亡霊が見た夢 作:うゆ
其処は暗かった。其所は痛かった。底は穢れていた。
とても静かで、寂しい場所。命あるものは1人としていない。然り、ここは死者の国。その命を解いた者が眠る場所。たとえ半身を吹き飛ばされようが生命活動を維持できるほど医療技術が進歩した現代でも、『死』は『死』なのだ。決して覆すことのできぬこの結末は、きっと未来永劫人類を扉の向こうから見返しているだろう。そのドアの先は、生者には知り得ない未知の世界が広がっている。
だから、『死』には何物にも代え難い価値がある。生命は生まれ出ずるときより死へ疾走する。ならば、『死』という無二にして普遍的な結末を与えられた過去の彼らには敬意を払わねばならない。いつか、誰も彼もそこへ向かうのだから。故に、人類には死者を弔うという習慣ができた。いつしか訪れる復活のため、安らかに眠らせるため……或いは、忘れないため。理由は様々だが、埋葬という同じ結果に辿り着く。
風が凪いだ。酷く冷たい、黄泉から吹き込む亡者の吐息。生きたかった明日に向かって亡者は
死神が手を叩く音階でワルツを踊る。お相手は顔の潰れた誰か。それは死者という名詞に与えられたイメージ。生者が死者に押し付けた像。撒き散らされた呪の鱗粉はこの場を異界へと変質させる。界はズラされた。不快さを覚えるほど粘度が高い『死』は、世界の物質に絡みつき、溶けて、命の絶対値を削り取っている。
命を廻す風車の音が聞こえる。震える音。きっと壊れている。輪廻転成論なんて聞き飽きた。復活の奇跡は唾棄すべき三文芝居に成り果てる。天国はなかった。救いもしかり。ここにあるのは不確かな今日。目を逸らせない昨日。逃げられない明日。時間というレンガを積み重ねた末にあるものが"存在"であるならば、崩れるのは刹那のうちであり、だれも気に留めない。
「あぁ……」
そう、
「この花ですらいつかは土に還る……」
手には2つの花束。鮮やかさを持つそれすら、『死』に削られている。
「いつか、この生に答えを出せるものが現れたら」
数多の墓石を通り過ぎる。
「僕も」
時計の針は丁度丑三つ刻を指した。
「貴方達も」
鼓膜を震わせる波はなくなった。風の粘度も感じない。だが、火傷するほどの冷たさはあった。
死者の人生は、誰のもの。
「終われるのかな」
『花崎家之墓』、『▪️家之墓』
◆◇◆◇
「白金、燐子……」
思い出すように、噛みしめるように彼はその名を呟いた。
「知っているの?」
隣にいる友希那が少し驚いた様子で彼に問いかける。当然だ。未だクラスメイトの名前を片手で数えられる範囲でしか覚えていない彼が、他校の生徒の名をリフレイン……それも
けれど。
「……知らないな」
彼はそう答えた。隠しきれない動揺、脈拍数の上昇。暴露るとあらかじめ分かっている嘘。冷静な彼らしくない無意味な行為。問い詰めれば問い詰めるほどボロが出るのは明白だ。
もしかしたら、これに乗じて誰も知らない彼の本心が分かるかもしれない。
「……そう」
その裏側に込められた意図を彼は感じ取ったのか、申し訳なさそうな顔を浮かべて。
「済まない……」
そう一言だけ呟き、彼は教室を後にした。
◆◇◆◇
「白金、燐子……」
当然のことながら晴人は知っている。
「あの日の関係者……いや、違うな。彼女は関係者じゃない。アレを連想させる人物にこんな所で出会うなんて」
それも、プラスではなくマイナスの存在として。
「なあ、君はどう思う?」
晴人を詳しく知らない、されど彼の身に何が起きたのかを恐らく知っているであろう人物に向けて問う。
「ずっと、背を向けている臆病者の事を」
逃げていた。ずっと逃げていた。そして、これからも逃げ続けるだろう。弱いから。直視したら壊れてしまうから。だから斜めから事象を見下ろしている。尖った出来事が丸くなるように。
「このまま終われないってことぐらい、分かっているのに……さ」
いつか向き合わなければならない、しかしそれは今でなくてもいい……ありふれた逃避の言葉。それを以て先延ばしに。
「逃げた先で逃げたナニカに出会うなんて……中々運命的じゃないか。赤い糸は血で色付けされていたようだ」
皮肉げに鼻を鳴らす。歪んだ顔を白髪の間から覗かせる。
「俺の最奥にある褪せたセピア色光景は、今もここに」
一枚の絵画があります。量産されたような絵画です。年月の経過により劣化しています。それを破り捨て、半分をごみ箱に捨てました。さらに、ごみ箱に捨てた部分を真新しい紙に完璧に書き直しました。そして、その新規部分と残った半分を繋ぎ合わせました。さて、その絵画は無事ですか?
「その褪せた光景は地獄かい?」
聞きなれた声。いるはずのない人物。何時からいるのか。今来たとことなのか。それとも最初から? 聞かれても構わないと彼は判断。弱さを見せれる相手だから。
地獄とは何か。コキュートスか。トロメアか。無間地獄かもしれない。だが、そうではない。ここで言う地獄とは。
「どうでしょう。でも、苛まれ続け、決して消えないこれは、俺の中では地獄に類似していますね」
そうだ。何も御大層な名前が付けられ、神話や書物で語られるものだけが地獄ではないのだ。苛まれ、消えず、逃げれないものがあるならば、それがその人にとっての"地獄"なのだ。
「目を閉じても、耳をふさいでも」
視覚や聴覚を閉ざした程度では逃れられない。地獄とはそんな軽いものではない。
「恐らく。正気を失って狂っても苛まれるはずですよ。人間ならば」
人格に、記憶に、心臓に、脳に、クオリアに。刻まれたものが地獄。自己の喪失で失われるだろうか。死ぬまでその光景に呪われている。自己を決定付ける重要なファクターとしての側面を地獄は持っているのかもしれない。
「だが君は違う。どちらでもあるし、どちらでもない。死者であり生者、生者であり死者。まるでゾンビみたいじゃないか。進歩しすぎた医学はこんなモンスターを生んでしまうのか……」
生死の
「医者であるならば進歩を喜ぶべきでしょうに……」
進歩の裏側には破滅と退廃がある。だが、それを案じているような口振りではなかった。まるで、その技術そのものがなかった方がよかった、と言っているようで。
「事はそこまで単純ではないさ。どれだけ綺麗言と御託を並べたって、生かさないほうがよかった命だって確かにある。一個人の人間としては楽にしてやりたくても、医者としての責務がそれを遮る。気づけば酸素ボンベと点滴を手に持っていて、量が少なくなったものと入れ替える。時々分からなくなったさ。果たして、いま私の前にいる人間が生きているのか死んでいるのか。言葉も発しない、動かない、栄養補給をしない、放っておけば死んでしまうような人たち。彼らと君は同じだった」
謳いあげるように言葉を発する。それは事象の再認識を促す。
「まるで今は違うかのような言い方ですね」
声音と内容で大体を察した彼は吐き捨てるように言う。
「ああ、実際違うさ。今の君は少しだけ明るい。どうやら君は良い出会いをしたようだ。ここに来て正解だった。君がいくら否定しようと、これは覆らない。なにせ他ならぬ君が証拠だからね。その中でも湊友希那君との出会いは特別だったようだ……」
反論材料が皆無の彼は一方的な言葉に口を噤むしかない。そんな中、彼がとった行動とは。
「……帰ります」
逃亡。物理的な距離を置くことによるシャットアウト。最も簡単かつ効果が高い方法。脱兎の勢いでこの場を後にした彼を医者は見送った。
「逃避癖は健在か……さて」
呆れを混ぜた声を一つ吐き、冷たい声音に切り替える。
「盗み聞きは感心しないな。君は、どこまで聞いていたんだい?」
隅で銀髪が揺れた。
なぜなのか。その答えは、既に出ていて。