写真の中で、女が笑っていた。
原稿の打ち合わせ後に家に戻ると、室内に違和感があった。
愛飲している煙草の匂い。昼飯に食べたカップ麺の匂い。わずかな埃っぽさと体臭。ごちゃごちゃと混ざった生活の匂いに、何かが紛れ込んでいる。
目の前の居間をゆっくりと見渡す。人を招くことを想定していない一人用のソファに、ソファの高さに合わせて買った中途半端な高さの、中途半端なデザインのテーブル。安物の薄っぺらいカーテンからは、傾きかけた陽が透けて薄暗く部屋を照らしている。
自分の部屋。安全な、自分の部屋のはずだ。
そのはずだ。
馴染みの無い気配が鼻先を撫でた気がして、小心者の心臓がどくりと跳ねた。どっ、どっ、と心臓が血液を盛んに送り出して、じわりと背中が汗ばむ。脳裏に思い返すのは、つい先日に自分へ降りかかった出来事だ。紙を捲る感覚が指を這い、目の前に資料を差し出されたかのように内容が鮮明に蘇る。人体実験。人間の自我を蝕む、怪物。瓶の中で凍った小さな怪物が自分の耳にまとわりついたような感覚を覚えて、うなじがぞわりと粟立った。
思わず耳に手を当てて掻き毟る。ごりごりと、耳の中に自分が皮膚を薄く抉る音が反響する。不快な音が脳内に満ちて、そしてようやく、脳裏の情報は消え失せた。
いつの間にか閉じていた目を開く。耳に当てていた手をゆっくりと下ろして、深く息を吸った。
愛飲している煙草の、少し甘い匂い。昼飯に食べたカップ麺の、塩気の強い匂い。部屋の隅に薄く膜を張った埃の饐えた臭いと、自分の汗の臭い。
そして、空気に停滞するような、甘いような、咽るような、腐ったような、形容しがたい、匂い。
それは、肌を舐めるような、なにかの残滓だ。
心臓の鼓動が早くなる。その動きに比例して体表はじんわりと汗を滲ませて、熱よりも、急速に冷えていくそれに意識が向く。身体中が冷えていく。血液を押し込まれて、緊張に固まっていた脳がほぐれて冷めていく。
部屋を見渡す。荒らされた形跡はない。あからさまに貴重品が入っていると主張している小さいキャビネットも、テーブルの上が定位置となっているメモ帳と娯楽用の本も、書斎に続く部屋の扉も、物言わず閉じている。
書斎。ああ、と、知らず声が漏れる。そう言えば、先日持ち帰ってきてしまっていた資料をその部屋に押し込んでいたことを、思い出してしまったのだ。
閉じた扉に、視線が釘付けになる。扉を開けたくない、と反射的に思ってしまうが、開けなければいけない、とも思う。開けなければいけない。開けて、あくまで自分の部屋は安全な住処であるのだと確認せねばならない。
冷えた思考に反して、扉に伸ばした手は見て分かるほどに震えている。手を掛けると、掴んだ取っ手に震えが伝染してかたかたと音を立てた。強く握り込んで、ためらう前に開く。途端、異物の気配が強く香った気がして足が竦んだ。
取っ手を握って凍りついたまま、視線だけをそろりと室内に向ける。居間と同様に薄っぺらいカーテンから陽が透けている。壁際に敷き詰めた本棚には当然空きなど無く、持ち帰ってしまったそれは部屋に積み上げているはずだった。
その、資料が、ない。
ない。
一際大きく心臓が跳ねる。ない。物品の消失。それが起こるためには、何かがそれを持ち去る必要がある。資料を部屋に持ち帰った時の私のように。
視線が室内を泳いで、カーテンを閉じたままの窓に向く。竦んで棒のように固まった足を無理やり動かして、窓際へと足を進めた。夕陽が、すっかり傾いた陽が薄いカーテンを赤く染め上げて、窓際の仕事机にまで色が滲んでいる。
その仕事机の上。窓に伸ばしていた手が止まる。視界の端、仕事机の上に異物を見止めたからだ。仕事に使うノートPCに、読みかけの本と風景画の写真集が数冊。それと、それと。装飾品などどこにも置いていない部屋にはとても似つかわしくない、美しい写真立てがひとつ。
深みのある色をした木製の写真立てだ。華美ではないが、花を模した緻密な意匠が縁に添えられている。
そして、その写真の中で、女が笑っていた。
光を浴びて、薄い金髪がきらきらと輝いている。明るい緑色の眼はわずかに細められて、こちらに向かって微笑みかけている。
こちらを見ている。
違うと思った。資料に、この室内から忽然と姿を消した資料に添えられていたはずの写真は、誰かと話をしているような、こちらに視線を向けていないものだった。
それが、こちらを、私を見て微笑んでいる。私を見ている。
「……フレデリカ・ゴドフリー・フーガン」
するりと、滑り落ちるようにその名前が口から零れた。馴染みの無い発音の名前を、一度資料を流し読んだだけで覚えられるほど記憶力は優れていない。思わず口を押さえ、小さく呻く。今の名前は、一体どこから出てきたのだろう。
仕事机に近付く。もう足は竦んでいない。椅子を引いて、小さく軋んだ音を立てながら腰掛ける。
もう窓を検める気は失せていた。トイレも、風呂場も、もしかしたらどこかに誰かが潜んでいるのかもしれない、という不安も心の奥底に隠れてしまっている。
PCの電源を点ける。OSが立ち上がるのを待つ間、写真立てを手に取った。細い茎の先に複数の花が咲いている花は彼岸花のようにも見えるが、記憶にあるそれよりは幾分か花弁が豊かな気もする。
あとで調べようと頭の片隅に残しながら、立ち上がったPCに、まずは女の名前を打ち込んだ。
聞き耳は嗅覚の判定にも使用するとのことだったので。