Communio -In Paradisum- 作:白鷺 葵
『ホーリーグレイル』は、コムニア地方で有名な洋菓子店だ。持ち帰り用のケーキやクッキー等の焼き菓子やゼリーのような水菓子だけでなく、飲食用のメニューとしての菓子類――例えば、パフェやパンケーキ等――も充実している。
甘いものを好む男性客でも気兼ねせず入店できるよう、白と黒を基調にしたシンプルな内装で統一されていた。しかし、よくよく確認してみると、テーブルや椅子にはさりげなくも繊細な装飾が施されており、格調高い雰囲気も漂わせている。
実際、店内はお客で満員御礼。老若男女問わず、多くの者が菓子に舌鼓を打っている。かくいう自分――ハザマ・マツブシもその1人だ。
「ねえママー。あのおじさんたち、『色とりどりのハートスイーツパフェ・愛マシマシバージョン』食べてるよー?」
「コラ、人を指さしちゃいけません」
斜め後ろ向かいの席に座っていた幼子が、不思議そうな顔をしてこちらを指さす。母親らしき女性はやんわりとそれを制した。
丁度そのタイミングで、親子が頼んでいた料理――パンケーキがテーブルの上に置かれる。2人の興味はそちらに向いたようだった。
彼女たちの様子を確認し終えて視線を戻せば、眼前には巨大なパフェが鎮座している。器を挟んで向かい側には、罰の悪そうな顔をした青年がいた。
「……やっぱり、別なものを頼めばよかったかなぁ」
外から差し込む陽光に照らされ、ピンクブラウンの髪が煌めく。蒼穹を思わせるような青い瞳は、非常に申し訳ない色で一杯だった。
それでも、彼は巨大パフェを食べる手を止めようとしない。文字通り、『それはそれ、これはこれ』なのであろう。
ハートスイーツが大量に盛り付けられた上部――ホイップクリームとバニラアイス部分に匙を伸ばしながら、ハザマは静かに目を細めた。
「ワシは気にしておらんよ、シヨウ殿。これもまた、任務の一環だからな」
「男と一緒にパフェを食べるのが任務っていうのも、なかなかに辛い絵面ですよね……。自分で提案しておいて何ですけど、本当に大丈夫ですか?」
「寧ろ感謝しているくらいだ。
ハザマの言葉を聞いた青年――オタクサ シヨウは、やはり、何とも言えなさそうに視線を彷徨わせている。彼の脇に置かれた雑誌には、『恋人と一緒に食べたいグルメ特集』というポップ体の文字が躍っていた。細々と書き込みされた付箋の群れが、意識せずとも視界にちらつく。
自分とは違うが、シヨウもまた“任務をこなす”人間だ。おっとりとした雰囲気からは想像できないが、多忙度合いは忍であるハザマとどっこいどっこいである。特にシヨウは、
ハザマとシヨウが洋菓子店『ホーリーグレイル』に居座っているのは、断じて“男2人でパフェを食べるため”ではない。
色とりどりのハートスイーツであしらわれた巨大パフェは、「長時間店にいても不審に思われないため」の偽装工作であり、シヨウ側の私用に付き合った結果の副産物だ。
頼んだ本人は心配そうにしているし、ハザマたちを見る周囲の眼差しは好奇の混じったものであったが、ハザマの平静を失わせるには至らなかった。
「娘さんがこの絵面を見たらなんて言うんでしょう……?」
「問題ない。アンコはちゃんと分かっているからな」
ハザマの娘も、忍の娘。忍の任務内容はきちんと理解しているし、こちらのこともちゃんと信用してくれる。
そのため、妙な誤解や変な噂が立つことはない。それを聞いたシヨウは安堵したように表情を緩めた。
「そちらの方はどうだ?」
「ナミネちゃん? ……あの子もきっと、ハザマさんの娘さんと同じように、『分かってくれる』とは思うよ」
シヨウは歯切れ悪く答えた。彼が憂うのは、件の少女――ナミネ・ヘデラの出自が一般人であることだろう。
ハザマの娘と違い、シヨウの恋人は“任務をこなす”人間が有する価値観に対しては明るくない。ある程度の理解を示し、寄り添うことはできるだろう。だが、価値観に精通している人物のように割り切ることは難しい。一般人としての価値観が染みついているが故に、拒否反応を起こしたくなることだってあるのだ。
献身的に協力しているという点では、ナミネはシヨウの仕事に対しては“最大の理解者”だと言える。だが、彼女は齢18歳のうら若き乙女――年頃の少女。恋人とやりたいことは沢山あるはずだ。シヨウの仕事に理解を示し、献身的に協力しているということは、裏を返せば“ナミネという少女の意志を殺している”可能性が高い。
「でも、ボクのせいで、沢山のことを我慢させてしまっている。その埋め合わせだって、ボクは満足にできやしない。いつも口で謝ってばっかりだ」
献身を尽くされる側のシヨウも、献身を尽くす側であるナミネのことを案じている。そのことを、精一杯相手へ伝えようと努力している。
蒼穹の瞳は、いくら伝えても伝え足りないと叫んでいた。「理解がある」という免罪符に甘えるわけにはいかないのだと叫んで、必死に足掻いている。
そういうところが好ましいのだ。一途に互いを想い合う若者の、何と尊いことか。仲良いことは本当にいいことだとハザマは思う。
「ボクなんかが、あの子の恋人でいいのかなあ。……あんな素敵な子の恋人に収まってていいのかなあ」
「シヨウ殿は“他の誰かに彼女を奪われてもよい”と?」
「絶対に嫌だ」
ダメな大人であることは承知していると付け加えて、シヨウは首を振った。ハザマはアイスとムースの層を切り崩しながら、うんうん頷き返す。
「守るべきものがあるというのは、いいことだぞ」
「……そうですよね」
シヨウも微笑み返した。彼の利き手はスプーンをしっかり握りしめ、器の中へと伸ばされる。ムースとスポンジ生地を掬い上げたそれは、僅かに緩んだ口の中へと消えていった。
パフェの甘味に舌鼓を打ちながらも、シヨウは周囲に気を配るのを忘れていない。彼の行動は、一般人からは『そう』と認識されがたい、非常に自然な動作であった。
ハザマも感心しつつ、周囲の状況を確認する。――自分たちの読みが正しければ、
「それじゃあ、行ってきます!」
丁度そのとき、従業員の1人が店から出ていく姿が映った。彼の背中は雑踏へと消えていく。
「……どうでしょうね。今回は」
「……分からんな」
何を、とは言わない。けれど、お互いに見ている
自分たちの動きを待っていたと言わんばかりに、店内に備え付けられたテレビジョンが切り替わった。ニュースキャスターがニュースを読み上げる。
『最近、ペットやトレーナーのポケモンたちが、突如凶暴化する事件が多発しており――』
映像が切り替わる。防犯カメラがとらえたそれは、引っ越し屋のポケモン――ゴーリキーたちだった。目を血走らせた彼らは、手当たり次第に物を破壊している。程なくして、映像はニュースキャスターのいるスタジオへと戻された。
『――
件のニュースは、本当のことを伝えていない。ハザマやシヨウたちしか知らない情報がある。――凶暴化したポケモンたちには、ある
この事実は公にされていないし、上層部関係者が躍起になって消している記述だ。妨害者たちの掃討は進めているが、関わっている輩が強大なため、なかなか進まない。
かなり根深い問題故、既に“
“彼の人”は既に、独自に動き回っているらしい。
彼は一体、何人の人間を
――最も、
『――見知った人間以外から『バトルをしてくれ』と申し込まれたのは、随分と久しぶりだ』
脳裏に浮かんだのは、在りし日の光景。カントー地方にある街・セキチクシティで、ジムリーダー代理をしていたときのことだ。
本土の協会から命じられ、抜き打ちで現れた
嵐のような蹂躙劇を繰り広げた彼の人は、今でも息災にしているのだろうか。思うところはあるが、顔を合わせるのが楽しみである。
「『こんな機会がなきゃ、おちおちデートプランのリサーチもできない』男か……。ナミネちゃん、ボクに幻滅してなきゃいいんだけど」
シヨウは深々とため息をつく。巨大パフェの上部――色とりどりのハートスイーツ・純白のホイップクリーム・淡いベージュに色づいたバニラアイスの層は姿を消していた。残っているのは、ムース部分が僅かと、角切りにされたスポンジやフルーツがごろごろ掘り出されたような区画だけである。
憂い顔で“あり得ない心配事”をする
自分の見立てでは、もうすぐ入籍してもいい頃だろう。仲良いことはいいことなのだから。
「そんな心配は無用だろう? 御両人。ワシからしてみれば、何故未だ嫁に迎えないのか疑問で仕方が――」
ハザマの言葉は、最後まで紡がれることは無かった。誰かが自分の肩に手を置いたことに気づいたためだ。
反射的に見上げれば、恰幅の良い老紳士が笑顔を浮かべている。笑顔は笑顔だが、威圧感に溢れていた。
視界の端にいたシヨウが老紳士から目を逸らした。立ち向かう気はないようで、俯きながら身を震わせる。
「マツブシくん」
「……何でしょう? 御隠居殿」
「儂の孫は――」
御隠居は、ぐっと顔を近づける。彼はゆっくり、ゆぅっくり、ハザマに言い聞かせるようにして言葉を紡いだ。
「 ナ ミ ネ は 、 お 嫁 に な ん か 行 か な い 。 い い ね ?」
有無など言わせぬ勢いだった。肉弾戦ではハザマの方に分があるはずなのに、今、明らかに、御隠居の方が絶対的優位に立っている。忍としての本能は否応にもそれを察知し、ほぼ反射的に、ハザマを頷かせていた。
視界の端にいたシヨウも首振り人形と化している。彼が恋人と入籍できないのは、御隠居の存在も絡んでいるのだ。
彼の人は、シヨウにとっての直属上司と称しても過言ではない。仕事の無茶ぶりだけでなく、私的理由の無茶ぶりも理由だろう。
ハザマの脳裏に“モンスターグランパ”という単語が浮かんだ。シヨウと孫娘が結ばれても、御隠居がこの態度を改めるつもりは無さそうである。
首振り人形に徹した自分たちを見て満足したのか、御隠居はハザマの肩から手を放した。
次に彼の興味を惹いたのは、食べかけの巨大パフェ。御隠居はじっと器を眺めていたが、不意にハザマの方に向き直った。
「マツブシくん」
「何でしょう、御隠居殿」
「――次は、キミの番だ」
“お前の娘も、いずれは恋人と一緒に、眼前のパフェみたいなカップル向けスイーツを食べる日がやってくるのだ”――老紳士の目が語っている。いずれ、娘と自分に訪れるであろう未来を思い知らせるかのように。
現在、娘のアンコは13歳。まだまだ子どもで遊びたい盛りだ。現在は家出中でたまにしか帰ってこないけれど、定期的に連絡は取り合っている。未だに恋人云々の話は聞かないが、
愛娘が恋人として連れ返ってくる男に対して、興味がないことはない。むしろ、興味津々で見定めたいと思っている。トレーナーであるならばバトルもしてみたい。……だが、ハザマは“そんな日が来る”のを想像できなかった。もう1人の自分が、未来図を描くことを拒否していた。
今、御隠居の気持ちが痛いほどわかる。シヨウに対して難題を吹っ掛ける理由を、嫌が応にも理解できる。でも、シヨウとその恋人の仲を引き裂こうとは思えなかった。「2人はいい加減入籍すべきである」という意見を曲げることもできなかった。
「それじゃあ、儂は会合があるから」と言い残し、御隠居は『ホーリーグレイル』を後にする。
ハザマは沈黙を保ったまま、シヨウと共に、意気揚々と去っていく御隠居の背中を見送った。――見送ることしかできなかった。
★★
「ああ、丁度良かった。今やっと手続きが終わったところなんだ」
部屋で仕事をしていたレックスは、穏やかに微笑みながらショウマを出迎えてくれた。机の上には一切の書類がない。
ショウマが財団を見学している間に、すべてを片付けたのだろう。それを見て、ショウマはひっそり安堵の息を吐いた。
真上にあったはずの太陽は、いつの間にか西に傾きかけている。抜けるような蒼穹は相変らずだ。現在時刻は午後1時を過ぎたばかり。……おそらくレックスは、昼食を食べずに書類を片付けていたのだろう。そう考えると、非常に申し訳なく思う。
そんなショウマの内心を知ってか知らずか、レックスはヴィーダに目配せする。ヴィーダは頷き返すと、きびきびとした動きでショウマに細工物を差し出した。その細工物――紡錘型のプレートに、大樹と翼が描かれているものだ――が、《奉納の巡業》に参加するための証らしい。
件の証は、一足先に同行者を見つけていたナトセが持っていたものと同一だ。陽光に煌めく挑戦者の証を見ていると、やっと自分も同じ場所に立てたのだと思える。……最も、ショウマが立っている場所は、スタートラインの一歩手前なのだが。
「これでキミは、正式な巡業挑戦者だ」
「ありがとうございます」
ショウマは礼を述べ、それをポーチ式リュックにぶら下げた。チグサもぱああと表情を輝かせながらこちらを見上げる。相棒と顔を見合わせ頷き合うショウマたちを見て、レックスも満足げに頷き返した。
「外部からの挑戦者ということで条件は厳しくなるだろうが、頑張ってくれよ」
「はい。全力を尽くします。――それじゃあ、失礼しますね」
レックスたちに頭を下げて、ショウマは社長室を後にした。エレベーターへ乗り込み、ボタンを押して待機する。ドアが閉まり、僅かばかりの浮遊感の後、目的の階――一般向けに解放されたフロアの最上階、3階に到着した。
3階は職員が使用することを前提にして作られたカフェテラスが併設されており、様々な理由で財団を訪れた一般人でも利用が可能だ。時間を潰したり、誰かと待ち合わせをするのにも向いている。
「ショウマさん」
「サクラさん、お待たせしました」
声がした方に視線を向ければ、窓際の席に座っていた待ち人――サクラがこちらに手を振っていた。ショウマも手を振り返しながら、彼女が座っていた席へ向かう。
テーブルの上に置かれていたのは、お冷が入ったグラスとポケモン用の料理皿のみ。ポケモン用の料理皿は綺麗だが、人間用の料理皿は1枚もなく、飲み物を頼んだ形跡もない。
皿の枚数を目視で数える限り、サクラがオーダーした料理はすべてポケモン用だ。しかも、比較的安価なものが中心となっている。
ショウマが何かを察したことに気づいたらしく、サクラは罰が悪そうに苦笑した。
「いくら『ショウマさんが全額支払う』という条件でも、好き放題注文するのは気が引けてしまって……」
「だからって、ここまで遠慮しなくても大丈夫ですよ。待たせてしまったのは僕の方なのに」
机の上には、時間潰しに使えそうな一切合切――本類や端末類は置かれていない。
ショウマを待ち惚ける間、サクラはずっと、メロディやピアノ、エテルナたちが料理を食べている姿を見守っていたのだろう。
「サクラさんも、メロディたちと一緒に食べていて良かったんですよ? そうだ、今からでも――」
「私、お腹空いてないんです。大丈夫!」
サクラは微笑み、首を横に振った。あくまでも大丈夫だと主張し、椅子の上に置いていたカバンに手を伸ばした。
彼女は頑なに「大丈夫」と語るが、メロディとピアノはじっとサクラのことを見上げている。2匹の眼差しは憂いに満ちていた。
サクラの勢いに押される形で、ショウマはカウンターへと向かう。レジには誰も並んでおらず、支払いはスムーズに済みそうだった。
黒いトレーナーカードを差し出すと、店員は一瞬眉を動かし――しかし、冷静に接客対応してくれた。『財団の長・レックスが時々利用している店』という触れ込みは伊達ではない。
ショウマは視線だけ振り返り、サクラの様子を伺ってみた。彼女は頑なにショーウィンドウを見ようとしない。そこには、本物と瓜二つに作られた食品サンプルが飾られている。料理名の書かれたプレートの下には、500円ワンコインを皮切りにした値段が記されていた。
単品だと1000円以内、ランチセットの場合は2000円近くの値段である。財団関係者はお値段から数割引きされるらしい。割り引かれていなくとも、ショウマにとっては充分お手頃だと思う。しかし、ストイックな一面を持つサクラにとっては、充分高額に感じてしまったのだろう。
(……値段で遠慮しているなら、もう少し頼みやすい雰囲気の店に行けばいいのかな?)
店員から返却されたトレーナーカードを受け取りながら、ショウマは鞄の中身に視線を向ける。目に留まったのは、『ホーリーグレイル』の無料引換券だ。
(そういえば、手間賃として、チドリさんから受け取ったんでしたっけ)
菓子で腹ごしらえができるかという疑問が脳裏をよぎったが、サクラを空腹のまま連れ回すのは気が引ける。回りくどいかもしれないが、『同行者探しを適当な塩梅で切り上げ、小休憩の一環として、この店に立ち寄って腹ごしらえする』やり方に出た方がいいのかもしれない。
同行者探しが順風満帆に進むとは限らないのだ。今日中に誰かを見つけることが出来れば御の字だろう。実際、レックスも『外部参加者の多くがこの段階で躓いてしまい、挑戦を断念してしまう』と言っていた。並大抵ではいかないことは覚悟の上である。
父・ダイゴは、ショウマのことを『運命に選ばれた人間』と言った。ショウマと同じ天色の瞳には、ダイゴと出会った当時の母が映っていたのだろう。
ダイゴから言わせてもらうと、母のハルカも『運命に選ばれた人間』らしい。実際、母は運命に導かれるようにしてレックウザの誓約者となり、ホウエンを救っている。
ポケモンリーグという祭典の場所で父を降し、ホウエンのグランドフェスティバルでも最優秀賞を勝ち取った。今は時の人ではあるが、母の名は今でも聞こえてくる。
「――運命、かぁ」
ショウマは思わず呟いた。自分の声が、やけにこびりついて離れなかった。
***
――果たして、ショウマの予想通りであった。
『外部からの挑戦者? お前みたいなガキが? ――悪いことは言わない、やめとけ。大人しく本土に帰りな』
『えー……? 確かに私、巡業はちゃんとやり遂げたけどさぁ。もうあの頃みたいに旅ができるような状況じゃないんだよね。他をあたってくれない?』
『財団の長からのお墨付きでも、無理なものは無理だよ。第一、外からやってきた赤の他人のために、そこまでする義理なんて無いし』
『キミの隣にいる女の子に頼めばいいだろ? 俺は観光客の案内で忙しいから』
理由は様々ではあるが、外部からやって来た巡業挑戦者に対する風当たりは強かった。
観光客に対しては快く案内をしていたような人物も、ショウマが《奉納の巡業》の話を持ち出すと、途端に顔色が変わってしまう。
世の中の世知辛さを痛感している間に、現在時刻は3時過ぎ。休憩なしで歩き続けると言うのは少々辛くなってきた頃である。
ショウマはサクラに視線を向けた。カフェテラスで待ち惚けていた頃から飲まず食わずでいたことが祟ったのか、彼女の足取りは非常に重そうだ。それでも元気を装って振る舞おうとする姿が痛々しい。
どこか休憩できる場所はないか――ショウマが周囲を見回したとき、見覚えのある言葉が書かれた看板が飛び込んできた。思わず足を止め、財布を漁る。出てきたのは、チドリから譲り受けた『ホーリーグレイル』の無料券。
――気のせいか、視界の端にちらつくサクラの鞄が、不自然に揺れた気がした。
(エテルナも、サクラさんのことが心配なんですね)
「ショウマさん、どうかしましたか?」
「歩き疲れたから、そろそろ休憩しようかなと思ったところです」
足を止めたショウマにつられるようにして、サクラも足を止めて振り返った。ショウマの眼前には、無料券と同じ字体で書かれた店名――『ホーリーグレイル』の店舗が建っている。
サクラは何かを言おうとしたが、腹の虫が激しく鳴いたことから沈黙した。
微笑ましくなって口元を緩ませたショウマであるが、自分の腹の虫も鳴きだしたため沈黙する。
……ああ、なんて居たたまれないのだろう。空気をどうにかするための糸口を探そうとして――
「――ふしゃああああああああああああッ!!」
「う、うわああああああああ!?」
ポケモンたちの唸り声と人々の悲鳴につられて振り返る。見れば、目を血走らせたポケモンたちが大暴れしているではないか。トレーナーと思しき青年が叫んでいるが、ポケモンたちは彼の言うことに耳を貸そうとしない。通行人や近くをうろついていたポケモン、果てには柵や信号機にも攻撃を繰り出している。
ショウマは図鑑を取り出し、暴れているポケモンたちの種族を確認する。ミルタンク、アローララッタ、ラッキー、トロピウス――どのポケモンも、身体の何処かに聖杯の紋章がついたスカーフを身に着けていた。聖杯の紋章は、『ホーリーグレイル』のロゴマークと同一である。
よく見れば、ポケモンを呼び留めようとする青年も、同じ柄のスカーフを身に纏っていた。あの青年も、『ホーリーグレイル』で働く菓子職人なのだろう。
彼は必死になってポケモンたちを制止しようとしていたが、アローララッタの突撃を喰らって吹き飛ばされてしまった。遮るものがなくなり、ポケモンたちは店へ向かって突撃する。
彼らが突っ込もうとする直線上に、ショウマたちがいた。――このまま突っ立っていたら、確実に、4匹による突撃に巻き込まれてしまう。
咄嗟にメロディとピアノを庇おうとしたサクラの前に躍り出て、ショウマはモンスターボールに手をかけた。
「みんな、お願いします!」
「ごろー!」
肩に乗っていたチグサを筆頭にして、モンスターボールから次々と仲間たち――ヒイロ、ハクギン、クロハ、トクサが飛び出す。各々打ち倒すべき相手を定めた5匹は、迷うことなく飛び出した。チグサはミルタンク、ヒイロとトクサはアローララッタ、ハクギンがラッキー、トクサがトロピウスに対峙する。
相性的には有利な対面だ。だが、仕事用のポケモンと言えど、彼らは仲間たち以上に鍛えられていたらしい。4匹はレベル差でゴリ押すが如く、手当たり次第に技を打ち出してきた。<はたく>や<電光石火>のような技でチグサたちが弾き飛ばされてしまうあたり、ポテンシャルの差は明らかだった。
部の悪さに歯がみしたのと、ミルタンクがショウマに狙いを定めたのはほぼ同時。
ミルタンクはその場で身体を丸める。<丸くなる>ことで防御力を上昇させていた。血走った目は攻撃を予兆させていたのにどうしてだろう――そこまで考えて、ショウマは思い出す。
技の一部には、“特定の補助技を使用した後に攻撃技を使えば、技の威力が上昇する”組み合わせが存在していた。確か、組み合わせの起点には<丸くなる>が使われている。
<丸くなる>と組み合わせることで強くなる技のマイナー格は、タマザラシ等が使う<アイスボール>が挙げられた。――
『ウチのミルタンク、めちゃくちゃ強いねん! この技の組み合わせ、アンタのポケモンに耐え切れまっか!?』
ショウマの脳裏に浮かんだのは、他地方のジムリーダー同士で行われた親善試合。
『ミルタンク、<丸くなる>! そんでもって――』
祖父センリと相対峙したジムリーダー――ノーマル使い・アカネの指示が響き渡った。
『――<転がる>や!』
記憶の中のミルタンクが<転がる>を使ったのと、目の前にいたミルタンクがショウマ目がけて<転がる>を繰り出してきたのは、ほぼ同時だった。
一歩遅れて現実に帰還したタイムラグのせいか、身体が思った通りに動かなかった。視界の端でチグサが弾き飛ばされる。ヒイロたちがショウマの危機に気づいて駆け寄ろうとするが、アローララッタたちに阻まれて近寄れない。ミルタンクとの距離は一気に縮む。文字通りの万事休す。ショウマは反射的に目を覆った。
「――<キングシールド>!」
想定していた衝撃が訪れることはない。代わりに響き渡ったのは、サクラとは違う少女の声だ。ショウマは恐る恐る目を開ける。
ショウマたちを守るかのように、1匹のポケモンが立ちふさがっていた。剣と盾を思わせるようなフォルム――カロス地方のポケモン、ギルガルド。
鋼タイプが大好きな父・ダイゴがピックアップしていたポケモンの1種だ。公式戦では1度も使ってはいないが、父側の自己申告で「育てた経験がある」と聞いている。
声がした方に視線を向ければ、そこには1人の少女が立っていた。灰色の髪と瞳と、血の気や温かみを極限まで薄めたような色素の肌。
対照的に、彼女が身に纏っているのは純黒のゴスロリ衣装である。色彩はモノトーン貴重でありながらも、明度のコントラストが焼け付いて離れない。
見ず知らずの相手に助けられ、ショウマは思わず呆けていた。少女は肩で息をした後、ショウマの方へと向き直る。
「大丈夫?」
「は、はい」
「そっか。……良かった。やっと会えた」
少女は安心したように表情を緩ませる。彼女の言葉の意味がよく分からなくて、ショウマは目を瞬かせた。
自分たちはこれが初対面のはずだ。少女がショウマを探すような出来事は、こちらにはまったく身に覚えがない。
「リチア、来るぞ」
「うん、わかった」
男性の声が聞こえた。見上げれば、少女――リチア・ベアトリクスの頭上に乗った、奇妙な形のアンノーンが飛び込んでくる。身体のフォルムはXの記号とよく似ているが、触手、あるいは突起のような部分が、通常のアンノーンよりも多かった。
人語を介するポケモンは非常に珍しい。相手を誓約者に定めるような伝説のポケモンが該当してるが、稀に、普通のポケモンでも喋るのは存在している。
その実例を元ネタにして作られたのが、『サトシが行く!』というドラマおよび映画シリーズだ。それに登場するニャースやルカリオが顕著であった。閑話休題。
「キザシさん、お願い……!」
リチアの指示を受けたギルガルド/キザシは、鉄壁の防御でミルタンクの突撃を無効化する。ミルタンクが体勢を立て直す隙も与えず、即座に反撃体制に打って出た。
己が身を抜刀し、自らを剣に見立てるようにして一撃を見舞う。格闘タイプの物理技・<聖なる剣>である。能力変化を気にしないで敵に攻撃できる技だ。
それは<丸くなる>で強化された防御力を無視し、ミルタンクに痛烈な一撃を叩きこむ。ミルタンクは踏み止まったものの、身体をよろめかせていた。
それを目にしたアローララッタたちが、リチアに対して熱烈な視線を向けてきた。勿論、好意的なモノではない。
血走った眼差しは、リチアやキザシを殲滅せんとする意志で満ち溢れていた。彼らは我先にとキザシへ群がる。
多勢に無勢であることは、火を見るよりも明らかだ。ショウマは加勢しようとし――それよりも先に、別方向から攻撃が降り注ぐ方が早い!
「――キュリオス、<じゃれつく>!」
「――ハンゾウ、<毒突き>!」
<だまし討ち>を仕掛けようとしたアローララッタにじゃれついたのは、ピカチュウの姿を模したポケモン――ミミッキュ/キュリオスだった。黒い影で構成されたツメは、容赦なくアローララッタを傷つける。噂で耳にしていたが、見た目からは想像できない攻撃力だ。
<グラスミキサー>の予備動作に入っていたトロピウスは、超高速で飛び回る黄色い影から痛烈な一撃を見舞っていた。影の正体は鉢を模したポケモン――スピアー/ハンゾウである。不規則に動きまわる姿は、戦いたくて堪らないと叫んでいるかのようだった。
声がした方向を振り向けば、店から2名の男性が飛び出してきたのが見えた。ポケモンたちの視線と、彼らの視線が交錯する。彼らは確かに、無言のまま通じ合っていた。
片や、ピンクブラウンの髪と、上質そうなスーツで身を包んだ青年。片や、顔を覆面で覆い、忍装束に身を包んだ男性。
前者はミミッキュ/キュリオス、後者はスピアー/ハンゾウと視線を交わしていた。トレーナーとポケモンの関係が築かれているのは、件の組み合わせなのだろう。
「無事か?」
「は、はい」
「だ、大丈夫です」
忍装束の男性から問われ、ショウマは返事した。一歩遅れてサクラも頷く。彼女の腕に抱えられたメロディやピアノも、多少土ぼこりを被った程度で無事らしい。
手痛い一撃を貰いながらも、アローララッタとトロピウスはすぐに立ち上がる。2匹とも敵愾心をむき出しにしていた。
勿論、キュリオスとハンゾウは余裕を崩さない。自然体でありながら、彼らには一切の隙が無かった。
キュリオスたちを見る限り、随分と戦い慣れているようだ。だが、バトル関係で見かける『廃人系』とは雰囲気が違う。
(どちらかと言えば、“そっち方面の本職”に近い気がする)
あの佇まいは、凶暴なポケモンや人間を鎮圧することに長けているような動きだ。師匠のリーフェウス程苛烈ではないものの、彼同様に“要点”を押さえている。
しかも、咄嗟の状況でも“要点”を見逃さないあたり、青年と男性は『その道』のプロなのだろう。ショウマの実力など、足元にも及ばない。
「――ごーろっ!」
ショウマを現実へと引き戻したのは、チグサの一喝だった。見れば、相棒の闘志は未だ健在。他の仲間たちも、ショウマの指示を待っている。彼らの眼差しは、
流石は相棒たちだ、と、ショウマも笑い返す。タイマン一騎打ちではショウマ側がジリ貧確定である。だが、倒すべきポケモンを分担した上で総力戦に持ち込めば“勝てないことはない”。両親の手持ち相手で、似たようなことをやってきたのだ。
青年、男性、
困惑顔の青年が何かを言おうと口を開くが、忍装束の男性に肩を叩かれていた。2人は特に何も言わないが、お互いが何を言わんとしているかを察し合っているのだろう。
彼らは顔を見合わせて頷き合うと、ショウマ達に視線を向けた。こちらを値踏みするような視線に晒される。ややあって、今度こそ、青年が口を開いた。
「そこの1匹、任せるよ。――できるかい?」
「――はい!」
ショウマは迷うことなく頷き、相手に向き直った。
青年とキュリオスがアローララッタを、男性とハンゾウがトロピウスを、リチアとキザシがミルタンクを迎え撃つつもりのようだ。そうなれば、ショウマが相手するポケモンは、必然的にラッキー一択となる。対面相性や実力的に考えて、妥当と言えるだろう。
先程一戦交えて辛い身ではあるが、この場で逃げ出すつもりは微塵もなかった。戦闘態勢に移行しようかと身構えたとき、何かがショウマの服の袖を引っ張った。振り返れば、メロディたちを腕に抱えたサクラが、意を決したようにこちらを見返している。
サクラは鞄から大量の道具を取り出した。各種傷薬や状態異常の治療に使う薬品、木の実やピーピーエイド等、多種多様の回復道具が並ぶ。
目を瞬かせるショウマを横目に、サクラは道具を大盤振る舞いした。たどたどしくはあるものの、チグサたちの治療は滞りなく行われる。
ショウマの手持ちが全快したことを確認した後、サクラは申し訳なさそうに俯いた。自分の無力さを噛みしめているかのように。
「私には、これくらいしかできないから……」
「ありがとう、サクラさん。助かります」
充分心強いサポートだ。卑下する理由などどこにもない。ショウマは小さく頭を下げ、前へ向き直る。
相手側のラッキーも、ショウマを倒すべき敵だと認識したらしい。血走った眼でこちらを睨みつけていた。
<スペシャルサンクス>
天地優介さま
ご協力ありがとうございました!