序章 羽咲織乃
私にとってバドミントンは、ただのコミュニケーション道具に過ぎなかった。ただの一度もこのスポーツを楽しんだ事はなく、言ってしまえば勉学と何も変わらない苦行にも等しかった。むしろ勉強の方が得意で、自分で言うのもあれだけど、テストは何時もほぼ満点の優等生。幼少の頃から体を動かすよりも本と漫画を好み、新聞や小説を読む方が面白く、スポーツよりもテレビゲームの方が楽しかった。
だけど―――バドミントンが大好きな姉が、一番好きだった。
何より―――母が嬉しそうなのが、一番幸福な気分になれた。
そう思えば、姉と比べて凡愚に過ぎない自分でもバドミントンを続けられた。いや、強くなり続ける事が出来て、苦行に等しい練習にも耐えられて、姉と母と戦い続ける事も容易かった。才能はなく、光る素質もなく、下らない出来そこないの―――あの母の子とは思えない愚作に等しいプレイヤーと認めた上で、私は私なりにバドミントンを愉しんでいた。
……そうだ、自分は愉しんでいた。
強くなる事を、母よりも、姉よりも、愉しんでいた。
凡愚でしかない愚劣な才能で以って姉と戦い、そして勝利する奇跡。
奇跡を演出する思考と、日々の反復練習と、成長が止まらない反射神経。
それを可能とする鍛錬と修練と、心が持つ膨大で尽きることが絶対にない熱量。
如何も自分の
でも、それさえも私は―――羽咲織乃は必然だと考えた。
だから、私は母みたいに育ててみたかった。育て続けていたかった。あの姉の妹と思えない無才の自分を―――天才へ、作り直したい。
自分で自分をコーチして、母さんみたいに完璧な作品を作り上げる。姉さんみたいな作品に、自分自身を作り上げてみせる。
「母さん。分かっています。だから、捨てたのですよね。全部、全部、理解していますから。貴女が母親ではなく、プレイヤーである事を望むのですから、私も貴女の子供を辞めなくてはなりません。貴女がいては私達が強くなれないと判断したのでしたらそれが、最も私達が強くなる為に必要な苦しみ。
だから安心して下さい、母さん。
姉さんの技は私が育てます。私が相手をします。母さん、貴女が願った通り―――姉さんを、捨てられた憎しみのまま、育ててみせましょう。姉さんのメンタルを黒く育てて、その熱量全てを練習に注ぎ込ませて、見事に姉さんを母さんにしてみせましょう。
負の感情が人を強くするなら、何も間違えていない筈です。
捨てられた絶望と、自分を捨てた母親に対する憎悪が、姉さんに必要だと考えたから、そうなのですよね?
でも……でも、私は一体……私は、何で――――ああ、それでも母さんは、間違えませんよね?
私も姉さんみたいに強くなり続けて、私が姉さんになれば良い。そうすれば、何も問題はありませんよね。だって、私に母さんが必要ないと考えたのですから、私は私のまま母さんの理想を作り上げても良いと言うことですものね?」
―――姉は、泣いていた。
でもバドミントンは強くなった。一日一日、段々と強くなっていた。メンタルも圧倒的に強くなって、試合では無敵にも等しい精神構造を手に入れた。それは自分も同じで、姉さんと同じ領域にも到達してしまった。姉さんの方が強いけど、偶に勝つことも出来るようになった。
だからやはり、母さんは何も間違えてなんて―――無い。
今までの苦しみを無価値になんてしたくない。自分の半生を無駄になど出来ない。だって私は、姉さんとバドミントンを始めた時から―――自分で自分を育てるのが、想いのまま技を身に付けるのが、人生で一番生きているって思えたから。
だから、間違えてなんかない。
私達を捨てた母さんは間違えてない。
母さんを恨んで強くなる姉さんも間違えてない。
姉さんを母さんみたいに成長させる私も決して間違えてない。
下らない無価値な私が姉さんになるために才能を模造する事も間違えてない。
「ね、織乃。ボソボソ何独り言言ってるの?」
「そう言うことは聞き逃して下さい、姉さん」
「えー、だって気になったし」
「そうですか……まぁ、何時もの事ですので、別にどうでも良いですけど」
「そっか。でも確かに、織乃はガサツで男の子っぽい性格だから、気にしても仕方ないかも」
「あの、姉さん。同じ顔をした双子の妹に、良くそんな言葉が言えますね?
分かっていますか。バドミントン馬鹿な私でも、思春期真っただ中な女子中学生なんですよ。自分で言うのもあれですけど、私ほどナイーブでメンタルがか弱い女の子はそうそういませんので」
「え~、本当かなぁ……?」
「うわぁ、何時もの煽り癖。芹ヶ谷さん激オコ間違いなしですね……で、何の用ですか、姉さん?」
「バドミントンの練習しよっか……ねぇ?」
好きな癖に、苦しいと実感している姉の顔を見る。これも母さんが求めた境地で、それを超えて姉さんにはもっと、もっと、今よりももっと強くなって貰いたい。
スポーツマンは一人では強くなれないけど、一人で戦えるメンタルが絶対に必要なのだから。
「良いですよ。芹ヶ谷さんも呼びますか?」
「薫子ちゃん? 良いよ、別に。大会も近いから、利用出来るものは利用しないと」
「そうですか。では、何時もの練習場に呼びましょう」
姉さんは、技も心も昔よりも強くなったと私は実感した。苦手な知人でも、使えるなら使い潰す。母さんが出て行った要因である芹ヶ谷さんだけど、彼女がいなければ姉さんも私も今みたいにバドミントンが巧くなれなかったのは事実。
でも、それでも姉さんには申し訳ないと言う気持ちが消える事はないと思う。
姉さんにどうしても勝ちたいと私に頭を下げた芹ヶ谷さんと一緒に練習して、一緒にバドミントンをして、一緒に苦痛に悶えながら鍛えて―――姉さんに勝てる知恵と技術を与えたのは、この私なのだから。
確かに、芹ヶ谷さんを育てる決断をしたのは自分自身。
それでもあの時、姉さんと母さんには許可を取った。事情を説明して、育ててみたいと自分の気持ちを素直に告白して、姉さんは強い相手が欲しいと許してくれた。自分と練習出来る時間が減って寂しそうだったけど。母さんも、織乃がしてみたいバドを楽しんでみなさいと笑ってくれた。
姉さんに一度だけ勝った、あの芹ヶ谷さん。
あの時、私が何も間違っていない事を証明してくれた芹ヶ谷さん。
母さんが私と言う
凡作だった私だけど、この道は何も間違えていないと理解した。私は、私そのものを最高傑作に作れると確信した。
「薫子ちゃん馬鹿みたいに巧くなったもんね―――……織乃の、御蔭で」
「恨んでいるのですか?」
姉さんが母さんに何を言って、母さんに姉さんが何を言われたのは知らない。けれども、母さんが私の前から消えたのはあの試合の後だった。
私は―――母さんに会っていない。喋っていない。
でも、もう構わない。迷わない。母さんみたいに一から作った訳じゃないけど、私の友達は良い改造品になってくれた。私の鍛錬は何一つ間違えない完璧な正解だった。
だからこれを幸福に思わず、私は何をバドを見出せば良い?
「……恨んでるよ、弱い私を」
「嘘はいけません。弱かった自分自身もそうかもしれませんけど、そんな妹である私もでしょう?」
「―――織乃」
「怒らないで下さい。姉さんには悪いですけど、芹ヶ谷さんはとても良い宿敵で―――あぁ、姉さんにとって忘れられない怨敵に相応しい人になって頂けました。だから私は一度だけでも姉さんから勝利をモノに出来る様、好奇心のまま育ててみたんです。
……姉さんと母さんに、芹ヶ谷さんを育てる告白をしたのもその為です。
だってそうしなきゃ、姉さんを裏切ったみたいになりました。母さんも喜んでくれると思って……なのに、どうして。なんで私は、私が友達の為にバドミントンで得たもので、誰かの為にそれを使って役に立てれば、そんな風に優しい人になれたら、母さんだって私の事を……―――」
「良いよ、織乃。もう良いの。
私達が私達のバドミントンを証明すれば―――お母さんは、絶対帰って来る!」
「そう、ですよね。ええ、姉さんが言うのでしたら、絶対にそうですよね!」
「だから薫子ちゃんだってウェルカムだよ。今度の大会の為だけど、私はもう二度と大会の試合で薫子ちゃんにだけは負けないから。今はもう私の方が強いんだし。
それに帰って来たお母さんの前で、今度こそボッコボコにして上げれば良いだけだもん」
「いえ、姉さん。流石にそれは、JCとしてどうかと思うのですが……?」
「え、なんで?」
「…………うん。姉さんは絶対彼氏作れませんね」
「え、なんで!?」
全日本ジュニア選手権一週間前。私はそんな大会よりも、大会の為の練習の方が楽しく思う。私の姉さんは羽咲綾乃だけど、私がその日戦おうとしている姉さんは羽咲じゃない。
―――神藤綾乃。
その姉さんを、羽咲である私が打倒する。
凡愚に過ぎない私こそ、母さんが作り上げた最高傑作なのだと証明する為に。
とのことで、こんな雰囲気の主人公で進めて行きます。才能に苦しまれて、姉と母に屈折した家族愛を持っていて少し狂っていますが、ハッピーエンドを目指していきます。
読んで頂きありがとうございました。