わたしのかんがえたさいきょうのせっちゃん   作:ワイマール拳法

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「洞」

 毟る――。

 それだけが赦された行為であるかのように、少女はただ黙々と背中にある「翼」を毟った。純白の翼は、底のない闇に包まれた洞でも、月魄のように耀いていた。しかし、無垢なまでに純白な存在は、少女にとって忌々しいものでしかなかった。

 それは業であった。

 それは咎であった。

 それは罪であった。

 毟る――。

 少女の指先によって抓まれた純白の羽が、また一枚、足元にある泥濘(ぬかるみ)へと沈んだ。純白が、ぐずぐずと穢れていった。少女が翼を毟れば毟るほど、大切なものが崩れ風化され流され失せ砕かれ壊され穢され犯され蝕まれ刺され燃やされ斬られ刈られ潰され弄ばれ呑まれ喰われ陵辱され嬲られ蹂躙され奪われ裂かれ虐げられるかのようだった。

 少女には男に罵られた記憶が蘇った。

 少女には女に蔑まれた記憶が蘇った。

 少女には大人達の黒々とした感情に曝され、(オカ)された記憶が蘇った。

 

――私はなにをしたかったのか。

――私はなにをしたかったのか。

――私はなにをしたかったのか。

――私はなにをしたかったのか。私は男に罵られたかったのか。私は女に蔑まれたかったのか。私は翼を捥ぎたかったのか。私は男に冷笑されたかったのか。私は私という存在を赦されたかったのか。私は女に嘲笑されたかったのか。私は翼を失くしたかったのか。私は母に抱かれたかったのか。私は父に愛されたかったのか。

――私は、ただ、このちゃんを助けたかっただけなのに。

 

 少女の脳裡に、たった一人の親友である近衛木乃香の姿が浮かんだ。

 禍々しい感情の毒牙に蝕まれながら、彼女はなおも純白の翼を毟った。少女の裡にある大切なものが(こぼ)れていった。肉体のなにもかもが砂粒のように失われていく感覚だけが、少女の忌々しい記憶を忘れさせた。

 毟る――。

 もはや、少女の両手は生血(のり)に塗れていた。少女は、祈るかのように仰いだ。ただただ暗澹たる洞が少女を覆っていたが、彼女はまるで聖女かのように陶酔と微笑んでいた。

 少女は妄執していた。

 少女は、これで赦されるのだと信じていた。

 少女は、これで解放され(オワ)るのだと信じていた。

 母胎のような恍惚に包まれながら、少女は眠るように瞼を閉じていった。

 

  ○

 

 桜咲刹那は、誰彼(だれか)を待つように大木の袂で凝然としていた。静謐な夜である。夜風に吹かれた幾多もの桜の(はなびら)が、月光に灯されながら舞っていた。桜の満開も間近であった。

 

「刹那」

 

 刹那のクラスメイトで同僚の龍宮真名の声であった。真名の背後には、スペイン階段をモチーフにした世界樹広場があった。かの世界樹は、さながら神のように悠然と聳立(しょうりつ)している。世界樹の麓では、麻帆良学園理事長近衛近右衛門が仙人さながらの立派な髭を撫ぜながら苦笑していた。

 

「またカツアゲか」

「心外だな」刹那の言葉に、真名は肩を竦ませた。「正当な報酬さ」

 

 真名の手には、一枚の契約書があった。近右衛門が、傭兵である真名にケツの毛まで毟られてしまった証である。真名は、契約書を豊満な胸の谷間に(しま)った。

 素寒貧となったお財布()に悄然とした近右衛門が転移魔法で去り、世界樹広場は森閑とした。

 麻帆良の学生達に囁かれてきた、草木も眠る丑三つ時に世界樹広場でサバトが開かれるという噂の真相が、魔法使い達による関東魔法協会麻帆良学園本部定例会議であった。魔女集会(サバト)という世迷言も、ハズレではない。どうにも馬鹿々々しいものだから、刹那はつい笑ってしまう。

 

――呑気だなあ。

 

 くつくつと笑う刹那に、真名は呆れた。

 かの千の呪文の男(サウザンド・マスター)の息子ネギ・スプリングフィールドの修業の地が麻帆良に選ばれた矢先に、桜通りの吸血鬼騒動である。麻帆良の魔法使い達はいつも以上にナーバスになっていた。それでも魔法使い達をまるで小馬鹿にするように、刹那はなおも嗤笑(わら)っていた。

 当然ながら魔法使い達にとって愉快ではない。薄闇の奥にある幾許もの視線は、実に剣呑である。真名はさながら針の筵だ。だが、真名も刹那のように口許を皮肉(シニカル)に歪ませた。

 真名も剛胆で、やはり呑気だった。

 

「モテモテのようだなあ、桜咲刹那」

 

 肌がひりひりするような世界樹広場から、またも呵々とした呑気な声があった。さながら人畜を虜にするサキュバスのように、艶然としていた。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルである。幼女エヴァの背後には、幾望の月が彼女を祝福するように燦然と夜を彩っていた。

 まるで一枚の絵画であった。

 

「グッドマンも実に熱烈じゃないか」エヴァは愉快(からから)と笑った。「まるで愛の告白だな」

 

 魔法生徒の一人である高音・D・グッドマンが、不愉快とばかりに眉宇を顰ませていた。高音を慕う魔法生徒の佐倉愛衣が胸に箒を抱いたまま、剣呑な彼女に左顧右眄と困惑していた。

 

「プロポーズには返事をしないとな」

「はあ」

 

 エヴァの言葉に、刹那は生返事をした。

 大魔法使いエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、ナギ・スプリングフィールドに愛の告白(プロポーズ)をしたが、フラれた上に返事は「麻帆良の地に封印」であった。魔法使い達の裏業界(ウラ)では随分と有名な噂話である。刹那と真名は、噂が真実であると知っていた。随分な皮肉である。真名は、呆れた。

 刹那は返事をするように、高音と愛衣へ呑気に微笑んでいた。

 

  ○

 

 桜咲刹那は下種である。

 同僚という関係にある真名は、立派な魔法使い(マギステル・マギ)を信奉する一派から刹那と同類だと(みな)されていた。不本意であったが、真名は否定するつもりもなかった。真名が、金と交渉次第で誰の敵にも味方にもなる傭兵であるからだ。

 刹那はチカラを欲した。どのような手段も厭わなかった。呼吸をするかのように狂奔した。信条も、矜持もなかった。何故刹那はそれほどまでチカラに固執するのか。真名の言葉に、刹那はさも当然かのように嗤笑(わら)った。

 

「このちゃんの為や」まるで童女のように、刹那は無垢な瞳を爛々とさせた。「私、このちゃんの為なら、何でもするえ」

 

「このちゃん」の為ならば、暴力を厭わなかった。「このちゃん」の為ならば、闘争を厭わなかった。大切な幼馴染を護る為ならば、穢れるのも厭わない。なるほど立派ではないか。

 しかし、刹那は致命的にズレていた。

 刹那は、彼女自身が純潔であると一切疑っていなかった。

 刹那に、下種であるという自覚がまるでなかった。

「このちゃん」の為と謳う大義名分に、近衛木乃香の意思は存在しなかった。刹那はチカラなど欲していない。「このちゃん」が欲しかっただけである。

 だから、真名は刹那と共にある。

 チカラに溺れた者の末路を、胸に刻む為であった。

 

  ○

 

 刹那達を軽蔑するように、高音が世界樹広場から去っていった。(おく)れるようにして去った愛衣に、刹那はまるで親しい友人と別れるかのように微笑んだ。

 

「今日は茶々丸さんがいないようですが」刹那が、エヴァに問うた。「やはり、桜通りの吸血鬼の件ですか」

 

 エヴァは、忌々しいとばかりに口許を歪ませた。童女にあるまじき形相であった。

 

「じじぃに大事な話があるからと呼ばれたが、ただの説教だった」エヴァは、辟易したとばかりに大仰な溜息をした。「まるで私が下手人であるかのようだ。これでは魔女裁判ではないか」

 

 さながら蝙蝠の羽のように黒々とした薄手のドレスから(あらわ)にした艶かしい肩を竦ませながら、エヴァは悲嘆した。実に白々しいの一言である。真名はまたも呆れ、刹那は呑気に嗤笑(わら)っていた。

 

「噂の吸血鬼は何人襲ったのだろうな」

「十三人。私は少食なのでな」

「おい」

 

 真名の言葉に、エヴァはあっさりと白状した。これでは裁判もクソもない。真名は、頭痛がした。

 

――彼女は、本当にあの吸血鬼の真祖(ハイ・デイライトウォーカー)なのか。

 

 満月の夜になると麻帆良学園学生寮前の桜並木で吸血鬼が現れるという噂が有名になったのはつい最近である。しかし、満月の夜道に倒れていた女子生徒が学園広域指導員に保護されるという事例は、半年前から幾度も起きていた。埼玉新聞でも記事にされたが、どれも貧血による症状と診断され、吸血鬼などという荒唐無稽な噂話にはならなかった。

 だが、先月の話である。

 ゴシップ記事を書かせたら天下一の「まほら新聞」に、ある記事が載った。

 満月の夜、桜並木で吸血鬼に襲われたという女子生徒の独占インタビューという(てい)であった。記事には、牙のような傷跡が残された彼女の腕の写真も掲載されていた。これが火種となり、桜通りの吸血鬼は麻帆良学園生徒の間で口々に囁かれるようになった。後日、まほら新聞の記者朝倉和美は、学園広域指導員である鬼の新田から一週間のトイレ掃除という厳罰を処せられた。

 無論、桜通りの吸血鬼はエヴァの仕業である。

 近右衛門ら上層部や刹那や真名のような情報通(ピーピング・トム)には、なかば公然の秘密であった。

 春先だが、まだまだ夜風は乙女の肌に厳しい。従者である絡繰茶々丸に温かい夜食を作らせたから上がれと、エヴァに自宅(ログハウス)へ招待された刹那達は、森林に囲まれた小川道を歩いていた。

 

「それで」真名は、ビスクドールのような背中に問うた。「次は、誰を襲うつもりだ」

 

 確信しているかのような真名の言葉に、エヴァは子供のように嗤笑(わら)った。

 一連の吸血鬼騒動は、杜撰の一言である。エヴァが本当に秘匿するつもりだったならば、襲った女子生徒を桜並木へ放ったままにするはずがない。完全に記憶を消去または改竄し、茶々丸が女子生徒を寮のベッドにぺいと放ればいいだけの話である。碌に記憶の処理もせず、まほら新聞の記事にまでされてしまった。これではバレてしまうのも、当然であった。

 だが、ネギ・スプリングフィールドにバレるのがエヴァの目的ならば話は簡単である。

 

「佐々木まき絵か、宮崎のどか。和泉や大河内でもいいな」エヴァの言葉は、実に傲岸不遜であった。エヴァは、嬉々としていた。「もし噂の吸血鬼に生徒が襲われたとなれば、当然ぼうやは黙っていないよな」

 

 不穏なエヴァにも、真名は恬然としていた。エヴァの余興で貧乏籤を引かされたまき絵達は御愁傷だが、どうするつもりもなかったからである。

 近衛近右衛門から依頼があれば、話は別であったが。

 

「あいつが」エヴァは、皮肉(シニカル)嗤笑(わら)った。「約束を反故にするからだ」

「エヴァンジェリンさんも大変ですねえ」

 

 刹那の言葉は、実に能天気であった。エヴァは深々と嘆息した。刹那は、どうもネジが外れているのだ。真名は苦笑した。呆れる二人を余所に、刹那は呑気に微笑んでいた。三人の先にあるログハウスの前で、メイド姿の茶々丸が深々と頭を下げていた。

 桜咲刹那。

 龍宮真名。

 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。

 それは、奇妙な友人関係だった。

 

  ○

 

「旨い」

 

 白磁の咽喉を蠕かせながら、エヴァがワイングラスを空にした。瑞々しい唇はぬらぬらと耀き、ワイングラスの底に残された雫は血のように紅々としていた。エヴァは「キリストの血」に御満悦なのか、仔リスのような頬が(あから)んでいた。さながら娼婦のように、妖艶であった。

 

「満月でないのが、実に残念だ」

 

 窓辺で月夜を仰ぎながら嗤笑(わら)うエヴァを尻目に、真名は銃器のメンテナンスに余念がなかった。先刻まで大吟醸をちびちびしていた刹那も、愛刀である野太刀夕凪を前に瞑目していた。

 一時間もすれば、刹那達には麻帆良の警備という仕事があるからだ。

 関東魔法協会の総本山である麻帆良学園に侵入しようという輩は、よほどの阿呆か、よほどの凄腕である。春の陽気に誘われた雨後の筍さながらの阿呆なら、電子精霊のスペシャリストである弐集院光謹製の電子防壁に阻まれ、御用である。だが、凄腕となれば話は別である。刹那達実力者が武力で排除しなければならない。「東西」の仲が険悪だった十数年前のようには滅多に現れないが、不安の芽を摘む為にも警備は不可欠であった。

 しかし、賊というものは古今東西、夜行性が常である。

 関東魔法協会が麻帆良学園という教育機関を隠れ蓑(カモフラージュ)にする以上、学生の模範となるべき教師や、学生達に無理はさせられない。勉学に支障がないようにしなければならない。

 故に、夜の警備は教師や学生達からの熱心な志願者や専業警備員、エヴァのような人外(夜行性)の仕事だった。

 

「忌々しいが、またじじぃにドヤされるのも御免だ」空になったワインボトルを惜しむように、エヴァがソファから鷹揚と腰を上げた。「茶々丸」

「はい」

 

 刹那達が食事をしていたテーブルは、既に綺麗である。濡れた掌をタオルでぱたぱた拭きながら、メイド姿の茶々丸が返事をした。(マスター)であるエヴァに問われるより前に、瀟洒な茶々丸は準備を終わらせていた。忠実な従者に、エヴァは欣悦と歯牙を剥いた。

 それが合図だったかのように、真名はギターケースを担ぎ、刹那は帯刀(たちはき)をした。

 

「桜咲」ログハウスの玄関で刹那の背中に、エヴァが問うた。エヴァの口許は、歪んでいた。まさに悪の魔法使いの面目躍如だった。「近衛は、大切なお嬢様だったよなあ」

「はあ」

 

 いつもなら返事をするまでもない愚問だが、刹那にはどうにも意図が分からなかった。怪訝な刹那に、やはりエヴァは愉快とばかりにけたけた嗤笑(わら)った。真名は、端麗な眉宇を顰ませた。真名には、エヴァの真意が分かっていた。

 ナギ・スプリングフィールドによる「登校地獄」の解呪に、エヴァは血縁である息子ネギの血が必要であった。まず封じられた魔力を補わなければならなかった。それが桜通りの吸血鬼騒動の発端である。千の呪文の男の息子たるネギと相対するには、当然ながら相応の魔力()が必要である。だが、厳密には一般人の血など必要なかった。麻帆良には、格別な魔力の(タンク)があるからだ。

 それが、近衛木乃香であった。

 

「桜咲は近衛の護衛(ナイト)だ」エヴァは、嗜虐的に嗤笑(わら)う。「私が近衛を眷属(グール)にするとしたら」

 

 愉悦に歪んだ口許から、吸血鬼の牙が耀いた。

 

「貴様は、どうする」

 

 刹那は、微笑んだ。

 

  ○

 

「学園長先生にも困ったものですわね」

 

 持参したクッキーをぽりぽりしながら口許を掌で(おお)うと、雪広あやかは呆れたように苦笑した。クラスメイトである近衛木乃香の寮部屋で、あやかは呑気に寛いでいた。あやかの敬愛するネギ・スプリングフィールドが居候の身なので、あやかは暇あらば木乃香の寮部屋で優雅にティータイムとネギを堪能していた。当然、あやかはネギの行動(スケジュール)を把握し、腐れ縁で木乃香と相部屋の神楽坂明日菜にネギとの逢瀬を邪魔されないように、彼女の行動(スケジュール)も把握していた。

 阿呆の所業であった。

 

「ウチ、まだ子供やのに、おじいちゃんは勝手やわ」

 

 あやかの手土産であったローズヒップを淹れたティーポットとティーカップをテーブルに用意した木乃香は、学園長である祖父近衛近右衛門に御立腹らしい。ぷりぷりとする木乃香に、あやかが微笑んだ。

 

「だからって、脱走はいけませんわ」まるで、母親のような口調であった。「先方の迷惑になってしまいます」

「けどなあ」

 

 両頬をぷくぷくとさせたままクッキーを抓む木乃香は、仔リスのようで微笑ましい。しかし、あやかにとってはそれ以上に、二人が一体どのような話をしていたか分からないのか、呆然としているネギがとても愛らしかった。とても愛らしいものだから、あやかは衝動のままにネギを抱擁した。

 辛抱ならなかったようだ。

 

「あぶ、い、いいんちょさん!」

「嗚呼、ネギ先生!」

「もう、ウチ、真面目な話しとるんよ」

 

 ゴチ。

 あやかは木乃香に金槌で叩かれた。大和撫子らしからぬ、実に容赦のないツッコミであった。

 

  ○

 

「お見合い、ですか」

 

 額に絆創膏が貼られたあやかを幾度も心配しながら、ネギは木乃香の話を戻していた。テーブルには、クッキーや紅茶の他に、精悍な男性の写真が何枚も置かれていた。

 どれも木乃香の縁談相手であった。

 

「つまり、このかさんは、お見合いが嫌なんですね」

「そうなんよ。趣味かしらんけど、おじいちゃん、いつも無理矢理するんやもん」

 

 木乃香は写真の一枚を不承々々とばかりに抓んだ。写真の男性は、三十代前半の警視庁キャリア候補だった。他にも医者や弁護士など、錚々たるメンツだ。

 アンニュイに頬杖をする木乃香の隣で、あやかもこれには感嘆した。

 

「まだまだありますね。常々疑問でしたが、学園長先生のパイプは恐ろしいですわ」

「それで」双眸を無垢に耀かせたネギが、ふとしぱしぱ目瞬(まばたき)をした。「お見合いとはなんでしょうか」

 

 あやかが姉のような口調で、ネギに返事をした。

 

「お見合いは、結婚相手やパートナーを探す為の、日本の慣習ですわ」

「ネギ君も、パートナーが勝手に決まってまうなんて、嫌やろ?」

「はい、それは困ります」

「でしょう」ネギの言葉に、木乃香が破顔した。下がったままだった木乃香の眉尻が緩んだ。「だから、おじいちゃんには困ってまうなあって話をしとったんよ」

「あの……、脱走というのは」

 

 純朴なネギの言葉に、木乃香は抓んでいた写真をテーブルに置き、俯いてしまった。

 

「あ、あれ」

 

 悄然とした木乃香に、ネギは狼狽した。

 

「以前、縁談を反故にしてしまったとき」動揺するネギに、あやかが微笑んだ。「先方とちょっとした騒動になってしまって」

 

 あやかにとっても木乃香の事情は身近なものであった。あやかは、財閥でもある雪広グループの令嬢だからである。あやかも縁談の類にどれほど悩まされてきたか分からない。あやかの父は縁談が時期尚早という彼女の意思を尊重したが、それでも断れない縁談は幾度とあった。木乃香もこればかりは親友の明日菜より、あやかや那波千鶴に相談をしていた。あやかも、ときには木乃香や千鶴と一緒に愚痴ったものだ。

 故に、あやかは木乃香の縁談や、ちょっとした騒動の顚末を知っていた。

 木乃香はいつものように縁談が嫌で反故にした。いわゆるドタキャンであった。いつもなら、木乃香を追わされた近衛家直属の黒服(ボディーガード)達の呑気な酒の肴にされるだけであった。しかし、先方の親族を憤慨させてしまった。親族が、外聞や体裁を重要視するステレオタイプの人間だったからである。曰く、面目を潰されたと激昂され、さすがの近右衛門も事態の終息に尽力したが、親族は実に鰾膠(にべ)もなかった。当事者だけでは、紛糾するばかりであった。ついに第三者が仲裁に奔走し、どうにか元の鞘へ収まらせたという。

 以来、近右衛門の厄介な趣味も鎮まったが、木乃香は縁談の類がより苦手になってしまったらしい。

 

「で、でも収まったのならいいじゃないですか」

「それは、そう、なんやけど」

 

 ネギの言葉も、また木乃香は俯いてしまった。言葉にも、力がない。

 ネギやあやかに心配されたと分かっていたが、それでも木乃香は暗澹としていた。二人を心配させない為に、木乃香はいつものように笑わなければならない。いつものように。しかし、木乃香の口許は雨に濡れてしまったかのように、冷たかった。胸が苦しかった。眩暈がした。全身は別人のように、感覚がなかった。

 脳裡で、木乃香は彼女と相対していた。二人だけであった。夕日に沈んだ麻帆良の街は、飴細工のように耀きながら木乃香と彼女を包んでいた。微睡(まどろ)むようなオレンジ色のベールに焦がされながら、彼女は微笑んでいた。

 

――あ、あの……。

――ええんよ、このちゃん。このちゃんの為なら、私、これくらいへっちゃらやから。

 

 縁談の一件で奔走させてしまった彼女に、木乃香は感謝しなければならなかった。ありがとうとか、陳腐な言葉だけでもいい。

 しかし、彼女を前にして、木乃香はただ呆然としてしまった。

 

――このちゃん。

 

 微笑む彼女に抱いてしまった感情を、木乃香は忘れられなかった。許せなかった。どうしてか、分からなかった。どうすればいいか、分からなかった。

 

  ○

 

 桜咲刹那はいつまでも不気味に嗤笑(わら)っていた。




 しばらく物書きから離れていたのでリハビリしています。
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