Communio -In Paradisum- 作:白鷺 葵
「シンボラー、背教者を打ち倒せ! <風起こし>!」
「迎え撃ちます! <滝登り>!」
ボールから飛び出してきたシンボラーが急降下してきた。チグサが間髪入れず飛び出し、シンボラーと激しい攻防戦を繰り広げる。
吹きすさぶつむじ風に臆することなく、チグサは滝を登る勢いで攻撃を叩きこんだ。相手は<鋼の翼>でチグサの攻撃を撃ち払う。
<鋼の翼>によって弾き飛ばされたチグサだが、彼は受け身を取って地面へ着地した。勇ましく眦を釣り上げ、即座に迎撃体勢へ移行する。
「チグサ、<冷凍ビーム>!」
「ごろー!」
ショウマの指示を受けたチグサは、鋭い冷気を凝縮したビームを撃ち放つ。その一撃は、見事にシンボラーへと命中した。
飛行タイプに氷技は効果抜群。弱点攻撃を真正面から喰らったシンボラーは、悲鳴を上げる間もなくノックダウンした。地面に落下し、目を回している。
相手の男は次のポケモンを所持していないようで、呆気にとられたままショウマを見返していた。まさか子どもに負けるとは思わなかったのだろう。
「まさか、俺が背教者に負けるなんて……!」
「情けないなお前。だから万年下っ端なんだよ」
悪態をつく男に対し、別な男は彼を嘲笑った。
次にショウマの前に立ちはだかったのは彼である。
「コイツを倒した程度でいい気になるなよ。行け、シュシュプ!」
「しゅぷー」
ボールから飛び出してきたのはシュシュプだった。シュシュプが場に出た途端、心地よい香りが周囲に漂い始める。香りの出所は、シュシュプが纏っているオーラだった。どうやら、あのシュシュプの特性はアロマベール――自分と味方にかけられたメンタル技を無効化する効果がある隠れ特性――らしい。
因みに、メンタル技と銘打たれているものは、同じ技しか出せなくなる<アンコール>、同じ技を連続で出せなくなる<いちゃもん>、トレーナーによる道具の使用を禁止する<回復封じ>、1つの技を使用不能にする<金縛り>、攻撃技しか出せなくする<挑発>、異性の魅力で相手の動きを封じる<メロメロ>の6種類のことを指す。
“件の技を駆使する戦術を主体にしていないなら、脅威に感じる必要はない”――ショウマはそう判断を下し、チグサに目配せした。チグサも頷き、迷うことなくシュシュプと対峙する。次の戦いの火蓋は、切って落とされたのだ。
先に動いたのはシュシュプの方だった。可愛らしい外見からは想像できない程、相手は悪い笑みを浮かべる。まるで何かを企んでいるかのようだ。
自身の特殊攻撃を飛躍的に上昇させる技、<悪だくみ>である。攻撃のチャンスを補助に回すということは、次の一手で仕掛けてくるつもりなのだろう。
ならば、対処法は――
「この威力ならば、流石に耐え切れまい……! 喰らえ、<10万ボルト>!」
「<堪える>!」
シュシュプが雷を撃ち放つよりも先に、チグサが防御姿勢を取る方が早かった。一撃必殺同然の威力を叩きこまれても、チグサはギリギリ踏み止まる。
さあ、お返しだ。ショウマとアイコンタクトしたチグサは、<我武者羅>でシュシュプへ攻撃を仕掛けた。相手の体力を自分の体力と同等の値にする技だ。
チグサの体力は瀕死寸前である。まだまだ余裕であるシュシュプの体力もまた、瀕死寸前まで追いやられた。シュシュプはふらりと体勢を崩す。
「今です! <滝登り>!」
間髪入れず、チグサはシュシュプへ向かって強烈な一撃を叩きこんだ。彼の特性である激流によって、水タイプの威力が加算される。初手に放った<滝登り>よりも増した破壊力を真正面から喰らったシュシュプは、あっという間に倒れてしまった。
男は大きく目を見開いた。だが、先程の男と違い、シュシュプ以外にも手持ちがいたらしい。
面食らったような表情を消した男は、次のポケモンを繰り出してきた。
「ネマシュ! 奴のミズゴロウは虫の息だ。止めを刺せ!」
「まーっしゅ!」
次に戦場へ躍り出てきたのはネマシュだ。タイプは草とフェアリーの複合タイプで、水タイプのチグサとは相性の悪い相手である。
他にも、ネマシュは個体によって特性が違う。通常の個体が持つ特性は発光と胞子の2種類であり、特に注意すべきは後者だった。
胞子は“直接攻撃してきた相手を状態異常にする”効果があり、近接攻撃を得意とするポケモンには脅威に成りうる。
「チグサ、戻ってください! ――任せます、ヒイロ!」
「こーん!」
ネマシュが仕掛けるより先に、ショウマはチグサに指示を出した。自身の引き際を察知したようで、チグサは頷いて戦線から離脱する。次鋒としてショウマが選んだのは、ロコンのヒイロだった。タイプは炎単一、得意なことは特殊攻撃である。
これならタイプ相性的にも有利であるし、ネマシュの特性:胞子を心配する必要は無い。ヒイロ同様“相性的有利な立場にある”クロハやハクギンを選出しなかったのは、両名が物理攻撃を主体にした技構成になっていたためだ。
ショウマがチグサを他のポケモンと入れ替えることは、予測の1つに入っていたのだろう。男は嫌そうな顔をしたが、取り乱す様子はない。
本来、チグサへの止めとして使われるはずだった<エナジーボール>がヒイロに襲い掛かる。草の力を宿した弾丸を真正面からぶつけられたが、ヒイロはぴんぴんしていた。
草タイプ技は、炎タイプに対して効果はいまひとつ。お返しとばかりに、ヒイロは<火炎放射>をお見舞いした。容赦ない火責めに、ネマシュは悲鳴を上げて倒れこむ。
男の手持ちはシュシュプとネマシュだけだったようで、次のポケモンを繰り出してくる様子はない。奴は唖然とした表情を浮かべてショウマを見返す。
「う、嘘だろ……!? このガキ、結構強いぞ……!?」
「それなりに鍛えてますからね」
憔悴した男に対し、ショウマは冷静に返答した。
自分の手持ちの多くが、母・ハルカの手持ちたちの系譜を引くポケモンだ。母から受け取った卵を孵し、育成してきた相棒である。遺伝技が充実しているのは当然と言えよう。その他にも、母が所持していた技マシンを借りて技を覚えさせている。
タイプ相性に関する話は両親や先生から聞いていたし、弱点タイプを迎撃するための技や、相手の意表を突く技を覚えさせるのは当然のことだ。伊達に両親のポケモンバトルや、両親の友人たちと交流してきたわけではない。
ショウマ本人は技術者を志望しているが、関係者曰く、『嘗てホウエンチャンプに君臨していた両親の才能を、色濃く譲り受けている』らしい。志望先との兼ね合いを考えると複雑極まりないが、両親を引き合いに出されて褒められることは嫌いではなかった。閑話休題。
男たちが主体にしているのは、エスパータイプやフェアリータイプ。不思議で神秘的な力を使うポケモンを主体にしているらしい。
しかし、言動は見るからに悪の組織だ。ああいった手合いは、悪タイプや毒タイプをメインにして襲い掛かって来そうなものなのに。
(……いや、そうとは限らないか。マグマ団は炎主体、アクア団は水主体で悪・毒タイプを織り交ぜていた訳だし、あくどい方面に手を貸していたエーテル財団職員はエスパータイプを主軸にしていたと聞きますし)
「――情けないわね、あんたたち! それでもレクイエム団の一員なの!?」
ショウマが両親や先生から聞いていた話を思い出しつつ、思考していたときだった。男たちと同じ制服を着た女が乱入し、男たちを詰り始めたのである。
会話を聞く限り、この3名は同期で、一番出世しているのがこの女らしい。「近々、幹部候補生に昇進する話が出ている」と自慢げに語った女は、ショウマの方に向き直った。
「こんなガキ1人を黙らせることくらい、アタシにとっては造作もないわ! 行きなさい、ナッシー!」
「なっしー!」
女が投げたボールから飛び出してきたのはナッシーだった。アローラ地方で一般的な首の長いナッシーではなく、通常の姿である。
戦線に降り立ったナッシーが撒き散らす殺気に、思わずショウマは息を飲む。チグサたちも同じようで、反射的にたじろいでいだ。
(不味い……! レベル差がありすぎる!!)
バトルを左右する要素としては、ポケモンが有しているタイプ相性や覚えさせる技だけではない。ポケモンのレベルも勝負に大きく絡んでくる。レベルが高いということは脅威に成りうるのだ。相性的に不利な技しか覚えていなくとも、レベルの高さでごり押しする戦術だって存在している。
女が繰り出してきたナッシーに優位を取れるポケモンはいる。攻防一貫ならば炎タイプのヒイロと飛行タイプのクロハ、防御ならエスパー・鋼複合のハクギンだ。
だが、レベルで比較した場合、効果今ひとつ技でも一撃で瀕死にされてしまってもおかしくない。技を駆使すれば戦えない訳ではないが、厳しいことには変わりなかった。
ショウマたちが表情を硬くしたのを見て、女はニタニタと笑みを浮かべる。その笑い方が醜悪なのは、悪の組織に所属している人間故だろうか。
「アタシたちに挑みかかるんだ。どれ程馬鹿な奴かと思ってたけど、案外賢い面もあったのね? ――まあ、今更遅いけど」
ナッシーの周囲にエネルギーが収束する。陽光を求めて体を動かす様子からして、おそらく繰り出される技は<ソーラービーム>だろう。あの威力を真正面から喰らったら、みな一瞬で瀕死になってしまうことは明らかだ。
ポケモンたちだけではない。ショウマも、ショウマの近くで手持ちたちを抱えている少女も巻き込まれる。無事でいられるかどうか分からなかった。……成程。『黙らせる』というのは、そういうことか。ショウマは内心舌打ちする。
自分たちが取れる手段は数少ない。ショウマはチグサ、ヒイロ、トクサにアイコンタクトを取った。
前者は<堪える>体勢を取り、ヒイロは大声で嘶きながら<鬼火>を放った。ゆらゆらとした炎がナッシーの周囲を漂う。ナッシーは光を集めることに夢中で、こちらの動きに気づいていない。トレーナーもまた、自分の勝利を確信しているのだろう。こちらの動きなど気にする素振りも見せなかった。
ショウマを見下す眼差しからして、『無様な足掻きだ』と嘲笑っていることは明らかである。慢心している女とナッシーは、どこからどう見ても隙だらけだ。だが、ショウマたちでは奴らに決定打を与えるための手段が足りない。その歯がゆさに浸る暇もないのだ。
「クロハ、<ブレイブバード>! ハクギン、<アイアンヘッド>! トクサ、<剣の舞>!」
ナッシーの元へクロハとハクギンが殺到する。その背後で、トクサは舞を舞って能力を上昇させた。
クロハの<ブレイブバード>も、ハクギンの<アイアンヘッド>も、ナッシーを揺らがせるには至らない。
光の充填は完了した。女とナッシーは勝ち誇った笑みを浮かべ、こちらに攻撃を仕掛けてきた!
「ナッシー、<ソーラービーム>!」
「トクサ、<守る>!」
「きゃああ!」
「のこー!」
ショウマは咄嗟に少女の手を引いて自分側に引き寄せ、トクサに指示を出した。トクサはショウマと少女の前に躍り出て、絶対防御の姿勢を取る。間髪入れず、ナッシーの<ソーラービーム>が炸裂した。
辺り一面が真っ白な光と凄まじい衝撃に襲われる。チグサ、ヒイロ、クロハ、ハクギンらは悲鳴諸共真っ白な光に飲み込まれた。トクサの<守る>のおかげで少女とショウマは無事だが、光が晴れた先は大惨事だった。
クロハやハクギンは地面に転がっている。ヒイロも地面に身を横たえ、3匹は苦しそうに呻いていた。とてもじゃないが、戦闘を続行できるような状態ではない。チグサも瀕死寸前の状態で踏み止まっているような状況だ。
唯一ピンピンしているのは、攻撃手段に有効打を持っていないトクサのみ。ここから逆転する手段を探すのは至難の技だろう――女もナッシーもそう思っている。
だが、念には念を入れようと思ったのだろう。ナッシーは巨体を揺らし始める。女は<ソーラービーム>の指示を出そうとした刹那、驚いたように目を見開いた。
「<ソーラービーム>が撃てない……!?
光を集められないことに気づいたナッシーがおろおろと視線を彷徨わせる。彼は助けを求めるように女を見た。女は技のPPを確認して絶句する。
<ソーラービーム>は高威力であるものの、“連続で何発も使える”ような技ではない。必殺技としては優秀であるが、長期戦で何発も放てないのだ。
ポケモンの技にはPPと呼ばれるものがあり、PPが0になるとその技は使えなくなってしまう。回復方法は道具か木の実、ポケモンセンターしかない。
しかし、どんなに強力な技だったとしても、『たった1発で使用不可能になる』技ではない。暫し考え込んでいた女は合点がいったようで、瀕死状態のヒイロを睨む。
「<怨念>……小癪な真似をしてくれたわね!」
<怨念>はヒイロが倒れる寸前、<鬼火>と一緒に使った技だ。自分が瀕死状態になった際、自分を瀕死に追い込んだ技のPPを強制的に0にする。
PP回復用の木の実――ヒメリの実を持たせていたり、PPを回復する道具を使わない限り、ナッシーは<ソーラービーム>を使えない。
「これで<ソーラービーム>は封じました!」
「でも、攻撃手段は<ソーラービーム>だけじゃなくてよ?」
女がそう言うなり、ナッシーは大きく嘶いた。奴を中心にして舞い始めた木の葉を見て、ショウマは自身の不利を悟った。
自分たちが“逆転の一手”を打つより、ナッシーが殲滅用の技を繰り出す方が速いのだ。守りに転じようにも、<堪える>や<守る>には不安が残る。
(次の技を、防ぎきれるか……!?)
<守る>のような完全防御技や、<堪える>のような瀕死寸前でも必ず踏み止まる技には、共通する大きな弱点があった。“何度も同じ技を使うと成功率が下がる”のだ。
今回の作戦内容は、“相手がショウマたちに攻撃し、ショウマたちがその攻撃を確実に凌ぎきる”必要がある。先程<守る>や<堪える>を使ったのはそのためだ。
先程の技が成功しているが、それ故、次の<守る>と<堪える>の成功率は100%ではない。2回連続使用で、成功率は五分五分だ。不確定要素が絡んでいる状態で失敗すれば、自分たちはどうなるか分からない。
良くて身ぐるみはがされ路地裏に放置、悪くて口封じの一環で命を奪われるだろう。少女の場合、奴らに捕まった後は碌でもない運命が待ち受けていることは確かだ。
この勝負、絶対に負けられない。それ故に、今回のような不確定要素が絡んでくると不安が残る。――しかし、それでも、それ以外に有効手段がないのだ。
(――腹をくくるしか、無い)
「ナッシー、<リーフストー>――」
ショウマがそう思って顔を上げたのと、女が指示を出したのと、背後から凄まじい殺気を感じたのと、風切り音が響き渡ったのはほぼ同時だった。
何事かと振り返るよりも、1本の矢羽がショウマの視界を横切る。それはナッシーの影を撃ち抜き、鋭い闇を発生させる。
技を放とうとしていたナッシーは、悲鳴を上げて体勢を崩した。どうやらあの矢羽、ナッシーにとって効果抜群だったらしい。
誰が何のために撃ったのかは分からない。けれど、その一撃が戦線をひっくり返したことは確かな事実である。
攻めるとしたら今がチャンスだ。
これを逃せば、自分たちは確実に負ける。
「トクサ、<種爆弾>!」
ショウマが指示を飛ばし、トクサはナッシーの足元に<種爆弾>を撃った。草タイプ技は草タイプに対して効果は今ひとつであるが、<剣の舞>でブーストしていた攻撃力が活きたのだろう。巨体が傾く。
「チグサ、<我武者羅>!」
そのタイミングを待っていた。チグサは倒れそうになるのを堪えながら、ナッシーに対して我武者羅な攻撃を仕掛けた。これでナッシーの体力はチグサと同等――瀕死寸前。
反撃しようとした女であるが、ナッシーは主の指示に従うことはできなかった。ナッシーは巨体を傾かせ、崩れ落ちるように倒れてしまったためである。
<我武者羅>はあくまでも“相手のHPを、自分のHPと同じ数値にする”だけの技だ。<我武者羅>単体だけでポケモンを瀕死にすることはできない。
では何故、ナッシーは倒れたのか。――その答えは、ナッシーの右脚にあった。
焦げたような黒煙が立ち上っている。状態異常の1つ、火傷だ。
火傷は毒同様、相手のHPを減らす効果がある。他にも物理攻撃力を下降させる効果があり、物理アタッカーに対して有効的な状態異常だ。HPを減らすだけなら<毒毒>による猛毒状態の方が効果が高いが、どちらを選択して搭載するかは個人に任せられている。
「そんな、馬鹿な……」
「貴女の負けです」
女はナッシー以外の手持ちを持っていなかったらしい。そして、自分が敗北することなど予想すらしていなかったのだろう。今この瞬間に広がる光景を理解できずにいるようだ。
ショウマが引導を渡すようにして事実を言い放つと、途端に女は修羅の顔になった。唖然とする男たちに対し、大きな声で指示を出す。
「ポケモンバトルで負けたからって、アタシたちが負けたって訳じゃない!
「――随分と、楽しそうなことをしているな?」
鋭さを宿した声が響き渡る。振り返れば、そこには見覚えのある青年が佇んでいるところだった。
癖のある爆発気味な前髪と、身に纏う白衣が風に揺れる。銀縁の眼鏡が、背後の逆光を受けてぎらついていた。フレームの反射以上に、レンズ越しの瞳も鋭く細められる。
彼は笑い――否、嗤いながら、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。その仕草を目の当たりにしただけなのに、尻もちをつきそうになったのは気のせいではない。
威圧感を撒き散らす、圧倒的な佇まい。敵に回すと絶望極まりないが、それが自分の味方であることの心強さを何と言おう。ショウマは思わず表情を綻ばせた。
「リーフェウス先生!」
「久しぶりだな、弟子99号。スティーブン――
「はい。父さんなら先日、お爺さんたちと色々騒ぎを起こしてました。……色々と……」
師――リーフェウス・ヴァルハラとの再会に表情を輝かせたショウマであるが、父の近況報告をしたところで当時の出来事が脳裏に浮かび、言葉が尻切れトンボになってしまう。きっと自分は今、酷く曖昧な笑みを浮かべているに違いない。
ヤミラミとガバイトが大量に敷き詰められたような部屋に閉じ込められた挙句、母方の祖父・センリと激しいバトルを繰り広げていたダイゴの姿を思い出す。トウカジムを倒壊寸前に追いやり、最後は母・ハルカとレックウザのビリジアンによって<画竜点睛>で両成敗されたときのことだ。
ショウマの曖昧な笑みからすべてを察したのだろう。リーフェウスも同じように、酷く曖昧な笑みを浮かべて頷き返した。大体予想できたらしい。
懐かしさで満たされた空気は、すぐに剣呑なものへと変わる。師の視線の前には、怯えるように後ずさりする悪の組織の下っ端たち。
深緑の瞳が3人を映し出す。不気味な嗤いを崩すことなく、けれどその眼差しは獲物を見据えたウォーグルのように獰猛だった。
「お前らが、コムニアで有名なレクイエム団か。現物を見たのは初めてだな」
値踏みするように、リーフェウスは男女――レクイエム団の下っ端を観察する。自分の逆鱗に触れた相手に対し、どのような罰を降そうかと思案しているときの顔だ。
「――ヴァルハラ博士、何かあったのですか?」
しかし、リーフェウスが何かを言うより、この場に新たな乱入者の声が響く方が速かった。レクイエム団の下っ端たちは顔面蒼白になり、慌ててこの場から逃げ出す。
自分の手持ちだったポケモンたち――シンボラー、シュシュプ、ネマシュ、ナッシーを放置して逃げたあたり、相当切羽詰っていたのかもしれない。
下っ端たちの背中を見送った後、ショウマは声がした方向へと視線を動かした。振り返った先には、眼鏡をかけた紳士がこちらに駆け寄ってきた姿が見えた。
清涼感溢れる爽やかなショートヘアは、ビジネスシーンにも良い印象を与える髪型だ。ブラウンベージュの髪はしっかりと整えられている。黒くて四角いフレームの眼鏡もまた、理知的な印象を演出しているのだ。レンズ越しには温和そうに細められた眼差しが宿っている。
一見無地に見えるグレースーツだが、よく確認すると、シャークスキンが施されているのが伺えた。スーツ生地として使われるシャークスキンは、外観がサメの肌によく似た梳毛織物であり、ざっくりとした
スーツの胸元には、セクエンツィア財団のロゴマーク――十字架を模した大樹と大きく開いた翼――が刻まれている。
(セクエンツィア財団の、関係者……?)
「あ、あの……」
「?」
「助けてくれてありがとうございます。……それと、ごめんなさい。私のせいで……」
ショウマに庇われていた少女は、ぺこりと頭を下げた。桃色のポニーテールがさらりと揺れる。
外傷はあちこちに刻まれているが、先の戦闘で新しいものが増えた様子はない。そのことに安堵する。
「大丈夫ですよ。貴女の怪我が増えていなくて本当に良かった」
「でも、貴方のポケモンたちがボロボロに……」
「薬はちゃんと持ち歩いていますから」
ショウマは鞄から元気の欠片を取り出した。瀕死状態のハクギン、ヒイロ、クロハに与える。3匹はどうにか立ち上がれるようになったようだ。
「自分たちは頑張った。褒めてほしい」と言わんばかりに、彼や彼女たちはぐいぐいとショウマに擦り寄って来た。3匹を労いながら、ショウマは鞄から薬を取り出す。
少し手を止めて思案した後、ショウマは元気の欠片と傷薬に手を伸ばした。少女の手持ちポケモンであるラルトスとイーブイも、瀕死状態だったためだ。
薬を手渡して「2匹の為に使ってほしい」と告げれば、少女は感謝の言葉を述べて道具を受け取った。ラルトスとイーブイに元気の欠片を使用する。元気を取り戻した2匹は、すぐに少女を案じるようにして擦り寄っていた。
「良かった……! ごめんね、私のせいで……」
少女は、ラルトスとイーブイをぎゅっと抱きしめた。傷の大部分は癒えただろうが、PPなどの回復は行っていない。万が一のことも考えると、ホテルで休むか、ポケモンセンターでしっかりと直してもらった方がいいだろう。――それは、ショウマの手持ちにも当てはまることだ。
ボロボロのチグサに傷薬を使う。沁みるのか、彼は小さく呻き声を漏らした。けれど、痛みが引いていくのを感じたのだろう。気持ちよさそうに目を細め、ショウマに擦り寄った。手持ちのみんなが頑張っていたことは事実だが、一番無茶をしたのはチグサだろう。
「よく頑張りましたね」と褒めながら頭を撫でると、彼は誇らしげに微笑んだ。
チグサは卵から育てたショウマの相棒である。一番最初に手にした“初めてのポケモン”である故、どうしても贔屓目になってしまうのは仕方がない。
ハクギンたちは羨ましそうにこちらを見ていたが、「しょうがないね」と言わんばかりに苦笑いしていた。最後は、みんな揃ってショウマにじゃれついて来たが。
仲間たちにもみくちゃにされているショウマと、ラルトスとイーブイを慈しんでいた少女の目線が合った。――何だろう。非常に照れ臭い。ショウマが視線を彷徨わせたときだった。
「これは一体……」
「レクイエム団だ。俺の教え子が撃退したらしい」
「ヴァルハラ博士の教え子さんが?」
財団関係者は驚いた様子で、まじまじとショウマを見返す。瀕死状態の仲間たちを労っていたショウマは手を止め、同じように男性を見返した。
「成程。キミは素晴らしいトレーナーなんだね」
「いいえ。僕なんて大したことありません。チグサたちが頑張ってくれたおかげです」
ショウマが答えると、仲間たちは誇らしげに胸を張った。そんな自分たちを、男性はじっと見つめる。
顎に手を当てて考え込んだ後、彼は柔らかな微笑を浮かべた。
「キミのお名前を伺いたいんだが、いいかい?」
「ショウマです。ツワブキ ショウマ」
「ツワブキ……? もしかしてキミは、デポンコーポレーション社長・ツワブキ ダイゴ氏の関係者?」
「はい。ダイゴは父です。父のことを存じているのですか?」
ショウマの問いに、男性は頷き返した。そうして、何かを思い出したかのようにポンと手を叩く。
「ああ、自己紹介が遅れたね。私はレックス・トレメンデ・セクエンツィア。若輩者ではあるが、セクエンツィア財団の長を務めている者だ」
男性――レックス・トレメンデ・セクエンツィアは、自己紹介を終えると静かに微笑み返す。「よろしく頼むよ」という彼の言葉に、ショウマも笑みを浮かべて頷き返した。
会食相手とこんな場所で遭遇するとは思わなかった。ショウマはそこで、ふと気づく。時計は既に午後6時を回っており、とてもじゃないが会食に間に合いそうにない。
そのことに気づいて顔を青くしたショウマの様子から、レックスもそのことに合点がいったのだろう。何とも言えなさそうな顔をして視線を彷徨わせるショウマに微笑みかけた。
「私の方から、キミの御父上には口添えをしておくよ。レクイエム団を追い払ったキミは、立派なヒーローだからね」
レックスはそう言うなり、呻き声を漏らすポケモンたちを見つめる。
細い目の奥底に瞬く水色の瞳は、言葉に出来ぬ程の憂いを湛えている。
「レクイエム団は、ここ数年で活発に活動し始めた過激な宗教組織なんだ」
彼はポケモンたちに治療を施しながら、先程ショウマに襲い掛かってきた組織――レクイエム団について教えてくれた。
レクイエム団はコムニア地方の神話に登場する伝説のポケモンの1匹・ドミネエスに対し、特に強い信仰心を抱いているようだ。楽園を齎すと言われるポケモン――ドミネエスへの信仰を示すためなら、如何なる犠牲も厭わない。信仰を示す一環として、人やポケモンを傷つけることもあるという。
残忍卑劣な正当派マフィア・ロケット団、伝説のポケモンの力を使って世界の環境を変えようとしたエコテロリスト・マグマ団とアクア団、神話研究と科学技術のハイブリットを成した電波の集まり・ギンガ団、新興宗教団体の皮を被った独裁用組織・プラズマ団、過激テロ団体・フレア団――有名な犯罪組織と比較すると、レクイエム団は異質と言える。
『信仰を証明するためなら、何をしても構わない』という部分からして、レクイエム団の連中は“自分がやっていることは絶対正義である”と考えているのだろう。それ故、自分たちの邪魔をする人間には容赦しない。各種機関から咎められたとしても、彼等には罪悪感を抱く理由が存在しないのだ。
警察や司法関係者からの取り調べを受けても、レクイエム団の構成員には反省の色が無いのだという。逆に、取り調べをした側が「ドミネエスを侮辱した背教者」と激しく糾弾されるため、調書を作成するのは至難の業なのだとか。
大都会であるパッションシティでも、レクイエム団の下っ端がトレーナーや一般人に危害を加える事件が多発しているらしい。街の有力者であるレックスにとっても、レクイエム団の存在に頭を痛めているそうだ。閑話休題。
「ありがとうございます。それと、会食を台無しにしてしまって申し訳ありません」
「いやいや。今日は早めに戻って、ゆっくり休むんだよ」
レックスはそう言うなり、端末を起動させていた。機械音声越しではあるが、父の声が響く。
レックスとダイゴが語り合う声をBGMにして、ショウマは路地裏から空を見上げた。夜の帳が落ちてきた空には、きらきらと星が瞬いている。この闇では、誰かが潜んでいたとしても気づけないだろう。
ナッシーに向かって飛んできた矢羽の方角もまた、薄闇に覆われてしまって人影を探すことは困難だった。矢羽を撃ち放った下手人はあの周囲に潜んでいるのか、それとも、もうどこかへ去ってしまったのか。
分からないことを悩んでいても仕方がない。とりあえず今は、少女を送り届けてやらなければ。彼女がどこから来たのか、誰と会うはずだったのか、何処へ行く予定だったのかを尋ね、適切な判断を下す必要がある。
ショウマは少女へそれを訪ねようとして――ふと、気づく。少女は酷く不安そうに視線を彷徨わせていた。「何処へ行けばいいのか分からない」と言外に訴えているように、きょろきょろと周囲を見回している。
少女の手持ちであるラルトスとイーブイも、警戒する――どちらかといえば怯えの色合いが強かった――ようにして、しきりにキョロキョロと周囲を見回していた。1人と2匹とも、少女が持つ鞄が人目に触れないように心がけているように見えて仕方がない。
(……どうしたんでしょうか?)
ショウマが観察していることにすら気づかない程に、少女と少女の手持ちたちは余裕がないようだ。
憔悴したような――けれどどこか鬼気迫ったような横顔を見ていると、何だかこちらも不安になってくる。
「成程。訳ありというヤツか」
「え?」
「レックスくん。今日は弟子とこの
リーフェウスが小声で何かを呟くのを聞いた。ショウマが思わず彼の方を向けば、リーフェウスは小さく頷いてレックスへ声をかける。レックスは目を瞬かせるが、すぐに是の返事を返した。その後リーフェウスは端末を開き、誰かにメッセージを送るような動作を繰り返す。程なくして用事が片付いたらしく、端末を鞄へしまった。
「弟子99号。お前とダイゴが泊ってるホテルは?」
「『ベネディカムス・ドミノ』のラグジュアリールームです」
「……セキュリティは“それなり”か。じゃあ、俺の別荘の方が早いな」
顎に手を当てて「ふむ」と零した後、リーフェウスは再び端末を取り出した。先程同様、誰かに対してメッセージを送っているらしい。用事はすぐに片付いたのか、彼は満足げに頷いて端末を鞄にしまった。
正直な話、何が何だかついて行けない。ショウマは半ば途方に暮れたような心地になった。少女に視線を向ければ、彼女も同じ気持ちだったのだろう。困惑した様子でリーフェウスを見つめている。彼女の手持ちであるラルトスとイーブイが、何とも言えぬ顔をしてリーフェウスを見ていた。
前者は人の感情を機敏に察知すると言われるポケモンであり、後者は隠れ特性:危険予知持ちならば“ある程度の危機を察知することができる”ポケモンである。リーフェウスに敵意が無いことは分かったが、信頼に値するか判断しかねているのだろう。リーフェウスは自他ともに「人間性がトチ狂っている」と認められるような人だから。
「あの……」
「大丈夫ですよ。先生は、多方面の意味で“悪い人”ではありませんから。色々と顔も利きますし」
過激な発言が多い人物ではあるが、『犯罪者は豚箱にぶち込む』ことを信条にしている人だ。困っている人間に対して、基本きちんと手を差し伸べてくれる人物でもある。
難のある性格をしているものの、悪いようにはしないだろう。……まあ、教え子だった期間は短く、父は“リーフェウスから教わること”自体をあまりよく思っていない様子だが。
少女は手持ちたちと顔を見合わせた。やはり不安の方が先立つのであろう。――そのとき、少女の鞄が不可思議な動きをしたように見えて、ショウマは思わず目を瞬かせた。
時間にしてはほんの一瞬。見間違いかと目を凝らすが、少女が自分の鞄を抑えつけるようにして持つ方が早かった。
鞄は沈黙したまま、動くような素振りは見えない。……やはり、ショウマの見間違いだったのだろうか?
「…………」
「チグサ?」
ショウマの肩に乗っていた相棒が、何か言いたげな眼差しを向けている。視線の先には、少女が抱え込むようにして持つ鞄があった。
ミズゴロウのヒレは高性能のレーダーだ。目を使わずとも、周囲の状況を機敏にキャッチすることができる。チグサのレーダーが何を捕らえたのかは分からないが、その秘密は少女の鞄の中にあるとみて間違いないだろう。
最も、少女はチグサが反応していることにすら気づかない程追い詰められているようだ。人目につくような場所や、自分が襲われていた路地裏では安心できないのだろう。彼女を落ち着かせるためには、安全で落ち着ける場所に行くしかない。
その旨を少女に伝えれば、彼女は神妙な面持ちで頷き返した。警戒の色はまだ滲んではいるものの、ショウマやリーフェウスを信じることにしたらしい。
不信感と困惑を滲ませていた少女にしては、すんなりとショウマたちの意見に従っている。時間にして数十秒から1分程度の間に、どのような心境の変化があったのだろう?
少女が同行することに同意したことを伝えれば、リーフェウスは納得したように頷いた。「じゃあ行こうか」と告げて、彼はショウマと少女を先導する。
ショウマと少女はリーフェウスの背中を追いかけた。路地裏を出た先には、ネオンと伝統に彩られた夜の街が広がっていた。
大都会で生まれる地上の星は、空の星を消してしまう程の眩さを放っている。路地裏の闇など知らぬと言わんばかりに輝く街の様子に、どうしてか、ショウマは一抹の憂いを抱いた。
★★
高層ビル群の一角、その屋上。
綺麗に剪定されたトピアリーや、色とりどりの花や木の実が生い茂る屋上庭園。格調高い洋風の庭園のすぐ隣には、渋さを全開にした盆栽の鉢植えが整列していた。
街の特徴――煌びやかな大都会――と、この建物の立地条件――大通りに面している――ゆえに、夜の帳が降りても、この屋上は非常に明るい。電灯の類が不要な程だ。
地上から数百メートル高いビルの屋上では、びょうびょうと風が吹き荒んでいる。佇んでいるだけで、髪やネクタイが弄ばれてしまうくらいだ。ネクタイを固定する役割を担うはずのネクタイピンも、正直な話、あまり役に立たない。
双眼鏡越しから、真下の大通りや路地裏を見下ろす。表通りには犇めく程の人波が広がり、裏通りではぽつぽつと人の姿が伺える。髪が風に弄ばれている人間は殆ど見かけない。地上では「穏やかな風が吹いている」という認識しかないのだろう。
立ち位置が変われば、自身を取り巻く環境はがらりと変わってしまう。それが己の意図したことであろうと、自身が望んだことでは無かろうと、直面してしまったら最後だ。適宜対応して乗り越えるかやり過ごすかするしかない。
導も無ければ行く当てもない、無い無い尽くしのまま放り出される――人生とはそういうものだ。他者を放り出す片棒を担いだ自分にできることは、標なく迷い歩く人物に対して、ささやかながらも灯りを燈してやることのみ。
そんなことを考えていたら、背後に感じ慣れた気配を察知する。
振り返った先では、1羽の鳥ポケモンが止まり木に着地したところだった。
「――ああ、おかえり」
一仕事を終えて戻ってきた相棒を労いながら、再び眼下へ視線を向ける。双眼鏡越しに見えたのは、少女を先導するようにして大通りを行く少年と青年の姿だ。
少年が何者かは知らないが、彼等を先導している人間が
思わず眉間に皺が寄ったが、身分がぎっちり保証されている分、青年の存在は“マシな方”だと言えた。同時に、青年と親し気に言葉を交わしている様子からして、少年の方も“悪い奴”ではないのだろう。レベル差があるポケモンとの戦いでも、総力戦で勝利をもぎ取る実力がある。
現時点での評価は“不安が残る”ものの、ああいう手合いは総じて“化ける”と知っていた。
特に、あの青年と関わりがある人間の大部分が、“後に才能を開花させ、得意分野で活躍している”と専らの評判であった。
件の青年の審美眼がどれ程のものか、自分も間近で感じたことがあるためだ。当時のことを思い出し、ため息が漏れる。
『■■■■』
――幸せだった時間があった。
微笑む少女の姿は今でも色あせない。ラークスパーの花は、今日も綺麗に咲いている。その季節が終わるまで、この庭園に咲き続けることだろう。
けれどもう、その花を慈しむであろう少女は
「――――」
相棒が心配そうにこちらを見つめる。胸元を撫でてやれば、彼は気持ちよさそうに表情を緩ませた。
けれど、「そんなことで誤魔化されはしないぞ」と言いたげな眼差しを向けてくる。
咎めるような視線に苦笑しながら、相棒を真正面から見返した。祈るようにして希う。
「頼むぞ」
自分が行く道が、茨や荒野のような危険地帯であることを知っている。並大抵の道ではないことを知っている。傷つき倒れても、報われる可能性が一切保障されないことも分かっていた。いつの日か、自分という存在がお役御免になることだって承知の上だ。
リスクばかりが高すぎて、見返りなんてあれば御の字。いや、実質的には「見返りなど皆無である」と言い切っても間違いではない。効率から見ても、要領から見ても、手を出さない方が無難だ。――だとしても、自分には
多くのことを天秤にかけて、相棒たちすら巻き込んでも、成さねばならぬと決めたのだ。責務であり、使命であり、個人的な祈りであり、個人的な願いである。
辿り着く果てが地獄なのか、それとも天国なのか――現時点では一切不明だ。そして何より、“果てが何処に辿り着くのか分からない”のは
他人の今後も、自分が行く道に懸かっている。自分1人が破滅する程度なら特段問題にはならないが、該当者の未来が閉ざされてしまうことだけは、何としても阻止しなくては。
特に今回は、自分の人生の中で一番重要な案件だ。双方共に無茶を張り通す必用だってある。――命を懸ける必要だって、出てくるだろう。
「……悪いが、付き合ってくれ」
暫しこちらを見つめていた相棒だったが、彼も腹をくくってくれたらしい。「任せろ」と言わんばかりに頷き返した。……完全に納得したわけではなさそうだが。
彼は翼でぐりぐりと胸元をつついてこちらを見上げた。憂いに満ちた眼差しは、先陣切って進む主のことを案じてくれているが故なのか。よくできた相棒だ。
伊達に12年間、共に苦楽を乗り越えてきたわけではない。その事実を噛みしめながら、双眼鏡を片付ける。
丁度そのタイミングで、出入り口の扉から音が聞こえてきた。鍵のかかったドアノブを無理矢理回そうと格闘しているらしく、ガチャガチャと軋んだ音が響く。時折、扉を平手かグーで叩く音も聞こえてきた。男性ががなり立てる声も混じり始める。面倒な手合いが来たらしい。
大きくため息をついて髪を掻き、「はいはーい。あと1時間したら行きまーす」と適当に返事する。途端に男性の声がうるさくなった。大至急出てくるようにと彼は吼えるが、自分側にだって事情があるのだ。盛大に荒れる男性だって、研究中に踏み込むと文句と嫌味を量産する癖に。
「今から片付けるから、終わるのは10分後かなぁ。その後に来るから、あと15分くらい時間くれない?」
「15分あれば来るんだな!?」
「くれないならサボるけど」
扉の向こうの男性が舌打ちした。多方面の物事を天秤にかけた結果、15分くれてやる方がいいと判断したのだろう。男は一方的に時間と集合場所を告げて、そのまま去ってしまった。
片付けるものなど無いのだが、見られて不味いものが無いわけではない。
それらの処理を適宜済ませた後、のんびりとした足取りで屋上から立ち去った。