亡霊が見た夢 作:うゆ
夢を見た。
家の中にいる。誰の家だろうか?
でも、とても懐かしい香りがする。
壁はアスベスト、水道水は硝酸、蛍光灯はγ線。
溢れたものは死。吐き出すものは死。嘆くのは僕。笑うのは家族。嗤うのは運命。
何もかも歪だけれども、それでも確かに在った僕の居場所。
息苦しかったし、痛かった。世間一般から見れば幸せとは縁遠い状態だったんだろうけど、僕は自分の環境に幸福を感じていた。
見てくれていた。僕を見てくれていた。手段は最悪だったが、この結果の前では芥以下の価値しかない。
愛されなくてもよかった、といえば嘘になる。確かに僕は愛されたかった。他でもないあなた達に。
でも。
それは無理だろう。僕の完全上位互換である彼がいる限り、彼らの愛が僕に降り注ぐ事はない。それに僕は愛がわからない。愛は限りあるものだから、その価値がわからない人間に捧ぐより、分かる人間に与えた方がいいだろう。
泣きそうだ。
その涙を隠す。
吐きそうだ。
笑顔の仮面を貼り付ける。
死にたい。
無理やり呼吸を再開する。
生きる気力もない。
無感動に過ごす。
愛されたい。
愛の無意味さを知れ。
消えたい。
存在し続けろ。
天から堕ちろ。
それが、僕の存在証明。
◆
流していたシャワーの栓を止め、男性にしては少し長い髪を搔き上げる。ノズルから水滴が万有引力の法則に従い滴り落ち、それが水面を叩く音が静謐なバスルームに反響する。
鏡が彼の像を結ぶ。そこにあるのは忌々しいが捨て去ることも出来ない醜い体。あの日発生した事象が、決して白昼夢でない事の動かぬ証拠。
首から下において、左四肢を除いて傷がない箇所が無い。
火傷痕、切り傷、打撲痕、縫合痕、刺し傷……肌が青く変色している箇所すらあり、限られた短期間で負ったものではない事が簡単に見て取れる。それらは一生消えない
逃げられないし逃がさない。お前は永久に罪の奴隷だと言わんばかりに傷が存在し続ける。それはまるで、人間が神の元を離れるときに背負った原罪のようで。違う点を挙げるとすれば、原罪を贖う
しかしそれは当然である。この罪は彼だけのもの。他の誰かが背負うことは不可能であり、彼がそれを望まない。故に一生傷は消えないまま、彼の命が終わるまで在り続ける。
その反面、左四肢……もっと言えば、左肩から下の腕部と左足から下の脚部には一切の傷跡がない。それだけならまだ許容範囲だ。ただの肌が綺麗な人というだけで済む。だが、あらゆる部分に傷を負っているのに、その箇所だけ綺麗なままというのは明らかに歪だ。
それに、綺麗すぎるのだ。その綺麗さは人間味を感じさせない。カテゴライズするならば人形に属する類の美しさだ。
そんな自分の体を一瞥し、舌打ちを一つ。絶対零度の無機質さと、凝った憎悪が同時に存在している瞳でじっと見つめる。
そして唇の端を吊り上げる。彼の冷笑が鏡の世界に映し出される。少しばかりの寂しさを孕んだソレは、見る者全てを恐怖に陥れる冷たさだった。
「生命としての欠陥、か……」
ポツリと彼は呟く。その声音からは一切の温度が排除され、黄泉から吹く風の唸り声のように聞こえる。
そうだ。彼は欠陥品だ。半年前の出来事により、
「全く、使い物にならないな」
その言葉は誰に、何に向かって言ったのだろうか。
「
呟くオセローの一文。かの文豪、シェイクスピアの著者に記された一文。無意識的に紡がれた言霊は寂々たるバスルームに意味をなさない残響としてあり続ける。その振動を鼓膜が捉え、音として脳に伝えるが、彼は気に留めていない。
考えるのは◼︎◼︎のこと、◼︎◼︎のこと。
そして……
「……なんでお前が出てくるんだろうな。まだお前とは会って数週間程度なのに。たった数回会話しただけなのに」
音楽に対してストイックな、銀髪の少女が脳裏にちらつく。
「それだけ俺の中でお前の存在は大きくなったのか? その眩さに救われたのか? 誰かの夢を背負う彼女の姿に片手の俺を重ねたのか? 俺にその資格がないと分かった上でそんな幻想を抱くのか?」
淡々と、冷静に。自己の感情を解析する。声音からは温度が失せている。物理的な冷たさすら感じる程だ。
しかしその言葉には明確な苛立ち。人を殺せてしまえそうな憎悪。感情一つに対しての異常な憤怒。凡ゆるモノを諦観した絶望。その声には確かに熱があった。
「巫山戯るなよ。誰がそんな幸福を赦した。誰が赦しても俺が許さない。誰が望んでもこれだけは譲らない。この末路は絶望だ。だが。それでも。否、だからこそ。俺はそれを受け入れなければならない。傷を受容し、その生涯を終えたときこそ俺の罪が永遠となる。拒絶は悪だ。拒否は芥だ。罪を断つな。諦めを唾棄しろ。救済を捨てろ。絶望を手繰り寄せろ。罪を。罪を。罪を。罪を。痛みを。痛みを。痛みを。痛みを」
あの日に契った約束を狂ったようにリフレインする。瞳の焦点は定まっておらず、有機と無機の境界線を彷徨っている。
頭痛が酷い。まるで内側から自分の世界を崩されているような鈍い痛み。まるで麻酔なしで脳を弄られている鋭い痛み。手酷い拷問を受けていた過去の大罪人や異教徒すら味わった事が無いであろう激痛が彼の脳を蹂躙する。
手を伸ばす。その先には鎮痛剤が入ったボトルがある。だが、あと数cmの時点で伸ばした手をゆっくり下ろす。
「……あぁ、そうか。薬なんかに頼ってるからこんな弱い考えが浮かぶのか。先生からは叱られそうだが、いい機会だ。俺の手で俺自身を調教してしまおう。二度と弱い考えが浮かばないように。永遠に仮面を被り続けれるように。俺の本質を誰にも悟らせない為に。顔に表れるのは三流の証左だ。俺は、完全以外では意味がない」
虚ろな声で呟く彼の背には、重い十字架があるように見えた。
◆
「それで、俺をどこに連れて行く気だ?」
少しばかりの苛立ちを交えて前の人物……帰路に着こうとした晴人を拉致した少女に問いかける。
「昨日言ったギタリストに会わせるのよ」
「理由がないな」
ノータイムの返答。何故友希那が組むバンドに入る予定のメンバーに、無関係な人間である彼が会わなければならないのか、理解不能なのだ。
「拒否権はないわ」
こちらも同じくノータイムの返答。そのまま彼女は後ろを向き、彼を見つめる。琥珀色の瞳と無機質な蒼穹の瞳が交差する。
心底くだらない事で争っている2人を通行人は奇怪なものを見る目で、或いは微笑ましいものを見る目で一瞥している。
お互い一歩も引かない状況。このままではただ悪戯に時間だけが過ぎると判断した彼は、自分が持っていた答えを捨てた。
「分かった。行くよ」
「晴人ならそう言うと思ってたわ」
内心を見透かされた様で少し目を細める。そしてため息を一つ吐く。その音は喧騒に掻き消されたが、目の前にいた彼女には届いた。
「ため息を吐くと幸せが逃げるわよ」
「そんなものは迷信だろう。容易く日常に組み込めるルーティン如きで、形もなく概念すら定まってない"幸福"という人類が追い求める一つの命題が消えるわけがない」
「晴人は幸せを求めてるのかしら?」
「寧ろ最も忌むべきものだ。罪に濡れた俺には、眩しすぎるさ」
幸せを望まない人間は、人間ではない。それはつまり、彼が人間でない事を示す。精神的には勿論のことだが、肉体的な面でも彼は少々人間から逸脱している。
「駄目よ。どんな形でもいいから、晴人は晴人なりの幸せを見つけないと」
そんな彼を知らず、彼女は正論を叩きつける。
いつもの彼なら"正論だかで救えるほど、世界は優しくない"とでも言うだろう。或いは彼女ではなく他の誰かが言ったならば、同じ事を言っていただろう。
でも、彼女の優しさを無駄にしたくないから。
「あぁ、そうだな。いつか、見つけないと……」
精一杯の強がりを言う。友希那が言った幸せから、目を背けながら。心にもない事を、嘘を言う度に強まる頭痛を噛み殺しながら。
星10 のるのる様
高評価ありがとうございます!そのご期待に添えるよう、私も精進します!
そして皆様、あけましておめでとうございます。今年も拙作を宜しくお願いします。
感想、評価共にお待ちしております!