島村卯月のS(mile)ING!♡レディオ   作:たかお

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幽霊

 

例えるなら幽霊だった。

あの世からもこの世からも切り離され、やむなく現世に思念として留まり、時折強い情動を僅かな自然現象に仮託して存在を主張するだけのはかない幽霊だった。名前を失うとはそういう意味だった。

自分の名前を思い出せないことがこれほど辛いと彼は思わなかった。名前を失った存在は、容易にほかの存在に置き換えられうるとは思わなかった。彼は密かに恋していた少女、ずっと見つめてきた少女からの痛烈な復讐を甘んじて受け入れざるをえなかった。まるで彼が彼女を慕うことがずっと彼女の価値を貶めてきた、と言わんばかりの手痛い反撃だった。与えられた呼び名は彼を新しく生まれ変わらせたが、同時に彼を殺した。彼の血液は誰にも赤と認められる間も無くやがて無色の世界へと吸収されていった。今こそ彼は卯月を愛する権利を得たのである。

彼は卯月の声が好きだった。彼女の愛らしい声、小雨が傘を叩くように軽やかな声。金木犀の香りを思わせる甘く澄んだあの感じ。その声を耳にするだけで憂鬱は吹き飛んだ。甘く切ない痛みとともに、幸福の風が吹いてくるのを感じた。

彼女が笑顔を失っても、声の魔力は変わらないままだったから、彼にとって卯月が笑顔でいることにさしたる価値はなかった。ただ口を閉ざして欲しくはなかった。柔らかな唇を震わせて、小さな吐息混じりにどんな言葉でもいいから紡いでもらう必要があった。そしてある日、彼は自分の欲望の正体を正常なものとして無理やり当て嵌めようとしてきたことに気づいた。つまり、本当に惹かれていたのは声ではなく息だった。彼女が生み出す空気の流れに引き込まれていたのである。そしてその空気は彼女の魂の純度を証明しているみたいだった。蜜蜂が花の匂いに引き寄せられるように彼は彼女の甘い蜜を吸い、心の巣の中へと密かに持ち帰った。

 

だから、休止状態にあった冠番組の再開を彼女から依頼されたとき、それは天祐に思われた。彼は卯月のプロデューサーとなる権利を得たのである。

プロデューサー、その響きに込められた万感の思い。あの男が卯月からあれほど無垢な信頼を寄せられていたのは、あの男がプロデューサーだからに違いない、と彼は考えることにした。すると今は彼こそがプロデューサーだった。卯月の信頼を得るに足る存在だった。消えていったあの男こそが、卯月が復讐しなければならない相手になった。

こうした自己満足が危うい均衡の上に成り立っていることは理解していたが、もはや卯月なしで彼は生きていなかった。彼女の澄んだ瞳の中にだけ彼は生きていた。彼は1人の女の瞳の、それもほんの上澄みの部分でしか生きられないはかない幽霊だった。それでも彼女を見続ける。見つめている間は、少なくとも彼女の存在が消えることがないとでもいうように。幽霊は彼女を見続ける。

 

 

 

 

5階の角部屋だけが暗い局内に灯りを点していた。電力の供給が途絶えて久しく、残り僅かの非常用電力は放送用機器類に用いられていたから、懐中電灯だけが唯一の光源だった。何かを照らし出す光ではなく、ただ自ら光ることで役目を果たす小さな小さな光。

薄闇の中思考は茫洋として、否応なしに過去の情景が浮かんできては消えてを繰り返した。思い出すという行為が彼女の傷を抉ったが、それは同時に心地よくもあった。幼児がかさぶたをガリガリ掻き乱すように、その痛切な快感に浸る。

 

卯月は過去に媚びていた。孤独が卯月を記憶に対し不誠実な態度をとらせた。誰もかれも名前も顔も失っていたから、記憶の中で卯月は神様のように、世界を再構築し、彼や彼女たちを自分好みに着色し、造形する権利を持っていた。思い出の深い部分にメスを入れ、不都合を刈り取り、天国を作った。記憶の隙間からはとめどなく何かが手を伸ばしてきたが、その裂け目を縫い合わせて、見ない振りをすることにしていた。修復はお世辞にも上手ではなかったし、彼女の世界もまた不完全だったから裂け目はその後も度々現れた。そのうち継ぎ接ぎだらけの天国が出来上がった。

 

あの男、さっきまでこの部屋にいて今は眠りについているであろうあの男はプロデューサーだった。卯月はあの男にほんの小さな愛を注いでいた。というのも、今時誰かに多大な感情--それが愛であれ憎しみであれ--を持つことは無意味だったからである。いつ存在が消えるとも知れぬ者に深い愛や憎しみを覚えることに何の意味があるのか?

このために卯月は彼を深くは愛さずに済んだ。彼の瞳の欲望と哀願と切実と絶望の入り混じった深い色合いを、ほんの少し愛しながらもこれを受け流すことができた。

 

しかしその時、今さらながら彼に色がなかったことに気づいた。色彩がない。影はあったろうか?いや、薄暗がりの中だから彼の影を見てはいない。もし影がなかったら?

小さな震えが押し寄せてきた。またプロデューサーは、私を置いて……

私を、私を……

あれ。あれっと彼女はひとつふたつ愛らしく首を傾げた。

当然あるべき何かが失われていた。何かがカチリ、と変わってしまったのを感じた。

そう。私の。

私の名前、なんだっけ--?


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