俺は今でもあの瞬間を覚えている。
俺の体は震えていた。武者震いだったのかもしれないし、東京の春の寒さに震えたのかもしれない。
眼前の闇が晴れ、溢れんばかりの光に包まれたあの瞬間―――どうとでも叙述できる気がする。
***
高2の4月。俺は三重の片田舎に住んでいたが、東京の高校に転校になった。理由は父親の転勤と母方の祖父が倒れたから。その決定自体にはなんら抵抗はなかった。
俺は中学以来野球部に所属していたが、転校後に入部はしなかった。野球は大好きだったけど、野球部のノリは本当に嫌だったからね。
「初めまして、三重から転校してきました。西川夏輝です。よろしくお願いします。」
自己紹介をするやいなや、【転校生】というジャンルに対する物珍しさに、クラス全員の視線が集まった。これはかなり…キツい。
俺は注目が集まるのが嫌いだ。その理由はどうでもいいとして、そんな性格の人間が巷では「陰キャ」と呼ばれていることは知っている。
クラス全員の自己紹介が終わった後、先生はクラスメートと親交を深める時間を設けた。
けれども、俺はあえて自分から話しかける必要はないと思っていたし、第一に誰にも話しかけることができなかったから、完全に石ころになりきっていた。
クラスメートたちがこちらに視線を送るのを感じる。こちらを見てヒソヒソ何を話しているんだろうか。
自分がクラスの中で浮ついた存在になっているという事実、この事実に関してはかの野球部のノリよりもキツかったね。
***
2週間が経過した。
クラスメートが互いに打ち解けている中、俺は案の定常に1人だった。ある程度コミュニティが出来上がっているのに、そこに入るのは陰キャにはキツいって…
まあ、学校生活は当然つまらなかった。
陰キャと言えど、前の学校ではそこそこ友達もいたものだ。やっぱり地蔵でいるのは辛いものがある。
ようやく下校時刻になった。今日も長かった。帰りのHRが終わる瞬間が、学校で一番心躍る時間だね。
気付けば俺は軽い足取りで下駄箱から駆け出て、家でどのゲームをしようか思案していた。
そこで思い出したことには、その日は新作の発売日だった。
東京に住むのだから、少し東京を知るのも悪くないだろう。ゲームといえば秋葉原、という単純思考で、その日は秋葉原に寄ることにした。
いや、建物がでかすぎる。田舎暮らしだった俺には到底受け入れられない…
もうゲームのことも忘れ、駅を降りて早々家に帰ることにした。
帰宅ラッシュの満員電車に乗り込むと、何もしていないのに疲れた虚無感が加齢臭と重ね合わさりげんなりとして、俺は後ろのおっさんに身を任せた。
肩が強く当たってしまった…まあいいか。働いて目が死んだおっさんなら、変に絡まれる心配もないはず…
刹那、おっさんの身体は驚きで跳ねあがり、硬直したように感じられた。
なんなんだその反応はと驚いたのは俺も同じ、振り返ってみると、怯えた目をしたおっさんが女子高生のスカートを掴んでいた。
痴漢か。女子高生の方は…うわ可愛い。すっげえ可愛い。上唇を噛んで痴漢に耐える姿には、美術の評定2の俺でさえ芸術的な美を感じた。
狼狽しているおっさんは完全に眼中から外れていた。俺は痴漢を目撃したことを忘れ、その女子高生に見蕩れてしまった。
そのとき電車の扉が開いた。おっさんは肥えた身体を反らし、満員電車をすり抜けた。逃げられてしまった。
そのとき初めて彼女と目が合った。凛とした印象とか弱い印象、アンビバレントなイメージが調和し、印象的な金髪に全く引けを取らない完璧な美貌華麗にまとめあげられていた。
おっさんの一連の動きが一瞬だったせいか、彼女は状況を飲み込めていないらしい。
「大丈夫でしたか?」
「…はい。」
会話は以上だった。
どこの駅だったか、電車が止まると、彼女はそこで降りようとした。
俺は何か声をかけようかと思ったが、そもそも俺は偶然その場に居合わせて、偶然肩が当たっただけだ。助けたなんて恩着せがましいことは思っていない。ただ俺の頭を占めているのは――
彼女は降りる瞬間、こちらを一瞥した。そして目が合い、彼女は微笑んだ。彼女からは、か弱そうな印象は微塵も感じなかった。凜然と佇む一輪の黄色いカーネーション。引っ越す前は家に飾ってあったな、今日は花屋にも寄ってみようか、そんなことを考えていた。
だが、そんな崇高な余韻にはいつまでも浸れなかった。
電車の扉がしまってすぐに気付いた。足下を見ると、彼女のものと思しき鞄が置き忘れられていた。
***
どうしようか悩んだが、結局彼女の鞄を持って次の駅で待つことにした。
陰キャである俺にとって、女子高生の私物に触れるなんて大それたことは到底出来るものではなかっただろう。だが、俺は動いた。理由を考えるまでもなかった。
そうは言っても駅員に連絡している可能性や、まだ鞄を置き忘れたことに気付いていない可能性がある。いや、次の駅で誰かが自分の私物を持って待っていると思う方が常識から外れている。それでも、一縷の希望に託したかった。
次の電車で彼女が現れなければ、駅員に引き渡そうと思っていた。
彼女は現れなかった。
もう一本電車を待ったが、やはり彼女は現れなかった。
俺は身勝手に落胆した。駅員に引き渡して家に帰ろう。そう思って立ち上がったそのとき、反対側の路線に電車が到着した。
窓越しでも見紛うはずがなかった。
***
「あなたは…」
「よく会いますね」
「どうしてそちらからいらしたんですか?」
「……考え事をしていたら乗り過ごしてしまったの。」
呑気なものだと思った。
「鞄はそちらです。あ、もちろん中を見たりはしていませんから。安心してください。」
「本当にありがとう。先ほどもお礼を言うことさえ忘れていて…」
「いえ、僕は居合わせただけですから。それに…」
「僕もあなたに会えてよかった。」
いや、俺は普通に、「鞄を引き渡せてよかった」というニュアンスで言ったつもりだった。それなのに彼女は何を勘違いしたのか、
「そんな………///」
黙り込んでしまった。
女性経験という女性経験が皆無な俺でも勘違いされているのはわかったが、まああながち間違いでもないだろうと思い、訂正はしなかった。
「じゃあ、僕はこれで。」
「え、待って。待ってちょうだい。」
「あなたの名前を教えて欲しいの。」
「西川夏輝です。覚えなくていいですよ」
「夏輝ね。私は絢瀬絵里。音ノ木坂学院の2年生よ。」
「はあ、アヤセさんですね。僕も2年生なんですよ。高校は―」
電車が到着した。
俺はこの場で彼女と延々と話していたかった。だがその一方、女子高生とマンツーマンという状況に耐え難くも感じていた。
いいものが見られた、ただそう思うことで僅かに生まれた未練も断ち切ることができるような気がした。
「タイムアップですね。今日はありがとうございました。」
「いえ、お礼を言わなければならないのはこちらの方よ。心から感謝するわ。また会いましょう、夏輝。」
案の定満員の電車に乗り込むと、扉越しに彼女の姿が見えた。
控えめに手を振る彼女に精一杯の微笑みを返すことは、"絢瀬絵里"の名を頭に刻むに充分すぎた。
電車が動き出し、彼女の姿が見えなくなると、張り詰めていた糸が完全に切れ、すしずめ状態に目もくれず、俺はその場にへたりこんだ。
「絢瀬絵里…」
絢瀬絵里の名や凛とした佇まい、彼女の一挙手一投足は俺の脳裏に残り続けたが、それ以後は彼女と出会うこともなかった。
俺が彼女を再び強く意識するのは、1年と少しが経ち、俺がそろそろ受験勉強に取り掛かろうかと考えていたときのことだった。
***
結局のところ、このことがあってかどうかは知らないが、5月に入れば俺にはそこそこ友達が出来ていた。
彼女は出来なかったが、人並みに高校生活は楽しんだつもりだ。
俺はある程度学力があったし、多少なりとも日頃から勉強していたので、3年生になると、最難関国立大学を志望校にした。
そして受験を左右すると言われる高3の夏休み、単純に言うと、俺は病んだ。
真面目に受験に取り組んだ人間ならわかると思うが、大体のやつはここで一度病む。
すべてに無気力になり、朝から動画サイトを眺めていたある日。ゲーム実況動画の関連動画の中でふと目にしたのは、かつての美少女だった。
1年以上前の出来事が詳細に叙述され、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
しかし、驚く一方で、落胆の気持ちもあった。
絢瀬絵里は、端的に言えば俺の物だと思っていた。
自分のみが知っているはずだった彼女の可憐さを、世界中の人間が享受していると思うと、腹立たしくて仕方がなかった。他方、それを自覚したとき、自らの分不相応さに苦笑せずにはいられなかった。
もちろん、嬉しい気持ちも多分にあった。複雑な感情が体の至るところから噴出して、俺は自らの抑制がきかなくなっているのを感じた。
会いたい、率直にそう感じた。
***
模試で芳しくない判定が続く中、彼女のことを考えている余裕はなかった。だが、暇を見つけては彼女の動画を見続けた。
それがうまく作用したのだろうか、俺の学力は上昇を続け、志望校に合格することが出来た。
2月26日、受験が終わり、久方ぶりに彼女の動画を見た。そこで目にしたのは、
【ラブライブ! μ's Final LoveLive!〜μ'sic Foreverのお知らせ】
こんなような文面だった。
確かに、よく考えれば彼女は"スクールアイドル"として活動していた。卒業すれば少なくともスクールアイドルではなくなるだろう。
俺はアイドルオタクではないので、多少の落胆の気持ちはあれど、葬式ムードになったわけでもなかった。
俺は意を決して、チケットを購入することにした。もちろん彼女が俺を覚えている保証はなかった。ただ彼女を見られればいい。そう思っていた。
そこで初めて、俺は"アイドルとしての絢瀬絵里"と対面するのだった。