司った――天使。

 

 

この子との邂逅は、いかなるものであったか。

 

突如として唯一無二の親友を失い、この子は忽然とわたしの前へと現れた。

 

そして……いつしかこの子は、わたしにとってかけがえのない存在になっていた。

 

 

消えた親友が帰ってこないことを嘆く哀情以上に、失わずに済んだことを安堵し、慶ぶほどにまで。

 

 

この子は……ここあは、天使なのかもしれない。

 

 

世間的に見れば裕福であろうわたしの、幼いころからポッカリと空いていた心の隙間。

 

愛情や幸福ではなく、同じ時間を、ただ同じように共有できる、家族。

 

永遠に満たされないはずだった、諦観に満ちた願い。

 

 

そんなわたしを哀れに思った万物の創造主が。

 

 

 

――この子を、授けてくれた。

 

 

都合の良すぎる解釈。自愛をこじらせた故の妄想。

 

構わない、それでもいい。もはやその程度のことなどわたしにとって関係ない。

 

 

今なら、はっきりと分かる。

 

 

わたしは、この子が側から離れてしまったら――狂う。

 

この子がいなくなってしまったら――もう、生きることすらもかなわない。

 

 

天使。わたしの天使……そう、ここあは天使なんだ。

 

 

だから、わたしを許してくれる。こんな穢れた心を持つ人間にすら、慈悲をかけてくれる。

 

例え、黒い悪意を幾度となくぶつけたとしても。

 

この子が、純白の天使が、黒色に染まることは決して無いのだ。

 

 

故に、尊い。

 

その尊さゆえに、側にいるもの、見るもの、全てを無自覚に傷つける。

 

無邪気で残酷な天使。それは慈悲の欠片もない悪魔にも等しい。

 

過ぎたる光が、闇と等価であるように。

 

 

 

リゼ「ここあ……」スッ

 

 

ここあ「……?」

 

 

おもむろに、身体を離す。

 

 

誰だ……この子を、泣かせたのは。

 

わたしの天使を、傷つけたのは。

 

許さない。ここあを傷つけるものは。この子を、傷つけたものは、絶対に。

 

 

例えここあが許しても、わたしが――絶対。

 

 

 

リゼ「…………っ!」ガンッガンッ!

 

 

 

ここあ「……っ!?」

 

 

 

わたしは、ここあをいじめたわたしを。

 

 

――頭を、何度も、何度も、壁に打ち付けた。

 

 

 

ここあ「りぜちゃん……!?りぜちゃんっ!!」

 

 

 

ここあと同じ怪我。

 

こんなものでは済まない、この憤りは。

 

 

リゼ「……」ガンッ!ガンッ!

 

 

ここあ「やめてぇ!りぜちゃんっ!いやぁああ!」

 

 

――天使の慈悲に免じて、その日。それ以上の自傷は留まった。

 

その日から、わたしが、わたしを見つめていた……。

 

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

II.

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

 

……………………

 

 

 

………………

 

 

 

…………

 

 

 

……

 

 

 

……りぜちゃん。

 

 

 

 

……ん?

 

 

 

 

……好き。

 

 

 

 

……わたしもだ。

 

 

 

 

……ほんと?

 

 

 

 

……ああ。

 

 

 

 

あのね……なら、どうして。

 

 

 

 

――ひっかいたり、たたいたりするの?

 

 

 

 

…………………………

 

 

 

 

 

 

……好きで、大切で、どうしようもないから。

 

 

 

――だから、憎い。

 

 

 

……憎くて、憎くて、どうしようもない。

 

 

……大好きだから。

 

 

好きだから。

 

 

 

 

……そっか。

 

 

 

……ここあは、ピンクが好きだよな?

 

 

 

うん。

 

 

 

ハートを、ピンク色で塗ると……全部塗り終えると。

 

 

 

――もう、それ以上塗ることが出来ないんだ。

 

 

 

その上から、違う色を塗るしかなくなる。

 

 

 

ピンクよりも薄い色は、色付かない。濃い色も、混ざってしまう。

 

 

 

――でもな。

 

 

 

黒色だけは、塗ることが出来るんだ。

 

 

 

何にも染まらずに、何よりも強く。

 

 

 

黒色は、決して塗りつぶされることは無い。

 

 

 

 

確かな愛情を――証明できる。

 

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 

『〇』

 

 

 

――病院――

 

 

 

「愛情の裏返し、ですか?」

 

 

エメラルドグリーンの瞳が、バツの悪そうな神経科の医師を見据える。

 

空調機から出る微かな風が、彼女の美しく煌びやかなロングヘアをたなびかせた。

 

 

己の持ちうる全知を使い、なんとか辿り着いた結論は、そんな締まりのないありきたりな答え。

 

狂気を知らぬ一介の人間である医師には、それ以上の何かに辿り着くことはかなわなかった。

 

 

「……そうですか」

 

 

彼女もまた、言葉を詰まらせた。

 

人一倍相手の気持ちを察することが出来る黒髪の少女は、議題の対象である友人の行動原理が理解できないわけではなかった。

 

少なくとも、狂気に染まった人間を一度目の当たりにした少女は、無垢な正気しか知らぬ医師などよりもずっと深く心の深淵を覗くことができる。

 

 

 

そう……『愛情』の裏返しだったのだろう。

 

 

 

確固たる、絶対的な繋がりを求めての。

 

 

 

あまりに愛する故に、矛盾する。

 

 

創造が、破壊からしか生まれぬように。

 

 

 

技術の革新的な進歩が、常に『争い』と共に飛躍してきたように。

 

 

 

――憎しみが、愛情と等しく、『相手を想う』ことであるように。

 

 

 

「……………………」

 

 

 

体裁上『特別室』と銘打たれた、無機質な一室に隔離された友人を思い、慈しむ。

 

 

どうして、もっと寄り添ってあげられなかったのだろう。

 

 

踏み込むにはあまりに遅すぎた。知りえた時には、何もかもが手遅れだった。

 

 

きっと彼女は、如何ともしがたい苦悩を一人で抱え、誰にも理解を得られないまま。

 

帰る居場所を失くした迷い子のように……狂気と正常、自尊心と自己嫌悪の狭間を延々と彷徨っていたに違いない。

 

 

そんな中、唯一自分を受け入れてくれる存在が。

 

――救済の天使が、舞い降り、包み、寄り添ってくれた。

 

 

彼女の少女への病的依存は、むしろ必然だったのかもしれない。

 

 

誰だって、独りは怖い。

 

どんな人だって、誰かに必要とされたい。愛されたい。

 

自己の証明を、どこかで欲している。

 

 

ただ一つの掛け違えは。

 

愛するその子があろうことか苦しみの元凶であり、愛すべき存在でありながらも最も忌むべき存在であったこと。

 

 

同一でありながらも背反する二つの感情が、彼女を更なる袋小路への奈落へと追いやってしまったのだろう。

 

 

 

「……リゼちゃん」

 

 

 

今なら分かる。

 

『書経』に記された立派な言葉など、人がいかに無垢で無知なのかを証拠立てる稚拙な証明に他なら無かったのだと。

 

 

万物の霊長……万物の中で最もすぐれているもの、すなわち人間。

 

 

――人間。

 

 

一体誰がそんな戯言を裏付けもなくしたためたのであろうか。

 

 

 

必然にもがき苦しんでいた彼女に、ただ狂気というレッテルを貼って、理解することはおろか手を差しのべようともしなかったのに。

 

 

 

人が勝手に作り上げた、都合の良い最低限の『社会ルール』。

 

 

人はその枠組みを逸脱した者には、『犯罪者』や『狂人』などという蔑称を用い、ただ蔑ろにする。

 

自尊心を満たすため。己自身を、『枠組みを逸脱した人間』よりはまともで優れた者であると思い込むため。

 

さもそれが、『枠組みを逸脱した人間』にふさわしい呼称であるかのように。何の疑いもなく厚顔無恥に。

 

 

だが、それも詮無きことなのだ。

 

なぜなら。

 

 

『現実に行動』さえ起こさなければ、人はいかなる価値観や癖を持っていたとしても『まともで正常である』という証を得られるから。

 

 

そう……たとえカニ〇リズムでも、嗜虐でも、シカンでも、サ〇ジン癖でも。

 

妄想や空想……フィクションの世界であれば……現実で無ければ、全ては許される。

 

 

空想は、自己が正常な人間であるという自尊心を満たすために、一役も二役もかっているのだろう。

 

 

人は、自分がまともで正常あるという証を得ねば。

 

社会の枠組みを外れた者や弱者を利用せねば、存在できない寂しい生き物なのだろう。

 

 

 

「………………」

 

 

 

上辺だけで塗り固められた世の中の成り立ちを知ってしまった少女には、もう友人を責めることなど到底不可能だった。

 

 

少女は、知ってしまったのだ。

 

 

線引きの全ては、自尊心を満たすものとそれに利用されるものに他ならないと。

 

 

誰も、人を蔑む権利はない。レッテルを貼る権利すらもない。

 

まともな人間など、この世にいない。正常などこの世に無いと。

 

 

 

いじめ――嗜虐心。

 

 

犯罪者――妄想者。

 

 

優しさ――自己満足。

 

 

考察――自己完結。

 

 

思いやり――自己愛。

 

 

自傷――自己実現。

 

 

哀れみ――自尊。

 

 

寛容――自己正当化。

 

 

正常――狂気。

 

 

 

全ては、等価だった。

 

体の良い、隠れ蓑。

 

 

もしかしたら彼女は、気付いて向き合ったのかもしれない。その矛盾に。

 

そして、穢れて傷ついて、最後は翼をもがれた。

 

 

……不幸中の幸いは、また笑いあえる日が来ると。

 

いつか元に戻れる日が来ると、確信に近い希望を持てることか。

 

 

 

「……ふふっ」

 

 

 

リゼちゃん……もしかしたらもう、わたしも変になってるのかもしれない。

 

黒の診断書を出されたリゼちゃんの気持ちがこんなにも分かるって、おかしいかしら。

 

それとも、的外れ?

 

 

……会えたら、聞いてみましょうか。

 

お互い、真理を知ってしまった者同士。

 

また、笑いあいましょう。笑えると、いいな。

 

 

 

「……リゼちゃん」

 

 

 

きっと、わたしたちなんかでは計り知れないほどに。

 

 

人知では、言葉や行動では証明できないほどに。

 

 

 

――壊したいほどに、大切だったのね。

 

 

 

ここあちゃんの身体にあった無数の傷跡が、痣が。

 

 

 

リゼちゃんの愛情の深さを、皮肉にも表してた……。

 

 

 

 

………………。

 

…………。

 

……。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――

 

 

『●』

 

 

 

リゼ「……っ!」グググ!

 

 

ここあ「いだっ!ぁぁ゛……っ!」

 

 

リゼ「ここあ……っ」ガシッ

 

 

ここあ「ぃや……痛いよぉ……!」ポロポロ

 

 

リゼ「…………」

 

 

ここあ「ぇぐ……りぜちゃん……グスッ、どうして……?」ポロポロ

 

 

リゼ「……っ」ジワッ

 

 

リゼ「…………」ポロポロ

 

 

ここあ「りぜちゃん……?」グスッ

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

リゼ「……………………」ギュッ

 

 

ここあ「りぜちゃん……もうあさだよ?ごはんたべて、がっこういかなきゃ……」

 

 

リゼ「…………」フルフル

 

 

ここあ「……りぜちゃん」

 

 

リゼ「……いやだ、お前と離れたくない」

 

 

ここあ「…………」

 

 

リゼ「どこかに行くかもしれない……いなくなるかもしれない……」

 

 

ここあ「いなくならないよ……?どこにもいかないってやくそくするから……りぜちゃんのこと、おうちでまってるから」

 

 

ここあ「だから……ねっ?」

 

 

リゼ「…………」グスッ

 

 

ここあ「いっしょにごはんたべて、よういして、『げんかん』までいこう?」

 

 

リゼ「……」コクリ

 

 

ここあ「よしよし……」ギュッ

 

 

リゼ「ここあ……っ」

 

 

リゼ「帰ったら、また抱きしめてもいいか……?」

 

 

ここあ「うん、たくさんぎゅってしようね」

 

 

リゼ「………………」ギュッ

 

 

ここあ「りぜちゃん……」ナデナデ

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――

 

 

 

………………。

 

…………。

 

……。

 

 

 

 

ここあ……。

 

 

 

 

……わたしの天使。

 

 

 

 

――存在証明。

 

 

 

 

天使は――決して穢れない。

 

 

 

 

不純とは違う――純粋で、崇高な存在。

 

 

 

純粋は――矛盾を持たない。

 

 

 

持たないが故に――遠くにある。

 

 

 

そばには――いてくれない。

 

 

 

……………………。

 

………………。

 

 

 

だから、依存は。

 

 

 

常に、一方的で。

 

 

 

天使は……ここあは、わたしを慈悲深く包んでいるに過ぎない。

 

 

 

天使の慈悲は……特別な愛情ではない。

 

 

 

その愛情は――全ての人間に、平等に注がれる。

 

 

 

――いやだ。

 

 

 

いやだ、いやだ、いやだ。

 

 

 

いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダ。

 

 

 

…………。

 

……。

 

 

 

 

証明。

 

 

 

特別である――証明。

 

 

 

特別な――愛情。

 

 

 

証明する――術は。

 

 

 

あの子を――天使を、不純にするしかない。

 

 

 

不純は――人間。わたしと、同一。

 

 

 

不純にする――術は。

 

 

 

歪んだ愛憎の、いずれかでしかない。

 

 

 

暴力、罵声、凌辱――嗜虐。

 

 

 

……おかしいな。

 

 

 

幸せなのに。

 

 

 

苦しい。

 

 

辛い。

 

 

悲しい。

 

 

………………。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

美しいものを汚したい、というサディズム。

 

いじめたいという、嗜虐心。

 

それは無価値な自分自身に、価値を見出す術なのかもしれない。

 

 

誰だって、かわいそうな子が好きだ。

 

極めて安全な立場から……辱め、苦しめ、凌辱する。

 

人間の本能は、極めて醜く、そして汚い。

 

そう……自分よりも弱いものが、好きでたまらないのだ。

 

イニシアチブを取りたいのは――何もない自分を、取り繕うがため。

 

 

だから時に――手を差しのべる。

 

 

か弱いものに――快感を、興奮を、覚える。

 

 

不幸は、蜜の味ではない。

 

不幸は――人を、人であらざる者に変える。

 

 

 

――魔。

 

 

 

 

リゼ「ここあは、わたしに嫌われてもいいんだな?」

 

 

 

極めて冷徹を装い、そんな言葉を投げかける。

 

脊髄反射の如く、ここあは懇願するかのようにかぶりを振った。その様は、強迫観念によって動くパラノイアを連想させる。

 

 

ここあ「いや……!いやだよ……!」

 

 

縋りついてきたここあの双肩は震え、既に涙腺は決壊していた。

 

離れ行く不確かなものを引き寄せるかのように、わたしの身体を固く抱きしめ、決して離そうとしない。

 

 

こちらを見上げ、わたしの虚言に畏怖し怯えるここあ……その姿に、天使の面影はない。

 

姿形のない絶対的な存在を崇め奉り、根拠のない神や悪魔を疑いもなく信仰する、『人間』特有の観念。それに似た脆弱さを露呈させる。

 

 

ここあが人間であることを、わたしが確信できる唯一の手段。

 

ここあからの愛情を……愛情が一方的でないことを確かめられる、唯一無二の方法。

 

 

わたしからの愛情に縋るここあと、縋られるわたし。

 

 

依存するここあと、依存されるわたし。

 

 

縋る天使と――縋られる人間。

 

 

懇願スル天使ト――蹂躙スル人間。

 

 

 

快感だ……。

 

 

 

ここあが、わたしに縋っている。

 

わたしなんかを、必要としてくれている。

 

わたしからの愛情の枯渇に、泣き怯えている。

 

 

 

快感だ……。

 

 

 

天使を穢す、優越感。

 

ここあを、人間に――不純物にする。

 

自己の存在証明を確立することができる、至福の瞬間。

 

 

 

ここあ「きらいにならないで、りぜちゃん……!」ポロポロ

 

 

 

無言のままここあを抱き上げ、ベッドへと横たえる。その上に、覆いかぶさる。

 

この子なりの力一杯の抱擁は、ほんのわずかな力によっていとも簡単に引き離せる。

 

無力で、純真な、わたしの愛しい天使。

 

華奢な肢体、幼さ故のきめ細やかで柔らかい肌、か細い首筋……ここあの存在を形取る、全てが手中にある。

 

 

 

リゼ「……ここあ」

 

 

おもむろに頬を撫でてみる。

 

ビクリと身体をすくめ、潤んだ瞳がわたしの顔を覗き込んだ。

 

 

欲望、衝動、虚栄、嗜虐心……透明な表情の下に隠された真意を覗けなかったのか、すぐさま恐怖を覆い隠すように目を瞑る。

 

そんな仕草はことさらわたしの理性を侵し、ドス黒い感情を増長させた。

 

 

 

めちゃくちゃに――したい。

 

 

優位性を保てる――この立場から。

 

 

極めて、冷酷に、この子に、何の慈悲も愛情もなく。

 

 

ただ、身体だけを求めて。

 

 

 

ここあ「きゃっ……!」

 

 

 

支配欲、イニシアチブ。

 

ここあを、傷つける。心も、身体も。

 

満たされる、ちっぽけな自尊心が。

 

 

 

さも道具を扱うかのように、ここあの髪の毛を掴む。

 

 

 

ここあ「いたっ!ぁぅ……っ……!」ガクガク

 

 

 

わたしに嫌われたくない……ただ、その一心で。

 

必死に恐怖を押し殺し、自分という尊厳を捨ててまでも抵抗しようとしない。

 

例えこのまま秘部に手を伸ばそうとも。この子は、わたしを拒まないだろう。

 

 

 

わたしからの覚束ない愛情を、求めるために。

 

 

 

『……違う』

 

 

 

何をしても、許される。

 

 

 

例え凌辱しようとも、暴力を振るおうとも。

 

 

気持ちをないがしろにして、身体だけを蹂躙しても。

 

 

 

『――違う』

 

 

 

ここあは天使だから、許してくれる。

 

 

どれだけ穢しても、純白のままなんだ。

 

 

例え人間だとしても、ここあはわたしのことが好きだから。

 

 

相思――相愛だから。

 

 

 

『……違うだろ』

 

 

 

声が……聞こえる。

 

 

視界が……ぼやける。

 

 

……幻聴?

 

 

違う、わたしだ。

 

 

 

――極めて安全な立場から、可哀そうなここあを虐める、紛れもない『わたし』を。

 

 

――ここあのことが大好きで、真っ直ぐな愛情を与える、他の誰でもない『わたし』が見つめていた。

 

 

 

傲慢なんだ。

 

 

大した人間でもないのに、そんなに尊い子を、自分の物にしようだなんて。

 

 

 

……愛情が一方的でいいのなら。

 

どうせ一方的でしかないなら……人間は、自分に自信を持てるものなんだ。

 

 

 

傲慢なんだ。

 

 

わたしのもの?わたしのここあ?

 

わたしなんかが側に寄り添わなくても――違う。

 

寄り添う資格も、寄り添う必要もないんだよ。

 

わたし如きが。

 

 

 

寄り添って『あげたい』なんて――嘘だ。

 

本当は……わたしが、そうしたいから。

 

この子の全てが、欲しいから。

 

わたしだけのものにしたいから。

 

わたしがこの子にとって一番でありたいから……。

 

 

 

傲慢なんだ。

 

 

自己満足、だろ。

 

そうやって言葉にして証明しないと、行動で示さないと。

 

ただの自己満足であることに、気付いてしまうから。

 

独りよがりの愛情に、固執してることに。

 

 

 

仕方がないんだ。

 

こうすることでしか、この子はわたしの側にいてくれないから。

 

わたしのものにできないから。

 

 

 

傲慢なんだ。

 

 

 

無価値な自分を棚に上げて、一方的に愛情を貰おうなんて。

 

 

愛したい、なんて。

 

愛してあげたい、なんて。

 

愛してほしい、なんて。

 

愛されたい、なんて。

 

 

 

………………。

 

 

 

傲慢なんだ。

 

 

 

好き、なんて。

 

嗜虐心、なんて。

 

この子は、わたしの奴隷じゃない。

 

興奮を満たす道具じゃない。

 

一方的に愛情や暴力の代わりに……身体だけが、欲しいんだろ?

 

 

 

…………。

 

 

 

ここあの気持ちなんて、考えていないだろ?

 

どうでもいいんだろ?

 

わたしさえよければ、それで。

 

その暴力は、行為は――愛情の証明ではなく。

 

――ただの、押しつけだ。

 

 

 

……。

 

 

…………。

 

 

………………。

 

 

 

――嫌いに、なってくれないから。

 

 

 

………………。

 

 

 

……嫌いに?

 

 

 

――嫌われたくない。

 

 

 

ここあを壊してしまう。

 

 

 

……壊したい。

 

 

 

離れて、くれ。

 

 

 

――依存してほしい。

 

 

 

やめろ。

 

 

 

もう、ヤメテクレ……。

 

 

 

ここあを、いじめないで……泣かせないで……叩くな、求めるな、愛してあげるな、苦しめるな……。

 

 

 

わたしの――大切な、ここあを。

 

 

 

 

リゼ「うぁああああああぁ!!!!!??」

 

 

 

 

ここあ「っ!?」ビクッ

 

 

 

相反する、二元された行動原理の先に。メッキで固められた、心の根底に。

 

無理矢理押さえつけていたものが、溢れ出た。

 

 

 

リゼ「嫌わないでくれっ!!!独りにしないでっ!!ごめんここあ!許して!許してくれっ!」ガッ

 

 

ここあ「りぜちゃん……!?りぜちゃん!」

 

 

リゼ「ここあぁ、わたしを見捨てないで!うぁぁあ!頼む……たのむ……!」ポロポロ

 

 

ここあ「りぜちゃんっ!なかないで!いやぁ……!」ポロポロ

 

 

 

もう、何も分からない。

 

自分の感情も、気持ちさえも。

 

何が間違っていて、何が正しいのかさえ。

 

 

 

のしかかるかのように、ただ目前にいる誰よりも愛しく誰よりも憎い相手を抱きしめる。

 

知覚を振るい、温もりを、香りを貪る。

 

 

リゼ「嫌いになってくれ、嫌いにならないで……側にいてくれ、離れてくれ……ここあ、好きだ……傷つけたい……壊したい……愛してる……」ポロポロ

 

 

 

狂った言葉を吐きながら咽び泣くわたしの身体に、小さな慈愛の手がまわされる。

 

背中を引っ掻くわたしと、撫でるここあ――相手を想う同一の行動は、対照的に。

 

 

 

ここあ「りぜちゃんの、したいようにしていいよ?」グスッ

 

 

ここあ「りぜちゃんのこと、ぜったいきらいになったりしないから……」ジワッ

 

 

 

それは、好意……?慈悲……?それとも憐憫……?

 

情動を覆い隠す、絶対的な天使の言葉。ここあの、言葉。

 

 

 

ここあ「だいすきだから……」ポロポロ

 

 

 

抗えない、抗う術がない、無力で不純な生き物でしかないわたしには、到底。

 

 

届かない、触れてはいけない、触れたら、わたしは掻き消される。

 

 

白と黒は、交わってはいけない。

 

 

 

――なのに。

 

 

 

ここあ「りぜちゃん……」グスッ

 

 

 

わたしの腕の中には、小刻みに震える脆弱な生き物がいる。

 

不純な狂人にさえ、その気になれば力づくで穢されてしまうほど、か弱い天使が。

 

そしてこの子は、間違いなく『ここあ』なのだ。

 

 

翼は無い。神秘的な力なんて無い。ただ、分け隔てない愛念を司るだけの、無力な生き物。

 

それでいて、わたしが畏怖する崇高な存在。

 

 

嗜虐とは真逆の、弱いものを守ってあげたい保護欲。

 

怖いものに触れたいという、人間の欲望的衝動。

 

そして――崇高なものを穢したい、征服欲。

 

 

全ては共存し、矛盾し、わたしの中に存在する。

 

 

それはいずれも、ここあに縋り、依存することでしか……満たせない。

 

 

 

リゼ「……っ」ギュッ

 

 

 

どうして、こうなる。

 

 

こんなに好きなのに。

 

こんなに幸せなのに。

 

こんなに満たされているのに。

 

 

どうして、こうなってしまう。

 

 

好きだから、不安になって。

 

幸せだから、不安になって。

 

満たされているからこそ、不安になって。

 

 

 

 

リゼ「ここあ……っ」ポロポロ

 

 

 

 

 

………………。

 

…………。

 

……。

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 

 

『〇』

 

 

 

――ラビットハウス――

 

 

 

「……ここあさんは?」

 

 

「んっ……部屋で寝ているよ」

 

 

問いかけに、男は淡々とした口調でそう答えた。

 

少女が思いやり慈しむ相手は、とある出来事から解放され、ゆうに20時間を超えてもなお深い眠りについている。

 

 

「ここあくんも限界だったんだろう……」

 

 

男は少女の不安を察したように、向かい側のダイニングチェアへと静かに腰を掛けた。

 

内気で謙虚な少女も、肉親である男……父親には、ある程度の心内を話すことが出来る。

 

 

LEDに照らされ、少女のライトブルーの髪がひと際美しい輝きを放っていた。

 

静まらない胸の内を秘めた少女の曇った表情とは裏腹に、神々しい印象を受ける。

 

 

「………………」

 

 

水を打ったような静寂。

 

男はただ少女を見つめ、少女は必死に押さえつけていた寂寥が漏れたように、目尻に涙を浮かべた。

 

 

無理もない。少女はこの一件で、最も近しく大切な親友二人を一時的とはいえ喪失してしまったのだ。

 

やりきれない結果に対し、自責の念や悔恨、彼女なりの忸怩たる思いがあるのだろう。

 

その辺の気持ちは、周りの人間が汲み取ってあげるべきだ。慰めの言葉も罵倒の言葉も不要。

 

男の為すべきことは、愛する娘が再び笑顔になれるよう、ただ傷心を癒やし、寄り添うだけ。

 

 

 

「……チノ、これだけは、覚えていてほしい」

 

 

 

名前を呼ばれた少女が、おもむろに顔を上げる。

 

 

 

「自身の過ちや過失を、相手のせいにしてしまうのは『自分への甘さ』だ。根拠のない自信を振りかざし、自分を過大評価するのはとても見苦しい。人は謙虚で、どんなことに置いても必ず自分を戒めなければいけない。反省は、大切だ。分かるね?」

 

 

 

返答を待たずして、男は続ける。

 

 

 

「でも……自分を卑下して、何もできない、最低だと思うのも同じく、『自分への甘さ』だ。頑張ろうとしない自分を許し、これでいいと満足してしまう。それは、気づかぬうちに自分に勝手な評価をしていることにままならない。反省や戒めは、都合の良い言い訳を作ることじゃない。……分かるかい?」

 

 

「………………」

 

 

男は立ち上がると、押し黙る少女の頭に軽く手を乗せ、諭すように撫でる。

 

 

 

「自分に甘くても、卑屈でも、ダメなんだ。……難しいね」

 

 

 

何より厳しく、残酷な言葉であることは分かっていた。

 

だが、自身の娘であれば必ずやその言葉の真意を理解してくれる。

 

男には、確信に近い確かな根拠があった。下手な同情よりも、今の彼女にはこれが一番の特効薬だ。

 

はからずも不幸な人生を歩ませてしまった、優しい自慢の一人娘。この問題も、必ずや乗り越えてくれるに違いない。

 

 

 

「……そろそろ部屋に戻って、ゆっくり寝なさい」

 

 

「……お父さん」

 

 

 

踵を返した男の背中に、先ほどまでとは違う、はっきりとした少女の声。

 

男の口元に自然と微笑みが漏れた。

 

 

 

「ありがとうございます……おやすみなさい」

 

 

 

少女もまた、向き合う。

 

戒めや自責の先にある、何よりも厳しい――現実に。

 

 

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

『●』

 

 

 

暗黙の了解……この世の不文律、と言うものはいついかなる時に置いても不条理だ。

 

しかし、悲しいかな。成文律はもっと不条理なのだ。

 

 

わたしは狂人ではない。正常。

 

この世界ではまだ、はっきりとそう言えるのだろう。

 

 

ここあにどれほどの暴力を振るおうとも、一方的に身体を穢そうとも。

 

明るみに出ぬ限り、わたしは正常。

 

 

これが、こんなあいまいな線引きが。この世の正常と狂気を分け隔てている。

 

故に、わたしを裁こうとするものはいない。責めようとする者もいない。

 

……なにが、犯罪者だ。そんなものは、ただのレッテルだ。

 

正常なんてどこにもない、まともな人間なんて、わたしを含め誰もいない。

 

 

 

……だから。

 

 

 

わたしは、わたしが裁く。

 

 

 

言ったはずだ。

 

わたしの大切なここあを傷つけるものは、誰であろうと許さない。

 

 

 

――わたし自身も。

 

 

 

リゼ「…………」スッ

 

 

 

護身用に携帯している、小さな刃物。

 

本来の用途に使われたことのない鋭利な刃先が、凶悪なまでにその殺傷力を主張している。

 

これなら、充分だろう。

 

 

 

刃先を突き立て、二の腕の方に沿わすように這わす。

 

血液を紙一重で保護している皮膚が裂け、とめどないほどの血流が溢れた。

 

不思議と痛みは感じない。……いや、違う。

 

この痛みは、むしろ快感だ。

 

 

まるで、親のカタキである対象に幾度となく憎悪を込めて凶器を突き立てるかのように。

 

 

最も忌むべき対象を傷つける……その行為のもたらす意味が、痛みが、何よりも心地よい。

 

憎しみしかないこの身体を傷つけるのに、なんのためらいも迷いもない。

 

 

 

リゼ「わたしのここあを傷つけたのはお前か……」

 

 

 

横に深く切り裂くと、赤い体液が吹き出し、近くにあったわたしの顔と身体を赤く染めた。

 

 

 

リゼ「ふふっ……あはは……!」

 

 

 

こんなものじゃ済まさない。

 

二度と、ここあを傷つけられないようにしてやる。

 

 

 

リゼ「よくも、わたしのここあを……!」

 

 

 

刃物を持った右腕を高くかざし、思い切り突き立てようとした正にその時だった。

 

 

 

ここあ「りぜちゃんっ!!!!!!!!」

 

 

 

聞き慣れない、空を裂くような叫び声。

 

わたしの自傷の手が、自然と止んだ。

 

 

 

ここあ「りぜちゃん!しっかりしてっ!!しんじゃだめ!!りぜちゃんっ!!!!!」

 

 

半ば狂ったように泣き叫ぶここあの声が、わたしの耳に届く。

 

ようやくまともな思考を取り戻したのも束の間、裂傷だらけの左腕に鋭い痛みが走る。

 

辺りを見回すと見慣れた景色はどこにもなく、随所に飛び散った血痕……わたしの身体が、鮮血で赤く血塗られていた。

 

 

ここあ「しなないで!!しなないでぇ!!」

 

 

 

ここあが……泣いてる?

 

 

 

リゼ「ここあ……?」

 

 

ここあ「りぜちゃん!?りぜちゃん!!」

 

 

 

縋りついてきたここあの服が、肌が、たちまち赤く染まっていく。

 

闇が、光を侵食するように。純白のここあが、朱に染まる。

 

 

 

リゼ「ここあ……」ナデナデ

 

 

ここあ「りぜちゃん……ううっうぇええええん!!!」ポロポロ

 

 

 

……どうして、泣いているんだ?

 

どうして、ここあが泣くんだ……?

 

 

わたしは、お前を虐めたわたしを、切り刻んでいただけなのに。

 

ここあ……お前は、自分に害を及ぼす存在にまで、慈悲をかけるのか?

 

 

 

ここあ「やめて……もうこんなことしないで……しちゃだめ……!!」ポロポロ

 

 

リゼ「ここあ……わたしは、おまえを虐めたんだ。だから……」

 

 

ここあ「いじめてない!!りぜちゃんはなにもしてない!してないよ……!」ポロポロ

 

 

ここあ「おねがい、もうわたしのたいせつなりぜちゃんをきずつけないで……わたしはどうなってもいいから……!!」ポロポロ

 

 

激しくかぶりを振り、わたしを精一杯の力で抱きしめるここあ。

 

血で濡れた右手から……ここあの大切な、わたしの大嫌いな、わたしを傷つけた刃物が。

 

……力なく、滑り落ちた。

 

 

 

……………………。

 

………………。

 

…………。

 

……。

 

 

 

天使は……わたし自身を傷つけることすらも許さない。

 

咽び泣き、慈しむ。

 

 

わたしは、ここあを虐めるわたしを傷つけることもできない。

 

 

この子は、泣いてしまうんだ。

 

 

自分を傷つけられることよりも、ずっと深く悲しんで。

 

 

 

ここあ……。

 

ここあ、ここあ、ここあ。

 

ここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあここあ。

 

 

 

リゼ「ここあ……どうしたらいいんだ……」ガクッ

 

 

ここあ「りぜちゃん……?」グスッ

 

 

 

抱きしめる、天使を?ここあを?

 

違う、わたしの命よりも大事な存在を。生きる意味を。

 

 

 

リゼ「ここあ……教えてくれ……」ポロポロ

 

 

リゼ「わたしは……生きていていいのか……」ポロポロ

 

 

リゼ「お前のことを、好きでいていいのか……」ポロポロ

 

 

 

…………………………。

 

 

………………。

 

 

…………。

 

 

……。

 

 

 

わたしが、わたしを見つめている。

 

狂ったわたしが、狂ったわたしを。

 

 

 

……もう、どうでもいい。

 

わたしの存在証明は、ここにある。

 

 

 

 

 

ここあ「りぜちゃんは、いきていていいんだよ……だいじょうぶ」ポロポロ

 

 

ここあ「わたしのこと、すきでいて……いてくなきゃ、やだ……」ポロポロ

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

III.

 

……。

 

…………。

 

………………。

 

 

 

――――――――――――――――――

 

 

『〇』

 

 

快晴の中、かりそめの目的地に向かい歩みを進める。

 

幼馴染の情報によると、甘兎庵から徒歩で約20分。確かであればあともう少しで見えてくるはずだ。

 

 

「あっ!しゃろちゃん、あれ!」

 

 

傍らでわたしの手を握っていた少女が、忽然と駆け出す。

 

人為的に形成された石畳みの歩道に歩みを進ませること18分、喧噪に包まれた景色が視界に飛び込んできたところでホッと胸をなで下ろす。

 

情報との誤差2分、どうやら出まかせでは無かったようだ。

 

 

「ここあ、先に行っちゃダメよ」

 

 

やんわりとたしなめると、戻ってきた少女の小さな手が再び繋がれる。

 

土曜日の真昼間、恐らく中も休暇を楽しむ人たちで雑踏しているに違いない。はぐれないようにしないと。

 

 

「欲しいもの、見つかるといいわね」

 

 

「うん!」

 

 

なんでもここのデパートは日用品や雑賀はおろか、有名なブティックや洋菓子、老若男女が求めるもの全てを一つの建物内に結集しているらしい。

 

この子がお気に召すものも当然備わっていることだろう。

 

 

 

片手でポーチを開け、財布の中身を再度確認する。

 

チノちゃん、千夜、リゼ先輩宅の使用人さん、みんなで出し合った『ここあとお出かけ用』の資金。

 

ピン札と呼ばれる美しい万札が5枚と、真ん中折れの皺が付いた5000円や1000円札が十数枚入っている。

 

金銭面は全く心配は無い。むしろこれほどの大金を財布で持ち歩いたことが無いせいか、妙な緊張感と不安に駆られてしまう。

 

 

「………………」

 

 

チラリとここあの方を見やる。

 

良かった……どうやら今は心から目の前の期待に胸を弾ませてくれているようだ。

 

いつもの寂しそうに影を差した笑顔は、まだ見受けられない。

 

 

この子は天真爛漫でありながら、相手を不快にさせないようにするという気遣いに関しては、下手な大人以上のきらいを見せる。

 

それを察せるものからすれば、あの悲しい笑顔を見るのは心臓を鷲掴みにされたように痛く、辛いものだった。

 

 

静寂はどうしても人に考える猶予を与えてしまう、人のごった返すこの場所をあえて選んだのは、千夜なりの気遣いだったのだろうか。自意識過剰かもしれないが、ここあではなく主にわたしへの。

 

 

「さて、行きましょうか」

 

 

処世術で培った笑顔を繕い、ここあを促す。

 

リゼ先輩と離れ離れになって以来、健気にカラ元気を装うここあのためにと毎週休日に交代で催すことになったおでかけ。今週はわたしの番だ。

 

 

無論『義務』や『面倒』などという気持ちは微塵もない、ここあと二人きりで時間を共有する役得は本来の目的を加味しても何物にも代えがたい喜びがある。

 

 

 

変わらない、日常。

 

 

 

元に戻りつつある、幸せな時間。

 

 

 

しかし、完全に元通りになることは無いだろう。

 

 

……リゼ先輩。

 

 

あなただけが、いない。

 

 

ただ、あなただけが。

 

 

「………………」

 

 

今日もまた、心の中で祈る。

 

 

昨日と同じく、たった2つの願い事を。

 

 

 

少しでも――ここあが元気になりますように。

 

 

 

リゼ先輩――早く帰ってきてください。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

『●』

 

 

 

…………。

 

 

 

…………?

 

 

 

……もう、朝か。

 

 

 

…………。

 

 

 

……一日が、始まる。

 

 

 

リゼ「…………」

 

 

 

意地の悪い睡魔に抗えなかった己自身にまた傷の一つでも付けてやりたい衝動に駆られたが、ここあのためにもこみ上げる悔恨をグッとこらえた。

 

 

もはや地獄となった日常、唯一の加護領域であるベッドから重い腰を上げる。

 

……いや、違う。

 

加護領域は、ここあの側。この子がいないのであれば、ベッドで横になるなど『生きていく上での苦痛の義務』の一つに過ぎない。

 

無神世界に提供されたわたしの安寧は、その名の通り世界にたった一つで、ほんのわずかしかないのだ。

 

 

しかし、この世の義務というのは、その救済に易々と縋りつくことすらも許さない。

 

学校、仕事、世間体……人間に纏わりつく責務などというやつは、どこまでわたしを苦しめるつもりなのだろう。

 

 

ここあ「んっ……?」

 

 

絶え間ない数々の仕打ち。本来ならば、もうこんな世界にとっくに未練などない。

 

味覚、視覚、感覚……知覚が徐々に狂いつつある今、もはやわたしには何も残されていないのだ。

 

 

 

――ただ、この子を除いて。

 

 

 

リゼ「ここあ……おはよう」

 

 

ここあ「おはよう……ふぁぁ……」

 

 

リゼ「顔を洗おうか。……よっと」

 

 

返答を聞かずして、おもむろにここあを抱き上げる。

 

 

リゼ「んっ……」

 

 

温かい体温。芳しい少女の香り。

 

わたしが人間でいられる、唯一の時間。

 

生きていることを疑いなく生きていると認識できる、至福の瞬間。

 

何物にも代えがたい、天使の翼と肢体に優しく包まれているかのような、安らぎの時。

 

 

わたしは、このために生きている。

 

 

生きている意味など、他に要らない。

 

必要とし、必要とされる……どちらが欠けても崩れてしまう危うい均等の中、互いの存在に安堵し、喜悦し、縋りひたすら求めあう。それが今のわたしの幸福。

 

 

ここあ「りぜちゃん……」スリスリ

 

 

共依存……だっけか。どこかで聞いたことがある。

 

ただ、わたしの場合は少し違う。

 

 

悲しいかな、きっとわたしとここあでは、ベクトルが違うのだ。

 

 

 

ここあ「きょうも、がんばろうね……?」

 

 

 

もう、義務なんてどうでもいいのに。

 

わたしにはお前さえいれば。

 

 

 

 

ここあ……。

 

 

 

 

お前は、まだわたしを、人間でいさせてくれるんだな。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

――お昼――

 

 

 

??「リゼ?」

 

 

メイドの作った弁当を無心に口に運んでいると、聞き慣れた声に思わず手を止める。

 

気の抜けたような話し方と少し垂れた目が特徴的な、なんともつかみどころのない印象を受けるわたしの幼馴染。吹き矢部部長、ユラ。

 

仲が良いのは確かだが、学校では特別これといった絡みは無いので思わず言葉に窮する。

 

 

彼女の両手には購買で購入したであろう人気で予約必須のチーズサンドと比較的安価なハニートーストが抱えられていた。わざわざここに来たことからして相手の目的を確信しつつも、一応体裁として聞いてみる。

 

 

リゼ「どうしたんだ?」

 

 

ユラ「はぶられてさぁ、かくまってもらっていい?」

 

 

いつものおどけたポーカーフェイスでユーモアのある返し、彼女は今日も平常運転らしい。

 

言及するまでも無いが、つまりここで昼食を一緒に食べてもいいかということだ。

 

 

リゼ「……ああ」

 

 

正直あまり乗り気ではなかったが、事実上わたしには一択しかない。

 

 

ユラ「ありがとう、持つべきものは幼馴染だね~」

 

 

相も変わらず表情は変わらぬが、嬉々とした様子でわたしの机にパンを散乱させる。

 

この調子である、これだから彼女は厄介なのだ。

 

 

はぶられた、などというのは間違いなく嘘だろう。

 

そもそもはぶられた人間は、捨てられた子犬のような目をして知り得る近しい知り合いに頼るという不文律のテンプレートが存在する。

 

 

わたしの自意識過剰でも無ければ、ハナからわたしと昼食を共にするためにここに足を運んだに違いない。

 

 

ユラ「ここのハニトーさ、割りといけるんだよ~」

 

 

わたしの席の前にあるクラスメイトの椅子には腰を掛けようともせず、立ったまま隣でハニートーストの袋を破るユラ。

 

 

席の主が内気な子だった場合、仮に用があっても、席に居座った自分に声をかけられずに困ってしまうのではないかという可能性を考慮した上での配慮だろう。

 

 

こういうところは、昔から何も変わっていない。千夜にも通ずる遠回しな、それでいて優しいさりげない気遣い。

 

 

ユラ「……リゼさぁ」

 

 

数十秒ほど無言を貫いていたユラだったが、わたし様子を観察して確信を得たのか、本題である『わたしに会いに来た理由』を口開く。

 

 

ユラ「最近、元気ないよね。なにかあった?」

 

 

リゼ「……いや」

 

 

ユラ「じゃあ、久々に吹き矢部に来ない?」

 

 

リゼ「………………」

 

 

自分で発した言葉の矛盾に、つい返すべきあいまいな返答を失ってしまう。

 

無理もない、部活の助っ人などこの3週間全て断っている。周りの人間からすれば何もないという方が強引だろう。

 

 

ユラ「……ごめん、冗談」

 

 

追及されると思ったのも束の間、彼女はゆっくりと息を漏らして自ら要望を早くも放棄した。

 

これ以上は無駄だと諦観にも近い感情で折れたのか、もしくはわたしの気持ちを汲んでくれたのか。いずれにせよユラは人の心の核心に触れながら、踏みとどまる線引きを弁えているのは確かなようだ。

 

 

ユラ「リゼの後輩のあの子にさぁ、わたし無き後の吹き矢部を任せたいんだけど、リゼからも頼んでくれない?」

 

 

それからチャイムのけたたましい音が鳴り響くまで、ユラが先ほどの話を掘り起こしてくることは無かった。

 

結局終始たわいもない会話を何度か交えただけだったが、一応彼女なりの目的は達したらしく、ご満悦で教室を去って行った。

 

 

今日は彼女のおかげで、生きるために味の分かりもしないものを飲み込む行為のストレスが和らいだことだけが幸いだ。

 

 

 

ハニートースト……か。

 

 

 

――どんな味だったっけ。

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

――――――――――――――――――――――――

 

 

 

――翌日 朝――

 

 

朝から耳に雑音が鳴り響く、不協和音も甚だしい。原因は不明。

 

 

不快極まりなかったが、ここあの前では何とか平静を装うことが出来た。

 

余計な心配をかけて、またあいつの笑顔を曇らせたくない。

 

 

そう……なんてことないさ。

 

わたしには、ここあがいるのだから。

 

 

 

リゼ「……………………」

 

 

そろそろ出発の時間だ。

 

どうせ極寒はおろか自分の体温さえ感じられないのだ、最低限周りから不思議に思われない程度の身なりをしていれば問題ない。風邪など引くことが出来たらわたしとしてはこの上ないほどの役得だが、ここあが悲しむので故意にはしない。

 

 

二人きりでの朝食を終え、学校に出かける前の恒例のハグの時間。

 

のはずだが、ここあの姿が無い。

 

この機を逃してしまうと、今日の午後6時頃まで『人の温もり』とはおさらばになってしまう。

 

玄関に向かう際に辺りを探してみたが、結局ここあとは会えないまま地獄への入り口に辿り着いてしまった。

 

 

はからずもいつものように、扉の前で深いため息が出る。

 

これから起こる受難に憂鬱とした気分になっているのはもちろんだが、実のところそれよりもここあとハグできなかったことの方が神経を憔悴させている。

 

 

……今日はもういい、外とのどうでもいい関わりなど適当に終わらせて早く帰ってこよう。

 

 

失意の底にあるほんの僅かな気持ちを叱咤激励し、重い歩を進ませる。

 

門扉を開くと、動いている何かが視界の両隅に入った気がするが気にも留めない。

 

どうせ使用人たちだろうが、ここあ以外の存在になどもはや価値も無ければ興味もない。

 

 

関与なく通り過ぎるつもりが、今日はなぜかわたしに向かってなにかをしきりに喚いている。

 

後ろから肩を掴まれたところで、堪忍袋の緒が切れた。

 

 

リゼ「さわるなっ!!」

 

 

感情のまま一喝すると、おずおずと手が離れる。

 

今日はただでさえなにやら耳鳴りがひどいのだ、これ以上わたしの気持ちを逆撫でする気なら誰であろうと容赦しない。

 

 

憤りをなんとか消沈させ、河川に跨る石橋を渡って目的地の学校を目指す。

 

気のせいだろうか、道行く度にすれ違う人が訝しげにこちらを見ている気がする。

 

 

……自分の顔が酷い有り様になっているのは鏡を見なくとも察しが付く、あまり気にせずともいいだろう。

 

 

 

……学校、か。

 

 

 

どうしてわたしは、学校なんかに向かっているんだ。

 

 

 

なんのために?

 

 

 

ここあがいない場所に、わたしの存在理由などないのに。

 

 

 

……わたしは、何をしているんだ。

 

 

 

「――ぜちゃん!」

 

 

 

色彩の無い狂った世界に、突如として耳に響いた天使の声。

 

反射的に、振り返ると。

 

 

ここあ「りぜちゃん!まって!」

 

 

天使が――ここあが、泣いていた。

 

 

リゼ「ここあ……?」

 

 

ここあ「りぜちゃん、これ――」

 

 

リゼ「ここあっ!」

 

 

ここあ「!」

 

 

抱き寄せる―ー飛び掛かると言ったほうが正しいかったのかもしれない。

 

内側から滲み出てきた怒りにも悲しみにも等しい強烈な感情は、もはや制御することがかなわなかった。

 

ここあの華奢な身体がいつにもまして震えている。冷たくなっている。頬を絶え間なく伝う確かな雫。

 

……分からない。わたしと朝食を食べて離れた以降、いったいどんな経緯があったというのだ。

 

 

リゼ「どうしたんだ!どうして泣いてるんだ!?」

 

 

ここあ「っ……!?」

 

 

唐突な叫びに面食らったここあが、呆然とわたしを見つめている。

 

構いもせずに言葉を続けようとしたが、その瞳の色から幾分の悲哀を感じ取った時。

 

 

わたしは――ようやくその意味に、気が付いた。

 

 

リゼ「……それ」

 

 

ここあが手に携えていたのは、淡いパープル模様1色で彩られた、わたしの傘。

 

ずっと以前に、ここあが選んでくれて購入した、わたしの大切な思い出のひとつ。

 

 

ここあ「りぜちゃん……」

 

 

 

 

ここあ「きょうは――『あめ』だよ……?」

 

 

 

………………。

 

…………。

 

……。

 

 

 

……そうか。

 

今朝からの耳鳴りも、使用人たちの不躾な態度も、すれ違う人間たちの挙動も。

 

 

看過できない疑問の答えは、これだったのか。

 

ここあは、泣いていたんじゃなかった……雨に濡れていただけ。

 

 

 

異常なのは――わたしの方だった。

 

 

 

……………………。

 

 

 

空を、見上げる。

 

曇っているのだろう。

 

黒色だけで、何も分からない。

 

 

 

頭を触ってみる。

 

びしょ濡れなのだろう。

 

冷たいのかさえ、分からない。

 

 

 

頬を手でなぞってみる。

 

泣いているのだろうか、それとも雨の雫だろうか。

 

分からない。

 

 

 

笑顔を繕ってみる。

 

ここあが、不安げにこちらを見つめている。

 

どうしてあげたらいい、分からない。

 

 

 

目の前にいる、ここあを抱きしめる。

 

天使なのだろうか、人間なのだろうか。

 

人間ですらないわたしには、分からない、

 

 

 

濡れている身体を寄せ合う。

 

冷たいのだろうか、温かいのだろうか。

 

温かい、わたしは、とても。

 

 

 

リゼ「ここあ……帰ろう」

 

 

ここあ「え……」

 

 

リゼ「風邪ひくぞ、帰ったらお風呂に入ろう」

 

 

ここあ「でも、がっこう……」

 

 

リゼ「帰ろう」

 

 

ここあ「…………うん」

 

 

 

降りしきる雨の中、ここあを抱き上げ、ついさっきまで歩いてきた家路を辿る。

 

どうして、この子を独りぼっちにさせてしまったんだ。側にいてあげれば、こんなことにはならなかったのに。

 

そもそも、学校になんて行かなければ。

 

 

 

……………………。

 

――学校は、義務だから。

 

 

 

ここあより大切な義務って、なんだ?

 

生きることよりも大切な義務?

 

生きるための、義務?

 

違う。

 

義務のために、生きる。

 

義務のために、苦しむ。

 

義務のために……。

 

 

 

誰を責めたらいい、何を責めたらいい。

 

わたしを責めれば、ここあが悲しむ。

 

それなら、やっぱり外の世界がいけないんだ。

 

 

 

……帰ろう。わたしがわたしでいられる場所に。

 

安寧の地に。

 

ここあと二人だけの、幸福な場所に。

 

 

 

雨は止まない。

 

止む気配もない。

 

わたしを濡らし、存在を拒む。

 

 

ここあが、強く抱きついてくる。

 

泣いている?分からない。

 

でも、これだけは分かる。

 

わたしを受け入れてくれるのは、やっぱりお前だけだ。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

『〇』

 

 

 

「しゃろちゃん、みて!」

 

 

胸に抱きかかえたヘンテコなぬいぐるみを差し出してくる。うさぎだろうか、見ようによってはきつねに見えないことも無い。

 

 

「可愛いわね、これにする?」

 

 

わたしの問いに首を横に振ると、またぬいぐるみコーナーへと駆けて行ってしまった。また違うぬいぐるみを棚から引き出しては満開の笑顔を咲かせている。

 

密かにこちら側の財布事情を気にしているのだろうか、あの子なら十分にあり得る。

 

 

しかし千夜やチノちゃんの報告を聞くところによると、わたしに限らずショッピングに来た時はいつもこの調子らしい。執拗に何かを欲しがったことは一度も無いそうだ。

 

この年頃には遠慮などと言った気遣いとは無縁のはずなのだが。

 

 

当初はわたしもリゼ先輩の教育の賜物かと推測したが、以前にリゼ先輩が全く同じことで悩んでいたことを思い出し、己の推理が的外れであることを早くも思い知る。

 

 

誰に教わることも無く、これは自然なあの子自身の性格なのだろう。

 

 

モカさんが溺愛したのも頷ける、リゼ先輩が天使と妄信してしまったのも、無理は無いかもしれない。

 

子供らしからぬ一面を持ちながらも、子供らしい可愛さもちゃんと持っている。

 

リゼ先輩の猫可愛がりは責める方が酷だったと言うものか。

 

 

適当にぶらついているとあっと言う間に11時過ぎ、そろそろお昼時だ。

 

昼食のため一旦フードコートに向かうとしよう。

 

 

「ここあ、お昼ごはんにしましょう」

 

 

「うん!」

 

 

腰元辺りに勢いよく飛び込んできたここあの頭を撫でる。上目遣いにこちらを見上げている姿が可愛い、自然と顔がほころぶ。

 

 

「何か食べたいものある?」ナデナデ

 

 

「えっとね、ぱんのはんばーぐ!」

 

 

「パンのハンバーグ……ハンバーガー?」

 

 

ポテトフライとジュースも付いていたとのこと。

 

間違いなく正解のようだ。

 

先週チノちゃんとお出かけした時一緒に食べたらしい。ジャンクフードは百害あって一利なしだが、1週間に1回健康を損なわない程度なら構わないだろう。

 

なにより、この笑顔を無下にすることはわたしには到底不可能だ。

 

そう考えると、好き嫌いを注意したりマナーを厳しく躾けていた辺りリゼ先輩はやはりさすがと言わざる負えない。

 

 

ここあに気付かれないよう、ゆっくり大きく深呼吸。

 

今はただこの子の笑顔のために、自分にやれることをやる。

 

 

小さな手を握り、ここあの望む小さな幸せへと向かう。

 

きっと少しの間……ほんの少しだけでも、また笑顔になってくれるだろう。

 

 

この手を握るのは、きっと本来わたしの役目ではない。

 

このポジションは、埋めることはできない。

 

 

――だから。

 

埋め合わせるのではなく、繋いでおきます。

 

 

リゼ先輩が、繋ぎ直せるように。

 

代わりではなく、この子とあなたの、友人として。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――

 

 

『●』

 

 

 

歪んだ世界の中、ただずっと、ひたすらここあを見つめる。

 

 

わたしは生きている。

 

わたしに分かるのは、ただそれだけ。

 

 

あとは、ここあが教えてくれる。

 

 

わたしは生きている――生かされている。

 

ここあのために――ここあによって。

 

 

 

ここあ「んっ……?」クシクシ

 

 

リゼ「おはよう」

 

 

ここあ「りぜちゃん……?はやおきだね」

 

 

リゼ「ああ、寝てないからな」

 

 

ここあ「え……」

 

 

表情が見る見るうちに曇っていく。

 

わたしはまた何か地雷を踏んでしまったのだろうか。

 

 

ここあ「……ねむれなかった?」

 

 

リゼ「いや、寝たらすぐ離れ離れになるじゃないか。わたしはここあと一秒でも長くいたい」

 

 

おかげで今日はいつもよりも幾分気持ちが楽だ。

 

9時間以上ここあを抱きしめていたおかげか、身体も温かい。

 

 

ここあ「……そっか」

 

 

透き通った笑顔で微笑むと、おもむろにわたしの背中へと手を回し、強く抱き付いてくる。

 

まるで不幸な犬猫を慈愛の手で包み込む、慈悲の天使であるかのように。

 

 

どうして、わたしを哀れんでいるんだ?

 

わたしは、こんなに幸せなのに。

 

 

ここあ「ゆめのなかでもずっと、いっしょにいてあげられたらいいのにね……」

 

 

ここあ「りぜちゃん……ごめんね……」

 

 

リゼ「ここあのせいじゃないぞ。それに、今さら現実も夢も変わりない」

 

 

むしろ、お前以外のこの『現実』は。

 

もはや、悪夢と等価だ。

 

わたしにとっての現実は、あと30分……。

 

お前と離れ離れになるまでの、あとわずかな時間だけなのだから。

 

 

 

……………………。

 

ここあ……。

 

わたしがいない間に、どこかに行ったりしないよな。

 

 

……しないよな。

 

 

お前は、天使だから。

 

わたしを見捨てたりしない。

 

 

お前は、人間だから。

 

翼なんて、ない。

 

 

ここあは、天使だから。

 

ただ、翼を持たないだけで。

 

 

ここあは、人間だから。

 

翼があっても、飛べない。

 

 

ここあは、人――――使だから……。

 

●×※□&%……。

 

 

飛べないんだ。

 

わたしの側にいる。

 

どこにも行かない。

 

 

矛盾している?どうでもいい。

 

世の中が矛盾に満ちているのは今に始まったことじゃない。

 

 

 

さて、今日も頑張ろう。

 

正常でいるために?人間でいるために?

 

違う、ここあのために。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――

 

 

 

ここあ「りぜちゃん……だいじょうぶ?」

 

 

リゼ「ああ、行ってくる」

 

 

本心を言えば今にでも縋りつきたいが、余計ここあの不安を煽るような気がしてグッと堪えた。

 

柔らかい頬に軽くキスを残し、挨拶を交わしてここあの元を一歩、また一歩と離れる。

 

 

決して振り返らない。一度振り返ってしまえば、勝手に足が戻ってしまう。

 

わたしは正常なんだ、正常でいなければいけない。

 

 

行こう……。

 

学校に、行かなければ。

 

 

 

 

リゼ「……………………」

 

 

 

天気快晴なれど我が心曇天なり、か。

 

いや、快晴かどうかすらも怪しい。

 

 

見えているものが正しいかなんて、誰にも証明する術は無いのだから。

 

目に映るもの――現実というカタチは、ただ、大多数の見解で成り立っているというだけで。

 

 

人はそれを何の疑いもなく、鵜呑みにするしかないのだ。

 

それが、まともに生きる唯一無二の方法だから。

 

 

……今日は晴れているのだろうか。本当に晴れているのだろうか。

 

雨だったら、またここあに会えるのに。

 

 

泣いたら、雨になる?

 

……ならないだろうな、雨になるのはわたしの世界だけ。

 

 

わたしには、自分を信じる勇気が無い。

 

だから自分を蔑んで、安寧を得るしかない。

 

そうやって自分を許してあげるしかない。自信のない自分を。

 

いいじゃないか、自意識過剰で傲慢な人間よりは遥かに良い。

 

 

……その卑屈さが――本当は、何よりの傲慢なんだろう。

 

 

………………。

 

…………。

 

……。

 

 

ここあは、卑屈で傲慢なわたしが、好きなのか。

 

それとも、根拠のない自信を振りかざす、傲慢なわたしが好きなのか。

 

あいつにとって、一番良いわたしでありたい。

 

でも、分からない。

 

 

……愛情が、一方的なものでいいなら。

 

 

思い込みでも妄想でも。相手を愛し、相手に愛されている。

 

そう確信が持てるなら、こんなに悩まなくてもいいのに。

 

 

一方的な愛情……感情、言葉ほど、居心地の良いものは他に無いのだから。

 

 

相手がいなくても、自己満足で完結できる。

 

 

でも、それには相手が必要。

 

 

矛盾している、これもまた。

 

 

 

……天使なら、答えを知っているだろうか。

 

帰ったら聞いてみよう。

 

きっと答えを教えてくれる。

 

 

 

近道の公園を抜け、噴水が設けられた広場を通る。

 

ここまで来ればあと5分もかからない、今日は間に合いそうだ。

 

 

……………………。

 

 

大きな時計台がまだ猶予があることを教えてくれたので、ここあが好きなイチゴのケーキを買うためにスイーツ店にでも行くとしよう。

 

確かオープンは9時半だったか。ゆっくり歩けば良い時間になるだろう。

 

 

カバンが、重い。

 

置いて来ればよかったな。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――

 

 

『〇』

 

 

 

――甘兎庵――

 

 

 

「ちやちゃん、ただいま!」

 

 

「あらここあちゃん、おかえりなさい」

 

 

戸が開くや、店内に響き渡る明るくて大きな一声。

 

駆け寄ってくると、わたしの腰にギュッと両手が回された。小さい身体を抱き上げいつものように頬ずりをすると、少女は照れたような笑みを浮かべる。

 

 

「ただいま」

 

 

「シャロちゃん、おかえりなさい」

 

 

続くように帰宅した幼馴染から、『上手くいった』のハンドシグナルを受け取る。

 

肩にかけたポーチ以外に、左手に新しい荷物がぶら下がっていた。

 

この子の欲しいものが、ようやく見つかったようだ。

 

 

「ここあちゃん。お出かけ、楽しかった?」

 

 

「うん!おひるに『はんばーがー』たべたよ!あとね――」

 

 

今日の出来事を嬉々として話す少女。聞いているこちらまで思わず笑顔になる。

 

本題に映るはずだったがタイミングをしばらく失い、踏み込むまでに5分程度の時間を有した。

 

 

「そう、たくさん遊んだのね」

 

 

後頭部を優しく撫でると、気持ちよさそうに目を閉じている。

 

幼馴染の方を一瞥し、自然を装い核心に触れてみた。

 

 

「シャロちゃんに、何か買ってもらったの?」

 

 

「――これよ」

 

 

その問いに答えたのは、少女ではなく隣で沈黙を貫いていた幼馴染だった。

 

袋から取り出されたのは、何の変哲もない極めて普通の白いうさぎのぬいぐるみ。

 

特別な何かを期待していただけに、つい言葉に窮してしまう。

 

 

「……ぬいぐるみ?」

 

 

「ううん、メッセージドール」

 

 

「……!」

 

 

少女がなぜこれを欲しがったのか。幼馴染の複雑な表情。上手くいったという報告の、本当の意味。

 

全ての理解は、その一言で済んだ。

 

 

「……ちやちゃん?」

 

 

呼ばれて、再び腕の中にいる少女と目を合わす。

 

不安を宿したバイオレットカラーの瞳が、輝きを潜めてこちらを覗いていた。

 

 

隣にいる幼馴染も、きっとこの子と同じ答えを、わたしに望んでいるのだろう。

 

本来ならばいち早く、その答えをこの子に与え、安心させたかったのだろう。

 

だが、彼女の独断では決められず、結局わたしにその決断を委ねたと言ったところか。

 

 

もちろん、考えるまでもない。

 

少女の瞳をしっかりと見据え、答えを口にする。

 

 

「みんなで描いて、今夜持って行ってもらいましょう」ニコッ

 

 

「……!」

 

 

ツンケンで笑顔を滅多に見せてくれない、大切な幼馴染と。

 

明るい笑顔がとても良く似合う、親友の少女。

 

たちまち満開に咲く、二つの笑顔。

 

これを見られただけでも、わたしの決断は間違っていなかったと確信が持てる。

 

 

「よかったわね、ここあ!」ナデナデ

 

 

「うん!」ニコッ

 

 

「……………………」

 

 

メッセージ、なんて書こうかしら。

 

 

この温かい気持ちが……みんなの想いが。

 

 

 

――リゼちゃんに、届きますように。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――

 

『●』

 

 

 

門扉の前に、また黒い奴らが群がっている。

 

 

わたしに気付いた途端、まるで動物園で珍しい生物を見たかのように、こちらを訝し気に見つめている。ある者は隣の黒色と互いに顔を見合わせている。

 

何か言いたげな、それでいて言い淀むようなその態度に、またわたしの中の憤りが目下青天井に上昇する。

 

 

いったい何が言いたいんだ。何かあるならはっきり言え。

 

まるでわたしが狂っているような、正常でないものを見るようなその態度が気に食わない。

 

天使の言葉を否定するつもりなら、わたしがお前らの存在を否定してやる。

 

 

無視して通り過ぎようとすると、一人の黒色が何かをわたしに向かって小さく呟いた。

 

……何を言ったのだろう。

 

いや、何かは何かのままでいい。

 

わたしには関係ない。

 

例えば石につまずいたとして、その石はわたしの今後の人生に影響があるだろうか。

 

転んで大怪我でもしない限り、それは5秒もせぬうちに記憶から抹消される程度の存在なのだ。

 

わたしに関わっておきながらも、全く影響のない存在。あの黒色たちは、言わば石。

 

違う、あいつらだけじゃない。天使以外の全てが、石。

 

色彩のない、言葉を発するだけの何か。

 

 

天使は違う。天使は、違う。

 

希望的観測?違う、違う、違う。

 

必然なんだ、これは。

 

 

天使が、わたしの全てなのは。

 

太陽が輝いているくらいの常識、当たり前なこと。

 

……天使?

 

 

わたしの大切な家族とは違うナニカ?

 

わたしの大切な親友とは違うナニカ?

 

人間であり、幼い姿をした大好きなあの子とは違うナニカ?

 

 

……一緒だ、どっちも。

 

今さら変わりはない。

 

 

待っていろ、すぐにお前の大好きなイチゴのケーキを持っていくから。

 

笑顔になってくれ、笑ってくれ。わたしを必要としてくれ。

 

お前に求められることだけが、今のわたしの全てだ。

 

 

扉を開く。

 

 

扉にぶつかる。

 

 

扉を開く。

 

 

何かにぶつかる。

 

 

何かを蹴飛ばす。

 

 

良かった、開いた。

 

 

悪意を持ってわたしの邪魔をしようとしたそれが悪い、自業自得だ。

 

 

あと少し、あと少しだ。

 

 

わたしの加護領域まで、あともう少し。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――

 

 

 

リゼ「ただいま」ガチャッ

 

 

ここあ「……!」

 

 

いた……天使だ。

 

知覚が癒されていく。

 

――わたしは、生きている。

 

 

リゼ「天使、遅くなったな」

 

 

ここあ「りぜちゃん……?」

 

 

リゼ「ほら、お前の好きなショートケーキだぞ」ニコッ

 

 

ここあ「てんし……?」

 

 

リゼ「チーズケーキもチョコケーキも買ってきてある、全部食べていいからな」

 

 

ここあ「………………」

 

 

リゼ「……?」

 

 

どうしたんだ……?浮かない表情なんてして?

 

喜んでくれると思って、せっかく朝から買ってきたのに。

 

 

リゼ「天使?」

 

 

ここあ「りぜちゃん……あのね」

 

 

天使の小さい手が、穢れ切ったわたしの手を優しく包む。

 

温かい……これが、天使の手。人間とは違う。

 

 

 

ここあ「がっこうは……?」

 

 

 

リゼ「学校?……ああ、そうだったな」

 

 

すっかり失念していた。そんなどうでもいいこと。

 

故意では無いにせよ、少しの悔恨くらいはある。

 

 

リゼ「お前の喜ぶ顔が見たくてな、ごめん……明日はちゃんと行くよ」

 

 

リゼ「だから、今日はずっと一緒にいよう」

 

 

リゼ「一緒にいてくれ」ニコッ

 

 

ここあ「………………」

 

 

リゼ「天使?」

 

 

ここあ「……りぜちゃん……ちいさくなって?」

 

 

リゼ「んっ、こうか?」

 

 

――おもむろに。

 

天使の慈悲の手が――わたしの首元に回される。

 

 

ここあ「ごめんね……」ギュッ

 

 

リゼ「……?」

 

 

ここあ「わたしが、ついていってあげればよかったね……」

 

 

リゼ「ケーキを買いに行くくらい一人でも大丈夫だぞ?どうしたんだ急に」

 

 

ここあ「ううん……なんでもない」グスッ

 

 

ここあ「ありがとう……りぜちゃん……」ジワッ

 

 

ここあ「やっぱりりぜちゃんは、やさしいままだよ……」ポロポロ

 

 

天使が――泣いている。

 

どうして?分からない。

 

 

わたしは笑う、さめざめと。

 

わたしは泣く、しめじめと。

 

分からないから、笑う。分からないから、泣く。

 

 

 

リゼ「天使、泣かないでくれ……」ナデナデ

 

 

ここあ「りぜちゃん……」グスッ

 

 

リゼ「ん……?」

 

 

ここあ「いっしょに、おえかきしよ……」

 

 

リゼ「……ああ」スッ

 

 

立ち上がり、本棚からスケッチブックを引っ張り出す。

 

 

ここあの大切なお絵描き帳。

 

 

わたしの大好きな、ここあの。

 

 

これはここあの描いたものだ、何の不思議もない。違和感もない。

 

 

ここあが、一生懸命描いたものだ。

 

 

 

リゼ「今日は何を描こうか?」

 

 

ここあ「…………」

 

 

リゼ「ここあ――おいで」ニコッ

 

 

ここあ「……!」

 

 

――また、泣き出してしまった。

 

今日のここあは、いつも以上に泣き虫だ。

 

お前は、笑顔のほうが似合うのに。

 

 

ここあ「うん……わたしだよ……」ポロポロ

 

 

ここあ「りぜちゃん……っ」ギュッ

 

 

 

ここあが――泣いている。

 

どうして?分からない……。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

『〇』

 

 

 

……白昼夢?

 

 

――いや、現実だ。

 

 

「――ゼさん」

 

 

……呼んでいる。

 

 

「リゼさん」

 

 

かつてわたしが生きていた、現実から。

 

 

「……チノ?」

 

 

呼び声の主は安堵したように息を吐くと、先ほどよりも明るい声色で続けた。

 

 

「リゼさん、こんばんは。いま大丈夫ですか?」

 

 

「ああ」

 

 

「絵を――描いていたんだ」

 

 

「絵?……そうですか」

 

 

「………………」

 

 

「上手く描けましたか?」

 

 

「どうだろう……一人じゃあな……」

 

 

会話が途切れ、しばしの沈黙。

 

互いが互いに、言葉を続けて良いのかどうか。

 

隔たりを挟んでの……ここでのチノとの会話は、いつもこんな感じだ。

 

わたしにとっては、これが逆に心地よい。チノらしくて思わず微笑んでしまう。

 

向こうからは見えない、これくらいの役得は許されても良いだろう。

 

 

「――あの」

 

 

助け舟を出そうと思っていた矢先、先に静寂を壊したのは珍しくチノの方だった。

 

 

「リゼさん……これ」スッ

 

 

唯一向こう側の現実に触れることを許された、小さな隙間。

 

そこから差し出されたのは、その隙間にぴったりと挟まってしまいそうなほどの、綺麗な包装紙に包まれた何か。

 

 

「これは?」

 

 

「ここあさんからの、プレゼントです」

 

 

「……!」

 

 

「あと、わたしたちからの気持ちも……」

 

 

破れないよう丁寧に包装を解くと、中から出てきたのはカラーリングを施されたうさぎのぬいぐるみだった。

 

カラーペンで所々に描かれているのは、わたしに向けられた、大切な人たちの言葉。

 

 

「この黄色は、シャロだな、こっちの緑色で書かれたのは千夜か」

 

 

字の形はもちろん、書いている言葉にまでそれぞれ性格の特徴が出ている。

 

シャロは律儀に、千夜はクスリとくる温かい文章。チノは――いつも通り、まさしくチノだ。

 

 

「文章だと少し大胆だな、チノって」

 

 

「あ、後で読んでください//」

 

 

「………………」

 

 

見当たらない……あの子の言葉が。

 

まだ文字は書けないだろうし、代わりに書いてもらったのか。

 

だとしたら、このぬいぐるみに書かれているいずれかの言葉があの子の?

 

 

わたしの疑問を察したのか、チノは取り繕うように、それでいて諭すようにゆっくりと口を開いた。

 

 

「赤いリボン」

 

 

「……首元にある、これか」

 

 

恐らく既成の代物では無いであろう、首元に巻かれた赤いリボン。

 

メッセージドールにはそぐわない原色の装飾品。

 

 

「内側に、ここあさんのメッセージが書いてあります」

 

 

「……あいつらしいな」

 

 

「………………」

 

 

「あとで読んでみるよ」

 

 

壁の隔たりの向こう側でも……顔を見なくとも、チノは気付いてしまったのだろう。

 

わたしが――笑っていることに。

 

わたしが――泣いていることに。

 

 

嬉し泣きや感涙とは違う、何か。

 

はかり得ることのできない、相反する同一の感情。

 

 

 

……………………。

 

 

 

メッセージドールなのに、体に書かないのも。

 

無地のぬいぐるみに、リボンを付けてあげるところも。

 

自分だけでなく、みんなの気持ちをプレゼントしてくれるところも。

 

 

 

――全部、ここあだ。

 

 

 

「……みんなに伝えておいてくれ」

 

 

「――ありがとう、って」

 

 

「……!」

 

 

「チノも――ありがとう」

 

 

 

言葉は、不器用だ。

 

 

これ以上のことを、伝えることが出来ないのだから。

 

 

 

抱きしめる――愛する――体を重ねる――暴力――支配――嗜虐――。

 

……………………。

 

――涙――言葉――気持ち。

 

 

 

いいんだ、これで。

 

 

特別なんて、いらない。

 

 

それ以上のことを証明する術が無いのなら。

 

 

信じてさえ、いれば。

 

 

愛情は――いっぽう的では、成立しないのだから。

 

独りよがりは、紛れもない自己愛だ。

 

 

 

 

「……リゼさん」

 

 

 

「やっぱりリゼさんは、優しいままですね」

 

 

紡がれたチノの言葉と共に。

 

かつて聞いたあの子の言葉が、聞こえたような気がした。

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

『●』

 

 

………………。

 

ここあの描いた可愛いウサギに、黒色を塗る。

 

 

 

リゼ「こっちのは何色にするんだ?」

 

 

ここあ「そのこはね、きいろだよ」

 

 

リゼ「きいろ……これか?」

 

 

ここあ「ううん、こっち」スッ

 

 

リゼ「…………」

 

 

手渡された黒い色鉛筆で。

 

隣のウサギを、黒く塗りつぶす。

 

 

ここあ「りぜちゃんまって、みみはぴんくにするの」

 

 

黒い色鉛筆を持ったここあが。

 

耳だけを黒く塗りつぶしていく。

 

 

リゼ「目は何色にするんだ?」

 

 

ここあ「あおいろ!」

 

 

リゼ「これか?」スッ

 

 

ここあ「ううん……これだよ」

 

 

リゼ「………………」

 

 

黒い色鉛筆で。

 

ウサギの瞳を、黒く塗りつぶす。

 

 

ここあ「――できた!」

 

 

ここあ「りぜちゃん、みて!」

 

 

二羽のウサギが寄り添いあっている、ここあの絵。

 

黒一色で塗りつぶされたその絵は、わたしにはシルエットにしか見えない。

 

 

りぜ「ああ、上手く描けたな」ニコッ

 

 

ここあ「………………」

 

 

ここあ「……りぜちゃん」

 

 

リゼ「んっ……?」

 

 

ここあ「ごめんね……おえかき、たのしくない……?」

 

 

リゼ「そんなことないぞ、ここあとなら何だって楽しい」

 

 

お前と同じ時間を分かち合えるなら、それでいい。

 

笑顔で喜んでくれるのなら、何でもいい。

 

 

リゼ「わたしのほうこそ、ごめんな」ギュッ

 

 

ここあ「ん……」

 

 

小さい身体を抱き寄せ、柔らかい頬に口づけをする。

 

心配いらない……お前のぬくもりは、匂いは、色は、存在は、ちゃんと分かるのだから。

 

 

りぜ「…………」

 

 

ここあ「だいじょうぶ?りぜちゃん……?」

 

 

リゼ「ああ……」

 

 

ここあ「わたしのこと、みえてる……?」

 

 

リゼ「ここあの綺麗な目が見えてるぞ」

 

 

ここあ「りぜちゃんのほうがきれいだよ」

 

 

リゼ「そんなことない」

 

 

ここあ「ううん、りぜちゃんのやさしい目、すき……」

 

 

瞼をゆっくり撫でてくる温かい手が、心地よい。

 

 

ここあ「はやくなおるといいね」ナデナデ

 

 

リゼ「……そうだな」

 

 

リゼ「でも、本当は治らなくてもいいんだ」

 

 

 

リゼ「――お前以外、余計なものを見たくない」

 

 

 

ここあ「………………」

 

 

リゼ「せめてお絵描きくらいは、また一緒にしたいな」

 

 

ここあ「…………」グスッ

 

 

リゼ「……?ここあ?」

 

 

ここあ「りぜちゃん……っ」ギュッ

 

 

ここあ「だいじょうぶ……だいじょうぶだよ」ジワッ

 

 

ここあ「どんなふうになっても……わたしは……」ポロポロ

 

 

 

依存……。

 

依存を越えた、存在証明。

 

生きるための、微かな灯。

 

 

わたしの生と死を分け隔てているのは、もはや幸福や命などではない。

 

 

この黒い世界には、お前しかいない。

 

 

だから、お前が世界で、わたしの生きる意味。

 

 

ただ、それだけのこと。

 

 

ここあ……泣かないでくれ。

 

 

わたしを哀れむことなんて、何もないんだ。

 

 

こうしているだけで幸せなんだから。

 

 

……しあわせ、なんだ。

 

 

……しあわせ。

 

 

………………。

 

 

…………。

 

 

……。

 

 

 

――

 

――――

 

――――――

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 

 

『〇』

 

 

 

――PM10:00――

 

 

チノからもらったウサギのぬいぐるみを、抱きしめる。

 

 

何か、懐かしい感じがした。

 

 

 

温かい……。

 

 

 

……………………。

 

 

あと、少し。

 

 

きっとあと、もう少しだ。

 

 

ここを出ることが出来たら、みんなになんて言おう。

 

 

まずは、お礼だな、あとは謝罪。

 

 

 

「………………」

 

 

 

解いたリボンの内側に拙い字で書かれていた、言葉。

 

 

 

お返しのつもりなのだろうか。

 

そう言えばあの時、ここあからは聞かなかったな。

 

 

 

相手への愛情を証明する――ただ、ひとつの言葉。

 

わたしは、これ以上のものを求めるあまり。

 

 

 

周りの大切ななにもかもを、傷つけてしまった。

 

 

 

――だから。

 

今度は、信じる。

 

 

 

これ以上のものは――想う気持ちで、伝えればいい。

 

 

 

力いっぱい抱きしめる、みんなからの愛情を。

 

ここあからの、愛情を。

 

 

 

「わたしも――愛してるぞ」

 

 

 

――あ・い・し・て・る。




−−−−−−−−−−−−−−
next.

あとがき
激辛味噌ラーメンうめぇー(涙目)
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