--笑顔には魔法がある。
島村卯月がまだアイドルを夢見る1人の平凡な少女だったころ、世界はキラキラに満ちていた。ステージの上で歌って踊るアイドルたちが流す汗が、スポットライトの七色の光にそそがれて無色の美しい結晶を生みだし、それが彼女たちの一瞬一瞬の生命の輝きを放射して、見る者のあらゆる負の感情を一撃のうちに屈服させ、かわりに異常な熱量を流し込んだ。それは愛に似ていた。
彼女たちは性格、境遇、思想、恋愛観、学力、友人関係その他もろもろが1人1人まったく異なる別個の存在でありながら、同じ速度で呼吸をし、脈を打ち、踊り、歌った。彼女たちはただ1つの目的の為に1つになっていた。みんな笑顔だった。ステージの上で等間隔に並ぶ彼女たちの輝きがこの惑星を満たしたとき、この世から貧困や災厄は消滅して、世界は平和になるように思われた。
この日の為に血と、汗と、涙があった。それらは無数の慟哭--それは夢半ばで脱落していった者の無念も含めて--を蝟集して作りだされた負の液体だった。だが彼女たちは言わば選ばれし者だった。彼女たちはその液体を濾過して、瞬く間に純水に変える魔術を持っていた。その水は、たとえるならヘレン・ケラーがはじめて知った水のように純粋だった。現世の汚濁に汚染された魂を浄化して、笑顔の花を咲かせる奇跡の水だった。
笑顔はまた、魔法の種を生みだした。笑顔でいるだけで幸せになれたし、それを見ているだれかにも幸せを分け与えることができた。見えない幸福の連鎖が広がっていく。画面越しに彼女たちを眺めていた幼い卯月もそれに絡めとられ、身動きができないようになった。この時から、彼女はアイドルになろうと、否、ならねばならないと思った。
幾百のオーディションに落選し続けても彼女は決してめげなかった。そこに至るまでに費やした労力は必ずいつか自分の輝きに変わると信じたから。歌と踊りと流行のファッションと自分をよりよく欺くメイクと話術を磨いた。来たるべき時が近づいているのを感じていた。そうして、煤けたシンデレラの卵はやがて孵化し、プロデューサーに見出された。名前も顔も思い出せないプロデューサー。大切だった人……私に魔法を与えてくれた人……「笑顔」を認めてくれた人……
一緒に苦楽を共にした仲間がいた。いたはずだった。確か2人、そう、卯月とあと2人、あわせて3人のユニットだった。ニュージェネレーション。こうして新世代が訪れた。3人はシンデレラに相応しい妥当な成長を遂げていった。その間小さな衝突、困難の壁に直面することもないではなかったが、1人ではなく、3人なら、3人ではなく、もっと大勢なら、乗り越えられないはずはなかった。卯月の笑顔はいつもみんなを笑顔に変えたし、みんなの笑顔は卯月を笑顔に変えた。新世代は、このまま何不自由なく周り続けていくと思われた。
「はいOKです、お疲れ様でした」
「ありがとうございましたっ」
夢想の世界から立ち返った卯月は、自分に労わりの言葉をくれた"プロデューサー"に礼を述べると、ふう、と溜息を1つこぼした。少なくとも日本では、この番組以外のラジオ放送があるのかどうか、卯月には知る由もなかったが、これを聴いている人がどれほど少ないかはなんとなくわかっていた。
夢の残り香はまだ続いている。
期待してはいけなかった。過去に縋り、未来に対して安直な期待をもつことは心が耐えられそうになかった。卯月は自分の記憶に接続しようと試みるとき、自らの心の扉が、重く冷たい閂の軋み音とともに、徐々に徐々に--それと気付かせないほどゆっくりと--閉ざされていくのを感じた。いつかこの扉が閉まりきったときが最期だというのはわかった。だから、"島村卯月"が未だ失われていないのは不思議だった。自分の知る者は、真っ先に消えていったのに、何故だかこうして、卯月だけは五体満足なままであった。
世界を覆った"喪失症"は原因の特定も満足になされぬまま、急速に広がっていったから、発生要因も症状の進行度合いの個人差も、よくわかっていない。ただ、多くの人が消えた世界には、未だに生き残っている人がいるのは間違いなかった。
"プロデューサー"は10年前に始まった卯月の冠番組のプロデューサーで、爾来付き合いは続いているが、彼もまた名前を失っていた。卯月は彼をプロデューサーと呼ぶことにした。その言葉が卯月の中の多くを占める重要な存在だったことは、"プロデューサー"も知っていたから、彼は呼び方を変えるように提案したことがあったが、卯月はその響きをこの世から失いたくないかのように、頑として譲らなかった。こうして彼は彼女の記憶の代替品となることを受け入れたが、2人の間の親密と疎遠の微妙なバランスは2人の関係を保存するのに役立った。彼には彼の、卯月には卯月の人生があった。ひょっとすると彼も、卯月に誰かを重ねているのかもしれない。もっとも、今生きている人間は多かれ少なかれみんなそうなのだが。
喪失症は、膨張と増長を続ける人類を間引く地球の意志の働きによるものだ、と偉い大学の"教授"たちが解説していた(もっとも彼らの大部分もこの時すでに名前を失っていたわけで、いくらかはそのうち存在ごと消えた)が、この考え方は強ち間違いでもないようだ。というのも、皮肉にも世界人口が減少したことで食料不足が解消された地域があったというのだ。日本においても、どんどん人が消えていくから、彼らが消費しきれなかった食料がまだ残されていた。生産と流通のサイクルが途絶えた現代社会において、人間がまだ生きていられる理由の1つだった。遠からずそれも底を尽きるだろうが、その頃に果たしてどれだけの人間が生き延びているのかは疑問である。
さて、この"喪失症"だが正式な病名というわけではなく、マスコミによる造語である。まず名前が失われ、次に顔が失われ、最終段階として影が失われ、最期に存在ごと消える。この消えるという表現は曖昧だが、その人物がこの世で生きた痕跡ごと消えてなくなるという意味で、その人が残した文章、録音物、絵画、写真物、あるいはその人物の名前を記した文章等も、そういう類いの一切が文字通り"消える"。存在が消えた人物は、誰かの記憶の中に、名前も顔も思い出せないけれどそんな人がいた、という曖昧模糊とした形でだけ残る。そしてやがてはそれも消えるだろう。
卯月の仲間たちも1人、また1人とこの病のために名前を失い、顔を失った。名前も顔も失われたためにアイドルとしての道を断たれ、絶望のうちに消えていった……輝いていたはずの少女たちの、呪咀の瞳。笑顔の連環は切断され、絶望の輪が広がった。大地に影を落とすことができなくなった彼女たちは一様に卯月を見た。幻聴が聞こえた。愛らしく優しかった彼女たちが、翼を捥がれた航空機のように墜落していくさま、その地響きのように深くから聞こえてくる幻聴。なぜ私が、なぜ私の番なの……次は卯月の番だよ--
その"声"が聞こえてくるたびに、何か言い逃れようと試みるも、渇いた喉は刃物を突き立てられたように痛んで言葉を紡ぐことができなかった。何か言葉をかけなければならなかったのに。
まるでこれまでかけられていた魔法の代償を支払うかのように卯月は笑顔を失った。それまで卯月の笑顔は誰よりも際立っていたが、言うなれば卯月には笑顔しかなかった。もはや彼女には何も残されてはいなかった。なのに名前はいっこう消える兆候を見せてくれなかった。
そんな卯月に、プロデューサーは消える前に、こう言った……はずだ。--あなたの笑顔に、みなさんどれほど救われたことか。消える前に一眼、もう一度笑顔を見せてください--
消えゆく少女たちは救いを求めていた。その解答が、卯月の笑顔だった。卯月の笑顔はみんなの笑顔になった。プロデューサーが消えて、もう二度と戻ってこない大事な人を想って笑った。嘆き、悲しむよりも笑顔でいなければならないと思った。こうして卯月は、別れの日に笑顔で見送った。彼女たちの絶望を吸い込んで、心の檻に閉じ込め、魂が軋む音に気付かないように細心の注意を払いながら。こうして卯月は1人になった。
「ついたよ、少女」
「そうだね、少年」
「ところで肝心のお便りだけど、何を書けばいいんだ?」
「まだ書いていなかったのか?」
「こっちは運転してたから!というか、言い出しっぺは少女だろう?」
「うーん……どうしようか。とりあえず、今までの旅のこと、書いたらいいんじゃないかな」
「今までかぁー、いろいろあったもんなー」
「難しく考えずに、もっと楽にいこう」
「とりあえず、疲れたから休憩させて」
「お疲れ、カブ君。ついでに少年」