アインス王国の街角にその宿屋はあった。いつからそこにあるのかは誰も知らない。
宿の名前は「竜風亭」。町中の宿より少しだけ値が張るぐらいで特に目立ったものはなく、ご近所付き合いも良好だとか。
だが、2つだけ少し変わったことがある。それは、店主が「ドラゴン」である事、「副業」をしている事。
そんな宿屋「竜風亭」は今日ものんびり営業中である。
「ここ......ですか? 本当に?」
「よせ、ケインズ。俺だって本当かどうか問いたいところだ」
俺と相棒でもありエスルーアン聖王国騎士団副団長のケインズと一緒に一件の宿屋の前に立っていた。
古くはないし新しくもない外装で特に目立った看板もなく、小さな釣り看板があるだけだった。宿の名前は「竜風亭」。俺とケインズが三日三晩馬を走らせてやって来た目的の場所だ。
「王の地図と街中での聞き込み、竜風亭という名前からしてここだろうな」
「こんなちっぽけな宿屋の店主が王の知り合いとは到底思えませんけど」
「......」
俺達二人はエスルーアン聖王からある極秘の書簡を竜風亭の店主に届けて欲しいと密命を受けたのだ。
「とりあえず入ろう、話はそれからだ」
「そうですね」
疲労と寝不足で弛んでいたであろう顔を引き締めて宿の扉を押し開いて入ると入店を知らせる鈴が二、三回鳴った。すると正面の受付だろうか、そこに獣人の少女が気だるそうに座っていた。
(猫族か珍しいな)
滅多に他の種族とは関わらず、集落のある森からも余り出てこないことで有名な種族のはずだ。いや、今はそんなことより店主に会わなければ。
そう考えていると猫族の少女が半分開けきっていない目を向けてきた。
「......宿泊? 休憩?」
「え? あ......コホン。『ドラゴンは風と共に』」
「......少し待ってて」
「あ、ああ」
そう言って猫族の少女は受付のカウンターの上に「退席中」と書かれた札を置いて店の奥に行った。
「はぁ」
ため息が漏れてしまった。俺は王から教えられた合言葉を言ってもし間違っていたらと思い内心ヒヤヒヤしたがどうやら正解らしい、隣に立っているケインズも額の汗を拭っていた。
すると二階へ続く階段から話し声と共に男女二人が降りてきた。一人は革鎧を着ていて褐色の肌と銀髪に尖った長い耳の女性、もう一人はがっしりとした体格にやや薄着で手甲を着けていて頭に二本の角が生えた男性、ダークエルフとオーガだ。
俺はオーガ族の男性の顔を見て血の気が引いた。その左顔は何かで殴られたかのように赤黒く腫れ上がっていたのだ、強靱な肉体を持つオーガ族はそこら辺のB級魔物相手ならほぼ無傷、A級以上でようやく致命傷を与えられると言われるほどタフな種族のハズだ。
そのオーガ族の男が顔を腫らしているのだ、とても強力な魔物と戦ったに違いないと俺は判断した。
「いっててて......」
「バカだねーアンター。あの店主ちゃんのお尻を触るなんてー」
「記憶にねぇーんだが......そんなに昨日飲んでたのか俺は?」
「A級ダンジョンを突破してその祝勝会だー!って言いながらバカスカ飲んでたのは確かにアンタだよー。よかったじゃないかー、「指弾き」ですんでー。平手打ちだったら死んでたよー?」
「ホント、酒は飲んでも飲まれるなって事だないい教訓になったぜ......」
俺と相棒は同時によろけ、お互いの肩を掴んで向き合い声の音量を落とした。
「(ちょ、ちょっと! どういうことですか!? 指弾きって親指と人差し指でやるアレですよね?!)」
「(お、落ち着けケインズ!)」
「(無理! 無理無理無理! デコピンでオーガにダメージ食らわす店主って何者なんですか! きっと身長2メートルの筋肉モリモリのマッチョマンですよ!)」
「(いや、待て。それだとあのオーガの男は筋肉モリモリのマッチョマンの尻を触った変態になってしまうぞ?)」
「(そこ!? そこじゃ無いでしょ騎士団長?!)」
「......おい、てめぇら。なんか失礼なこと言ってねぇか?」
俺とケインズはビクッと身体を震わせ声の主に目を向けるとオールバックにされた髪型で額が露出しており、その額には青筋が浮かんでいた。
「も、申し分けない貴方の事を悪く言った訳では――――」
「俺じゃねぇ! 店主の事を言ってるんだ!」
ドガッとオーガ族の男がカベに拳を打ち付けるとヒビが入り少しヘコんでいた。俺とケインズはその迫力に押され一歩後ろに下がった。
「やめなよジングー、見た感じここら辺の奴じゃ無いと思うよー。今の話を聞いたら私だってそう思うさー。ごめんねー人族のお二人さんー」
「あ、ああ。すまない、私達も失礼な事を言ってしまって」
「いいんだー、確かにオーガ族にこんなダメージ与える奴なんて居ないからねー変な想像してもしょうがないさー、ところでーサーシャ......白毛でネコ耳の子を見なかったー?」
「受付の娘なら私が店主に用事があると言ったら呼びに行ったが?」
「ふむ、そうか。じゃー戻ってくるまで待たせて―――」
その時、ぶわっと全身を冷たく、それでいて鋭い何かが駆け抜けた。震えが止まらない。雪も降らないこの国でこんなに寒かった事があるだろうか。