Communio -In Paradisum-   作:白鷺 葵

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1-5小節.財団職員との邂逅

 セクエンツィア財団の本部には、大規模な医療フロアとリハビリ用の保護区画がある。ここに勤める職員――その大部分が、医師や看護師の資格持ちだ。白衣に身を包んだ老若男女と、多くのポケモンたちが行き交っていた。

 財団パンフレットに記載されていた説明を確認すると、『治療やリハビリの進行具合によっては、保護区を経てから野生に返されることになる』らしい。彼らはいずれ、治療を終えたら野生へと戻るのだろう。

 

 

「大きな医療フロアですね……」

 

 

 サクラがきょろきょろとフロアを見回す。そんな彼女の姿を見守るような心地で、ショウマはゆるりと目を細めた。

 

 彼女は訳の分からぬ宗教組織に攫われ、ずっと研究所に閉じ込められてきた。それだけではなく、実験の後遺症によって記憶の大半を失くしている。見るものすべてが物珍しく感じるのは、当然のことなのかもしれない。

 正直な話、サクラがこうして驚いてくれなかったら、『財団の医療フロアできょろきょろしていた』のはショウマの方だったと思う。誰かが感情を露わにしているのを見ていると、見ている側の方が落ち着く――なんて話を聞いたことがあるが、間違いではないようだ。

 人の出入りが多いためか、ピアノは常にびくびくしている。臆病な性格ゆえに、人やポケモンの出入りが多い場所は慣れないらしい。メロディやチグサの影に隠れてしまった。2匹は顔を見合わせた後、ピアノを安心させようと思ったようだ。しきりに声をかけていた。

 

 保護区は財団本部だけでなく、この街の郊外や、各地にある関連施設と併設している。

 《奉納の巡業》で各地を巡るなら、関連施設に立ち寄ることもあるかもしれない。

 

 

「――うん、大分治ってきたね!」

 

 

 そう言って微笑んだのは、白衣を見に纏った少女だった。陽光の日差しを思わせるような金色の髪をショートボブに切り揃え、黒縁の眼鏡をかけている。

 ショウマと同年代でポケモンドクターの資格を有しているとは、彼女は素晴らしい才能を持っていたに違いない。その上で、桁外れの努力を続けてきたのだろう。

 少女は満面の笑みを浮かべ、自分の患者であるピジョットの頭を撫でていた。ピジョットも少女のことを深く信頼しているのだろう。暴れる様子は一切無い。

 

 翼に巻かれた包帯が目を惹く。だが、不思議なことに、ピジョットからは痛々しさを全然感じなかった。寧ろ、天へと帰ろうとする強い意欲をぎらつかせている。ドクターの少女は、ピジョットにとって、“自分が再び「あるべき場所へ帰る」という目標に協力してくれる戦友”という認識なのかもしれない。

 少女とピジョットの間に結ばれた信頼関係は、第3者でしかないショウマにも伝わってきた。ポケモントレーナーとポケモンの絆が注目されることが多いけれど、野生ポケモンと普通の人間との絆だって、素晴らしいものは沢山ある。絆の形は人とポケモンによって様々なのだ。――こういう絆だって、ありだろう。

 

 ピジョットの怪我が回復に向かっていることを、少女は我がことのように喜んでいた。それを見ていたのは、白衣を着た青年である。三つ編みに結った銀色の髪を揺らしながら、彼は少女に忠告した。

 

 

「リオ。リハビリの進度が好調だからといって、あまり無理をさせるものじゃない。焦りは却って悪化に繋がることだってある」

 

「分かりました、アマリ先生。――ピジョット、今日のリハビリは此処まで」

 

「ピジョッ!」

 

 

 少女――コノハナ リオは、青年――アマリの言葉に頷き返した。ピジョットは一瞬不満そうな顔をしてアマリを見たが、粛々とした様子で頷き返す。

 

 「もう少しで野生に戻れるよ」と笑うリオに従うようにして、ピジョットは止まり木へと降り立った。大人しくしているピジョットごと、リオは止まり木が置かれた台車を引いて去っていく。リオの背中を見送ったアマリは、次のポケモンを治療するために踵を返した。

 アマリとリオは精力的に駆け回り、ポケモンたちの治療やリハビリのサポートを行っている。ピジョットを始めとした数多のポケモンたちも、アマリとリオを信頼しているようで、比較的彼らの指示に従っていた。

 

 次にアマリが向かった先にいたのはオタチだ。素人目からは、オタチには目立った外傷は見当たらない。

 しかし、アマリが診ているオタチは、オタチの特徴――尻尾を使って立ち上がることができないようだ。

 先程から何度も立ち上がろうと試みているが、すぐによろめいて倒れこんでしまう。オタチの表情が見る見るうちに萎びていく。

 

 

「怪我は完治したが、あとは本人次第だな」

 

「おたー……」

 

 

 アマリは淡々とした口調で事実を告げる。オタチは自信を喪失しているのか、悲しそうな顔をして俯いてしまった。

 

 

「……心配するな。俺たちが、お前がちゃんと立てるようになるまでサポートしてやる」

 

「おたちー!」

 

 

 明朗快活で表情をころころ変化させるリオと違い、アマリは不愛想で感情の起伏が平坦らしい。だが、オタチを撫でる手つきとオタチを励ます声は酷く優しかった。

 彼の優しさを機敏に感じ取ったのだろう。オタチは表情を明るくし、そのまま主治医にじゃれついた。アマリは無表情のまま――けれど、オタチのじゃれつきを受け入れていた。

 

 

「あれが、ポケモンドクター……。ポケモンの治療に全力を尽くす、ポケモンのお医者さんなんですね」

 

「凄いですよね。僕らと同年代でも、ああやって活躍している人がいるんですから」

 

 

 サクラが感嘆の息を漏らす。ショウマも頷き、オタチのリハビリに付き合うアマリの背中を見つめた。

 彼は暫しオタチのリハビリに付き合った後、オタチと一緒に来た道を戻っていった。今日のリハビリは終了ということだろうか。

 アマリの背中を見送った後、ショウマはマルチナビを起動した。財団本部のフロアがホログラムで表示される。

 

 

「次は何を見に行きますか?」

 

「ショウマさんの見たい場所で構いませんよ」

 

「僕も、サクラさんの見たい場所で構いません。サクラさんが楽しそうにしているのを見ていると、僕も楽しいなって思いますから」

 

「えっ」

 

「えっ」

 

 

 ――何だかよく分からないが、変な空気が流れる。

 

 ショウマは素直に自分の考えを告げただけだ。サクラが顔を真っ赤にして狼狽するような、彼女を困らせるような意図を持たせたつもりは一切無い。

 視線を彷徨わせるサクラの姿に触発されるようにして、ショウマの体温もかあっと上昇する。鞄の中に隠れていたエテルナの双瞼がぎらついたように感じたのは気のせいか。

 

 

(な、なんか気まずい……)

 

 

 長年放置されたブリキ人形のように、自分もサクラも動きが鈍い。ぎこぎこと軋んだ音が聞こえてきそうなくらいだ。

 この状況を打破するために何をすればいいのか、まったく思い浮かばなかった。こんなときに限って、チグサたちも沈黙している。

 助けを求めるように視線を向ければ、相棒はじっとりとした眼差しでこちらを見上げていた。……ショウマが咎められていることは明らかだ。

 

 どうしたものかと悩んでいたとき、不意に、自分たちの手元に影がかかった。ホログラムが一際明るく表示される。誰かが自分たちの真正面に立ったらしい。

 

 ショウマが顔を上げると、そこには1羽のポケモンがいた。フードを被り、眼鏡をかけたような模様が刻まれた梟のようなポケモン――ジュナイパー。アローラから来ていた客人が連れていたことがあり、何度か目にしたことがある。

 ジュナイパーは無言のまま、じっとショウマとサクラを見つめている。チグサやメロディが迎撃態勢を取る様子が無く、ピアノは怯えながらも逃げる動作をしないあたり、このジュナイパーにはこちらへ対する敵意が無いのだろう。

 

 

「え、ええと……何か御用ですか?」

 

 

 サクラがおずおずとジュナイパーへ声をかける。ジュナイパーは声の主であるサクラへ向き直ると、彼女を凝視した。そのまま、彼は暫し沈黙する。

 

 

(……医療フロアで治療を受けているポケモン、か? ――いや、違う。医療フロア関係者はジュナイパーに近寄ってこないし、本人も怪我をした様子はない。……じゃあ、何故、ジュナイパーは此処から動こうとしないんだろう?)

 

 

 微動だにしなくなったジュナイパーを観察しつつ、ショウマは思わず首を傾げた。サクラもショウマと同じく、困惑顔になりつつも、ジュナイパーをまじまじと見返している。

 

 

「もしかして、迷子ですか?」

 

「じゅぱッ!?」

 

 

 サクラの指摘に対し、ジュナイパーは大きく目を見開いた。ジュナイパーにとって、サクラから“迷子”呼ばわりされることは想定外だったのだろう。

 元々ジュナイパーは“普段は冷静沈着で落ち着いているが、想定外の事態に直面すると、派手に取り乱してしまう”傾向があるらしい。

 彼の挙動を見ていたサクラは“ジュナイパーは迷子扱いされたくないようだ”と察したらしく、慌てた様子で「迷子じゃないんですね!? ごめんなさい」と謝罪していた。

 

 迷子疑惑が晴れたことで、ジュナイパーは漸く落ち着きを取り戻したらしい。不名誉な疑惑から解放されたためか、彼は大仰にため息をついた。仕切り直しでもするかのように、彼はフードのようになっている紐部分を引っ張って顔を隠し、再び顔を出してこちらを見返す。

 

 ジュナイパーはゆるりと目を細めて、小さく鳴いた。先程見かけたドクターたちと同じ、優しい眼差し。

 けれどその奥底には、ドクターたちとは方向性の違う感情が滲んでいる。――その正体を探ろうとしたショウマだったが、それを掴むことは叶わなかった。

 

 

「――ロビンフッド!」

 

 

 背後から響いた声に振り返れば、白衣を身に纏った青年が、ジュナイパーの元へ駆け寄ってきたところだった。

 

 金髪の髪はぐちゃぐちゃに乱れており、青い縁の眼鏡が傾いた。色白の顔故か、目元の隈とやつれ具合が異様に強調されている。足取りはややおぼつかない。首元にぶら下がっていたネームプレートが斜めに傾いた。そこには、綺麗な筆記体で彼の名前が記されている。

 青年――ヘンヴィルを視界に入れるや否や、ジュナイパー――ロビンフッドはあからさまに嫌そうな顔をした。彼がもし人語を介していたなら、「こっちくんな」と吐き捨てそうな顔をしている。眉間の皺が深くなったのは、ショウマの見間違いではないようだ。

 

 

「答えてくれないかな、ロビンフッド。お前の主は、一体どこに行ったんだい!?」

 

 

 ヘンヴィルの問いかけに対し、ロビンフッドはぷいっとそっぽを向いた。小さく鼻を鳴らしたあたり、ヘンヴィルとロビンフッドの関係は良好ではないかもしれない。

 直属のトレーナーとポケモンではないことも影響しているのだろうが、ロビンフッドの親とヘンヴィルの関係性も似たような調子なのだろう。

 言い募るヘンヴィルとそっぽを向くロビンフッドのやり取りを聞く限り、『ロビンフッドの主がヘンヴィルに仕事を押し付けて、そのまま何処かへ行ってしまった』ようだ。

 

 今にも卒倒してしまいそうなヘンヴィルのことなど気にも留めず、ロビンフッドは沈黙を続けている。

 彼の態度に業を煮やしたのか、ヘンヴィルの表情がどんどん歪んできた。

 

 疲労とストレスの影響なのか、彼の表情に怨念めいた気配が滲み始める。

 

 

「いい加減にしろよお前ェ! こっちはお前のトレーナーのせいで、三日三晩寝てないんだよ! ――案内してくれないかなぁ、チドリの元へ!」

 

「――じゅぱっ」

 

 

 ヘンヴィルが伸ばした手を振り払い、ロビンフッドは即座に矢羽をつがえて撃ち放った。矢羽はヘンヴィルの影に突き刺さり、鋭い闇を放つ。

 次の瞬間、ヘンヴィルはその場で盛大に転んでしまった。見れば、矢羽はヘンヴィルの影を縫い付けている。

 

 彼が動けなくなってしまったのは、縫い付けられた影の伸びる距離によって動きが封じられてしまったためだろう。

 

 

「<影縫い>か!? ――おい、待て! 待てったら!」

 

 

 <影縫い>という技は、“攻撃を喰らった相手を入れ替え不能にする”効果を持っている。応用すれば、“追っ手をこの場に縫い付けている間に逃走する”なんて芸当もできるらしい。この技は、ジュナイパーのみが習得できる固有技だ。

 ロビンフッドはヘンヴィルの動きを影で縫い付けると、そのまま一目散に空へと逃走する。<影縫い>の効果が切れたときにはもう、ロビンフッドの姿は見えなくなってしまった。ヘンヴィルは彼がいなくなった方角を見て、がっくりと膝をついた。

 深々としたため息が、尾を引くようにしてこの場に響き渡る。徹夜明けでフラフラしていた青年医師の背中は、先程の鬼気迫った様子が一転し、悲哀を嘆き叫んでいるように見えた。……その姿が、祖父やリーフェウスにやり込められた後の父と重なる。

 

 

「あのー……」

 

「……なんだい?」

 

「手伝いましょうか? その人を探すの」

 

 

 ショウマの申し出を聞いた瞬間、ヘンヴィルはカッと目を見開いた。

 

 

「いいのかい!? でもキミ、急ぎの用事とかあるんじゃないか?」

 

「はい。僕たち、レックスさんに《奉納の巡業》の手続きをしてもらって頂いているので――」

 

 

 「レックスさんの手続きが終わるまで待つ必要があり、その間は時間があるから大丈夫」と言い終わるより先に、ヘンヴィルがショウマの手を握る方が早かった。

 救いの神でも見つけたかのように、彼は表情を輝かせる。彼の目に涙の幕が張っているように見えたのは、ショウマの気のせいだったのだろうか?

 

 

「ありがとう! 本当に助かるよ! キミ、名前は?」

 

「ショウマです。ツワブキ ショウマ」

 

「ショウマくん……ありがとう! ……ああそうだ、自己紹介がまだだったね! 僕はヘンヴィル、セクエンツィア財団で働いている職員で医者なんだ」

 

 

 ヘンヴィルはショウマに頭を下げ、軽く自己紹介をした。そのまま用件に入った彼は、ショウマのマルチナビにデータを転送してきた。

 

 表示されたのは、ヘンヴィルが必死に探し回っている財団職員の顔写真と簡易的なプロフィールである。銀髪の髪をウルフカットにし、仮面で目元を覆った青年だ。その表情は、どことなく怠惰な印象を受ける。職員の名前は、ヒエン チドリというらしい。

 ヘンヴィルは頭を何度も下げた後、フラフラとした足取りで、財団内へと姿を消した。あの様子からして、探す当ては無いのだろう。虱潰しに探す間に、ヘンヴィルが力尽きてしまわなければいいのだが。ショウマは半ば不安を抱きながら、彼の背中を見送る。

 財団を見て回る予定が大幅に変わったことを、サクラに伝えなくては――ショウマが振り返ったとき、サクラは何かを拾い上げて観察しているところだった。彼女が確認している物体は、蛍光灯の光を反射してキラキラ輝いている。

 

 

「どうかしましたか?」

 

「さっきのジュナイパーが落としたのを拾ったんです。どうやら、ネクタイピンみたいなんですけど……」

 

 

 サクラはそう言って、ショウマにネクタイピンを差し出した。鈴蘭を象ったネクタイピンは、所々メッキが剥げていたり、細かな傷がついていたりしていてボロボロだ。

 それでもネクタイピンを持ち歩いていたあたり、持ち主にとってこれは大切なものだったに違いない。……ロビンフッドが持っていたというのは、少し気にかかるが。

 

 ヘンヴィルに頼まれた財団職員を探しながら、このネクタイピンの持ち主を探して届ける――これからの行動方針を纏めると、以上の通りだ。

 

 ネクタイピンは受付で「財団職員の落とし物である」と告げれば、それ関連の部署が引き取ってくれるだろう。そうなると、探すべき相手は“ヘンヴィルから頼まれた財団職員”――ヒエン チドリだけとなる。早速行動を起こそうとして受付へと視線を向ける。受付嬢は、丁度誰かと話をしているところだった。

 話し込んでいるのは、女性と少女の2人連れだ。親子と言うには年齢が近く、姉妹と言うには年が離れすぎている。女性や少女の服には財団職員であることを示すマークが刻まれていた。……明らかにショウマよりも年下である少女も、財団職員として立派に仕事をこなしているらしい。

 

 

「お帰りなさい、カノアさん。イノちゃんもお疲れ様」

 

 

 受付嬢に対し、女性――カノアは静かに目を細めた。腰まで伸びた茶色の髪をさらりと払いながら、受付嬢に挨拶を返す。緑色のローブと栗色のワンピースが翻った。

 

 

「これから私は資料の纏め作業に入るから、暫く研究室で寝泊まりする予定なの。手続きお願いできる?」

 

「畏まりました」

 

 

 受付嬢は手続きしようと手を動かし――その手を一端留める。彼女の視線は、カノアの隣に佇む少女へと向けられた。

 薄い桜色を帯びた銀の髪には、天使の輪と呼ばれる光の輪が煌めいている。桜色の真ん丸な瞳は、受付嬢の女性を真っ直ぐに見返していた。

 白いフリルブラウスと灰色のスカート、黒いタイツに白いブーツ。少女の格好を一言で表すなら、“お人形”と称した方がいいだろうか。

 

 

「ところで、イノちゃんはこれからどうするの?」

 

「カノアお姉さんのお手伝いをするの。ハガネお姉さんが『ドミネエスのお勉強で忙しい』って言ってたから、それが終わるまで、私が代わりに頑張るのよ」

 

 

 少女――イノはにっこりと微笑んだ。カノアはイノの頭を優しく撫でる。受付嬢は営業スマイルから破顔し、「イノちゃんは偉いね」と褒め称えていた。イノは照れ臭そうにはにかみつつ、カノアの隣に並んでいた。「それに比べて」とぼやきながら、受付嬢はタブレット端末を操作する。

 

 

「チドリさんは相変らず、サボってばっかりなんです。さっきも、ヘンヴィル先生がフラフラになりながら探し回ってたんですよね」

 

 

 「真面目に勤務してさえくれれば、何も問題ないんですけど」と、受付嬢はため息をついた。仕事の出来が良いため、職員たちは彼に対し、迂闊に文句が言えないらしい。

 カノアは女性の愚痴に耳を傾けていたが、視線は自分が手に入れた資料に向けられている。サボり魔の話題については、あまり関心が無さそうだ。

 

 受付嬢がタブレットを操作し終えたのを見計らい、ショウマとサクラは受付嬢の元へと向かった。「落とし物なんです」と言い、鈴蘭のネクタイピンを差し出す。

 

 次の瞬間、誰かに服の袖を引っ張られた。その先に視線を向けると、きょろきょろと周囲を見渡すイノ。

 彼女はぐいぐいとショウマの手を引く。桜色の瞳は、真剣そのものだった。

 

 

「こっちに来て。誰にも言えない、秘密の約束なの。大切なことなの」

 

 

 真摯な顔をした幼子から「お願い」と言われて、断れるような人間はいるだろうか。相当酷い奴でない限りは、無碍にすることなどできないだろう。ショウマはサクラに「少し待っててください」と合図し、イノの言葉に従った。

 イノに手を引かれ、連れてこられた先は、人気(ひとけ)のない談話室だった。イノはきょろきょろと周囲を見回し、誰もいないことを確認する。彼女は安心したように微笑み、ショウマの方に向き直った。

 

 

「ええと……」

 

「――そのネクタイピンの持ち主は今、屋上にいるわ」

 

 

 イノは無邪気に笑いながら、話を聞かせてくれた。

 

 

「チドリお兄さん、お仕事のときはいつもそのネクタイピンをしているのよ。『今日は屋上で秘密のお仕事があるから、誰にも言わないで』って頼まれていたの」

 

「……秘密なんですよね。僕に話して大丈夫なんですか?」

 

「うん! お兄さんから、『鈴蘭のネクタイピンを持っている人を見かけたら、『持ち主は屋上にいる』と伝えてほしい』とも頼まれたの」

 

 

 「お仕事、ちゃんと果たしたわ!」と、イノは胸を張った。彼女に動物の耳と尻尾が見えたような気がしたのは、ショウマの気のせいではなさそうだ。頭を撫でたくなる衝動を抑えつつ、ショウマはイノに労いの言葉をかけてやる。イノは途端に上機嫌になったようで、鼻歌混じりに談話室から飛び出していった。

 ショウマも彼女の後ろを追いかけ、受付の前へ戻ってきた。サクラとカノアは、ショウマとイノが戻ってくるまで律儀に待っていてくれたらしい。「カノアお姉さん、お待たせ!」と駆け寄ってきたイノの頭を撫でながら、カノアは踵を返した。ドミネエスの話題で盛り上がりながら、カノアとイノはエレベーターへと去っていく。

 仲睦まじい2人の背中を見送った後、ショウマはサクラへイノの話を手短に伝える。“ネクタイピンの持ち主はヒエン チドリで、彼は今屋上にいる”――ならば、自分たちが取るべき行動は1つだ。ショウマとサクラは顔を見合わせた後、エレベーターへと向かった。

 

 

 

★★

 

 

 

「うぅぅうぅううぅ~……」

 

 

 眼前に散らばるのは、コムニア地方の神話や宗教学に関連するテキストの山。ページをめくるだけで目が滑る。終いには酷い頭痛に悩まされる始末だ。

 

 

「うぅぅうぅううぅ~……」

 

 

 自分の手持ちポケモンたちは、それぞれが好きな方向を向いて天を仰いでいる。

 主が苦しんでいるというのに、どうして助け舟の1つも出してくれないんだろう。

 

 

『自分のポケモンに使われるとは、まだまだだな』

 

「うがーっ!」

 

 

 自分――アンコ・マツブシが家を飛び出す原因となった人物――父親であるハザマ・マツブシの言葉を思い出し、腹立たしさをそのまま表出させた。ハザマはこの場にいないのに、本人から面と向かって言い放たれたような気分だ。手あたり次第八つ当たりしてやりたい衝動に駆られたが、アンコは歯を食いしばってそれを堪える。

 

 

(駄目だ……! この本は、カノアさんに無理言って貸してもらった貴重な蔵書なんだ……!)

 

 

 投げ捨てようとした本を閉じ、アンコはなるべく丁寧な手つきで本を置く。もし本に傷や汚れ、落丁なんかが起きてしまったら――悲しそうに目を伏せる持ち主の姿を幻視し、爆発しそうになる感情に待ったをかけた。そのまま深々と深呼吸する。

 正直な話、ちょっと無理して難しめの本を借りてきた。『何も知らない』と言うのは、セクエンツィア財団職員という()()()()()()()()()()()()にいるアンコにとって、重大な問題だからだ。下手をすれば――大げさではないが――命に係わりかねない。

 アンコはうんうん唸りながら、古い表紙の本に手を伸ばす。最初のページから、細かな文字が隙間なく敷き詰められていた。挿絵や図の1つや2つさえあれば、分かりやすく読めたのかもしれない。だが、この本のジャンルは宗教と考古学のハイブリット。しかも専門家向けだ。

 

 アンコは深々とため息をつき、本を閉じた。これで、カノアから借りてきた蔵書のすべてに“数ページ読み進めただけで挫折した”ことになる。

 自分が不甲斐ないせいか、もしくは、専門書が専門分野を突き詰めすぎて凡人を振るい落としにかかっているせいか。……恐らく、その複合だろう。

 

 

「ダメだ……。全っ然分かんねぇ……!」

 

 

 もうお手上げである。本当にもう、どうしたらいいのかさっぱり分からない。

 

 ヤドランが何か言いたげにこちらを見ている。彼の手には、『コムニアしんわ』と書かれた絵本が抱えられていた。表紙を見る限り、幼児向けの絵本である。アンコの年齢は13歳。あの絵本は、10歳未満に読み聞かせることを想定したものだ。アンコは絵本を叩き落としたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。

 昔から、コムニアの神話に関する本には一切興味が無かった。どちらかというと、“忍びの秘術”や“忍者が活躍した冒険活劇”に関する本ばかり読んでいたように思う。後は、父や父の門下生たちが行う修練に参加していた。――ドミネエスに関する知識に触れる機会を、自ら潰していたように感じたのは気のせいではない。

 

 

(……別に、宗教だ神話だなんて、知らなくても生きていけたし……)

 

 

 そこまで考えて、アンコは首を振った。その考えのツケを支払われるような形で、アンコは今この瞬間困り果てているのだ。

 先輩の職員から“財団職員としての常識を疑われた”ことがすべての始まりだった。“彼等の常識”という概念に疑いを持てたのは、信仰に疎かったのも理由だろう。

 付け焼刃でもいいから、財団職員としての体裁を整えるのは急務だった。だが、幼児向けの絵本を読むと言うのは、アンコのプライドが許さない。

 

 アンコは意を決して振り返った。

 

 自分が座っている場所は、藤の蔦が絡みつくことで出来上がった木陰とテーブルスペース。向こう側には、丁寧に手入れされた空中庭園が広がっている。切り揃えられたトピアリーや、美しく咲き誇るラークスパーの花が目を惹いた。

 庭園の左手前には、斜めに置かれた盆栽棚。その上には、中くらいの盆栽が幾つも並べられている。針金で矯正されているものもあれば、丸禿げ一歩手前まで鋏を入れられたものもあった。……盆栽に疎いアンコには、素晴らしさなど一切分からないが。

 

 

「~♪ ~♪ ~♪」

 

 

 盆栽棚の方角から、やたらといい声が響く。巷で有名な空耳歌詞だ。彼が口ずさんでいるのはラーメンに関する歌だが、本来はハイウェイに関する由緒正しい歌らしい。

 ……らしいと言っても、“言っていた本人が『ちゃらんぽらん』なタイプ”なので、本当に正しいことを言っているのかは分からないが。閑話休題。

 

 

「なあなあ、チドリのおっちゃん」

 

「ん~?」

 

 

 アンコが声をかけた途端、奇妙な空耳歌詞はぴたりと止んだ。

 

 間の抜けた声で返事をしたのは、剪定鋏を持ったスーツ姿の青年――ヒエン チドリだった。彼は銀の髪をウルフカットに整え、目元を覆う仮面をつけている。仮面の隙間から覗く紫苑の瞳は、アンコをしっかりと映し出していた。

 テーブルスペースに積み上げられた蔵書の山。それらがすべて閉じられていたことから、チドリはすべてを察した様子だった。珍しく弧を描いていた口元が、しょっぱいものを食べたように口元を結ぶ。残念なものを見るような眼差しだ。

 それでも、チドリはアンコを馬鹿にするような真似はしない。アンコが何かを言うまで、チドリは沈黙を保っていた。剪定鋏が枝を切る音と、吹き抜ける風の音だけがこの場に響き渡る。アンコは暫しそれに甘んじていたが、口を開くことにした。

 

 

「結局、ドミネエスって何なんだ? カノアさんから借りた本を読んでも、全っ然分からねえんだ」

 

「……そりゃあお前、カノアが読んでる本はガッチガチの学術系か宗教系、考古学系の専門書だぞ。基礎基本をすっ飛ばして、いきなり応用編に挑戦してるようなもんだ」

 

 

 「無茶が過ぎる」とチドリは語る。だが、『無茶をしてでも、付け焼刃でもいいから、ドミネエス関係の知識を持っていた方がいい』と勧めてきたのは、目の前で頭をがしがし掻き続けるこの男なのだ。矛盾が過ぎるではないか。

 恐らく本人もそれを理解しているのだろう。剪定の手を留め、鋏を棚に置いて、チドリは考え込むように顎に手を当てた。少し悩んだ後、チドリは盆栽棚に背を向けた。彼の目的地は、空中庭園に併設した小さなプレハブ小屋である。

 

 程なくして出てきた彼の手には、持ち運びできるサイズのホワイトボードとマーカーペン一式、コムニアで一番有名な菓子店――『ホーリーグレイル』のロゴが刻まれた箱、その辺の自販機で購入してきたと思しきサイコソーダが抱えられていた。

 

 アンコが積み上げた蔵書を丁寧に片付け、箱から菓子を並べる。サクサクのクッキー生地が特徴的なシュークリームがお目見えし、アンコは思わず感嘆の声を漏らした。

 手持ちたちはお菓子の気配を目敏く察知したようで、我先にとやって来た。チドリはそれも察知していたようで、ポケモン用のお菓子も並べていく。

 ヤドランも、フーディンも、ヤドキングも、自分の好きな菓子を手に取ってかぶりついた。もし彼らが人間の言葉を話せたなら、「うめえうめえ」と言っているに違いない。

 

 

「沢山考えると疲れるからな。その分、少し休憩を入れた方が捗るもんだ」

 

「すげーやおっちゃん。財団一のサボリ魔が言うと、全く違う意味に聞こえるな!」

 

「おうハガネ。シュークリーム返せ」

 

「やだよ!」

 

 

 アンコは自分の取ったシュークリームを死守しつつ、フルフェイス式のヘルメットを口元だけ開け、一気に頬張った。甘酸っぱい苺の味が口の中に広がる。頭を殴られ続けたような痛みは、あっという間に引いていった。

 

 ハガネというのは、アンコ・マツブシが財団職員になった際に名乗ることになった偽名だ。身の安全を確保するための措置である。

 このことを知っているのは、今この場でシュークリームを頬張るアンコとチドリだけだ。閑話休題。

 

 

「とりあえず、今のお前は、必要最低限の基礎知識を把握することが最優先だ。ポイントさえ押さえておけば、何かあっても『少々不勉強なだけ』でゴリ押せる」

 

「経験者は語るってヤツ?」

 

「残りのシュークリームは全部俺の腹に納めよう」

 

 

 チドリは箱を抱えて背を向ける。

 アンコは慌てて声を上げた。

 

 

「待った待った! おっちゃん、12個、1人で食えんのかよ!?」

 

「食おうと思えば食える」

 

「真顔で宣言しやがった……!」

 

「真面目に話を聞くなら、あと何個か分けるけど?」

 

「分かった分かった! もう茶々入れないから!!」

 

 

 アンコの答えを聞いて満足したのだろう。チドリはこちらに向き直り、箱をテーブルの上に置き直した。

 カスタードクリームがぎっしり詰まったシュークリームに舌鼓を打ちつつ、アンコはチドリの講義に耳を傾ける。

 

 

「ドミネエスというポケモンは、コムニア地方では“伝説のポケモン”として崇められている存在だ」

 

 

 チドリはホワイトボードに文字を書き込んでいく。講義内容と文字内容を確認しつつ、アンコはサイコソーダに口をつけた。

 

 

「神話によると、ドミネエスは『世界を楽園に導く』力を有するポケモンとされる」

 

「『楽園に導く』ったって、具体的にどうするんだよ?」

 

「信仰系の書物と神話系の書物を要約して言うと、“大災害や大飢饉で荒れ果て、不毛に等しい状態になったコムニアの大地を、命と自然溢れる豊穣の地へ変貌させた”ことが由来とされている。能力的によく似ているポケモンは、カロス地方のゼルネアスやアローラ地方のカプ・テテフってところか」

 

 

 チドリはホワイトボードに文字を書き綴った。アンコがカロスやアローラの神話を知らない可能性も考慮して、双方の神話を簡易的に纏めてくれたらしい。

 子ども扱いするなと怒りたいのだが、実際そうなので黙るしかなかった。自国の神話に興味が無いのだ。他国の神話への興味なんて、もっと無いに決まっている。

 

 

「ゼルネアスは生命力を活性化させる力を持ち、ソイツからエネルギーを与えられれば、大地は緑溢れる豊かな大地へ変わる。人やポケモンに至っては、与えられる量によっては不老不死になることもできるワケだ。3000年生きたと言われるカロスの王・AZは、最初はゼルネアスの力を欲していたと聞く。……結局、イベルタルの直談判を受け、そっちの力を応用したらしいがな。不老不死はその副産物だと言われている」

 

「狙ってできた芸当って訳じゃないんだな。じゃあ、カプ・テテフは?」

 

「カプ・テテフの場合、大地に対して働きかける要素は無いが、人やポケモンの生命力に働きかけることはできるぞ。ヤツがばら撒く鱗粉を浴びると、人やポケモンはたちまち元気になる。だが、あまり浴びすぎると生命力が活性化しすぎて逆に死を招く。『カプ・テテフが遊びで鱗粉をばら撒き続けたら、戦争中だった2つの国が一緒に滅んだ』という実例もあるくらいだ」

 

「うええ……! そいつやべえじゃん!」

 

「それでも守り神として信仰されてるからな。『祟り神を畏怖と鎮魂の為に拝み倒してたら、畏怖と鎮魂がすっぽり抜け落ち、いつの間にか守り神的な存在にされ、現在に至る』なんてのはよくある話さ。世界が危機に陥って始めて、()()()()()()()()()()()()()()()()を知ることもあるのかもしれないな。……最も、そのときにはもう既に手遅れになってたりして」

 

 

「洒落にならない話やめろよ! 折角のシュークリームがマズくなる!」

 

 

 チドリはあっけらかんとした調子で言い放ったが、アンコにとっては恐ろしい話である。

 水分補給がてらサイコソーダに口をつけた後、チドリは話を続けた。

 

 

「ドミネエスがどうやって大地に豊穣を与えたのか。それは、ドミネエスの身体に実る奇跡の実だ。信仰系の書物と神話系の書物を要約して言うと、『奇跡の実に込められたエネルギーが、コムニアの大地に働きかけた結果、荒れ果てた不毛の地を緑溢れる楽園へと変貌させた』とのことらしい。試練場に飾られているエンブレムの真ん中に、黒い宝珠があしらわれているだろう?」

 

「うん。試練場近辺でカノアさんと調査してたときに見かけた」

 

「学術書には、『あの宝珠こそが、奇跡の実ではないか』という見解もあるんだよ。讃美歌にも似たような記述があるしな」

 

 

 そう言いながら、チドリは讃美歌を諳んじる。意外といい声で歌うので、ついうっかり聞き惚れてしまった。

 

 普段のチドリは口を適当に動かしたり、賛美歌の本で口元を隠して歌わなかったり、賛美歌を歌っている真っ最中に抜け出してサボったりしているのだ。本人の自己申告だが、『賛美歌を歌う行事では、1回も歌ったことは無い』という。

 だが、今のチドリは、『奇跡の実は宝珠となった』という記述がある讃美歌すべてを完璧に諳んじている。讃美歌集で確認すると、内容もリズムも完璧だ。因みに、アンコは未だに讃美歌の内容を理解していない。諳んじろと言われてしまったら完全にアウトである。

 素直に拍手するアンコに対し、チドリは恭しく一礼した。ちゃらんぽらんな男がする一礼にしては、やけに気障ったらしく洗練されているように思う。チドリは己の経歴を一切語らない。アンコが想像の翼を羽ばたかせようとしたタイミングで、彼は追い打ちを口にした。

 

 

「最低でも、ドミネエスを賛美する系列は暗唱できるようになっていた方が身のためだぞ」

 

「それって『最低でも“6曲暗唱しなきゃいけない”』ってことじゃん!」

 

「後は十字架の切り方とか、宗教行事とか、礼拝の際の動作とか、そういうのも覚えておいた方がいい」

 

「えええええ……」

 

 

 信仰に対して関心を抱いていなければ、賛美歌や宗教行事を覚えることに対して積極的になれるはずがない。

 興味関心のない知識を嫌々詰め込むことがどれ程辛いか、アンコはよく知っている。これからの苦労を想像すると、憂鬱にならずにはいられなかった。

 

 話し込んでいる間に、シュークリームは互いの腹の中へと納まったようだ。『ホーリーグレイル』の箱は空になっており、サイコソーダの瓶の中身も4分の1を切っている。

 

 講義を終えたチドリはホワイトボードを片付け、盆栽棚に置きっぱなしにしていた剪定鋏を手に取った。後ろの方で、大きめの盆栽を<辻斬り>で剪定し終えたチドリのゲッコウガ――コタロウが一息ついているのが見える。彼の隣では、チドリのエーフィ――マリーがのんびり日向ぼっこしていた。

 そこへ、何処へ行っていたのか分からなかった彼の手持ちが帰還する。止まり木へと降り立った相棒の気配に気づいたのか、チドリは手を留めて振り返った。紫苑の瞳は柔らかに細められる。視線の先にいたのは、ジュナイパーだ。

 

 

「――おかえり、ロビンフッド」

 

「じゅっぱあ!」

 

 

 チドリはジュナイパー――ロビンフッドを労るようにして首元を撫でる。ロビンフッドは気持ちよさそうに目を細めた。

 

 結構長い間単独行動をしていたようだが、彼はどこで何をしていたのだろう? ロビンフッドに指示を出した張本人は徹底的な秘密主義のため、恐らく何も語ってくれなさそうだ。そういうところはつまらないなとアンコは思う。

 大人はいつも、子どもには何も教えてくれない。何も語ってくれない。いつも子どもを蚊帳の外に追いやってばかりだ。反抗対象である父親の顔がちらつき、アンコは眉間に皺を寄せた。――もやもやを、サイコソーダを煽ることで押し流す。

 ヤドランが無言のまま差し出してきた『コムニアしんわ』や『ドミネエス しゅくふくあれ』の絵本を、アンコはしかめっ面のまま受け取った。ロビンフッドを撫でていたチドリが、「絵本が一番簡略化されてて楽だぞ~」と、間の抜けた声で零したためだ。

 

 恥を押し殺しながら絵本を読み進める。幼児向けの本なので、重要な部分が簡潔な言葉で記されていた。……悲しいがな、凄く分かりやすい。

 『ドミネエス信仰に関して疎い人間の場合は、ここから始めないと躓きかねない』――まったくもってその通りだった。でもやっぱり悔しいものは悔しい。

 

 

「――すみません。ヒエン チドリさんはいらっしゃいますか?」

 

 

 アンコがそんなことを思っていたときだった。温和なテノールが響くと同時に屋上への出入り口が開き、誰かがひょっこりと顔を出す。

 

 1人はアンコと同年代の少年だ。天色(あまいろ)の髪をオールバックにし、額を覆うタイプのイヤーウォーマーをつけている。白いカッターシャツの上には袖なしの黒いベストを着ており、ダークグレイのスーツパンツ風ズボンを穿いていた。見るからにして、やんごとなき雰囲気を放っている。

 もう1人もまた、アンコと同年代の少女だった。桃色のロングヘアに、晴れ渡った蒼穹を思わせるような青い瞳が瞬く。年齢の割にはやや大人っぽい雰囲気が漂っていた。特に、白シャツから覗く胸元や、白いスカートとニーハイソックスが鮮烈であった。

 

 

「あ~、はいはい。チドリは俺だけど――」

 

 

 再び盆栽の剪定に戻ろうとしたチドリが振り返り――少女を見て、ひゅっと息を飲んだ。

 ほんの一瞬、彼の動作が止まる。紫苑の瞳には、明確な動揺が浮かんでいた。

 件の2名はチドリの違和感に気づくことはない。少女はおもむろに鞄から何かを取り出し、チドリへと差し出した。

 

 

「貴方のジュナイパーが落としていった物です。先程会った財団職員の子から、これは貴方のネクタイピンだと聞きました」

 

「……ああ。間違いなく、これは俺の私物だ。ありがとう」

 

 

 ――酷い顔をしていた。

 

 溢れそうになる激情を押し留めようとして、けれどそれも上手くいかなかったような顔だ。笑っているのは口だけで、紫苑の瞳は泣いて叫びたいのだと言わんばかりに揺れている。

 幸か不幸か、チドリにネクタイピンを渡した少女は何も気づいている様子はない。アンコが瞬きをしたその一瞬の間に、チドリは自分の感情を押し殺すことに成功したようだ。

 

 どうやらこの2人、本命は“チドリにネクタイピンを届けに来た”のではなく、“ヘンヴィルから頼まれてチドリを探しに来た”らしい。

 2人の話を聞いたチドリは心底面倒くさそうにため息をつき、自分の手持ちたちへと向き直った。3匹は即座に背筋を伸ばす。

 ロビンフッド、マリー、コタロウをボールへ戻したチドリは、少年少女の方へ視線を向けた。

 

 

「手間をかけさせて、悪かったな」

 

 

 随分と雑な謝罪だった。ただ、その際に『ホーリーグレイル』のケーキ無料引換券を手渡すあたり、内面では思うところがあったのかもしれない。

 

 

「ああ、そうそう。ハガネ、カノアの援軍に向かった方がいいんじゃないか? この時間なら、もう戻って来ていてもおかしくないだろう」

 

「えっ!?」

 

 

 チドリの指摘から、アンコ――財団職員としての名前はハガネだ――は慌てて時計を確認する。ハガネの直属上司であるカノアは、朝から調査に赴いていた。彼女が返ってくる予定の時間と現在時刻を比べてみれば、帰還予定時刻を半周程オーバーしていた。その間、ハガネはカノアを放置していたことになる。

 思わず相棒たちへ視線を向ける。フーディンは風にそよぐラークスパーの花を凝視していたし、ヤドキングはうとうとと微睡んでいる。ヤドランは無言のまま、財団職員に無償配布される手帳をハガネへ示していた。そこには、赤字でカノアの帰還予定時刻が記されているではないか。

 

 ハガネは面食らったが、こんなところで足を留めている暇はない。ポケモンたちをボールに戻し、ハガネは一目散に駆け出した。




<スペシャルサンクス>
 シズマさま、ホワイト・ラムさま、あなたAさま、天地優介さま
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