亡霊が見た夢 作:うゆ
深い水底からゆっくりと浮き上がる感覚を覚える。しかし海に溶けた思念は優しく自分に絡みつき、再び夢に堕とそうとする。
その反面、理性は自分を厳しく縛り上げ、現実に引きずり出そうとする。
夢に微睡み、幻想に揺蕩う。それこそが人の本性であり本能であると、脳髄がシグナルを発する。
そのシグナルに従い、更に深層へ進行する。
理性の縛鎖は解けた。夢の海に溶けた思念が、思考能力を後押しする。
──────きみはだれ?
漂白された脳髄が問いかける。
『さぁね。名付けられた名前ならあるけど、本当の名前なんか忘れたさ』
──────どこにいるの?
『鳥籠、牢獄、監獄……まぁ、言い表すならこんな所かな』
──────なにがほしいの?
『終わり。それ以外はいらない』
──────否。
『存分に朽ち果てられる終わりを望む』
──────否、否、否。否否否否否否否否否否否否否否否否否否
──────それは、否だ。
──────お前が欲しいのは本当の家族だよ。
──────だってそうだろう?
──────ほら、そこにも。
聞くに耐えない雑音に従い、振り向くと。
全てを手に入れた僕が。
俺を見下していた。
呼吸が加速する。心臓が不気味なほど脈打つ。体が熱い。視界がブレる。耳鳴りが酷い。
これは夢だ。
呼吸を整え、彼は自分を惑わす漂白された脳髄へ殺意を向ける。憎悪で血液が沸騰しそうだが、思考は酷く冷たく冴えている。
自分が何をすべきか。
脳髄の前に足を運んだ彼は、左手をそれに被せる。そして、ゆっくりと力を加えた。
滴り落ちる毒々しいピンクの脳漿。それが思念の海に溶けてマーブル模様を描く。
細胞同士の結合が千切れる音。その音階は祝福を奏でるようで。
脊髄が砕ける音。骨片が水底に沈殿し、動くたびに舞う。
大凡人間では有り得ない力を脳髄に加える。その度に汚物と雑音をばら撒きながら、ゆっくりと死に向かう。
──────あぁ、やっぱり君はそうやって。
一際大きな力を加える。
──────最初で最後の幸福さえも、捨てたんだ。
漂白された脳髄が、砕け散った。
◆◇◆◇
友希那よりも背が高い彼は、彼女に歩幅を合わせて歩く。2人の間の空気は決して悪いものではなく、交わされている会話も平和なもの。側から見れば初々しいカップルだが、実際は違う。
彼が行なっているのは計算し尽くされた会話。相槌や呼吸のタイミングは完璧。そこに一切の人間性は見られない。それは本来、相手の持つ情報や真意を引き出すために
嘘が上手くなった彼は、誰も信じなくなった彼は、日常の中に組み込まれる在り来たりな会話ですら普通に行えなくなってしまった。
それに気づかない彼女は話し続ける。不気味なほど弾む会話が周りの風景を置き去りにする。心の中に芽生えた安心感が彼に対する警戒レベルを数ランク下げる。
それが最悪の一手だったと気づく日は、来ない。
◆◇◆◇
「初めまして、氷川紗夜です」
「……こちらこそ初めまして、花崎晴人です」
会話終了。紗夜が最初の一文字を発してから僅か6秒で、初めての会話は幕を下ろした。
紗夜もまさかこんなにもあっさり会話が終わるとは思っていなかったようで、少し驚いているようだ。
その原因はやはり彼にある。紗夜の情報を聞いた瞬間、彼女に対する警戒レベルが最高クラスに跳ね上がり、自己の情報を渡すべきではないと判断したのだ。
氷川日菜。羽丘学園の生徒であり、彼のクラスメイト。特筆すべきはその天才性。凡ゆる分野において遺憾無く発揮されるその才能は、誰かを見抜く点でも残酷なほど示された。元々とある人物を思い出される事から接触を避けていたが、ちょっとした……クラスのレクリエーションの際に数回会話しただけで、彼の本質の一端を察したのだ。
それ以来、彼は無意識的にも意識的にも接触を避けている。本来なら同じ空間にすら居たくないほど、彼女に苦手意識を抱いている。
己を暴いた天才と同じ苗字の人間。警戒しないほうがおかしい。もしかしたら同じ苗字の他人という可能性もあるが、別段有り触れているわけでもない「氷川」の姓がこんな小範囲に複数存在するとは思えない。故に何かしらの血縁関係があるのは確実だ。
姉か、妹か。何れにしても氷川紗夜という人物は氷川日菜に匹敵する才を持つことがあり得る。
「是か非か……見極めるまで、お前とは話さない」
温度が失せた黄泉の視線は、氷川紗夜の心臓を凍えさせた。
◆◇◆◇
「晴人……もう少し会話したらどうかしら? 彼女は信頼できる人物よ」
結局、あれ以来会話がなかった。最初から最後まで、彼と紗夜の間には息が詰まりそうなほど重苦しい空気が流れていた。
かと言って双方とも視界から排除しているわけでもなく、紗夜は彼の方をチラチラ見ており、彼の方も時折見定めるかのような視線で彼女を見ていた。
懐かない、近づかない、それでいて視線は外さない。以上の3点セットを取り揃えた2人の頑固者。
『貴方達は警戒心の強い子猫か何かなの?』と思ったのはきっと友希那だけではないだろう。
そんな
そんな友希那に彼は極めて冷酷な、透徹した瞳を向ける。そこに温度は込められていない。
「生憎、数回の会話で他人を信用できるような幸せな人生は送ってないんだ。それに、彼女がどんな人物なのか知らないし知るつもりもない。俺と彼女は赤の他人。それ以上を求めるつもりはない」
それに、と一旦彼は言葉を区切る。
「恐らく氷川日菜と氷川紗夜は血縁関係者だろう。それだけで俺にはアイツを最大限警戒しなければならない理由がある」
自分を暴いた、普通の人間にとってみれば有り触れているあの日の会話を、彼はきっと生涯忘れない。敗北ばかりの彼の人生でも、指折りの敗北故。
その敗北の味を思い出して、彼は僅かに顔を歪める。仄かに薫る殺意。風に乗って舞う憤怒。それらを一瞥して、彼は「無価値だ」と、吐き捨てる。
「……私も赤の他人なの?」
その問いに対して、彼は嗤う。何故当たり前のことを問うてるのか、と相手の無知を嘲笑する。その白痴を嘲る。
「俺がお前に問われた事以外、何かを話したか? それが答えだよ」
お前は信頼できない、お前に機密は漏らさない、と宣う彼に友希那は表情を陰らせる。出会いは最悪ながらも、良き関係を続けてきた友人だと思ってる彼に真っ向から否定された。
「面と向かって言われると悲しいわね」
口ではなんとも思ってないように振舞っているが、実際は如何なのだろうか。ストイックながらも、17歳相応の心を持っている彼女は傷ついていないのだろうか。
「俺が信頼している人間なんて1人しかいない。その1人も、もういない。いないんだ。何処にも」
自分に言い聞かせるように、自分以外の誰かに諭すようにか細く言霊を紡ぐ彼の様子は酷く脆そうで。
「……晴人……?」
突然変わった彼の様子を心配して掛けた友希那の声が聞こえるか聞こえないか。そんなタイミングで彼は大きく一歩前に踏み出し、ターン。パーカーの裾が遠心力によって翻る。
「あぁ、お前にとっておきの言葉をプレゼントしよう。これからの人生で役立つかもしれないからな」
けたたましく鳴っていたクラクションが聞こえない。風の音も、人の声も。
2人だけの世界に連れ込まれたようで。
世界の秒針が、友希那と晴人を置き去りにする。
有機無機問わず、全てが
彼は。
とっておきの皮肉を思いついたかのように整った顔を痛々しく歪めて。
「信じる者は、
取り留めのない日常。それはゆっくり、しかし着実に彼を蝕んだ。