終業のチャイムが鳴る。
教室が喧騒に包まれる中、背後から拓海の声がかかった。
「寄り道していくか?」
振り返ると、いつも通りの拓海がいた。しかし、その瞳には気遣いの色があった。
「……いや。いつも通り、結衣と帰ることにする」
「……そうか」
拓海はそれだけ言うと、あっさり背中を向けた。
後ろ姿を見送っていると、入れ替わるように結衣が戸口に顔を見せた。
軽く手を上げると、結衣はどこか疲れた笑みを見せた。
鞄を肩にかけて、結衣の元へ向かう。
「……帰ろうか」
「うん」
葵については触れないことにした。
結衣も何も言わなかった。
並んで階段を下りていき、下駄箱で靴に履き替える。
「雨、止んだね」
空を見上げて、結衣が呟いた。
役目を失った傘が、ぶらぶらと彼女の右腕に引っかかって揺れていた。
「ああ」
相槌を打ちながら、濡れたアスファルトへ足を踏み出す。
雲間から差す淡い光が、周囲の水溜りに反射して煌めいた。
「ねえ」
敷地外に出たところで、結衣がどこか遠くを見つめながら言った。
「そこの公園。昔、よく遊んだよね」
少し道を外れると、小さい公園がある。
三人で遊んだ思い出の場所だった。
「……寄っていくか?」
「うん」
結衣の細い指が、俺の手に絡みついた。
雨上がりの澄んだ空気の中、結衣の目がじっと俺を見上げる。
「瞬矢は、随分と背が伸びたよね」
「……そうかもしれないな」
小学生の時は、葵が一番背が高かった。
女子の成長は、男子よりもずっと早い。
「私の中の瞬矢はね、私よりも小さくて、大人しくて。弟みたいだって思ってたの」
それは初耳だった。
小学校の中学年くらいで背は追い越したはずだったが、彼女の中のイメージはそこで止まっているのかもしれない。
「いつの間にか、大きくなっちゃったね」
呟くような彼女の言葉は、宙に溶けていく。
公園が見えてきた。
人影はなく、静かだった。
「……小さいな」
自然と思ったことがそのまま口を飛び出した。
昔は大きく感じた滑り台が、ひどく小さく見えた。
あれほど広かった砂場が、今はとても狭く見えた。
「うん」
結衣が引っ張るように、公園の中へ足を踏み込む。
濡れた土の上に、俺達の足跡が刻まれていく。
そのまま奥のベンチに向かうと、俺たちはどちらからともなく腰を下ろした。
冬の訪れを予感させるように、周囲には命の気配がなかった。
鳥類の影も、虫の鳴き声もない。
ただ、雨で濡れた土がべっとりと広がっている。
「ここでさ、よく鬼ごっこやったよね」
繋いだ手が、少しだけ強く握られた。
「ああ」
「私、鬼の時はいつも瞬矢ばかり狙ってたんだよ。知ってた?」
結衣はそう言って悪戯っぽく笑った。
いつものような元気はなく、どこか影のある笑い方だった。
「……それは初耳だな」
「その頃から、ずっと好きだったから」
言葉を探すように俺は視線を彷徨わせた。
子供が、公園の入り口に立っていた。二人の幼い男の子と女の子だった。
遠い昔の俺たちと重なって、それ以上言葉が出なかった。
黙り込んだ俺に対して、結衣もそのまま押し黙った。
繋いだ手に、沈黙が落ちる。
水たまりが煌めく中、子供たちがはしゃぎながら滑り台に向かっていく。
自然と、目が釘付けになった。
よたよたと滑り台を登っていく姿は、在りし日の俺たちそのままだった。
滑り台がずっと大きく感じられて、この公園をもっと広大に感じていたはずの俺たちが、そこにいた。
「俺は」
無意識に言葉が飛び出した。
考えてのことではない。ただ胸の内が弾けて、勝手に吐き出してしまった。
「後悔してる」
結衣の視線が、何かを見定めるように俺を見上げる。
繋いだ手が、強く握られた。
「こんなこと、望んじゃいなかった」
葵にも告げた言葉が、自然と繰り返された。
視線の先では、滑り台から幼い少女が滑り落ちるところだった。
着地点の泥が飛び散って、少女の綺麗な服を汚していく。それでも少年と少女は気にする風もなく、無邪気に笑い合っていた。
滑り台で遊ばなくなったのは、一体いつからだろう。
服が汚れるのを気にするようになったのは、一体何歳からだっただろうか。
この公園で遊ぶことをやめてしまったのは、一体何がきっかけだったのだろう。
葵に恋心を覚えたのは、互いに性別の壁を意識し始めたのは、いつだっただろう。
変わることなんて何も望んでいなかったのに、何もかもが移ろいでいく。
「結衣」
繋いでいた手を、ゆっくりと離す。
結衣の瞳が、小さく揺れた。
「昔みたいな関係に、戻らないか」
力を失った俺の手を、結衣の小さな手が弱々しく掴んでいた。
子供たちのはしゃぎ声が、閑静な住宅街に響き渡る。
「それは」
結衣の唇が微かに開いて、か弱い声を絞り出した。
「葵に何か言われたの?」
「ちがう」
即答する。
「全部、後悔してる。葵に告白したことも、結衣の告白を受け入れたことも」
何もかもが軽はずみだった。
俺の責任だった。
「今のまま進んでも、誰も幸せにはならない」
結衣は無言で足元の泥濘んだ地面を見ていた。
納得は出来なくても、きっと心の中では結衣もわかっているはずだ。
「一度だけでいい。三人で話し合う場を設けたい」
立ち上がる。
地面を眺めていた結衣の視線が、ゆっくりと俺に向けられた。
「話し合いの場は、俺が準備する。また連絡するから来て欲しい」
「瞬矢……」
縋るような結衣の目が、胸を締め付けた。
結衣が望んでいる言葉を、俺は吐けない。
そのまま踵を返し、俺は一人で歩き始めた。
◇◆◇
「遅かったね」
自宅のリビングに入ると、当然のように葵がいた。
佳矢と並ぶようにソファに座り、映画を見ているようだった。
「うっわー、新婚さんみたいな会話」
佳矢が茶化すように笑う。
俺はそれを無視して、葵に目を向けた。
「葵。少しいいか」
「なに?」
葵が薄い笑みを浮かべて立ち上がる。
「部屋に来て欲しい」
「いいけど」
そう言いながら葵は佳矢を見やった。
佳矢は露骨に目を逸らし、気にしていない風を装っていた。
「ごゆっくりー」
ニヤニヤした佳矢をリビングに置き去りにして、葵とともに自室へ向かう。
部屋に入るなり俺は扉を閉め、正面から葵と向かい合った。
「率直に聞きたい。葵は、結衣のことをどう思っている?」
葵は一瞬だけ意外そうな顔を見せ、それから訝しそうに目を細めた。
「どうって?」
「言葉の通りだ。結衣と仲直りするつもりがあるのかを聞きたい」
「ああ……」
葵の目が、いつもの眠たそうなものに戻る。
「そんなの結衣次第じゃないかな」
短い返答だった。
真意が見えない。
「……葵は、最終的な落とし所をどうするつもりだ」
「落とし所?」
「最終的な物事の着地点を、葵はどこにしたいんだ」
「……結衣が身を引けば解決じゃない?」
「その後、結衣と葵の関係はどうなる?」
「どうって……」
葵は視線を逸らして、ベッドに腰を下ろした。
「……もう今更どうでもいいよ」
どこか自暴自棄な印象を受ける声色だった。
葵はそのままベッドに後ろ向けに倒れ、呟くように言った。
「ねえ、結衣の話なんてやめようよ」
制服のスカートが僅かに捲れ上がり、健康的な太腿が露わになる。
葵のいつもの眠たそうな目が、どこか妖艶な雰囲気を纏うのがわかった。
「せっかく二人きりなんだから」
声色が変わり、葵は囁くように言った。
「いま、スカートに目がいったのわかったよ」
クスクスと笑いながら葵は足を組むように動かした。
「瞬矢は、私のこと好きだもんね」
「……葵」
俺の制止の声を振り払うように、葵が挑発的な目で俺を見た。
「そして、私も瞬矢のことが好き」
酷薄とも言える満足そうな笑みを葵は浮かべていた。
「なのに、瞬矢が何を躊躇しているのか私には分からないよ」
「……俺はただ、戻りたいだけだ」
葵はベッドに横たわったまま何も言わなかった。
「一度だけで良い。三人で話し合う場を設けたい」
まだ一度たりとも、三人で冷静に話し合う事が出来ていない。
「無駄じゃない?」
葵はどこか他人事のように言う。
俺は肺腑の中に息を吸い込んで、それから告げた。
「もし、俺が結衣と別れたらどうする?」
劇的な反応があった。
葵は起き上がって、何かを探るように俺の目をじっと眺めていた。
「ゆっくりで良い。結衣との関係を修復できるか?」
「それは――」
葵が口を開きかけた時、インターフォンの音が響いた。
静かな家の中で、それは妙に大きく聞こえた。
葵は言いかけていた言葉を飲み込んで、息を潜めるように扉の向こうに視線を向けた。
「……見てくる」
言葉を残し、自室から外に出る。
途中で佳矢の声が聞こえた。
「お兄ちゃん、結衣さん来てるよー」
とくん、と心臓が跳ねた。
嫌な予感がした。
廊下が軋み声をあげる。
玄関に、結衣が立っていた。
「瞬矢……」
結衣は俺の姿を認めると、弱々しい笑みを浮かべた。
「さっきの公園のこと、私、色々考えて――」
結衣の言葉が、突然途切れた。
表情と呼べるものが消え去り、徐々に歪んでいく。
彼女の目は、俺の肩越しに何かを見ていた。
振り返ると、葵がいた。
「どうして」
結衣の震える声が、小さく響いた。
「どうして、葵がいるの?」
「結衣、これは――」
俺は適切な言葉を探そうとして、失敗した。
それは多分、致命的なエラーだった。
言葉を失った俺と葵を交互に見て、結衣は憎悪の籠もった声で呟いた。
「やっぱり……葵が裏で動いてたんだ」